光明は通りを歩きながら、そろそろ王宮に帰ることを考えていた。
結局、数日がいたずらに過ぎ、光明は無力な自分を抱えたままだ。それでも、王宮に戻らねばならない。なぜなら、光明は王だからだ。
光明には、それが充分過ぎるほどに分かっていた。分かっていながら、未だにくずくずと街にしがみついているのは、怖ろしいからだ。
王宮に戻れば暫く立ち直れないほどに諸官から叱責されるだろう。 だが、光明が恐れているのは、そんなことではなかった。
「もう、ダメかもしれないなあ」
思わず弱音もこぼれる。
千樹はあきれ果てて、光明を諦めてしまうかもしれない。
静かに、冷たく、光明を更に遠ざけてしまうかもしれない。無謀なだけで無能な王を選んでしまったことを絶望するかもしれない。
光明は自分が王としてはもちろん、人として全く成熟していないことに申し訳無さを感じていた。
ぼんやりと歩きながら、光明は深い溜息をついた。
と、路の先になにやら人が集まっているのが見えた。
「離してよっ」
甲高い少女の声が響いて来た。
光明は興味を覚え、ついその人の輪の中心を覗き込んだ。
そこには、おそらく先ほどの声の主だろう少女と、中年の男とが言い争っていた。
「いい加減にしなさい、春琴。全く何度、家出をすれば気が済むんだ? 父さんもいい加減つかれたよ。母さんも心配してるぞ」
男は、やや声高に少女を諭していた。その姿は、娘に家出を繰り返されて困り果てた父親の姿に見えた。
「あたしは春琴じゃないわよ。それにあたしは家出中でもないし、あんたはあたしの父親でもないわよっ」
少女が男の手を振りほどきながら、叫んでいた。
「また、そんなことを言って、父さんを困らせないでくれ」
「違うって言ってるでしょう!」
少女は頑なに男の手を拒否し続けた。
「分かったわ、あんた、人さらいなのね。あたしをさらって売り飛ばすつもりなんだわ」
「何を言い出すんだ。いいかげんにしなさい!」
男は、少女の頬を叩いた。あまりのことに少女は、飛ばされ地面に倒れた。
「立ちなさいっ。さあ、帰るぞっ」
男は乱暴に少女の腕を掴んで、引きずるように連れて行こうとした。
「助けてっ。さらわれるっ」
少女は、周囲に叫ぶが誰も手を出さない。
まわりの人々の心は、男の主張に傾いていたのだ。
光明はその様子を眺めながら、どうしたらいいのかを惑っていた。
光明も男が父親のように見えていた。一方、少女はいかにも我がままな家出娘に見えた。
だが、もしも少女の言うことが正しかったら…
光明の胸にそら怖ろしい想いがこみ上げてきた。
握る拳に力がこもったが、ただ自分の爪が自分を傷つけるだけだ。
少女は、必死になって男の手から逃れようとするが、男の力には敵わない。最後の力を振り絞るように、少女は男の腕に思い切り噛み付いた。
男は、ぎゃあと悲鳴を上げると、思わず少女を放した。
少女は、ぱっと走り出したが、直ぐに男に髪を掴まれた。
「何しやがる、この餓鬼が」
男は、少女の腹を思い切り蹴り上げた。少女はうめき声を上げ、ばたりと倒れた。
光明はそれを目にしたとたん、一歩前に出ていた。
「やめろ!」
気付けば、光明は叫んでいた。
それまで少女と男に向けられていた視線は、一気に光明に集中した。
「あんた、父親じゃないだろう。親が娘にこんな酷いことを出来るはずがない」
光明は少女の元に駆け寄った。少女は、意識を失っている。
それまで男に傾いていた群集の心も、光明の言葉に動かされていった。
「なにを言う、自分の子供だからこそ。こうして躾をしているんだ」
男は、先ほどよりはうろたえ気味にそう反論した。
「こんなことをする者が子供を持つことを、天が許すはずがない」
光明の声は、その姿に似つかわしくないほどに力強く、威厳に満ちている。
男は怯んだ。しかし、直ぐに光明と少女を睨みながら言い放った。
「分かったぞ。お前が春琴をそそのかして、家出させたんだろう」
「答えになっていない!」
光明は、男を一喝した。
辺りは、シンと静まり返った。
光明は、おのれの心臓の音だけを感じていた。
「は、話にならん」
男は、気を失っているままの少女を無理やり引き起こし、その場を去ろうとしていた。
「待て!」
光明は、男の腕を捕らえたが、男はそれをこともなげに振り払った。
振り払われた光明は、いとも軽く地面に叩きつけられた。
「しつこい餓鬼だ」
男は、言いざま腰の剣を抜いた。
ざわめきが起こった。子供相手に、剣まで抜くこの男。周りの者も、ここに至ってようやく確信する。
『この男は、少女の親ではない!』
光明の頭上に、男の刃が振り下ろされた。
――やられる!
覚悟とも悲鳴ともつかぬ叫びが、周囲の人々と光明の中に響いた。
だが、いつまでたっても男の剣は、光明に落ちては来なかった。
恐る恐る顔を上げると、光明の目に信じられない光景が飛び込んできた。
男と光明の間に、ひとりの人間が立っていた。
その人物は、男の振り下ろした剣を、己が剣で受け止めていた。
「千樹……」
光明の口から、その人物の字がこぼれた。
「私は、血を好まない。だが、お前が血を流したいというのならば、ここでお前を斬ってやっても良い」
低く、凄みのきいた声が男に放たれた。
男と剣を交えているのは、貧弱な体つきの剣士だった。振り下ろした男の剣を押し戻す、この力は剣士の細い腕のどこから、出ているのだろうか。
男は、その剣士の放つそら怖ろしい気迫に、飲み込まれていった。
男は、背中から地面にどうと倒れた。
後で分かったことだったが、この男はこの手で子供をさらっては売り飛ばすという輩であった。他に仲間もおり、大規模な捕り物が行われた。これにより、何人かの子供が救われた。
だが、売られた子供の何人かは既に命をおとし、また何人かは行方が知れないままである。
「王だ、王だと偉そうにしていても、救えるのはほんの一部の人々だけだ」
光明は、その事実を突きつけられたときに、やはり己れの無力さ、至らなさに打ちのめされた。
だが、光明はその頭を上げて、こうも言った。
「だけど、千樹。総てを救えないからといって、目の前の命を諦めてしまう訳にはいかないんだ」
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道治は王に対しても、矢張り呑気に尋ねてきた。
「で、街でなにをなさっていたんです?」
「別に何も。何も出来なかった」
少し俯きながら、光明は言う。
「でも、何かお分かりになったんでしょう」
「そう、かな?」
光明は顔をあげて、道治を見た。気付けば、なんとも不思議な男だ。
「だから、お帰りになるんでしょう?」
にこやかに道治は、そう続けた。
「台輔もそう思われるでしょう」
突然、同意を求められた千樹は、肯定も否定もしない。
その美しい麒麟は、怒りを隠していない。たしかに、光明は怒りを買うようなことをしでかしている。いかにも無謀で、愚かなことをした。それに言い訳は出来ない。けれど、光明は心の内でそっと反論してみる。
千樹もあの場で、自ら剣を抜いて出るべきではなかったのではないか。指令や、警護についていたという道治に任せるべきではなかったか。
そもそも麒麟が、自ら街に出て王を探すことなど、控えるべきではなかったのか。
王が死んでも、麒麟は死なない。だが、麒麟が死ねば、王は死ぬのだ。
この麒麟は、人には身を律することを求める。しかし、自分のこととなるといかにも無防備で、立場というものを理解していないとしか思えない行動をする。
―― 自分のことは分からない。ということか。
だから、王と麒麟は対でいながら、別々に存在するのかもしれない。
どちらかが、どちらかに相応しいとか、相応しくないとか、そういうものではないのだ。
この世にふたりきり。
向かい合いながら、常に互いが互いを見ている存在。
それが王と麒麟なのだ。
「千樹、王宮に帰ろう」
光明は、確信とともにそう言った。
「で、本当は何をしてたんです?」
一息ついて、千樹は道治の問いを繰り返した。
「実は食い逃げしそうになったんだ」
光明は、千樹の眉間の皺が消えているのを確かめると、そう切り出した。
光明は、街に下りてから銭がないことに気付いたのだが、時既に遅く、店で出された料理を平らげた後だったと言う事だ。
千樹は、さすがに情けないという顔をする。
光明は、千樹をちらりと見たが、そのまま話しつづけた。
「で、店の主が私に食べた分を働いて返せと言うんだ」
よくある話ではなかろうが、お決まりの展開とも言えた。
「そこの主人は役人に突き出すことも出来たというのに、僕に泊まるところを与えた上に食事まで出してくれる。もちろん、皿洗いやら床磨きやらとこき使われたけどな」
光明の手の荒れ具合からも、その使われようが伺える。だが、光明はなんとも嬉しそうだ。
「人を罰するだけが解決ではないのだなぁ」
光明の晴れやかな声に、千樹はしばし王を見つめる。と、静かに微笑んだ。
「では、帰る前にその店主どのにご挨拶しなくてはいけませんね」
「ああ、そうだ。だが、僕はまだ食べた分を働いて返していないような気がする」
「主上がその店で働いて返そうなんて思っていたら、いつになっても王宮には帰れません」
以前ならば、千樹の言葉は冷たく突き放すようなものに光明に響いたかもしれない。
だが、光明には分かる。
「違いない。僕が働いて恩を返す場所は、別にあるからね」
晴れやかに笑う光明が、千樹には眩しく見えた。
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光明と千樹がこっそりと王宮に帰りついたのは、光明が出奔してからおよそ二十日あまりたってのころだった。
宮中ではさすがに王が病みついたり、麒麟が病みついたりという言い訳は通用しておらず、官の中にはあからさまに王に対して不信の念を表す者も少なくなかった。
だが、床払いをしたという王は病み上がりとは思えぬ働きぶりで、それらの者たちの異見にも耳を傾けながら、自分の意見を説き、行動でそれを示した。
やがて、王に対する不平、不満などはどうでもいいもののように思われてくる。王はひとりで政事を行うものではない。しかし、王なくては国は成り立たぬ。
王は、王であって、それ以上でも、それ以下でもない。
世界は、何を中心に回っているのだろうか。
光明は、思う。世界の中心は、あの街のあの店であったり、あの里のあの家であったり、王宮のこの庭であったりするのだ。その人にとって、その人が生きる処が世界の中心であり、世界の中心はどこにでもあるのだ。
「義倉の件だけど」
回廊を歩きながら、ずっと考え込むように黙っていた光明が足を止めて、そう切り出した。
「はい?」
光明のやや後ろを歩いていた千樹も立ち止まり、光明の次の言葉を待っていた。
「点検の回数を増やしたり、抜き打ちで検査しようと思う。管理が甘いと、良くないことを考える者が出てくる」
「そうですね」
「それから、実際に管理する者の俸禄も考え直したい。どうも、重要で気を使う仕事の割に見返りが少ないような気がする」
「はい」
「それと、ものの入れ替えを定期的にやった方がいいと思う。倉に大切にしまっておいて、穀物が食べられなくなったのでは意味がないから。街では、食料の流通もうまくいっていないところがあって、行き渡っていない様子があるから、倉のものを安く出すのも良いかもしれない」
「宜しいように……」
にこりともせずに千樹は、言う。さすがに光明も、自分の言っていることを千樹が実際どう思っているのか、不安になる。
と、千樹はすこしの間をおいてまた言った。
「ですが、食料を出すならば、補充も計画的にしなくてはならないでしょう。それに、あまりに一度に放出したり、安く払い下げすぎて、市場で食料が値崩れしてしまわないように、考えなくてはならないでしょうね」
ざくりと、釘をさすときに限って、千樹は微笑む。
「もちろん、そうだ」
光明はそう応えて、やはり微笑んだ。
「まだまだ問題が山積みで、いろいろ忙しいなぁ」
ひとつ伸びをしながら、光明は庭に下りていった。
「では主上が暇になった時が、それこそ良い国になったということなのでしょう」
千樹は冗談なのか皮肉なのかそんなことを言って、光明の後に続いた。
庭の真ん中には、例の木がぽつんと一本、立っている。
相変わらずの心もとなさだ。
「大きくなったよなぁ」
光明は木の根元に進み、幹に触れ、眩しく見上げた。
千樹は、思わずその木から、光明から目を逸らした。
「なあ、千樹」
光明の呼びかけに、麒麟は直ぐに振り返ることが出来なかった。
ただ、『はい』と返事だけをするのが精一杯だった。
光明は、千樹のそんな様子はいつものことなので大して気にも留めずに話を進めた。
「お前、知ってる? 蓬莱には千年以上生きる木があって、それがとてつもなく大きくなるんだってさ」
「そうですか」
麒麟のそのそっけない返答すら、慕わしく思えるのが、光明自身にも不思議だった。
「この木も千年たったら、どんなに大きくなるだろうか。楽しみだなあ、千樹」
その言葉に、千樹は振り返った。
そこには屈託無く、呑気に笑う子供のような光明が居た。
「……」
言葉を失うというのは、こういうことなのだろうか。千樹は、まじまじと王の顔を凝視した。
「そう思わないか?」
いっそう明るく、光明が笑う。
―― ああ、そうか……
千樹は、王が自分に与えた字を胸の内で握りしめた。
「そうですね。三十年でこれだけ成長したのですから、千年たったらさぞや大きくて立派な樹になるでしょうね」
花のように笑う千樹。光明はいよいよもって嬉しくなる。
「なあ、そう思うだろう。千樹」
千年続いた王朝はない。 光明がこの木の千年たった姿を見るなどということは、夢のような話だ。
だが、と千樹は思う。
夢をみていてもいいのではないか。と。
「ええ。それに私もその頃には、千樹と呼ばれることに慣れているでしょうね」
この麒麟は、やはり少し意地悪だ。
それでも、と光明は思う。
千年後も、この麒麟とこの木を眺めていたい。と。
『千年の王国』 了
これが何故、『天涯』の番外編なのでしょうか?
それは、『天涯』本編をお読みくださると、お分かりになるかもしれません。
結局、読んで頂ければ幸いと思う今日、この頃です。