【DQⅪ】Quod Erat Demonstrandum【グレイグ&ホメロス】 作:千葉 仁史
※ここで終わらすこともできるので、最後に「おわり」と明記。
ホメロスを死なせてしまってから七年目になった。
この年の流行ファッションも流行歌も何も知らない。ホメロスの真意を知り、ユダの言葉を証明終了した今、グレイグは幽鬼の如く世界を彷徨っていた。誰とも口を聞かず、誰の話にも耳を傾けず、何処へとも行けぬ旅を続けていた。大陸から大陸へ練り歩きながら、ただ頻りに後悔ばかりしていた。
『どうしてばっかりじゃねぇか』。元盗賊の青年の問い掛けがグレイグの胸に去来する。
よく周りからグレイグは「鈍い」と言われていた。確かにその通りグレイグは人の機微や流行に鈍かったが、皆笑って指摘するものだから、彼はそれに甘え、剰(あまつさ)え己が美徳すら思った。グレイグは英雄であり、将軍であった。それをどうして部下や民が指摘できるだろうか。いや、彼らもまた英雄の持つ鈍感さを美徳として見ていた。愚かなことにグレイグはそれをそのまま受け取った。魔王ウルノーガであった陛下がその愚かさを指摘する訳が無い。きっとホメロスは指摘しただろう。だが、それをグレイグはスルーした。その美徳たる鈍感さを甘えて、グレイグは『見たい』景色ばかりに気を取られ、『見るべき』ものに背を向け続けた。その結果、いくつもの事項を見逃してきた。それは『誰か』との絆、『誰か』の激情、『誰か』の声にもならない叫び、『誰か』の熱が失せる瞬間、そして消えていく『誰か』の命の灯――そういったものに他ならない。
『亡くなった方は身寄りのない方でしたので、親友である彼女が喪主を務めたのです』『この葬儀が親友にできる最後の友義じゃないかしら』。双賢の姉妹のやり取りがグレイグの頭を過(よぎ)っていく。
ホメロスは国を裏切った大罪人だ。加えて両親も兄弟も妻子も近親者もいなかった。故に墓は作られなかった。そんな裏切者に対しても、グレイグは「彼奴は親友だ」と豪語していた。ところが、彼の墓を作ったのは亡くなってから五年後だった。しかも、双賢の姉妹に会うまで、墓を作ることすら考えてこなかった。それなのに、知己とは笑える話だ。相続争いで全く無関係の第三者が利権を得ようと「生前、約束したぞ」と嘯くのとなんら変わりない。グレイグは「生前は知音であった」と嘯いて、民衆の同情をたっぷり得た。死人に口なし。英雄が口にすれば、それは事実になるだけの話だった。
『忠義に篤い』。老賢が口にしたその言葉がグレイグの心を静かに、かつ的確に抉り抜いていく。
以前の――ユダに出会う前の自分なら、その言葉に心から「当然でしょう」と深く頷き、老賢から呼ばれることに対して誇りを感じたことだろう。しかし、狂信者に出会ってしまった今となっては、ただ恐ろしく感じるだけだった。本当に忠義に篤い男ならば、護国の為に賢く立ち回り、陸軍海軍を束ねる元帥として平等に兵を扱い、部下の暴走を許さず、兵を無駄死にさせず、また王国一の騎士としての品格を保つために、亡き知己の栄光や武勲を我が物にしようとすらしないだろう。それら総てを許しておいて、いったい何が『忠義に篤い』というのだろうか。厚顔無恥にも程がある。
そして何よりも後悔したのはユダに出会ってしまったことだった。四年前、クレイモランの国事に参加しなければ良かった。あの場末のバーに行かなければ良かった。狂信者の話を最後まで聞かず、立ち去れば良かった。もう二度と会わない様に「不敬罪」と言って斬り捨ててしまえば良かった――たとえ、あの場で抜刀したとしても民衆はグレイグを信じて疑わず、狂信者に非があったと思ってくれるだろう。もし出会わなければ、グレイグはこれまで通り美徳たる鈍感なままでいられ、女王マルティナと結婚し、我が子を腕に抱き、史書たる英雄譚において有終の美を飾れただろう。
だが、それも最早叶わぬことだ。気付いてしまった以上、元には戻れない。あの平和で退屈な日常には戻れない。あの鈍感さを美徳と言うことは出来ない。
いっそのこと、これが『罪』ならば良かった。罪ならば告白して『許される』ことが出来る。『贖罪』と偽って、何も素知らぬ振りしてデルカダールへ戻ることができる。しかし、これは『恥』なのだ。己が恥を晒す馬鹿はいない。騎士ならば尚更だ。誰にも言えやしない――たとえそれが過去の仲間と雖(いえど)も。
グレイグは何度も己が死を祈った。寝る間際、このまま目が覚めぬことを願い、今日という朝を迎えては絶望した。本当はいますぐにでも自刃したかった。この恥を持ったまま、生きるのは苦痛だった。だが、自刃してしまえば地獄があることの証明になってしまう。この世でも苦しんだホメロスがあの世でも苦しんでいることの証明になってしまう。死んでしまえば、無だ。地獄なんて存在しない。地獄が無ければ、苦しむことはない。しかし同時に『無』であることは、ホメロスの冥福を祈ることすら出来ないということだった。それでも、此岸において散々追い詰めておいて、彼岸でも己がホメロスを苦しめる存在になりたくなかった。だから自刃だけは出来なかった――否、証明が終わってしまった今、自刃をしないことしかグレイグには出来なかった。今のグレイグに生きる大義はなく、かといって死ぬ意味もなく、ただ死ねない理由のみが転がっていた。
何処にも宛先などない旅を続けていたある日のこと、森の中でグレイグは一人の男の子を保護した。年は五、六才だろうか。奇麗な亜麻色のさらさらした金髪で、瞳はぱっちりした碧眼だった。
お父様とお母様とはぐれたの、と言う身なりの良い少年を連れ、グレイグは近隣の村であるホムラの里を目指して歩いていた。キィキィと遠くで鳴く鳥とも魔物とも分からぬ存在に怯える少年の為、手を繋いだが、かなりの身長差があったので、なかなかしんどい体勢だった。強く握り返してくる小さい手の平を掴みながら、皮手袋越しとはいえ誰かと手を繋ぐのは――誰かに触って熱を感じるのはいつ以来であろうか、とグレイグは考えた。
手を繋ぐ。
その一番の古い思い出はやはり両親であった。今から三十七年前の出来事なので、その顔はうっすらとでしか思い出せない。だが、それは優しい愛に満ちていて、総てから護ってくれるような腕(かいな)であった。
次に思い出すのはデルカダール王であった。祖国も両親も失くしたグレイグを陛下は「今日から此処がお前の故郷だ」と抱き締めて下さった。その暖かな抱擁にグレイグ少年は心から安堵した。
そして三番目に思い出すのは、その王宮で出会った子供だった。グレイグと同じ天涯孤独の身でありながら、彼はとてもしっかりしていた。闇が怖いと泣くグレイグを寝るまで抱き締めてくれた。長い修行の前後で変わらぬ友情と約束を誓い、硬い握手を交わした。ユグノアの悲劇で落ち込んだグレイグを慰めてくれた。慣れぬ将軍職で慌てふためくグレイグを一番近くで励ましてくれた。
なのに、その顔は微塵も思い出せない。両親や陛下は思い返せるのに、ホメロスのことはただの事項でしか思い起こせなかった。熱も色も感触もなく、文面(センテンス)でしか振り返れない。思い出ではなく、記憶どころか『そんなことがあった』という事実でしか思い描けない。両親よりも陛下よりも近くで長く一緒に居たのに、あまりにもぞんざいな覚え方にグレイグは胸が苦しくなった。
あれはいつ頃のことだったろうか。グレイグはホメロスと手を繋いだことがあった。姫様に読み聞かせていた絵本で、もみの木に星や玩具を飾って聖夜を祝うというものがあり、彼女は大層それに惚れ込んでいた。そんな彼女を喜ばせたくて、二人で近場の森へもみの木を取りに行った。その年は珍しく雪が降っていて、最初は雰囲気があるなと笑っていた二人だったが、次第に吹雪いてきた挙句に夜の帳(とばり)が降りてしまって、通い慣れた森なのに何処を歩いているのか分からくなってしまったのだ。
あまりの寒さに涙ぐむグレイグをホメロスはその手を引っ張って先導して歩いた。びょうびょうと吹雪が鳴くなか、夜の闇でも光るホメロスの靡く髪だけ見てグレイグは歩いていた。己の方が背格好は大きいはずなのに、彼の背は遥かに大きく見えた。手袋越しに強く握り締められた掌とただひらすら前だけ向いて歩く彼の姿は何よりも頼もしく勇敢に思えた。
結局、探しにきた兵士たちに見付かって二人は保護され、陛下にこっぴどく叱られた。目的のもみの木を持って帰ることすら出来ず、お前のせいだとお互いに罵りあって喧嘩して、いつの間にか仲直りして終わった。
(あの吹雪の中、俺はお前に総てを頼って歩いていた。だが、本当はお前も怖かったんだろう? だから俺の手を強く握っていた。それでも、お前は意地を張って、俺を不安にさせないために前だけ向いて先導してくれた。俺同様に恐怖で強張り、涙に塗れていたであろう顔を此方に見せもしなかった)
名も知らぬ少年と手を繋ぎながら、四十三歳にもなってようやっと気付いた事実にグレイグは心臓が雨に濡れたかのように冷たくなるのを感じた。美徳だと思っていた鈍感さに隠れて考えもしなかった事実に心が軋んだ。
考えれば考えるほど、切りがなかった。甘いものが好きなくせに「僕は嫌いだから」とお菓子を分けてくれたこと、欠伸を何度もしているのに「夜更かしするのが好きなんだ」とグレイグが寝るまで起きてくれていたこと――そして、見習い兵士時代、先輩に取り上げられた誓いのペンダントを取り返してくれたこと。
見習い兵士の時、グレイグは自身の怪力で負かせた先輩に嫌がらせを受け、誓いのペンダントを取られてしまったことがあった。勿論、取り返そうとしたが、向こうは三人組で歳が離れていたのもあり、グレイグはこてんぱんにやられてしまった。その怪我のせいで、しばらくベッドでうんうんと唸る羽目になったグレイグだったが、五日目の朝、ひょっこりとホメロスが現れて「忘れ物だ」と先輩に取られたはずのペンダントを渡してきた。どこからどう見ても自身のペンダントにグレイグがぽかんとしているうちに「もうなくすなよ」と言い残してホメロスは去っていった。
彼は一つも傷なんて負っていなかった。片足一本すら引き摺っていなかった。悠々と去り行く親友の背中を見ながら、自身より身長が低くて力も弱いホメロスが剣術で先輩三人組を無傷で打倒してペンダントを奪還したであろう事実に、グレイグは感嘆と共に大きなショックを受けた。絶対に強くならねば、と思った。あの背中に追い付かなければ、心身ともに強い友人の隣に並び立つ為にもっと頑張らなくては、と奮起した。だから、グレイグはソルティコへの修行を大いに熱望した。それと同時にホメロスは魔法と軍略を習うためクレイモランへの留学を望んだ。
今更だが、冷静に考えたらおかしな話だ。ホメロスよりも体格が良くて力強いグレイグが負けた年上の先輩三人に、親友が剣術で――しかも無傷で――勝てる訳が無い。彼奴は頭を使ったのだ。五日の間、必死に策を巡らして余計な戦いや労力を省き、知己のペンダントを取り返すという一番の目的を達成したのだ。もしかすると、このペンダント奪還作戦が彼奴にとってのはじめての策略だったかもしれない。彼はこの事件で「策略を使えば、少ない労力で目標を達成することができる」と学んだのだろう――第一、将軍になったホメロスは常々「少ない労力で最大の結果を得る、これぞ軍略よ」と口にしていた。そうして、ホメロス少年は軍略に優れたクレイモランへの留学を望んだ。
(笑える話だ、ちょっと考えれば分かる話なのに、数十年も経たなければ分からないなんて、盲目にも程がある。本当に俺には『力』しかなかったのだな。……俺は彼奴の意地っ張りと優しさに付け込んで甘えていた。彼奴は俺にいろいろしてくれたのに、俺は彼奴に何一つしてやれなかった。俺は彼奴の優しさを利用して消費して浪費して傷付けて追い詰めて冒涜して無駄にしてきただけだった。俺を救ってくれたデルカダールの為に強くなろうとしたのは本当だ。でも、それと同じくらいに、俺を助けてくれた彼奴に優しくしたかった。ただひとりの友人として、俺は彼奴の優しさに追い付きたかったのだ)
「おじさん、泣いているの?」
不意に少年に話し掛けられ、グレイグの意識は今に戻った。大男は少年とは繋いでない右手で頬を拭ったが分からなかった。なにか言おうとしたが、長い間、人と話すことをやめていたので声が上手く出せなかった。代わりに首を左右に振ると、その右手で暗い森の出口を指差した。その出口は光に溢れて揺らめいていた。真っ直ぐにいけばホムラの里だ、其処で保護してもらえばいい、とぼそぼそ声で少年に伝える。おじさんは行かないの? と聞かれた。あの光の中へ行く気もなければ、資格も権利もないグレイグは繋いでいた左手を離しただけだった。出口と大男を交互に見た少年は駆け出す前にグレイグの左手を両手で握りこんだ。
「おじさん、ここまで連れてきてくれてありがとう。お礼に『これ』あげるね」
両手が離される。グレイグの左手には少年からの熱と感触が残っただけだった。なにかのおまじないだろうか。光の中へ消えていく少年を見送るグレイグの耳に少年の名を呼ぶ声を聞いた。両親に会えたのだろう。安堵すると同時に何処かで聞いたことがある名前と声に引っ掛かりを覚えた。加えて、あの少年のあどけない顔、さらさらした金色の髪。正解に辿り着くよりも先にグレイグは己の名前を呼ばれた――ユグノアの王であり、勇者でもある青年から。
あの子は勇者とエマの子供だったのだ! 誕生祝に一度会ったが、あの赤ん坊があんなにも大きくなっていたなんて!
思いも寄らない邂逅にグレイグは恐怖を感じるや否や駆け出していた。背後から――光溢れる出口から己を呼ぶ声がする。逃げねば、と思った。掴まったが最後、あの総てを見透かしたかのような水晶の瞳に射られて、恥を曝け出してしまうことになる。馬の蹄の音まで聞こえてくる。誰かが大声で恥知らずの名前を呼んでいる。世界中に知らしめるかのようにして叫んでいる。グレイグは一度も振り返ることなく、無茶苦茶に森の中の道なき道を走り回り、普段なら難なく飛び越せる段差で大きくすっころんだ。
鳥の羽ばたき音がする。どれくらいひっくり返っていたのだろうか。もうグレイグの名を呼ぶ声はしなかった。のろのろと起き上がると、水の音に引き寄せられるようにして歩き出した。川の清流は日の光に反射して、きらきらと煌めいている。だが、其処に映る顔は生きた屍であった。ただ死んでいないだけの人間だった。グレイグは皮手袋を外すと、そのリビングデッドが映った水面へ手を突っ込み、顔を洗った。この冷たさに気持ちよさを感じるということは、残念ながらまだ生きているということだ。何の手入れもしていない前髪から水が滴り落ちるのを見ながら、グレイグはもう一度顔を洗おうと手を水の中へ入れたが、陽光以外の要因で水面が眩しいことに気付いた。光っていたのはグレイグの左手だった。彼の左手には勇者の証たる紋章が輝いていた。
勇者によってグレイグの足取りが判明してしまったからか、それとも単なる長い休暇を与えただけだと思っていたら本気で出奔してしまったことに焦りを覚えたからか。女王マルティナの命により、グレイグ捜索の兵が派遣されるようになった。グレイグを発見した兵は、まずはその幽鬼さに慄き、大男が睨み付けるとそれだけで竦み上がって逃げてしまった。だが、それも次第に通じなくなり、捜索隊の兵士は増えていった。
誰かと会話する気も光の世界へ戻る気もなかったグレイグはどんどん人気のない方へ逃げていった。川や谷、峠も山も越え――まるで勇者の証に導かれるようにして――今まで見たこともない、名も知らぬ塔へグレイグは逃げ込んだ。
その塔でグレイグを待っていたのは一人の番人と不可思議なオーブだった。番人が言うには、これは時のオーブといい、時渡りができる代物らしい。つまり時を戻せる魔法のオーブなのだ。オーブを壊すには勇者の証と剣が必要だが、グレイグはその証を持っている。剣は命の大樹に戻した、と以前勇者が言っていたから手に入れることは容易だ。過ぎ去りし時の修正をできる事実に、永遠に訪れるはずがなかったホメロスを助けるという唯一の雪辱のチャンスに胸を躍らすグレイグに番人は一言告げた――「やめておけ」と。
――お前が助けようとしている男はお前の『総て』を捨てなければ助けられぬ男だ。お前はあの男の為に、武勇も地位も権力も仲間も栄光も輝かしい未来も望郷への想いも今まで積み上げた己自身の歴史もあの男に対する憎しみも捨てることができるのか。あの男はお前を裏切り傷付け、何よりもお前の祖国を滅ぼした魔王に与(くみ)したのだ。あの男の為にお前を形成する『総て』を捨ててまで助ける価値があるのか。悪いことは言わないからやめておけ。ネルセンの系譜を受け継ぐ者よ、その輝かしい誇りに則ってこの世界を生きよ。デルカダールで女王がお前を待っている。その女王の為に国へ戻り、国を繁栄させろ。それがお前にできる一番の使命であり、お前が罪を感じているならばそれが一番の贖罪なのだ。
番人の言葉にグレイグは踏鞴を踏んでしまった。ほらその行動こそが証(あかし)だ、と番人に付け込まれ、グレイグがうんともすんとも言わぬ間に地上へ戻されていた。
番人の言う通り、ホメロスは祖国パンデルフォンを滅ぼした魔王に与していた。何も出来ぬまま消滅というのは悪人の末路に相応しいものではないだろうか。
だが、番人は『贖罪』と言った。番人はグレイグの心を百パーセント推し量ってはいない。何故なら、これは『恥』だからだ。『恥』だからこそ、グレイグは生ける屍のようにこの世を彷徨い歩いている。しかし、その反面、もう楽になりたい自分がいた。デルカダールに戻れば、きっとマルティナも兵も国民も迎え入れてくれるだろう。グレイグが言わなければ、誰もこの『恥』には気付かない。
(いっそのこと、これは『恥』ではなく『罪』ということにしてしまおうか。そうすれば、きっと俺は――)
ユダの幻は消えたので赤紫色の焔が見えることは二度とない。晴れ渡った青空を見たくなくて、グレイグは塔に凭れ掛かって視線を地面に落とした。もう誰の幻影も見ることはない。ずるずると滑るようにして蹲ると、服の下で誓いのペンダントの鎖が鳴った。その音を聴いたグレイグは徐(おもむろ)に陽炎のように立ち上がり、キメラの翼を使った。行先は騎士の町ソルティコだった。
とうとう今の今まで行かなかった街へ行こうと思った理由は特になかった。あるとするなら、やけっぱちになったからだろうか。だが実際に近付くとやはり恐れが勝ってしまって、またしてもグレイグは踏鞴を踏むことになってしまった。陽はとっくのとうに暮れている。親とはぐれた迷子のように立ち尽くすばかりのグレイグだったが、不意に背後から声を掛けられた。
「あら、グレイグ、久しぶりね。五年ぶりかしら?」
「ゴリアテ」
振り返ると、昔の仲間であるシルビアが「チャオ」とまるで昨日別れたばかりの友人のようにおどけてみせていた。
穴場なのよ、そう言ってシルビアに連れて来られたソルティコの場末のバーは皮肉にもクレイモランのバーと似ていた。皆が皆自分たちに夢中で、誰も英雄に気付いていないところまで同じだった。不思議なことにシルビアはグレイグが最後に会ってから全く変わっていなかった。グレイグはそのことに対して何も言わずにじっと見ただけだったが、シルビアは「お手入れに気を使っているからねぇ、当然じゃない」と笑っただけだった。
カウンターに通され、シルビアが手慣れた様子で「私はいつもの。彼には……そうね、アルコールの強いきれいなカクテルを」と頼んだ。バーテンにゴールド・ラッシュ(カクテルの一種)を目の前に置かれてもグレイグは何の行動も取らず、何も言わなかった。シルビアもまた何も言わなかった。ピアノの音が聞こえる。グラスの中の氷が音を立てたのと同時にグレイグは口を開いた。
「お前はどうやって覚悟を決めたのだ?」
グレイグはこの『恥』をどうにかしたかった。正確に言うならば『罪』にしてしまいたかった。その『どうにかするか』の覚悟を決めたくて、サーカスに入るために――己が見付けた騎士道の為に『総て』を捨てた男にグレイグは尋ねていた。
あまりにも脈略もない唐突な問い掛けなのに、シルビアは一瞬目を丸くしただけであった。そして、彼はこう言った。
「答えは簡単、私は天秤を壊しただけよ」
天秤? 今度はグレイグが目を丸くする番であった。そうよ、とシルビアは頷き、カルーアミルク(カクテルの一種)を飲み干した。隈を作り、痩せこけ、何の手入れもしていない髭面の大男が空っぽのグラスに映る。
「サーカスを見て、私の騎士道はみんなを笑顔にすることだと思った。勿論、パパは反対したわ。それでも! と思ったけれども、だからといって『総て』を捨てる覚悟を持つのはそう簡単じゃあなかった。このソルティコの町という故郷も海も気質も友人もパパのこともなんだかんだいっても私は好きだったから、サーカスに入る代わりに『総て』を手放すなんて、そんなことを想像するだけで胸が苦しくなったものよ」
だからね、とシルビアは揺蕩うピアノの音色に乗せて呟いた。
「私はその比べるための天秤を壊したの。だって、一個一個比べていたらいつまでたっても終わらないし、それに本当に『大事なもの』なら比べることすら烏滸がましいじゃない? 今思うとかなり狡い方法だけど、私は壊して良かったと思うわ。……グレイグ、私は私の騎士道を貫く為に比べるための天秤を壊したの。これが私流の揺るがない覚悟の決め方よ」
そう言い切ってグレイグを見たシルビアの瞳のなんと真っ直ぐなことか。その瞳に吸い込まれるようにして思わず見つめ返してしまったグレイグだったが、シルビアがウインクすることなく――茶化すことなく見つめ続けるものだから気恥ずかしくなって視線を落とした先には琥珀色のカクテルがあった。
(琥珀色……)
途端、それがグレイグにはいつも以上に煌めいて見えた。嗚呼、この色だ! と思った。一番初めに忘れたホメロスの瞳の色は琥珀色であった。ストロベリームーンのような薄気味悪い赤紫色ではなく、フルムーンのような淡い琥珀色であった。
もし一番大事なものが忠義心ならば、グレイグはユダの言葉を無視し、国を飛び出すことすらしない。もし一番大事なものが己の信じる騎士道ならば、生き恥を晒すぐらいならばと、とっくのとうに自害している。それでも死なずに生き続けたのは彼奴の為だった。彼奴の為に地獄が無いことを証明するためだけであった。
まだ証明は終わっていない。愚鈍な自身を甘やかすための贖罪ではなく、彼奴を助けて雪辱をせねば、と思った。
「ありがとう、『シルビア』」
そう言ってグレイグは琥珀色に揺らめくカクテルに手を付けることなく立ち上がる。
「あら、貴方がその名前を呼ぶなんて珍しいわね」
「お前は揺るがない覚悟を以て『シルビア』と名乗ることを選んだ。ならば、敬意を表してそう呼ぶべきだ」
グレイグがバーの扉を開けるともう朝日が昇っていた。総てが黄金色に染まる、はじまりの色だった。
「さらばだ」
誰の名前も呼ばなかった。グレイグの別れを告げる先はこの世界の『総て』だったからだ。頑張ってね、というシルビアの言葉は投げキッスとともに朝日へ溶けた。
旅立つグレイグを見て、シルビアは心から安堵の息を吐いた。もう彼は迷わないだろう。何に悩んでいたか結局グレイグは口にしなかったが、一番大事なもの――デルカダールの為に天秤を壊して、彼は国へ戻るだろうと思った。
(マルティナちゃんに伝えないとね、きっと喜ぶわ)
フフフ、と微かに笑う。
だが、シルビアの予想に反してグレイグの足取りはこの日を境に完全に絶ってしまった。何故なら彼はその足で命の大樹へ行き、勇者の剣を手に取ったからである。
時の番人は驚愕した。当たり前だ、二度と来るはずのない男が再度現れたのだから。
――何故現れた! 話を聞いていなかったのか!
「聞いた。ホメロスを助けるために『総て』を捨てて俺は此処にやって来た」
――馬鹿を言え! その『総て』を理解して、お前は捨てると申すか!
「ああ。だから、武勇も地位も権力も仲間も栄光も輝かしい未来も望郷への想いも今まで積み上げた己自身の歴史もあの男に対する憎しみも『総て』捨てた」
――グレイグよ、気でも狂ったか!
「ならば今この瞬間に正気も捨てた!」
左手の甲に紋章を光らせ、勇者の剣を携える大男に時の番人は空いた口が塞がらなかった。本懐を邪魔するならば時の番人すら斬り捨ててしまうような気迫に正直押され、それと同時に呆れ返ってしまった。
――ええい、好きにするがいい、狂人め! 失敗すれば永劫に次元の狭間に彷徨うことになるぞ!
「どうせ死ぬまでロトゼタシアを彷徨う予定だったのだ。その彷徨う場所が変わるだけの話よ!」
番人を素通りし、グレイグは時のオーブの前に立った。途方もない魔力を秘めたオーブは見詰めているうちに――錯覚だろうか――黄金の天秤の形へ変わっていった。
息を吐いて剣を持ち直す。グレイグは狙いを定めると一切の躊躇もなく勇者の剣を振り下ろした。
「今、助けにいくぞ! ホメロス!」
黄金の天秤が砕け散っていく。全ての色と音と熱を取り込んで、グレイグの視界はブラックアウトした。
目を開けると、聖地ラムダ周辺だった。勇者ではない者が時送りできるのは一回ぽっきりなのか、剣も紋章も跡形もなく消えていた。服装は襤褸(ぼろ)の外套ではなく、デルカダールメイルになっていた。肉体も三十六歳のものだった。この瞬間がいつなのか分からない。急がねば、とグレイグはキメラの翼で命の大樹へ飛んでいった。
命の大樹でデルカダール王と合流したとき、大層驚かれたが、グレイグは気にせずに「早くホメロスを追いましょう」とだけ告げた。自然と早足になる。勇者の剣が安置されている場所まできたとき、あのときと同じようにホメロスは地面に這い蹲っていた。白い鎧、裏地が赤い白マント、金色の髪、赤い髪留めとピアス、そして琥珀色の瞳。今の今まで目の色しか思い出せなかったのに、彼の姿を見た瞬間、一気に思い出し、瞬時に「嗚呼、彼奴だ。まだ生きているのだ」と感じ取った。
勇者たちとの戦いで傷付いたホメロスは陛下を見付けると、掠れる声で「お助けを」と懇願した。デルカダール王に取り憑いたウルノーガが動くよりも先にグレイグはその間に割って入った。誰かが息を呑む音が聞こえた。だが、そんなことはもうどうでもよかった。親友に背を向けたまま、グレイグはその巨体を魔王と対峙させながら、はっきりと告げた。
「陛下、貴方様より魔の物の匂いがします」
視界の隅で黄金の天秤の欠片がキラキラと瞬いたような気がした。
おわり
◆◇ 解説 ◇◆
※これを飛ばして次の話を読んでも構わない。
第六話がバッドエンドなら、第七話はベストエンド。鬱エンドが好きな人は第六話で、ハッピーエンドが好きな人は第七話で終わらすのがいいかもしれない。
第六話にて、総ての証明が終わったグレイグは以下の状況に置かれている。
・「罪」ではなく「恥」故に、誰にも相談することができない
・地獄がないことの証明の為、死ぬこともできない
・地獄がない=無なので、ホメロスの冥福も祈れない
・祈るどころか、ホメロスを思い出すことすらできない
・苦しくて死にたいが、証明の為に自害できず、生きる大義もない
計五点の苦行に侵されるという、なかなか絶望的な状況のグレイグ。ユダはグレイグの「総て」を許さなかったようだ。
第七話:今のグレイグに生きる大義はなく、かといって死ぬ意味もなく、ただ死ねない理由のみが転がっていた。
第二話:「~だが、あの方が亡くなった今、俺には生きる大義もなければ、死さえ意味がない」(ユダの台詞)
上記の通り、皮肉にもグレイグはユダと同じ状況になったと言えよう。
次からはグレイグの悪い点と良い点を並べていく。
悪い点:
そして何よりも後悔したのはユダに出会ってしまったことだった。四年前、クレイモランの国事に参加しなければ良かった。あの場末のバーに行かなければ良かった。狂信者の話を最後まで聞かず、立ち去れば良かった。もう二度と会わない様に「不敬罪」と言って斬り捨ててしまえば良かった――たとえ、あの場で抜刀したとしても民衆はグレイグを信じて疑わず、狂信者に非があったと思ってくれるだろう。もし出会わなければ、グレイグはこれまで通り美徳たる鈍感なままでいられ、女王マルティナと結婚し、我が子を腕に抱き、史書たる英雄譚において有終の美を飾れただろう。だが、それも最早叶わぬことだ。気付いてしまった以上、元には戻れない。あの平和で退屈な日常には戻れない。あの鈍感さを美徳と言うことは出来ない。
いっそのこと、これが『罪』ならば良かった。罪ならば告白して『許される』ことが出来る。『贖罪』と偽って、何も素知らぬ振りしてデルカダールへ戻ることができる。しかし、これは『恥』なのだ。己が恥を晒す馬鹿はいない。騎士ならば尚更だ。誰にも言えやしない――たとえそれが過去の仲間と雖(いえど)も。
愚鈍な自身を甘やかすための贖罪ではなく、彼奴を助けて雪辱をせねば、と思った。
グレイグの「恥を無かったことにしたい」「何も知らない自分に戻りたい(何も知らなかった方が良かった・幸せだった)」という考えがここぞとばかりに現れているシーン。グレイグが過去に戻ったのは「ホメロスを助ける(手段)」ことで「恥を払拭したい(目的)」というものである。飽くまで「友情の為にホメロスを助ける」なんてものではない。
では、案外スルーしがちなグレイグの良い点について。
良い点:
グレイグは何度も己が死を祈った。~この恥を持ったまま、生きるのは苦痛だった。だが、自刃してしまえば地獄があることの証明になってしまう。この世でも苦しんだホメロスがあの世でも苦しんでいることの証明になってしまう。死んでしまえば、無だ。地獄なんて存在しない。地獄が無ければ、苦しむことはない。しかし同時に『無』であることは、ホメロスの冥福を祈ることすら出来ないということだった。それでも、此岸において散々追い詰めておいて、彼岸でも己がホメロスを苦しめる存在になりたくなかった。だから自刃だけは出来なかった――否、証明が終わってしまった今、自刃をしないことしかグレイグには出来なかった。今のグレイグに生きる大義はなく、かといって死ぬ意味もなく、ただ死ねない理由のみが転がっていた。
第四話:
時は流れ、世界に平和が戻って四年目になっていた。
第五話:
世界に平和が戻って――ホメロスが亡くなって五年の月日が流れた。この年の流行色はツートーンカラーで、どの街に行っても上下で対比のある服飾が好まれていた。
第六話:
ホメロスが亡くなって六年の月日が流れた。この年の流行はモノクロのアクセサリーを身に着けることで、スカーフやベルト、蝶や花を象った白黒のブローチ等を誰かしら何処かしらにあしらっていた。民衆の歌の好みも変わり、平和を讃える穏やかなメロディから陽気で誰もが踊りたくなるような曲調へ変遷していった。
第七話:
ホメロスを死なせてしまってから七年目になった。この年の流行ファッションも流行歌も何も知らない。
この話のテーマ「友情」の証明について。グレイグは既に二点行っている。
一つ目は第六話以降でも死ななかったこと。後悔しかできず生きることが苦行になっているにも関わらず、グレイグは死を選んでいない。それは「此岸(この世)で苦しんだホメロスが彼岸(あの世)でも苦しんでいないこと」=「地獄が存在せず、死んだら『無』になること」をユダのように証明するためだけにグレイグは「生きていない、死んでいない」だけの茨の道を歩いている。第五章で墓を作ったような己(生者)の心を優先させず、この第七章ではホメロス(死者)の心を優先させている。何故、生者ではなく、死者を優先させるか。誰が何と言おうと、グレイグにとってホメロスは親友だからである。そのおかげでグレイグは時送り(友情を証明する最後の)チャンスを得たといってもいいだろう。
(ちなみに「生きていない、死んでいないだけ」はクロノ・トリガーのエイラの台詞より)
二つ目は、第四話から第七話までの年月の流れを説明する文面で如実に表れている。当初、年月の流れはグレイグのとっては魔王を倒した年=平和になった年であったが、次第に親友が亡くなった年として意識している。
更に第五話(五年目)では、その年にどんなファッションが流行ったのか、第六話(六年目)ではファッションだけでなく音楽にまで流行について詳しく書いてあるが、第七話(七年目)では何も分からないとなっている。つまり、ファッションや流行に疎いはずのグレイグがその年の流行を知ってしまう程にホメロスのことを知ろうと人にしつこく聞いて回っていたのである。その証拠にユダの証明が終わってしまった以降の七年目ではグレイグは聞いて回るのをやめてしまったので、「何も分からない」となっている。
あとそれと優しさは変わっていない。第四話で迷子になった子供を保護し、第六話でも老婆を助け、第七話でもグレイグは己に絶望しつつも勇者の子供を助けている。
グレイグが何も言わなかったから、ホメロスがグレイグの気持ちを理解できなかったように、パーティ面子もグレイグの気持ちを理解できなかった(「恥」だからこそ仲間にすら喋れなかったとはいえ、「言わなければ相手に伝わらない」という事実に気付かなかったグレイグは反省できないため、同じ失敗を繰り返している)。一番近しいはずのシルビアですら、勘違いの助言を行っている。皮肉にも、彼のデルカダールに戻るための助言がグレイグを過去に戻るための覚悟になってしまった。
塔の番人の台詞「お前が助けようとしている男はお前の『総て』を捨てなければ助けられぬ男だ(以下略)」の下りについて、グレイグは覚悟を問う言葉だと思っていたが、正確には「おい、やめろ」という制止の言葉である。塔の番人は「悪を助けるなんて莫迦な真似は辞めろ。こんな悪い奴なんだぞ? 英雄であるお前の『総て』を賭ける価値もないんだから、阿呆な考えは捨てろ(意訳)」とグレイグに辞めるよう促していたが、グレイグは「『総て』を捨てることなんてできない癖に、助けようなんざ甘い考えだ」と覚悟を問われていると思い込み、『総て』を捨てる覚悟をしてしまった。真っ直ぐすぎる故に言葉の裏を図れないグレイグらしいっちゃグレイグらしい。
タイトルに入っている「Libra」は正確には「天秤座」の意味であって、「天秤」ではない。「天秤」なら「balance」「scales」等が正しいが、響きを優先して「Libra」を使用。第一、「Golden balance」なんてダサいことこのうえない。
副題の通り、「救いなんて、“この”世界(今の世界)の何処にもない」と悟ったグレイグは“この”世界ではない過去の世界へ戻ることを選んだのだった。
個人的にグレイグが「シルビア」と呼ぶシーンがお気に入り。短いセンテンスに敬意が込められている。