これが麒麟なのか。
黒麒であることで、すでにその姿は麒麟には見えない。
闇色の髪と白磁の肌、黒玉の瞳。
容姿の美しいことは、誰の目にも明らかだった。
しかし決定的に異様なのは、その顔に刻まれた刀痕だ。
額から右の目を通って顎まで連なるその瑕は、呪いのようにその麒麟にとりついている。
瑕は醜く、おそろしげなものだったが、麒麟の美貌に凄みを添えていた。
侵しがたい存在であることを、否応なく見せつける。
麒麟は、常に袖の長い衣を襟元もきっちりと着込んでいる。
はっきりと晒されているのは顔の瑕だけだったが、実は総身にかけて数え切れぬ程の傷痕があるのだという。
いかなる者の剣が、畏れ多くも麒麟の上に振り下ろされたのか。その麒麟は語らない。
ただ、それまでその麒麟がどう生きてきたのかを顕著に物語るのが、麒麟の枕元に置かれた一振りの剣だった。
現在では、その剣を抜くことは全くないらしい。ましてや殺生などは、あり得ぬ話だ。
だがかつて、麒麟はその剣を振るっていたのだ。
その麒麟は、長いこと行方が知れなかった。いや、その存在自体危ぶまれていた。
蝕が起きた訳でもなく、捨身木の枝から姿を消した実。
それがある日突然、麒麟のかたちで王をともなって王宮に現れた。
誰もが、それが麒麟であることを、そしてともにやってきたのが王なのかを疑いたくなるところだ。
だが、それは紛れもない麒麟、それは麒麟が選んだ真の王。
その日を境に、国は平らかになっていった。
王は、まだ子供といっても良いような少年だった。
王は、その麒麟を千樹― センジュ ―と呼んだ。
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「千樹」
そう呼ぶのは、王である光明だけだ。
そしてそう呼ばれた者は、すぐに反応しない。わざとなのか、何度か呼ばれて初めて振り返る。
光明は、それについていつも文句を言うが、千樹は一向にあらためない。
千樹の言い分としては、自分が呼ばれている気がしないからだとか。
「千樹という字が気に入らないのか?」
と、光明は不機嫌そうな顔をする。
光明は、見た目はまだ子供のようだが、生まれてから既に四十年はたっているいい大人だ。
それが平気で膨れっ面をして見せる。
千樹は王のその表情を眺めながら、呆れ顔でこう言うのだ。
「慣れてないだけだ」
「慣れてない、慣れてないって、僕が一体何十年そう呼んでると思ってるんだ?」
千樹には、昔は別の字があったのだという。いや、それは名だったのかもしれない。
ともかくも、その麒麟は千樹とは別の呼ばれ方をしていた。光明も、はじめはそれで呼んでいたが、即位式の日に千樹という字を麒麟に贈ったのだ。
字をつけることで、その美しい麒麟が自分のものになるような気がしていたのかもしれない。
もちろん、麒麟は王の臣であり、麒麟は王のものと言って良かった。 だが光明には、千樹は王ですら寄せ付けない頑な雰囲気をまとっているように感じられた。
だから、自分で考えた字で呼ぶことで、より近くへ引き寄せたかったのだ。
他の者に言わせると、千樹はかなり気安い麒麟だという。身分の高い者であるのに、全くそれに頓着していない。誰彼なく話しかけ、話を聞いてくれる。時には、水汲みまで手伝おうとして、下女を困らせることもある。
それなのに、王である光明との間には、距離を置こうとしているとしか思えない。
「それは主上の思い込みですよ」
太師である重成に、つい愚痴をこぼした時には、そう言われた。
光明はそんな言葉には納得出来なかった。
「そんなに気になっておいでならば、直接台輔にお尋ねになってはいかがですか」
重成は、あまりにしつこく問いただす光明に苦笑しながらも丁寧に応えた。
「それは出来ない」
光明は即答した。
「どうしてですか」
なんでも率直にものを言う光明の言とは思えぬ言葉だった。
「そんな事を気にしているなんて、まるで僕が周りの者に嫉妬しているみたいだろう。それでは、また子供扱いされる」
光明の言い分に、重成は『よく分かっていらっしゃる』と密かに思った。
「主上は、本当に台輔がお好きなのですね」
重成はにっこり笑って、そう言った。
光明が激しく反発したことは、言うまでもない。
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最近、各地の郷城の義倉を点検させたところ、どの倉でもかなりの食料が消えていることが分かった。
光明が王に立っておよそ三十余年。天災も起こらなくなり、畑からは毎年多くの作物が得られるようになった。大地に緑は徐々に広がり、人々にも余裕が出てきた。
平和はある意味、緩みを生み出す。
光明は、備えをいちど見直すべきだと、号令を出した。
義倉の点検は、そのひとつだった。
倉から消えた食料は、街に流されているという。誰かが、いざという時のための蓄えで、私腹を肥やしているのだ。
取り調べは広範囲におよび、多くの者がその疑惑の渦中にあった。しかし、最後には『疑わしいが、証拠がなく犯人逮捕に至らず』という報告が各地から光明の元に寄せられてきた。
光明は、これに怒りを覚えた。
「捜査が手ぬるいのではないのか」
おもわず光明の口から非難の言がこぼれた。
「主上」
短く、低くかすれた声が光明を制した。千樹は、光明の背後にある。
多くの官が、光明の言葉を聞いている。その言い分を、誰がどう判断するか分からない。うかつな非難は、ことを悪化させる可能性を帯びている。
常から『言葉は慎重に』と、光明は千樹に言われていた。
光明はそう言っている千樹こそ、もっと慎むべきだと思うときもある。実際、光明は千樹にそう言い返したこともあるが、麒麟と王は立場が違うのだと一蹴された。
ともかくも、今回の場合「手ぬるい」と王が言うことで、捜査が苛烈になるということもある。そうして罪なき人が、科人として差し出される危険性がある。
「それにしても、僕をもう少し立ててくれてもいいじゃないか」
朝議を終えて部屋に下がると、すぐさま光明は千樹を責めた。
「大勢の前で恥をかきたくなければ、もっと気をつければいいのでは」
何を言っても、この麒麟はこんな調子だ。
光明は、千樹に咎められるたびに、それを承知の上で反抗せずにおられない。
子供なのだ。
「そう四六時中、言うことなすことに神経なんて使えやしないさ」
「では、とりあえず朝議の時だけは不用意なことを言うのを慎んだらどうです」
憎らしいことを、千樹はさらりと言う。
これで悪気がない訳ではない。麒麟が慈愛の生き物だというのは、どう考えても千樹には当てはまらない。
「それはそうと……」
光明は、この話を切り上げることにした。
これ以上、千樹にからんでも自分が惨めになるだけだ。
「義倉のことはどう処理すればいいのか、お前の考えを聞きたい」
「分かりません」
「は?」
大口をたたくのだから、千樹には何か考えがあるのかと思っていた光明は、呆然とした。
光明の隣で、この美しい麒麟はにっこりと微笑む。
「それを考えるのは、主上の仕事でしょう」
それを言ったら、おしまいだ。
「まったくお前は、いつも偉そうにしていながら、肝心なことは何もしてくれない」
「人には、それぞれの役目というのがある。主上には主上の。私には私の」
「では聞くが、お前の仕事って何だ?」
「あなたを王にすることでしょう」
ごもっともだ。麒麟が居なければ、光明は王にはなれない。
王は麒麟から選ばれて、初めて己が王であることに気づく。
そして光明の場合、即位したのがわずかに十三であった故に、最初から王らしいことは出来なかった。
多くの官吏によって国としての体裁を保ち、太師たちによって教え、導かれながら、光明は王としての責務を何とか果たせるようになりつつある。
そして、ものの見方や考え方、判断のしかたなど、根本的なところで光明に大きく影響を与えているのは千樹だった。
千樹は、ことさらに光明を教育しようと出張っている訳ではないのだが、普段の会話のひとつひとつが光明には、染み入っているのだ。
王として選ぶだけではない。まちがいなく、千樹は光明を王にしていた。
千樹には、やはり義倉の問題について考えがあるのだろう。ただ、それを光明に明かすつもりはないらしい。
自分で考えろということだ。
―― 試されている
気分は良くない。
光明は体に妙な力が入るのを感じた。
千樹はそれ以上何も語らずに、部屋を出て行こうとした。
「千樹」
光明が呼んでも、知らぬ顔だ。その歩みは、よどむことがない。
「千樹!」
もう一度、声高に呼ぶと、千樹はゆっくりと振り返った。
「はい?」
「僕が呼んだら、すぐ返事してくれ」
「努力しましょう」
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翌日の朝議に、光明は姿を現さなかった。
体調が優れないという理由だったが、そうではなかった。
光明は、姿を消していた。
「なぜ、主上が出てったことに誰も気付かない」
千樹は、大僕を叱責していた。
だが、その怒りは己れに対するものと、当の光明に対するものが八割を占めていた。だから、これは八割がた八つ当たりなのだ。
光明はおそらく義倉の件について、自ら検分しようと姿を消したのだろう。
光明は、そういう人間だ。
千樹は、それを知っていながら突き放してしまった。
しかし、光明が自ら出張っていくなど愚かなことだった。それで一体何が出来ると思っているのだろうか。ただ、自分の身をいたずらに危険にさらすだけだ。
自分の立場を分かっていながら、理解していない。
王はあるべき処にあってこそ、王たる力を示すことが出来る。
玉座にない光明の出来ることなど、たかが知れている。
千樹は美しい眉間に皺を寄せ、額をおさえた。
―― 頭が痛い……
不吉な考えがガンガンと音を立てて、千樹の身を攻め立てている。ミシミシと締め付けられるような痛みがこめかみを走っていた。
波のように襲い来るめまいと吐き気。
興奮しすぎると、千樹はこのような症状に陥る。
それが、千樹が怒りに我を失う抑止になっている。
「横になられてはいかがですか」
周囲は千樹の怒りに戦々恐々としながらも、その身を案じた。
「いや」
千樹は、小さく首を振った。
このまま、寝込んでしまう訳にはいかない。
千樹は深く息吸い込むと、大きく吐き出した。
呼吸を整えると、僅かに頭の痛みが引くように思えた。
「はやく、主上を探し出さなくては……」
千樹は搾り出すようにそう言うと、各方面へ指示を出すべく歩き出した。
光明の失踪を知る者は、最小限に止められた。あまり大仰に騒ぎ立てては、混乱を招くだけだ。
ひそかの内に光明を連れ戻すことが出来たら、ことが穏便におさまる。
光明の探索隊がすみやかに整えられ、各地の義倉周辺に送り込まれた。
おそらく、光明のことだ。直接、義倉に乗り込むぐらいしか術を思いつかないだろう。と、千樹は踏んだ。
すぐにその消息を掴むことができると、皆が思っていたが、これが五日たっても光明の足跡ひとつ見出すことが出来なかった。
光明がそのように立ち回れるとは、とても思えなかった。実際年齢でいえば、まちがいなく大人なのだが、光明はわずかに十三で玉座についてしまった。そしてほとんど王宮で政務を執ってきたため、王宮以外については不案内なのだ。
だとすれば、心配すべきは自らの意志で身を隠しているのではないということだ。
千樹は、本当ならば自分自身で光明を探しに出たいところを、それでは光明と同じ轍を踏むことになると思いとどまっていたが、ここにきてそんなことも言っていられないのではないかという想いに駆り立てられていた。
「まったく、あの馬鹿が」
などと麒麟らしからぬ悪態を忌々しげに吐きながら廊を歩く千樹に、たまたま出くわしてしまった女御は、震え上がったとか。