プロローグ「月と狼」
この世全てに被さる星海。その中心には、憂鬱に色褪せたように見える三日月が浮かび、輝いている。
あれがそう、我らの知り得る衛星天体であるならば、少し間を挟んだ星屑の彼方に、薄っすらと、しかし確実に輪郭を成しているあの蒼き球体は何なのだろうか。けれどもこの地に生きる者ならば、かの蒼星を指し、さも当然と口を揃えてその名を声に出すだろう。
あれは「
ボルシス大陸統治国家、王都ボルシスより数十里を離れた土地に、異様な高層建築様式が立ち並ぶ奇怪な都がある。名をクラヴァ―。世界でも稀に見る高度発展を遂げた街であり、ある内的要因のために極めて閉鎖的な都市として知られている。
闇の中でも絢爛たる夜景が織り成す人工照明のパーティクルが空を照らし星々を塗り潰す。その輝きたるや、王都からでも直視出来るほどの鮮烈。しかし誰も彼も、真っ当な人間であれば、彼の街を知りうる者であるならば、その輝きに何ら感慨を抱くことはない。仮に思うとすれば、それは強烈な忌避だろう。事実、クラヴァ―を形成する高層建造と、それらが織り成す明暗は、
故に、人々はクラヴァ―を異形の都と称していたが、彼らが真にクラヴァ―を忌み嫌う理由は別にあった。
異形の都・クラヴァ―は、この世界で最も輝かしい都市であると共に、最も荒み腐敗した、大陸随一の犯罪都市でもあるからだ。
◆
腐っている。
何が、という話ではない。ただとにかく臭い。臭くて臭くて仕方がない。全身に纏わりつく倦怠感が、不快感を際限なく増大させていく。皮膚にべったりと張り付いたままの粘液が、どうしようもなく汚らわしくて耐えがたい。
少女は軋む床板を尻に敷き、壁に背を預けて茫然と時が過ぎるのを待っていた。どれだけ意識を切り離したくても、聞きたくもない雑音が彼女の耳に入り込む。
下卑た笑いを轟かす男たちの集団が、ランプの明かりに照らされている。卓を囲み、酒を飲みながら愉快で愉快で仕方がないと刹那的な悦楽に浸っていた。
光からは程遠い、薄暗い部屋の隅に放置された少女は、光の失せた眼で、無軌道に騒ぎ立てる彼らを見つめている。
「早く、死なないかな」
少女から漏れ出た呟きは、とても細やかなものだったが、膿んだような切実さが確かに込められた呪いであり、祈りであった。
「それで、こいつはいつ捌くんだ?」
卓を囲む男の一人が煙草をふかしながら、仲間を見回す。卓上には大仰な造りの大箱が置かれており、中には円盤状の物体が整然と収納されていた。
「馬鹿野郎、そう慌てんじゃねえよ。慎重に事は運ばねえとな」
つばの広い帽子を被った男が、小型拳銃の手入れをしながらそう返す。言葉とは裏腹に、隠しきれない興奮が口元を小さく吊り上げさせていた。
「だがよ、ぼやぼやしてたら捕まっちまうぞ。さっさと街を出るべきだ」
「ジャド。てめえの肝っ玉は本当に小せぇな。おまけに天井知らずの馬鹿で底なしの間抜けだ。聞いた話じゃここにゃ民間の自警団もどきしかいやがらねえんだろう。だったら楽勝だ。ちっとは黙って座ってろ」
「仲間の前で俺に舐めた口を利くんじゃねぇよバルト。大物気取りですっかり偉ぶりやがって」
「噛みつくんじゃねえよ。てめえみてぇな能無しはすぐ粋がることしか頭にねえから面倒なんだ」
二人は敵意を隠そうともせずに口論を始めるが、周りの男たちは囃し立てるように笑うだけだ。一目見て、真っ当な集団ではないことがわかる。ろくに仲間意識などもないのだろう。それぞれが粗暴で救いのない悪漢の寄せ集めだった。
彼らの囲む卓上に置かれている円盤の数々は、「ディスク」と呼ばれる特殊な器具で、専用のデバイスにセットし、使用することで特殊な現象を引き起こすことのできるものだ。それは炎を発生させたり、稲妻を降らせたり、または自分の肉体を強化するなど――用途は様々だ。
この世界には、呪術師と呼ばれる特殊な人間たちがいる。彼らは大気中に渦巻くマナという元素を己の内に取り込み、そして体外に「呪術」として放つことで超自然的な現象を引き起こした。彼らの絶対数は少なく、呪術師は貴重な存在として重宝されていたらしいが、近年になってディスクが発明されたことで誰もが普遍的に神秘の力を行使できるようになり、呪術師たちの価値は著しく低下してしまっていた。
そして呪術師の扱う呪術に対し、ディスクにより発動する力を「式術」と人々は呼ぶようになったのだ。
彼らの囲む大量のディスクは、その中でも特級に強大な術を秘めたもので、取り扱い上あまりにも危険であるから当然正式な認可の下りていない、非合法的に製造された数々だった。
本来ならば然るべき経路を辿り、定められた者が運ぶはずだったものだが、ここに存在するということは、彼らが強奪者であるということを明確に告げている。しかしそうした犯罪行為はこの街では珍しくもないことだ。珍しくもないことなのだが、この街の住民ならば盗みを計画するにしろ、必ずこの
「じゃあいつになったらここを出るってんだ。ええ?」
「明日の朝には船に乗って、西のナムレッグにおさらばだ。向こうじゃこいつぁ高く売れる」
ボルシス大陸は西のナムレッグ大陸と、東のルンゲル大陸に挟まれた中規模の島国だ。それ故に、両大陸の橋渡しめいた役割も担っており、東西からの移民の数は多い。
同時にクラヴァーは、特にルンゲルからの密輸品などを多く受け入れ、「街ぐるみ」で流通させている。彼らの強奪したディスクもまた、そういった後ろめたい物品の一つだった。
「無事にこの街を出られりゃいいけどな。朝になってみたら周りを囲まれてましたなんてことになったら俺たちゃガライン=メナ随一の大馬鹿だぜ」
「いい加減にしろジャド。てめえがみっともなくガタガタ震えるのはいいが、俺らにお得意の臆病風を吹き散らすな。言ったろ、ここの連中は自警団もどきしかいやがらねえって。国から派遣された憲兵なんぞ一人もいない。どうとでもならぁ」
「俺は、お前の言う慎重に事を運ぶってやつを心がけてるだけなんだがなバルト。この街の話は散々聞いてんだろ。街を仕切ってるイカレ野郎の話もな。俺らはそいつの商売に泥塗ってんだぞ」
「だから心配いらねえよ。それ以上情けねえことしか言えないなら、こいつでお前のどたまを吹き飛ばすぞ。雑魚はいらねえ」
突如、バルトが拳銃をジャドの額に突きつけた。周囲の男たちは歓声を上げ、口笛を吹く。
「この野郎――」
ジャドの表情が一瞬にして強張った。全身をぴたりと硬直させ、バルトを強く睨み据える。右手は卓上に置かれていた拳銃の一つに伸ばされていた。それを承知でバルトは、ジャドの視線を真っ向から受け止めつつ、緩やかに、ごく僅かに頷いてみせる。
一瞬即発の空気。周囲の騒ぎは大きくなり、ジャドとバルトの合間に走る緊張感は鈍く、だが確実に膨らみ、弾け飛ぶその瞬間を待ち侘びていた。
短絡的かつ非生産的な駆け引きだ。表面上は仲間と呼びつつ、けれど決して彼らはお互いに気を許してなどいない。むしろ、ここでどちらかが死ねば分け前が増えると知っている。荒事を好むだけではない、だからこそ、無駄に殺し合えと囃すのだ。
――あ、死ぬのかな。
全ての喧騒の外で、一方的な凌辱の後に忘却された少女はふと、その両眼に光を得た。二人でも、一人でも構わない。彼らが死ねば死ぬだけ、いくらか少女は救われるような思いだった。
決して、彼女は諦めていない。どれだけ凄惨たる暴力に身を曝されたとしても、彼女は決して「死にたい」と思うことはなかった。真意は真逆、彼女は強く。何よりも強く、生きることを望んでいた。そのために、まず彼らには――一人残らず死んでほしいと、切に、狂おしく、打ちのめされた心で、強く願っていて。
扉を叩く音が、切迫した室内へ異様に大きく響き渡る。
男たちは一様に扉を振り向き、そして瞬時に沈黙した。それはこの部屋に唯一存在する頼りない木造扉であり、ノックの音は間違いなくそこから聞こえた。それ以外にあり得ないのだが、男たちは何故か同時に幻聴だったのではと考え、しばし動きを止めていた。
彼らの疑念を打ち払うように、再びノックの音が三度響いた。三つの音の間は均一で、音の強弱は一定、あまりに機械的な律動だ。
現時刻は既に深夜だ。彼らが間借りしているこの一室は、クラヴァーのスラム街に当たる区域に存在する七階建ての建物、その四階一帯に該当する部屋だ。杜撰な管理人は無論、街にとって新参者である彼らを私的に尋ねる者もいるはずがない。
であるならば、予期せぬ来訪者は一体何者なのか。
しばしの沈黙の後に、扉が軋みを上げて開き出した。男たちの合間にささくれ立った気配が奔る。浮かれるあまりに施錠をしっかりと行っていなかったのだろう。あまりの醜態に、バルトは反射的に舌を鳴らし、乱暴に腕を振って周囲の男たちに指示を出す。扉付近の隅に陣取れという合図だ。
すぐに六人の男が左右に三人ずつ分かれて移動し、壁にぴたりと張り付きながら静かに開け放たれる扉に向けて銃を、あるいは小ぶりの短剣を構えながら息を飲む。
扉が完全に解放され、明かりの届かぬ廊下の暗闇がそこへ広がる。誰もが押し黙り、誰からも忘れ去られた少女もまた、細やかに首を傾け、男たちを警戒させる元凶を見た。
まるで闇そのものが形を成すように、前兆なく一つの影が室内へと足を踏み入れた。
陰湿な目をした男だった。およそ人間味に該当する全ての要素を削ぎ落した、幽鬼の如く曖昧で、そして暗い、暗い面貌。注視すれば恐ろしく顔立ちの良いことが分かったが、目元に浮かぶ底なしの闇が全てを台無しにしていた。
「――誰だ、お前は」
我に返ったバルトが、絞り出すような声でそう尋ねる。
部屋に入り込んだ男は、新品に近い艶のある革靴とタイトなスラックスを履き、葡萄酒色のシャツを着込み、その上には左肩の部位へ刻まれたトライバル風味の白模様が印象的な襟立った紺色のジャケットを身に着けていた。首には漆黒に近い服装の中で唯一色鮮やかな深紅のネクタイを巻き、目を引いた。だが、やはりどうしても印象に残るのはその蒼眼である。黒髪へまばらに走る白のメッシュからなる前髪の下に、沈み込むような深い虚無の双眸が浮き上がっているのだ。
「おい、誰だよお前は。聞いてんだぞ、答えろよ。ここは俺たちの事務所だぞ」
黙りこくった来訪者の様子に、ジャドが語気を強めつつ身を乗り出す。一応のところ、彼らの表面的な肩書は魔物を専門とした傭兵団であり、ここは彼らのクラヴァ―における事務所という名目で借り受けた部屋だった。
バルトは、来訪者の陰鬱な眼が卓上の大箱に注がれているのに気が付き、来訪者の背後に立っている仲間たちへと目線を送る。この男は、自分たちの正体を承知でここへやってきたのだ。
「ジャド、よせ」
青筋立てた「仲間」を諫めて、他の者たちにも武器を下ろす様に指示だ出しつつ、バルトは努めて穏やかに浮かべた笑みを来訪者に向けた。
「すまねえな兄ちゃん。俺たちは今さっき魔物を狩ってきたところでよ。疲れてるんだ。道に迷ったんなら、他を当たってくれねえか」
『そノ必要ハ、アリませンヨ』
バルトは総毛が逆立つ感触を覚えた。口を開いた来訪者の出す声は、あまりに、あまりに異様な声音であった。機械的なノイズの入り交じった抑揚のない声。辛うじて、男性の声であるということがわかるが、言葉の発声といよりは単語の発音のみが際立つものにしか聞こえず、ふとすれば意味を掴み損ねるほどに単調に過ぎて、いやに慇懃な口調も合間り率直に気味が悪かったのだ。
来訪者はバルトたちの様子を見た後に、表情一つ変えず顎を上向けると、自身の首元を指さして見せる。そこには、首輪――のように見える、妙に鋭角的な装飾の物体が嵌められていた。
『喉ヲ痛めテいマスが、こレで話スことが出来マす 聞き取リズらいデしょウガ、しっカり聞いてモらイマす。カリスかラノ伝言を預かっテいるノで』
その首輪の意味を考えるよりも先に、男たちの目は一瞬にして獣のそれと変わる。カリスという名は、正しく彼らが強奪を働いた物資の本来の持ち主であり、ジャドの言っていた街を仕切る“イカレ野郎”の名前でもあった。
即ち、この来訪者はカリスの送り出した刺客に間違いない。
バルトが手を上げると、再び悪漢たちはそれぞれの武器を構え、来訪者を取り囲んだ。
「……ああ、なるほど。そいつはご苦労だったな。いや何、まさか一人で来たわけじゃねえだろう。仲間はどこだ。もうここを囲んでるのか」
『いエ、ご心配はフヨウです。ここには、ワタシひとリで来ましタ』
ジャドが窓際に寄り、外の様子を探る。それからバルトを振り返ると、浅く頷いた。
「なるほど、大したもんだ。一人でノコノコやってきて、俺らにまんまとしてやられたお間抜け野郎の伝言とやらを伝えてくれると。そんでお前さんは呑気に帰れると思ってんのか?」
周囲から嘲笑が沸き起こる。バルトもまた、笑みを嗜虐的なものに変えて、来訪者へ向けて銃口を向けた。
「だから言ったろジャド。この街の連中はどいつも馬鹿だ。おい、伝言とやらを言ってみな兄ちゃん。それから素っ裸になって頭を下げれば、人質くらいにはしてやってもいいぜ。」
一層激しく、男たちの笑い声が弾ける。哀れな来訪者に向けて四方から野次が飛び、下品な冗談の応酬が行き交うが、彼は顔色一つ変えずに立ち尽くしていた。その様子を見て、すっかり恐怖に慄いているのだと悪漢たちは完全に思い込んだ。
『申し訳ゴザいませんガ――』
「あ……?」
『伝言ヲ届けルのは、一人ダケでヨいとの申しツケでして』
来訪者の男は、ごく自然な動作で上着の懐に右手を滑り込ませた。
『残リの方々はフヨウです』
次の瞬間、バルトの額を強い衝撃が伝う。それが何かと思考するよりも早く、彼の意識は永遠に潰えることとなった。
一拍の静寂が場を凍てつかせ、額に短刀を突き立てたバルトの体が大きく仰け反り、そのまま地面に倒れ落ちた時に生じた音が空しく響いた。
怒号が弾ける。訳の分からぬ喚きと共に彼らの手元で跳ね上がるボルシス王国軍旧制式採用小型自動短銃「セルナス」の型落ち品が放つ9mmセイバー弾の嵐が、唸りを上げて来訪者の男へ殺到する。男一人を殺傷せしめるには十分に過ぎる弾数だった。
風よりも早く男の体が翻る。否、その手足が、鞭のようにしなる。対するは迫る銃弾の波。この期に及び、やはり些かにも動じた様は見られない。刹那を掌握した男の腕部が、脚部が、ともすれば規則的に見える奇怪な動きを象った瞬間に、その現象は発生した。
「……おい」
その呟きは、引き金を絞った男たちの内の誰かから漏れ出た。
来訪者は未だに健在。腰を浅く落とした体勢で、全くの無傷でそこへいた。銃弾は彼をすり抜けたように、その背後へ着弾し、バルトの近くにいたジャドは蜂の巣となっていたが、奇妙なことに、卓上に置かれている大箱にもまた弾痕の痕は見られない。
暗き蒼瞳が、舐め回すように男たちを順繰りに見つめていく。人数を数えている、これから始末せんとする人間の数を。
「――こ、殺せッ!」
どうして来訪者に狙いを付けて放った弾丸が、しかもこの距離で当たらない。外すわけがない。それこそ式術や呪術の類としか思えない現象。しかし、明らかに来訪者の男はそのいずれも使用した様子ではない。悪漢たちはすぐに理解を放棄し、各々が短剣などに持ち替え、彼に躍りかかった。
来訪者の双眸が鋭さを増す。腰はより深く落とされ、両手は力なくだらりと下げられている。一見無防備に見えて、放たれる底知れぬ威圧を悪漢たちは感じ取るが、よもや止まれるはずもない。止まってはいけないと、無意識に感じていた。
彼に最も近づいた男が、素早く短剣を来訪者の胸元に突き出す。照明の光が反射し、輝きが瞬く。
同時に、闇が吼えた。
「あ」
漏れ出たのは、調子の外れた楽器のような高音。それを最後に男は力なく立ち尽くすと、短剣を取り落とし仰向けに倒れる。噴出した鮮血の飛沫が後続の数人へ降りかかり、彼らは動きを止める。止めてしまう。
正しく、獣であった。悪漢たちの合間をすり抜けるように蠢く闇の速度は、到底常人の動体視力で捉えられるものではない。空を切るような音と共に、二人、三人と夥しい量の血液を噴き上げながら倒れ伏す。異常であるのは倒れた男たちの体もそうだ。肉体の全面、股下から額まで、あるいは首筋に刻まれた、巨大な肉食獣の熊手か、魔物の鋭利過ぎたる爪牙に引き裂かれたとしか思えない惨たらしい傷跡。深く、骨すら容易に砕き内臓部位まで問答無用で抉り裂かれている。
人間の所業ではない。これは獣だ。何か特殊な加工を施した刃物の類でなければ、到底再現できるようなものではない。
四人目。迫る死の暗闇を前にして、辛うじて彼はそれを見た。些細な動きまではとても捉えられるものではなかったが、それでも、来訪者の振るうナニカの正体を。
ソレは、――――――――なんだ、ソレは。
四人目の側頭部目掛けて風が唸る。瞬時、彼の頭部は水風船のように破裂粉砕し、脳漿などがそこかしこに飛び散った。
「ひ、ひいぃィィああああああッッッッ」
残るは二人。その内の片方が完全に発狂したような奇声を上げ、背を向けて脱兎の如く逃げ出した。もう一人は腰砕けて両足を激しく震わせながら座り込んでしまっている。
逃げようとした男は、しかし五歩も踏み出さぬ内に床へ転がった。後頭部には短刀が突き刺さっている。
事の済んだ後、まるで何事もなかったかのように来訪者は部屋の中央に佇んでいた。決して変化のない無機質な瞳で最後に残った男を見下ろしている。
「あ、あ、あ」
彼は完全に戦意を喪失してしまっていた。異臭と共に、彼の座る箇所に水たまりのようなものが出来ていることに来訪者は気が付くが、まるで興味のないように一歩、近づく。
「ひあッ!」
『安心シて下サい。伝言を届ケる方も必要です』
男は、最初目の前の怪物が何を言っているのか理解が出来ていない様子だったが、やがて言葉の意味を飲み込むと、縋る様に来訪者の足元へと這い寄った。
「た、助けてっ! すぐに街を出る! もう二度と姿を見せねえ! 助けて! 助けて!」
『いイでしょう。後ハ貴方にカリスの言葉を伝エルだけで、ワタシの仕事はオシマイです』
来訪者の声音はどこまでも機械音声めいた不気味な響きであり、彼の表情も眉一つ動くことはない能面のようだ。これでは哀れな生き残りの途方もない不安感はほんの少しも解消されることはないだろう。
『さア、顔を上げテくだサい』
来訪者に促されるまま、男は涙と鼻水で汚れた顔を上げて、そして凄まじい激痛に絶叫した。
『この街で、アナタたちのよウなことをすルと、最低でもこうなるト触れ回リナさい。後は、もう帰っテもらッテ結構でス』
来訪者は右手に摘まんだ男の眼球を一瞥した後、すぐに放り投げた。それから喚きながら蹲り、動く気配のない彼をしばし見つめ、ため息を吐きながら、まるで綿菓子を摘まむような軽快さで彼の左耳をちぎり取ってしまった。
『早く行かナイと、アナタの顔からどンどん大事ナ部品が無くなっテいきマスよ』
ようやく男はのた打ち回りながらも、床を這い動き出す。来訪者は左手をスラックスのポケットに突っ込み、その姿を無感動に見送るが――。
一つ、二つ、三つの銃声。男の体が三度痙攣したように跳ね、それから二度と動かなくなった。
来訪者が横目に背後を見やると、そこにはボロ布を身に纏っただけのみすぼらしい少女が立っていた。手にはバルトの持っていた拳銃を握り、その銃口からは硝煙が立ち上っている。
来訪者は特に何を言うでもなく、男の死体へ近づくと傷跡を確認する。背面へまばらに着弾していたが、三発とも確実に命中している。いくらこの距離といえど、あのような少女が突然成し得るような芸当ではない。
確認を終え、立ち上がりながら少女を振り返る。彼女はまだ拳銃を構えており、その銃口の先は来訪者に向けられていた。
来訪者は、構わず少女に近づく。少女の顔からもまた、あらゆる感情の彩りが失われている様子であったが、引き金にかけた指先には確実に力が込められていくのがわかった。しかし、来訪者は止まらない。大股で少女に近づき、やがて彼女の構えるセルナスの銃身を掴み上げた。
「…………」
彼女は些細な抵抗もすることはなく、たった今目の前で凄惨たる殺戮を披露せしめた男へ銃を預ける。
来訪者は、セルナスの弾倉を抜き取り、銃身に残った薬莢を排出し、諸共に投げ捨てた。それから少女の瞳を深く覗き込む。
先ほどまでは機械的な音声ながらも、饒舌に見えた男であったが、少女の前では一切の言葉を紡ぐつもりはないようだった。少女の見上げる男の両眼は、やはりどんよりと曇った蒼色で、そこに人間味を見出すことは難しい。
少女は少しばかり困惑していた。先ほど悪漢の一人を撃ち殺したのは、「自分の手で連中を殺せる」決定的なタイミングを見逃さなかったが故の行動であり、彼らから与えられた様々な凌辱を鑑みればただ撃ち殺すだけでは満ち足りない思いもあったが、それでも彼女には自分の手で始末するという行為が極めて重要だった。だったのだが、それを果たした今となっては、自分はこれからどう行動すべきなのかという疑問のみが残ってしまっていたのだ。
言ってしまえば、自身の感情を優先して後先のない行動に出ただけに過ぎない。完全に、この来訪者の存在を瞬間的に忘れてしまっていた。殺されるかもしれない。他の男たちと同じく。
それだけは、どうしても避けねばならなかった。彼女は至極当然、人として当たり前に生きることを願っている。自棄になって「死んでもいいか」などという衝動は欠片も抱かない。
だから、この男を撃ち殺してでも逃げることを覚悟したのだが、無理だった。
繰り広げられた惨状を前にして、たかだか銃弾の一発程度を放ったところでこの男を殺せるとは到底思えなかったのだ。
だから少女は、真っ向から敵対するよりも、とある賭けに出ることを決意した。
「――――おね、がい」
久しく、まともに言葉を発する機会に恵まれなかったために、少女の声はかさかさに乾き、枯れていた。
「――――わたし、生きたいの。だから、殺さないで」
何のことはない。取るに足らない、陳腐なだけの命乞い。得体の知れぬ男に対し、少女は情に訴え出ることしかできないのだ。だから、そう、強く、切に、ありったけの祈りを込めて、男の瞳を強く睨むようにすら見据え、彼女は自身の要求を叩き付けた。
拙い願望を前に、来訪者の顔色はやはり変わらない。変じない。
少女はいよいよ自身の最期を覚悟した。本当に、本当に不運の続いた人生だった。自業自得と言えなくもなかったが、けれど納得できるはずもない。こんな、こんな腐り果てた場所で死んでいくなんて、耐えられるはずがない。
もっと生きていたかった。もっと、もっともっと、やりたいことは、たくさんあるのに。
ああ――死にたく、ない。
来訪者の腕が振り上げられ、少女は目蓋を閉じる。その拍子に、眦から涙の粒が頬を伝い、淡く零れ落ちた。
――異形の都、クラヴァ―。
一見無秩序なこの街に、それでも相応の秩序をもたらした者がいる。つまりは、食物連鎖の頂点に座する残虐無道の王。この街で罷り通る全ての犯罪組織、行為の管轄者。腐敗し、血に濡れた死屍累々の玉座の主。
名を、カリス=レイドライナー。
その名を聞いて、震え上がらない者はいない。如何なる無法者であろうとも、カリスの名を前にしては厚顔無恥ではいられない。同時に、彼の名前を最も凶悪たらしめる材料の一つとして、カリスの抱える私設部隊の存在がある。
『サイレント・ラウンジ』――常人を逸脱した殺戮者たちによって構成させたこの集団は、カリスの命に従いクラヴァ―の闇を行き、そして死を撒き散らす。
哀れな少女と、そしてただの悪漢たちを襲った今宵の顛末は、この街においては何ら珍しくもない。カリス=レイドライナーの顔に泥を塗った。よってラウンジが闇に舞い、ごく平凡に殺戮劇が巻き起こった。翌日の朝刊にすら記載されない些事として、誰も気にも留めぬだろう、誰も記憶しないだろう。そんなものだ。そんなものなのだ。
――何故ならこの街は、世界で最も淀み、壊れているのだから。
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