01.気まずい朝
今も遠い、陽炎の如く霞むあの男の背が見える。
手を伸ばす。男の背は遠のくばかりで、一向に彼我の距離は縮まらない。
強くなりたい。強くなりたい。誰よりも強く、何もかもを打ち倒せるように、この手で全てを砕けるように。立ち塞がるもの皆全て、あらゆる一切、己が力で踏破できるように。
切に、狂おしく、情念に浮かされ、癒えぬ殺意に蝕まれ、それでも愚直に。
強く、なりたい。それが、オレの始まりであり、そして終わりであった。
誰しも抱く願いだろう。何も複雑怪奇なことを言っているのではない。誰もが、より良い自分、より良い明日のために「強く」なろうと努力している。ほんの些細な何かでも、己にとって都合のいい世界を目指して、何らかの努力をし続けているはずだ。それは現状に満足していないから。あるいは現状を維持するためだけに、人はそれぞれの強さを求め続けている。向上意欲のない腰抜けは捨て置いても構わない。
自分は弱いから。成し得るには力がないから。今日は気分が優れないから。何もしようとしない連中の、なんと恥知らずたる様か。自らの脆弱さをひけらかして一体なんの得がある。もういいからそのまま死ねばいい。肉体的精神的に関わらず、触れるだけで傷つくような柔肌は、無惨に引き裂かれるまま果てればいい。みっともない。下等でしかない。不愉快だ。
当たり前のことを願っているだけだ。オレは強くなりたい。強さこそが、オレの存在理由であるのだから、如何なる時も満ち足りない。
強く強く、もっと強く、比類なき至高の頂きを求めて。強く、強く、強く。誰にも邪魔させないし、誰の言葉も耳に入れない。ただ真っ直ぐに、曲がることなく突き進んでいくだけだ。
強くなりたい。なりたいんだよ、オレは。
――弱いな、君は。
振り返った陽炎が、困ったような微笑を浮かべている。
弱いと、相手にならないと、お呼びじゃないと。お前は、そう言うのか。このオレに、それを言うのか。オレを弱いと、お前が決定づけたのか。
――ふざけるなよ。
殺してやる。殺してやる強くなって、もっともっともっともっと強く強くなり続けて、必ず殺してやる。必ず認めさせてやる。必ず、必ずお前を追いつめて、オレは強いと――お前の口から吐かせてやる。
オレは、オレは強くなりたい。なりたいんだ。
あいつを、殺すために。
必ず、殺すために。
――――カイン=ヴァンジャンス。
それが、生涯を賭して必ず追いつめ、そしてこの手で殺し踏みにじってやろうと誓った男の名前であったのだ。
第一章 「その夜の邂逅」
卵とハムの焼ける香りだ。
透明な窓硝子に映り込む男の顔は無機質で、何の特徴もないように見える。しかしその双眸は鋭く落ち窪み、幽鬼を思わせるほど陰湿だ。喉元には、何かに引き裂かれたような惨い古傷の跡が強く残っていた。
窓越しに外の景色を見やる。視界の両脇に立ち並ぶ高層建造物。十から十二階層に均一化されたクラヴァー独自の様式だ。ここ以外であるとすれば、それは王族の住まう城になるだろう。
長方形型に仕立てられた建物は、縦に長く横に狭い。階層は無駄に多いが、建物の外見はお世辞にも立派とは言えない。そのような代物が一塊となってこの周囲に密集している。こうも異様に背の高いだけの建造物が都市全域に渡って広がっている景観は、クラヴァー以外で見られないだろう。
オレは湯気立ったカップを口元で傾けつつ、窓枠から離れた。新参者はクラヴァーの街並みに物珍しさを覚えるだろうが、既にオレには見飽きた日常のひとかけら程度の認識でしかない。
集合住宅街に点在する一棟、その四階目にある居間と寝室からなる部屋。オレがこの街に来て住み始めてから、全く変わり映えのない殺風景なリビング。申し訳程度に置かれた年代物のソファに腰かけ、テーブル上にカップを置いた。同時にキッチンから両手に皿を持った少女が、おぼつかない足取りでやってくるのが視界に映る。
「……あさごはん。できた」
オレは少女を一瞥すると、テーブルを指差した。彼女は黙ってその上に皿を置くと、ひゅっと部屋の隅へ行き、縮こまるように座り込む。
彼女が用意した物は、目玉焼きとベーコン、ハムなどを焼きトーストで挟んだものが数切れと、どうにも豆を煮たスープらしき物体だ。見てくれは極めて真っ当な食事に見えるし、立ち込める香りからしても空腹を刺激する材料として申し分ない。この部屋にこれだけのまともな食材があったとは驚きだ。
オレは少女へ目を向け、両手を緩やかに動かし、ハンドサインと表情の動きで視覚言語による会話を試みた。
『本当に、これからも作るつもりか?』
彼女はオレの動きをつぶさに観察すると、ややあってから頷く。
「やくそくしたから」
『……それはいいにしろ、お前の分は?』
「……」
口を噤む少女に嘆息しながら、オレはトーストの皿を卓の端へ寄せる。
『食え。オレはこれだけでいい』
じいっとこちらを見つめるだけの少女に、強い身振りでいいから食えと伝える。やがて彼女はテーブルに近づき皿を手に取ると、再び部屋の隅に戻りぽそぽそとようやくの食事を開始した。
少女をこの部屋に住まわせてから一週間が経過しようとしていたが、彼女はやってきたその日にオレがろくに料理をしないのを確かめて、「では食事を作る」と言い出したかと思えばずっとこの調子だ。食事を作ってくれるのはいいが、オレは使用人のように彼女を扱うつもりはない。あと何日すれば、もう少し打ち解けてくれるのだろう。
懐かれたらそれはそれで面倒なのだが、食事も何もかも、部屋を出さえしなければ好きにしていいと言い付けてある。なのにこれでは、せっかく命を救ってやった甲斐がないというものだった。
『それで、お前はこれからどうする』
「……?」
『一週間前にも聞いた。これから、お前はどうしたい? まさかずっとここに居たいわけでもないだろう。というより、お前が望むなら勝手にここを出て行ってもいいんだぞ』
「……」
ずっとこの調子だ。要領を得ない風に少女はオレを見つめる。この部屋に置いてからすぐ一通りの手話を教えたが、彼女はすぐに覚えて今では十分に使いこなしている。決して頭は悪くない。とすれば、オレの伝えんとしている言葉の意味も理解しているに違いないのだが……。
『……まあ、行くところがないのだろうし。それでもここへ居たいというのなら構わない。オレが勝手に拾った命だ。望むなら、まだしばらく面倒は見てやる。だからといって、変にオレの機嫌を伺うのはやめろ』
「……」
『これはな、命令でも何でもない。命の恩人からのちょっとした頼み事だとでも思え』
「…………わかった」
根気強く粘ったところで、ようやく少女はぽつりと返答した。
『だったら、そんな隅っこにいるのもやめろ。気になって仕方がない』
言われるまま、少女は表情一つ変えずにとことことテーブル付近に近づくと、床にぺたりと座り込んで引き続き食事を行う。まあ、これでいくらかはマシになったか。
その陰気な顔を見つめ、俺は彼女の命を救った日のことを思い起こす。あの時は、「カリス」からの命令で彼の商売物資を横から強奪した馬鹿者どもの掃除が主な仕事だった。彼女とはその成り行きで出会ってしまったのだが――。
――わたし、生きたいの。
オレを見上げた瞳の奥底に、確かな輝きを以て瞬く光。オレはそれを認めた。この少女が辿った哀れな道程を推察しながら、それでも彼女は、真実強く強く生きることを望んでいるのだろうと、すぐにわかった。
強く強く、それが彼女にとっての存在理由なのだろうと。ただ、生きたいと願うことこそが、彼女の願いなのだろうと、すぐに理解できたのだ。
だから、助けた。――助けてやらずには、いられなかった。
元々、カリスの所有物を奪った連中の始末を命じられただけで、他はどうしろとは言われていない。ただ、連中の内一人だけは生かせという命令もあったのは事実であり、そうして逃がしてやろうとしたあの男を少女は撃ち殺してしまったわけだったが、その顛末も含めてあの後、彼にこの件について報告を済ませたところ、笑いながらオレの肩を叩き少女を預かることを許諾してくれた。あの様子では、むしろ少女を気に入ったようにも見えた。
そのような成り行きで、少女はここにいる。だからといって、彼女の気が向けば勝手に出て行ってもいいと以前にも一度言い付けてある。その時もこの少女は、口を閉ざし俯くだけだった。オレが見出したはずの、生への強い渇望を秘めたあの頑なな姿はどこにもなかった。
ふと、オレはまだ彼女からあることを教えてもらっていないことを思い出した。既に共に生活を始めて、一週間も経っているというのに、オレはそれを完全に失念していた。曲りなりにも同居者であれば、知っておかなければいけないことだ。
『今更だが――』
少女の注意をこちらに促す。
『お前の名前をまだ聞いていなかった』
そう、オレはこの少女の名前すら知らない。彼女がこれまでどのように生きてきたかはどうでもいいが、少なくとも名前だけは知っておかなければ不便だ。最も、声の出せぬオレが知ったところであまり意味がないかもしれないが。
少女はきょとんとした顔で静止すると、やおらに空となった皿をテーブルに戻しつつ口を開いたいた。
「…………ハナ」
『ハナか。分かった、覚えておく』
それきりオレは彼女から視線を切り、食事を済ませた自分とハナの皿を手に取り腰を上げる。
しかし、流し台へと向かうオレの前にハナがちょこんと立ち塞がった。
なんだ。と目線で訴えかけるが、彼女はどこか非難めいた眼差しでオレを見上げるだけだ。大した興味も抱かず、オレはその横を通り過ぎようとするが、やはりハナはオレの進行方向に回り込み、行く手を遮る。
どういうつもりだ。半ばオレは困惑してしまっていた。何を考えているのかわからない奴だが、ことこの場に及んでは更に意味不明だ。何がしたいのかまるでわからない。オレは食器を両手に持ちながら、阿呆のように立ち尽くすしかできなかった。
何かが閃く。さては、と思い、オレは持っていた食器を彼女に押し付けるようにしてみた。もしやこいつは単に世話を焼きたいのかもしれない。洗い物も自分に任せろ、といったあたりだろう。
しかし彼女の困り眉は更に鋭角的な角度へと変化し、オレは場違いな行動をしてしまったのだとすぐに悟った。仕方なくオレは深く肩を竦め、彼女に降参のアピールを示す。
「…………名前」
名前だと?
「名前、あなたの。まだ聞いてない」
ああ、そういうことか。こういう時、普通は名乗り返すものだったなと思い至る。だが、その前にまずは、こいつを片づけさせてくれとオレは食器を交互に見た。だがハナは、一瞬唇を強く引き結んだかと思うとオレの両手から食器をもぎ取り、さっと流し台の方へ消えてしまった。
……読めない奴だな。ひとまずオレは彼女を見送ると、それから適当なメモ用紙とペンを見つけて、現状での「自分の名前」に該当する文字列を感慨もなく記入した。
ハナがリビングに戻ってくると、オレはメモ用紙をただ指さした。彼女はすぐに用紙を持ち上げ、そこに記された文字を食い入るように見つめる。その小さな唇が、音もなく何かの言葉の形を成すのがわかった。
「……ナナキ。それが、あなたの名前?」
『ああ、そうだ。この街に来た時に作った、仮のものだがな』
「それなら、あなたの本当の名前は?」
『さあな。もう、わからない』
わからないし、きっとこれから知ることもないだろう。全て、あの日、あの地獄の中で消えた。別に、知りたいとも思わない。失くした過去など、今のオレには何の意味もないのだから。
「……わたしを殺さないでくれて、ありがとう。ナナキ」
改まって、ハナはそう告げた。オレは気にするなと手を振って答える。多少、ようやくだが彼女が打ち解けてくれたように感じる。共同生活を始めて一週間が経過したところで、ようやく互いの名前を知るということが、既に遅々たる有様ではあったが。
時計を確認し、オレは席を立った。身支度を整え、いつものシャツを着用し、そしてお決まりの赤いタイを首に巻くと紺色のジャケットを着込む。
『出てくる。誰が来ても扉は開けるな』
少女が頷くのを見て、オレは足早に玄関口へ向かった。
玄関扉の横に設置された郵便受けの中を確認する。いつもは空だが、今回はそこに異物が存在している。羽だ。血のように真っ赤に染め上げられた、鳥の羽毛が一つだけ、そこにはあった。
――仕事の招集だ。
オレは
羽毛を握り締め、上着のポケットに突っ込む。それから懐より奇妙な装飾の施された首輪を取り出し、傷跡を覆い隠すように頸部へ装着した。
喉に刻まれた傷が痛む。燃える様にひりつき、息苦しくて仕方がない。お前は今、どこにいるんだと――あの男に抱く、癒えることなく全身にへばりついた恩讐が、オレの全てを形作っていた。
殺すべし、カイン=ヴァンジャンス。
つまるところ、その殺意こそがオレの愛した全ての世界であったのだ。
無香消臭剤はいいぞ