天涯 番外編『千年の王国』   作:清夏

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 こっそり王宮を抜け出したまでは良かったが、光明は街に下りたところで右も左も分からぬことに呆然とした。

 王宮でも自分にはあまり出来ることがないように思っていた光明であったが、市井にあっては全くの無能者だ。

 何をどうすれば良いのか、さっぱり分からない。

 いずれの郷城の行き方も、義倉がどこにあるのかも分からない。

 光明は王となる前は、生まれた土地を離れたことがなかった。出かけたところで、せいぜい隣街ぐらいだった。

「困ったなあ……」

 街におりて僅かに数刻で、光明は王宮に戻ることを考え始めていた。

 おそらく、多くの官吏が心配しているだろう。特に千樹の怒り様を想像するだけで、ゾッとした。

 どこにあっても、光明は結局なにも出来ないのだ。

 人々の生活する実際の世界を知らずに生きてきた。

 これで何が王だといえるのだろうか。

 悔しい、恥ずかしい、情けない。

「千樹……」

 光明は、しばらく通りの片隅で立ちつくしていた。

 

 

 

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 即位をして間もなく、王宮の庭に光明は一本の苗木を植えたことがあった。

 それから三十余年、その小さな木は成長し、庭の主のような風格すら備えている。

 千樹は、ぼんやりとその木を眺めながら、行方の知れない主の言ったことを思い出していた。

 当時、千樹はこの木を光明がなぜ植えたのか、その意図が分からなかった。

 『なんとなく、庭が寂しいような気がしたから』だと、光明は言ったが、たった一本ではその方がよほど寂しいと、千樹は思った。

 千樹の背をはるかに越えるほどになった木を見上げていても、その寂しさは言い様がない。

 光明は、こうも言った。

『この木を見ていたら、どれ程の年月がたったのか分かるから』

 木の成長を見ながら、光明は何を思い続けたのだろうか。

 王は年をとらない。十三で登極した光明の体は、成長の過程で無理やり留められていた。

 非道なことだと、千樹は痛感している。光明は子供のままの体を抱えて、気の遠くなる年月をいかねばならぬ。

 成熟する思考、精神に対して、体はいつまでも小さいまま。最近の光明は、体の精神の均衡を崩しているような様子だった。 せめて、もう三年もしてから自分が光明に出逢っていれば良かったのではないかとさえ、千樹は思った。

「光明……」

 小さく、低く、千樹は主に面と向かって言ったことのない、その名をつぶやいた。

 

 

 

 

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「どうか思いとどまりください」

 重成は珍しく、強い調子で千樹にものを言った。

 光明が姿を消してからというもの、つとめて落ち着いた態度を示していた重成だったが、千樹までが王宮を降りて光明を探すと言い出した時には、さすがに心を乱した。

「だが、このままでは埒があかない」

 千樹も自分が無理を言っているのは承知の上だった。

「ですが、台輔。台輔までが王宮を離れては、政がたちゆきません」

「そんなことはないだろう。皆がそんな役立たずとは思わない」

「実務ならば、それぞれの者が勤めましょう。しかし……」

 千樹は、重成の言おうとしていることなど分かっている。

 分かっていながら、それを言おうとしている己の愚かしさに、重成は言うべき言葉を見失った。

「なにも何年も、ここを空けるということではない。ほんの暫くの間だ」

 千樹は、重成の心情をいたわるように微笑んだ。

 そんな笑顔に騙される重成ではない。

 だが、重成はひとつ深い溜息を落とすと、静かにこう言った。

「どうぞ、お早いお帰りを」

 

 

 麒麟は王気をたよりに王を探すのだという。

 皆、王気を眼に見える光のようなもの、あるいは芳しい香りのようなものと、想像するらしい。

 千樹は思う。そんな分かり易いものならば、迷うこともないというのに。

 千樹が直接王の行方を捜すというのは、一見無謀な話だったが、王を探すのに麒麟ほどの適格者はいないように思われた。

 麒麟は王気を辿り、確実に王の元に行き当たるはずだと。皆がそう思ったことだろう。

 そんな高まる期待の中で、ひとり首を傾げるのが千樹だった。

 果たして、王を見つけることなどできるだろうか。

 光明に出遭う前にも、同じようなことを千樹は考えていた。

 王気とは、目にも見えないし、鼻腔に香っても来ない。

 いうなれば、千樹の中の予感と確信のようなものだ。

 

 

 王がいるという予感と、王だという確信。

 

 

 

 

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 久しぶりに歩く街は、以前よりも活気を帯びていた。千樹は、国が復興しているのだということを実感する。

 光明は、人々の笑顔をどう見ただろうか。千樹は、ここにいない光明を思った。

「どうですか? 主上はみつかりそうですか」

 千樹の横を歩くのは、重成がせめてと無理やりつけてきた警護の男だった。字を道治という。

「まだ分からない」

 街におりてから、まだほんの少ししかたっていない。それで、光明の居所が分かるなら、今までの探索がよっぽど怠慢だったとしか言いようがない。

「そうですか」

 道治は、千樹の返答にがっかりした様子もなく、そう言った。

 千樹より大柄な道治は、歩調を千樹に合わせながら、にここにとしながら歩いている。

「ずいぶん、楽しそうだな」

 千樹は、思わずこぼした。

「そりゃそうですよ。台輔のお供が出来るなんて、こんな嬉しいことはありませんよ」

 素直なもの言いだ。

「そんなものか」

 千樹も心に浮かんだままを口にした。

「そうですよ」

 道治は、本当に嬉しそうで、楽しそうだ。

 千樹は道治をうらやましく思う。

 奇妙な男だ。千樹は重成に、道治の素性を尋ねた。重成は『役にたつ男ですよ』と、答えにならないような応えをよこした。

 頭ひとつ、いやふたつ上にある道治の顔を見遣りながら、千樹は懐かしい感覚に囚われた。

「それはそうと、ひとつお尋ねして宜しいでしょうか」

 千樹が甘い回顧の念にひたる前に、道治はそう切り出した。

「内容による」

 やや身構えながら、千樹は道治に問うことを許した。

「台輔は人を斬ったことがおありですか?」

 まるで今日の日付を聞くような態度で問う道治に、千樹は驚き惑った。

「やはり、お聞きしてはいけないことでしたか?」

 道治は、心底残念そうな顔をした。

「そういう訳ではない。ただ、今まで誰にも聞かれたことがなかったな。と、それに驚いただけだ」

 かつて、千樹は各国を渡り歩く剣客として生きていた。

 それを知らぬ者はない。だが、その当時のことを千樹に問う者もいなかった。

 おそらく、誰も聞きたくはなかったのだろう。己れの国の麒麟の非道なる所業を。

 思えば、血なまぐさい家業をしていたものだ。これまでよく生きてこられたものと、千樹は我ながら感心する。

 今では、ほんの少しの血が流れただけでも卒倒する千樹だ。まあ、昔も全く平気だった訳ではない。血を浴びれば、しばらくは身動きが出来ない程弱っていた。

 千樹自身が血を流すようなことになれば怪我のせいもあって、半年も床から起き上がれなかったこともあった。

 千樹は、これを妙な体質だとは思っていたが、よもや自分が麒麟だなどとはつゆ程も思ったことがなかった。

「では、お尋ねしても宜しいですか」

「もう、訊いている」

「確かに……」

 道治は、照れたように笑った。

 千樹は、呆れたように笑った。

 ひとしきり和やかな空気が流れた後に、千樹は言った。

「ある」

 斬り込むような一言だった。

「人を、殺したこともある」

 さすがに道治は絶句した。

「それも、一度や二度ではない」

 千樹の視線は、天をさしている。

「呆れたものだろう。自分でもどうかと思うくらいだ」

 千樹は自身を嘲り笑う。

「だから主上にも、民にも申し訳ないと思っている……こんな麒麟で、本当に申し訳ない」

 

 

 

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「それは違うと思います」

 道治が差し出した言葉は何のことを言っているのか、千樹には分からなかった。

「え?」

「台輔が主上に申し訳ないという話ですよ」

 いかにも唐突な感じがした。その話をしていたのは、昨日のことだ。

「どうして、そんな風に思えるのか。あやかりたいものだ」

 千樹は、その話題とともに道治から逃れようとしているかのように、歩みを速めた。だが、もとより千樹の歩調に合わせていたのは道治の方である。

 道治は、ごく自然に千樹についていった。

「もし申し訳ないと思うべきであるならば、台輔が奪った命に対して、その者の死を悲しむ者たちに対してだけでしょう」

 道治の口調は静かだが、言葉のひとつひとつが千樹を貫くように鋭かった。

「台輔、私も人殺しです」

 道治のこの一言に、千樹は惑った。この男は何を言おうとしているのか、想像することが出来ない。

「罪の深いことは、知っているつもりです。只人である私でさえそうです。台輔におかれましては如何に苦しんでおられるか。お察しいたします」

「……」

 振り仰ぎ、千樹は道治を見た。

「あなたはその手によって命が断ち切れる痛みを、直接感じたはずです。だから、あなたは誰よりも命の重さを知っている麒麟であると、私は思います」

 にこりと笑う道治の顔には、邪さが欠片も見当たらない。

 千樹は心底、この男をうらやましいと思った。

「なるほど。しかし、本当にそうだろうか」

 薄く笑う千樹に、道治はこの麒麟の底をほんの少し覗き見たような気がした。

 

 

 

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