クラヴァーには、「キャッスル」と呼ばれるカリスの住居を兼ね合いとする拠点の置かれた中心区を起点に、東西南北全方位へ広がるように複数の区域が点在する。まず中心区に隣接した第一等より第四等区、更にその四区画に隣接する第五から八等区までに至る計九つの区域だ。
その中で、クラヴァーより最北東部に位置する第八等区は、クラヴァ―の人間から本来の数え名ではなく「最下等区」と呼ばれるようになってから随分と久しい。元々は正常に八等区として機能するはずだったのだが、発展途中に「魔物」の侵入被害に悩まされ続け、いつしか建造物のほとんどが打ち捨てられたままとなり、他の全区画より流れ着いた塵芥の中を選りすぐった最低辺以下の連中たちが勝手に住みつく結果を招いてしまう。彼らは独自の生活水準を区内で構築し、いつからか八等区は最下等区とその名を変えたのだ。
そういった波乱に満ちた沿革のために、ここは混沌たるクラヴァーの中でも最たる異常例として常軌を逸した光景を日夜繰り広げていた。まず昔日の名残から、自然繁殖した魔物が跋扈し、最下等区の住民たちは自衛、あるいは単に趣味趣向の一環としてそれらを討伐し続けているし、彼ら住民たちも一人残らずクラヴァ―の基準である弱肉強食を色濃く反映した修羅であるためか、無軌道な略奪、及び抵抗による争いは茶飯事だ。まだどうにか正常な都市として機能しているクラヴァーの他区画に比べて、ここはクラヴァーの持つ凄惨無常たる本質そのものが完璧に曝け出された場所とも言えた。
最下等区の周縁部には日常的に封鎖網が敷かれ、魔物や荒んだ暴徒の流出を防いでいる。一時期は区画全体の「駆除計画」が持ち上がったこともあるらしいが、当然のようにカリスによって潰されていた。何故なのか。それは、きっとそのままにしておいた方が面白いから。などといったふざけた理由のためだろう。
オレたちは封鎖網を通過し、最下等区の大通りにあたる幅広の道を横並びになって歩いていた。時刻は深夜。空には月とアイフォシオが浮かび上がり、あたりは月明りを除いて照明の一つもない深淵に包まれている。
ひび割れた街道は舗装されてからの老朽が著しく、それは周囲へまばらに立ち並ぶ高層建築様式も同様だ。大小の差異はあれど傾斜が目立ち、今すぐにでも倒壊してしまいそうな廃墟同然だった。全て修繕する者なのいないのだから、必然の荒廃であることは明確だ。
大通りを外れればすぐに露出した赤土が砂漠の如く広がっており、名状しがたい形状をした小型の魔物がそこかしこを這いまわっている。区内に入り込んでしばらく歩いたが、誰の者とも知れぬ死体へ五度遭遇し、その内の三つはほとんど原型を保ってすらいなかった。
「相変わらずここは度を超えて壊れているな。別世界にいるようだ」
セーヴィルが些か当惑したような呟きを漏らした。これに関しては、さしものオレも完全同意を示さざるをえない。奴やクルーガー、そしてオレも最下等区に足を運ぶのはこれが初めてではなかったが、何度見てもこの区域の退廃ぶりは目に新しく映る。
「ってか歩くの疲れたあ。道とかガタガタだし足痛くなっちゃう」
「第一、君はなぜヒールを履いている。こうなることは足りない頭でも少し考えてみれば分かることだろう」
不平をたれるクルーガーにセーヴィルは辛辣だ。別に二人の仲は険悪というわけではないのだが、無邪気に振る舞うクルーガーには当然協調性の欠片も望めず、まとめ役として奔走するセーヴィルにとっては問題児以外の何でもない。奴からすれば、手のかかる弟といったところか。
それよりもオレは、ネッドの様子が気になった。この魔境に踏み入ってからというもの極端に口数を失くし、今も神妙さを極めたような表情だ。強張り、緊張しているのが目に見える。
『ネッド。そウ固まルコトはナイですよ』
奴は驚いたようにぱっとオレの顔を見ると、それから気まずそうにこめかみを摘まんだ。
「すみません、先輩。……第八等区へ来るのは初めてなので、ちょっと落ち着かないんです。それに、久しぶりの大仕事でもあるし」
普段、オレたちサイレント・ラウンジの人間は集団で仕事をこなすことはない。組むとしてもツー・マンセルが最高だろう。一人一人が、誇張抜きに人の域から逸脱しつつある能力を有した魔人の集まりなのだ。大抵の仕事であれば、個人で全く事足りる。
今回組まされた四人は深い顔なじみであったが、ラウンジ内でも上位に位置する相当の実力者であるという共通点もあった。故にペインキラーの首魁。アインハルト=クライシーゲル殺害の任がどれほど確実性を期待されているのか、また容易ならざる仕事なのかが伺える。
『いツモどおりに動ケバよいでショう。大丈夫です』
「は、はい。ありがとうございますナナキ先輩」
自分自身の発言に笑ってしまいそうになった。仕事仲間がミスを起こすとオレにまでツケが回ってくるため、ネッドに釘を刺しておこうと思っただけだが、これでは真実奴を気遣っているだけみたいだ。かといって、全く気遣う気持ちがなかったというもの嘘にはなるが、そこまで誰かに親身になれるほどオレは人間的じゃあない。
忌々しいこの「首輪」はオレがカリスの下で働くようになってから与えられたものだ。東の、ルンゲル大陸で製造されたものらしく、まだ試作品のようで勝手な「言動補正」を主とし融通が利かない機能面が多々ある。
かつて喉を引き裂かれた時から別段、声を出せないということに不便は感じていなかったのだが、それでも直接的な発声を行えて損をすることもないだろう。満足してはいないものの、重宝してはいた。
「ナナキもネッドの前じゃいい兄貴分だね」
基本的にセーヴィルは、いつもからかうような声音でオレと接する。やにさがった顔には、悪質ではないにしろ性悪な色が浮かんでいた。
「てかあ、ネッドも懐きすぎじゃん? おれの方が付き合い長いのにさあ」
「君に人望などあるわけないだろう。あるとすれば、少々特殊な性癖の持ち主にくらいじゃないか?」
「うわあ、まーじ傷つくしそれ。ヴィーちゃんほんっと口悪いよねえ。だーから女の子にいっつもぶっ叩かれるんだよ。ってか最近やってるその気取った感じなに? パパの真似? 正直ぜんぜん似合わないんだけど。てか馬鹿みたいだしい――」
「ああうるせえ。てめえはもう黙ってろ」
突如、粗野な口調に変じたセーヴィルがクルーガーの肩を抱く。
「ちょ、暑苦しいしぃ」
「ネッド。いいか、こいつみてえにはなるんじゃねえぞ。殺しと顔くらいしか取り柄のねえやつなんざ、この街以外でやっていけねえんだからな」
「そーお? 今どき、荒事専門の仕事なんかどこにでもあんじゃない」
「アホ、殺戮狂のてめえはそれでいいだろうがよ。ネッドみてえな奴はそうもいかねえだろうが」
「あはは……大丈夫だよヴィル兄さん。僕は、ここで父さんたちのために働き続けるつもりだから」
朗らかだが、どこか乾いたような笑顔をネッドは浮かべる。奴は、本当は人殺しなどはしたくないのだ。オレやクルーガー、それにセーヴィル。他のラウンジの面々とはわけが違う。今でこそ仕事と割り切ることができているが、初仕事の際には大層手間取ったことも知っていた。
どうしたって、ネッドは根が優しすぎる。この都にあって、稀有な神経の持ち主である。こと殺しのセンスや実力は間違いなく本物であるのだが、自らの理想と現実が食い違うことなどこの世界では珍しくもない。ネッドとセーヴィルは互いに幼い頃からカリスの下で育ったために、その絆は実兄弟同然だ。セーヴィルが気に掛けるのも当然と思えた。
それからしばらくオレたちは移動を続けた。ペインキラーの人間に気取られぬよう徐々に大通りを外れながら進み続けていたために、何度か暗がりから「敵意」めいたものを向けられた感覚を味わったが、オレたち四人の纏うただならぬ風格を敏感に察知したのか、ついぞ襲撃を受けるようなことはなかった。おかげで足止めを喰らうことなく、極めてスムーズに現地へ到着する。
――事前説明を受けた時に、ソレは「宿場」であると聞き及んだのが、どのように見ても朽ち果てた館にしか見えなかった。とても真っ当に機能しているとは思えない。そも、このように荒れ果てた世界で宿など利用者がいるのだろうか。クラヴァ―への旅人もよほどの愚者でなけれ最下等区に来るはずがない。
「――ヴィル兄、あれが?」
「間違いない。あそこに“騎士殿”が隠れているんだとよ」
その「宿場」は極めて入り組んだ地点に存在した。最下等区に立ち並ぶ廃墟群を抜けた奥の奥に、ひっそりと佇むように建立されている。クラヴァーの建物にしては四階建てとおとなしめであったが、中央の玄関口を境に、全ての階層の左右にずらりと敷き詰められた窓の数が客室の多さを物語っている。それらに、まばらと明かりが灯されているのが見えた。
(あのどれかに居るのだろう)
内心でひとりごちながら、オレは標的の素性へ思いを巡らせた。アインハルト=クライシーゲルは、数年前にこの街へ流れ着いた元ボルシス王都上級騎士という肩書を持った男であり、およそこの街には到底似つかわしくない強靭な精神性と確然たる実力を兼ね備えた正義漢であった。
クラヴァーにやってきたアインハルトは当然、街の惨状に義憤の念を抱いた。そして、カリスの統治下である悪辣の都にて、誰もが思いつこうとはしなかったことを始めてしまう。つまり、この街を覆う残虐無道の理への叛逆だ。疑いようもない愚か者であるが、弱き民衆へそのような愚かな理想を、あるいは叶えられてしまうのかもしれないと錯覚を抱かせる程度には、奴は傑物だった。証拠に寄る辺のない者や、アインハルトと同じ志を持ちながらこれまで行動に移れなかった者たち次々と奴に賛同し、「ペインキラー」という抵抗組織が結成された。そのカリスマは実に見事だが、所詮は寄せ集めの集団だ。決定的な打撃を支配階級に与える機会を掴めぬまま、いじらしく活動を続けていたのだろう。
だが、それも今日で終わりだ。
「あの宿には、“騎士殿”以外にも大量のペインキラーどもが居ついているだろうことは間違いねえ。まあ多分、もしかしたら、ほんのちょっとばかし一般人もいるかもしれねえが――それを前提にして聞くぜ。つまらねえし面倒くせぇ方と面白くて手っ取り早い方、お前らはどっちよ?」
「面白い方!」
問いに一も二もなくクルーガーが諸手を上げ、ネッドは渋々といった様子で奴に賛同の意を示した。最後にセーヴィルはにんまりとした顔を浮かべながらオレを凝視する。
――後者で構わん。目線のみで返答した。
セーヴィルの顔が精悍さを増し、鋭い獣の如き様相を見せた。飄々としていた姿が鳴りを潜める。楽し気に微笑を浮かべてはいるが、その眼からは人間的な温もりが完全に抜け落ちていた。
「それでは決まりだ――クルーガー。君に言っても無駄だろうが、関係のない人間の殺傷は、“なるべく”控えるように」
「あいあい。“なるべく”気を付けるねえ」
「ネッド。お前の心配はしていないよ、頑張りなさい」
「任せてよ――ヴィル兄さん」
「ナナキ、君は常と変わらず、やり過ぎてしまうくらいがちょうどいい」
――言われずとも、だ。
セーヴィルを先頭に足並みを合わせ、オレたちはごく自然に堂々と、宿の正面玄関の扉を勢いよく開け放ち、真っ向から館内へと参上を果たした。
オレたちの来訪と同時に、受付に座っていた身なりの汚い中年が飛び起きた。エントランスはそれなりの広さだが、受付係以外の人間は一人とて見当たらない。
「騒がせてすまないが、こちらは客だ。対応を願うね」
穏やかな声音でセーヴィルが受付係に声をかける。中年の男は面食らった様子だったが、徐々に卑屈な笑みを滲ませ、再び椅子にゆっくりと座り直した。不自然に右手だけが受付台の下に隠れている。
「いやあ、旦那。すまんですが、今夜は満室なんですよ」
「ほう。このようなところでも繁盛しているのか。それは結構なことだ」
「ええ、ええ。おかげさまで――」
受付係の腕が弾かれたように動いた。瞬間、轟音が空を震わせ、鼓膜をつんざき、強烈な硝煙の香りが撒き散らされる。瞬きをする間もなく、受付係の持ち上げかかった右腕は肘から先が消し飛ばされていた。
再度の轟音が鳴り響き、声を上げる暇すら与えられぬまま受付係の頭部であった箇所は空白と化し、衝撃で背後の壁にべしゃりと叩きつけられた奴の胴体はただの肉塊と変じた。
「見てごらんナナキ。ネッドを心配する必要なんかなかっただろう?」
果たして、ネッドの両手には気が付かぬ間に魔法の如く出現した黒と白の大型リボルバーが握られていた。長大かつ尋常ではない重厚感を誇る縦長の銃身には、上部に特製と思しき三つの孔を設けた放熱板が走り、銃口付近には八つからなる特殊チャンバーが設けられている。シリンダー部位に関しては前後からなる二点保持が徹底されており、これらの周到たる反動抑制に重視した特別仕様は、奴の構える回転式拳銃がいかに怪物的な破壊力を内包した代物であるかを明確に物語っていた。
「アウトレイジ」と呼ばれるその大型リボルバーは、元々ルンゲル帝国により開発された銃器であり、東大陸からクラヴァーに仕入れられた内の二つをカリスが直々にネッドへ進呈したものだ。
ネッド自身の手によって精妙かつ丹念な改造を施されており、使用されているレイジスペシャルと名付けられた特殊な五十口径弾は直撃した人体を粉々に引き裂き、分厚い鉄板を何枚も貫通する破滅的な威力を持つ。並みの人間が軽々しくアウトレイジの引き金を絞れば反動で腕部を骨折しかねない暴力の塊なのだが、それをネッドは反動を抑制するチューニングを施した上で十全に――しかも二丁同時に――使いこなしていた。驚異的と言わざるを得ない。
「ディスクを取り出すのが見えたんだ」
ネッドの声からいつもの明るさが失われていた。低く、重く、疎まし気だ。
「ああ、お前は正しいことをした。何も恥じることはないよ」
セーヴィルがネッドの肩に手を置いた。奴は短く息を吐きだすと、アウトレイジをホルスターにしまい込む。
「ちぇ。ネッドに先越されちゃったあ」
「安心しろ。ここはどうせ、すぐに大いに荒れる」
それは間違いないだろう。今の騒ぎに引き寄せられたのか。けたたましい雑踏の音が、強い敵意を伴ってエントランスに接近する気配を察知する。受付係すら、ネッドの速射がなければ間違いなくオレたちに何らかの式術を放っていたはずだ。オレにも奴が赤く発光する円盤状の物体を取り出すのが見えていた。となれば、最早この宿に存在する全ての人間はペインキラーの勢力であると断じた方が早い。通りで最下等区に宿場などと奇妙な話があったものだ。この建物は連中の拠点そのものなのだ。
「あくまで目標は、アインハルト=クライシーゲルだ。遊ぶ暇はない。木っ端を払いつつ奴を探せ。クルーガー、君は一階。ネッドは二階、そして私は三階を当たる。最上階は、ナナキ。君に任せよう。それぞれ左右から分かれて進め」
セーヴィルが言い終えるより先に、既にオレは走り出していた。受付台から右に曲がり、エントランスを出て長い通路を疾駆する。階段はこの突き当りにあるようだった。
「ちょ、ナナきゅん抜け駆け禁止い」
クルーガーの声が背後より被せられたが、頓着してる暇などない。
眼前に十数人の男女が立ち塞がっている姿が見えた。皆、身なりに統一性があるわけではなかったが、一人残らず決死の表情を湛えており、現れたオレたちの姿を認め動きを止めると武器を構えた。
奴らを前に、オレは走る速度を僅かにも緩めず両の手を脱力させ地面を滑るようにして、次の瞬間には連中の中心へ飛び込んでいた。面食らったように、連中の動きが凝固する。錬度も何もない。気持ちだけの先行した雑魚だ。
故、ならば、此処に絶死の暴威が炸裂する。
弧を描き、――風が唸った。
その一連をあえて説明するのであれば、ただその一文だけで事足りた。
瞬間、数人の胴体が横一文字に引き裂かれた。決して綺麗に両断されたわけではない。筋肉繊維の引き千切れる乱暴なぶちぶちとした音がけたたましく鳴り響き、骨は粉砕し臓物と夥しい量の血液が飛び散った。明らかな過剰暴力。風の唸りが止む頃には、人間であったはずの肉塊がそこかしこに散らばるのみとなっていた。
「ああ出た出た。ナナきゅんのそれえ」
半ば陶酔したようなクルーガーの声が響く。オレにより惨殺せしめられた四人以外の連中は、みな目を見開いて、ただ息を飲んでいた。
――絶人葬。
その内の誰かが、呆けたように呟いた単語は――オレにとって最も忌まわしい、されどこの身へ確かに植え付けられた無惨極まる人体破壊の法であった。
奴らの視線は全て、オレの両の腕に集中していた。正しくは、そこにいつの間にか現出していた黒鉄の籠手にだろう。鋭角的な形状のソレは直視するだけで肌を切り裂かれるであろう様を幻視してしまうほどに凶悪な印象を含んでいる。これが、これこそがオレの「力」であり、そしてオレの生涯を永遠に定めた呪いの具現でもあったのだ。
慄き、怯えた様子の連中に構うことなく、オレは再度疾走を開始した。行く手の邪魔になる者は腕の一振りで惨殺体と化すのみだ。
「おーらい。後はおれに任せなねえ」
酷薄な、しかし妖艶さすら感じさせる笑みがクルーガーの面貌に広がった。奴は腰元に着けていた物体を手に取ると勢いよく回転させる。それにより複雑な変形機構が織り成す動作によって、真紅のラインが入り乱れた模様の際立つ「大鎌」が展開された
オレを相手取るよりも先にクルーガーの足を止めた方がいいと判断したのか、残ったペインキラーの戦士たちは奴に殺到する。
「あは」
クルーガーの体が宙を舞った。さながら演舞だ。身の丈以上もある巨大な鎌を手足のように扱い、流麗かつ驚異的な速度を以て寸分の違いなくペインキラーたちの首を刈り取っている。変則的な軌道を走るクルーガーの鎌は振るわれる度に構造上、正面でも側面からでもなく、背面。常にうなじを目掛けて飛来する。しかし超速で死角から迫る刃に対応できるほどの力量を、下っ端でしかない奴らが持ち合わせていようはずもなかった。
奴はあの得物の扱いにはかなり精通していたが、より目を引くのはその驚異的な身のこなしだ。クルーガーという人間はまず、決して鍛えられているような人間ではない。線の細い印象に違わず、秘めた剛力を有してもいないのだ。にも関わらず、奴はあの巨大な鎌を軽々と操作し、そして空を舞い踊り死を振りまいている。その光景には非現実的さすら感じられた。だがそこには確かな秘密があり、それは奴の振るう大鎌そのものにあった。
しかし奴の大鎌の正体を知る前に、まずはこの世界に遍在する呪力などを主とした神秘について深く紐解いていかねばならなかった。式術と呪術、どちらもマナを使用している点は同一だが、それらの力は更に五つの属性値により細分化することができるのだ。
赤、青、黄、白、黒――五つの色からなる力。マナを形作る五大元素。人は、これら根源的な概念を指して「五色」と総称した。呪術や式術などに用いられるマナは、五色の力を「ヒト」が扱えるように呪力へと濾過した代物であると言い伝えられている。
通常、五色そのものを人間が直接扱うことはできないとされているが、ガライン=メナには神代の時代より伝わる、五色の力を完全に内包した遺物が存在することは有名であった。つまりは、存在そのものがマナの結晶であり、手にすれば絶大な力を得るとされている伝説の武器。それが、「五色剣」と呼ばれる各色に対応した魔法剣の存在であった。
彼の魔法剣は担い手を選定すると聞く。現時点で、確認の取れている剣は東のルンゲル帝国において管理下にある赤、黄、白の三本だけであるという話だが、事実その三色を手にした三騎士と呼ばれる者たちは、戦場において常勝無敗、魔人めいた力を発揮しているとクラヴァーにも知れ渡っていた。
故にまた、五色の力を模倣した、あるいは代替足り得る兵器の製造計画が立ち上がるのも無理からぬ話であったのだ。五色剣は手にするだけで身体能力が向上し、呪術などとは似て非なる法である五色に由来する力「色術」の発動を可能とするなど、様々な恩恵を得られる。だがその原理を含めた五色という概念そのものは完全にロストテクノロジーであることが明確であった。
ルンゲル帝国主導の元に進められていた計画の果てに誕生した兵器。当初に思い描いていたスペックには到底及ばない、されど別個の兵器と見れば確かに有用性はあった量産物。それが「失色」――ただ使うだけで、身体能力や呪力の向上などが望め、使用者は単純に「強く」なる。形状は多種多様で、目立つデメリットも無し。固有能力を獲得するものでもないし、強化の度合いも五色剣所有者に比べれば遥かに劣るため、確かに五色の代替としてはお粗末に思えるかもしれないが、それでも失色は一兵器としては極めて高い汎用性を誇ってた。
クルーガーの振るうあの大鎌こそ、正しくその失色であったのだ。しかし、失色はルンゲル帝国に完全管理されているため、本来は奴が手に入れられるような物品ではないはずだったが――やはりクラヴァーに流れ込む品々の中には、ごくまれに特級の逸品が紛れることもある。珍しいことだが、ない話ではない。それに奴の手元に渡った理由としては、ネッドがアウトレイジをカリスにより贈与された時と大した変わりはない。
「あーいけないなあ。ひと思いにやっちゃった。もう少し遊ぼうと思ったのに」
クルーガーには異様な加虐趣味があったが、それでも荒事に際しては強力な戦力として役立つことは確かでもある。そんな奴に失色のようなものを渡せば鬼に金棒というものだ。この程度の雑兵が何人束になろうとも、奴を止めることはできないだろう。それはネッドやセーヴィルに関しても同じことだった。
故にオレは、自らの役割を果たすだけだ。目指すは最上階。時間を長くかけるほどに逃げられてしまう可能性が高くなる。電撃的な速度でことに当たらなければならない。
一階に押し寄せたペインキラーの構成員はほとんどクルーガーが引き付けている。オレにとっては何人立ち塞がろうと障害にすらなり得ないだろうが、面倒を省けるのであればそれに越したことはない。構うことなくオレは四階層目へと一気に階段を上り詰めた。道中の階層でも既に騒ぎは巻き起こっており、ネッドやセーヴィルも自らの仕事を滞りなく開始しているのだと察せる。
最上階に上り詰めた瞬間、すぐに違和を感知した。誰も通路に出ていない。規模は知らないが、恐らくは全階層に渡りペインキラーの構成員が配置されているはずだ。しかし、襲撃を警戒していたのであれば、最も逃亡に手間をかけるであろう最上階にアインハルトを置くことは愚策に思えた。あえて警備を均等にする必要があるとすれば、それはブラフとして機能させるためか。
しかしこれでは、読みを外したか。――いや、そうではないな。
事実、誰も廊下に出ていないだけなのだ。通路に面した各扉の向こうに息づく無数の気配をオレの研ぎ澄まされた第六感が察知した。数は二桁に届くほど。狙いは奇襲、それのみだろう。愚かな浅知恵だ。それと同時に、判別した連中の配置から、ある規則性を見出す。どうやら、特定の部屋を守ろうとしている。
罠の可能性もあるだろうが、罠であろうと構わない。既に奴らとの力量差は明確に定められた。どのような手段を講じようと、これよりオレが後れを取ることは一切ありえなかった。
煽るようにオレは、わざと小走りに速度を緩めて廊下を進んだ。奴らが完璧な形で奇襲を仕掛けられるように、目に見える隙を作り出してやる。
一つ目の扉に差し掛かった。扉が蹴り破られ、一人の男が大上段に粗悪な作りの長剣を振りかぶりながら突進を仕掛けてくる。だが、遅い。遅すぎるのだ。
呼吸一つ。繰り出した貫き手が男の心臓部意を弾丸の如く打ち抜いた。実際に奴の胸板には握り拳ほどの穴が空き、突撃姿勢のまま絶命して対面の壁に激突する。何たる始末、これでは欠伸をすら漏らしかねないほどに退屈な順当だ。
駄目だな。話にならん。最早、これが仕事であることを抜きにしてもオレは飽き始めてしまっている。こいつらの内の何人が、果たしてアインハルトと同等の志を抱いているというのか。それは知らんし、興味もない。故に奴らの活動を嘲笑うこともない。ただ一つの信念のために生きようとする様は、等しく眩くあるべきだとさえ思う。
だが、それでも現実は無情であるから。どれだけ高い志を掲げても、当人に実力が伴っていないのであれば全ては無意味だ。今の男のように、あっけなくその生涯を終えることになる。
全ては、弱さが悪いのだ。敗者が悪で、勝者が正義だ。故にオレは強い。驕りでも何でもなく、それがこの場における真実だ。経た場数が違う。突き詰めた理想の質が違う。ただ強く在ることこそが、このオレの存在理由でしかないのだから。このような雑兵に後れを取ることは許されない。あってはならないことなのだ。
これだけ手応えのない相手に拳を使っても、逆に感覚が鈍ってしまう。そう思えるほど、オレと奴らの力量差には隔絶的な開きがあった。
その後、懲りずに不意打ちを狙った一切を、わざわざ詳細に説明するほどのほどの起伏もなく順当に、ただの一手で殺害し尽くし、オレは悠々と目的の一室、その扉の前へと辿り着くことができた。オレの通った後には夥しい数の死体が散乱し、通路には鮮血がそこかしこにべったりと張り付き、凄惨たる様相を呈している。
ここだ。この部屋だけが妙だ。右隣や左隣、向かいの部屋にすらペインキラーの連中が潜んでいたにも関わらず、ここからは何の気配も感じ取れない。不自然に空白なのだ。しかしこれだけの騒ぎの中、些かの変化も見られないということは、疑う余地すらなくただの空室であるのかもしれない。だが、当然素直にその通りだとも断じられない違和をオレは抱いていた。
先程まで館全体を震わせていた咆声が随分と小さくなりつつある。下の階で巻き起こっている虐殺も大詰めだろう。ここで立ち止まっている場合ではなかった。いずれにせよ、入ってしまえば分かることだ。
確かな緊張の糸を張り巡らし、オレは扉を蹴破ると、室内へ足を踏み入れた。
通路からの照明光が室内に差し込むのみで、部屋は漆黒の闇に閉ざされていた。窓も遮光幕が締め切られて、月明りすら及ばない。だが、暗闇の中だからといって行動に支障が出ることはない。式術などを用いて夜目が利くようにすることは可能だが、そんなことをせずとも部屋の間取りや隠れ潜む何者かの気配すらも容易に把握できる。そのように、鍛えられているのだから
決して広くはないワンルームだ。家具は寝台と、収納棚の一つ程度。隠れ潜む余地すらない、極めて限られた空間だ。そして何者の気配も姿もまた、そこには見当たらなかった。
否。
呼吸が、止まる。同時に突き抜けた驚愕が、オレの胸を激しく打った。ああ、本当に、驚いた。これは中々に久しい感情の起伏である。油断はなかった。警戒は怠らなかった。だのに、まさかこれほど無様な体を晒すことになろうとは。
――背後を、取られた。
空を切る風切り音。反射的に肢体が動き、オレの体は空を舞っていた。
追随する気配。驚くべきことに、このオレですら一切の殺気を感じ取ることができなかった。すぐさま他のペインキラーとは二つも三つも次元を違えた妙手であるとわかる。間違いなく、これまでのように容易く済むような相手ではなかった。
微かに蠢く影に目掛け、オレは懐から取り出した短刀を三本続けざまに投擲した。的中するとは思っていない。これは牽制だ。次に、特殊な呼吸を行うことで右腕に「呪力」を集中させる。
『――――ッ』
一息の元に、着地するや否や床板に向けて握り拳を振り下ろした。激しい鳴動と共に床は粉砕し、真下に存在する三階の一部屋が露わになる。オレは迷うことなくそこへ飛び下りながら、同時に飴玉ほどの大きさの赤い球体を頭上へ放り投げた。これは炎を司る「赤」の属性からなる呪力を内包した爆発物の一種であり、先程の短刀と併せてオレは仕事の際に必ず常備していた。クルーガーやネッドなどは、数枚のディスクをいつも持ち歩いているようだったが、オレにはそういったモノは必要なかった。
爆音と眩い閃光が炸裂する。両目を腕で庇いながら三階の部屋に飛び降りたオレは体勢を整え、自らの飛び込んだ穴を見上げながら襲撃に構えた。しかし、襲撃者の姿が見えることはない。
脈絡もなく窓ガラスが爆砕し、凍てついた夜風と月明りを纏いながら「影」が室内に侵入を果たした。瞬間的な意識は全て穴へと向けていたため、致命的に反応が遅れてしまう。
月明りを帯びて、銀色の光が煌くのが見える。それは一直線にオレ目掛けて迫りつつあった。オレは辛うじて床を蹴り、そうして心臓部へ黒鉄の籠手に包んだ両腕をかざしながら背後へと大きく跳ねる。
金属音が鳴り響き、次の瞬間にオレの胸元へ「影」が飛び込んでいた。しかし、こいつがオレの狙い通りの場所――すなわち急所へとその短剣を容赦なく突き立てようとしたことが功を成し、あらかじめその場所へと据え置いていた籠手に接触した刃は、根元から完全に折れて宙に弧を描きながら飛んでいく。それでも、「影」と衝突した勢いを殺し切ることはできない。オレと奴は諸共に背後の扉をぶち破り、三階廊下へと転がり出た。
「――ナナキ?」
廊下に出たところで、少し離れたところに立っていたセーヴィルと目が合った。奴の周囲には死体が転がっていたが、オレと「影」を挟んだ向かい側には、突如現れたオレたちに目を丸くした数人のペインキラーが立ち尽くしていた。どうやら、ちょうどセーヴィルと奴らの拮抗した狭間に出くわしてしまったらしい。
すぐに上にのしかかった「影」を蹴り飛ばそうと右足を振るったが、奴はそれよりも早くするりとオレの上から飛び退くと、ペインキラーの側に立った。オレも立ち上がり、セーヴィルの傍らに移動した。そこでようやく、明かりの元に照らされた奴の正体が確かなものとなる。
真っ先に目を引いたのは、奴の右腕に煌々と光を浴びて輝く黒鉄の義手であった。奇しくも、オレの両腕に纏う漆黒の籠手と似通っているように見えた。そうして次に、奴の頭髪もまた深い紺色の毛先がオレと同じく脱色されたように透明となっているのを認める。だがその中で、こちらから見て左側の前髪にだけは鮮やかな赤いメッシュが刻まれていた。アレは恐らく白髪部分とは違い、奴の先天的な地毛なのだろう。
手には刃の折れた短剣を持っていたが、奴はそれを放り捨てると無刀のまま動きを静止させる。奴の腰元には独特の形状を持った刀――アキヅ刀と呼ばれる代物だろう――が差し込まれており、あれこそが奴の本来の得物であるのだと推測する。確かに、先ほどの狭い室内ではあの刀を使えば取り回しに手間取るであろうことは明白だ。
『――――』
と、何故だか――奴の顔面に、オレの視線は釘付けとなった。
額から頬にかけて、白濁した左目を跨ぎ一直線に走る大きな傷跡。あの目は恐らくほとんど見えてはいないのだろう。だがそれでも、残された燃える赤の右目には、鋼鉄を思わせる強く眩い光を灯していた。その光に、オレの眼は縫い付けられているのか。いいや、違う。そうではない。
そうでは、ない。――ないのだが、なんだ。原因がわからない。どうしてオレは今、阿呆のように奴の顔を見つめ続けている。どうして奴から目を逸らせない。
これは、ああ。これは、まさか。
まさかだろう、それは。
「傭兵――“卿”は逃げ果せたか?」
ペインキラーの一人が、義手の剣士に対し何事かを囁いた。奴はこちらを凝視したまま浅く頷いただけだったが、その反応にペインキラーの連中は揃って安堵したような表情を浮かべている。
「――しくったな。くそ」
背後でセーヴィルが毒づく。奴らの言わんとしていることは当然理解できた。これは恐らく陽動。オレたちの大本命であったアインハルトは既にこの場を脱したと、奴らの態度を見ればそう考えるしかない。
『セーヴィル。ネッドたチとアインハルトを追っテください』
オレは振り向くことなくそう告げた。
「お前は、どうする」
『この方々ヲ片づけテおきマシょう。特にあの義手の方は、生かシておけば後二響くカモしれまセんノで』
「――わかった。任せる」
判断は一瞬であった。セーヴィルはすぐにその場から風のように去る。文字通り口に出すことはないが、これもまた奴のオレに対する信頼の表れであるのかもしれない。
ペインキラーの構成員たちが一斉に身じろぎをして、そのまま全身を強張らせる様が見える。奴らからすれば、セーヴィルの後を追いたいところなのだろうが、オレにこうして睨まれている以上、下手に動けば死ぬということは理解できているらしいい。
『構いマセんよ。行きナサい』
しかしオレは、わざわざ声に出してまで奴らに呼び掛ける。一瞬、驚愕したように連中は揃ってオレの顔を凝視したが、やがて小走りになりながらオレの横を通り過ぎていく。その間、オレは義手の剣士から目を離すことはない。ペインキラーの一人が剣士を見やったが、奴はただ黙したまま首を振るのみで、ペインキラーもそれ以上奴に構うことはなかった。
どの道、奴ら程度がセーヴィルたちに追いすがったところで何にもならんだろう。すぐに殺されるだけだ。足止めにもならない。故に、オレが真実ここで相手にするべきは――とある私情も介在しての判断だったが――間違いなくこの義手の剣士であるのだと断定している。
こいつは、強い。先ほどの短くも激しい手合わせで十分にそれは分かった。並みの男ではない。確かな経験に裏打ちされた熟達の技量を持つ、紛うことなき強者。ラウンジの人間と同じく、その道に精通した人間であることが確かだ。
ペインキラーの連中は奴を傭兵と呼んでいた。とすれば、連中が新たに組織へと雇い入れた者なのだろうが……。
やはり、引っかかるのだ。こいつの存在が。このような強者と偶然に巡り合えたことで、多少なりとも沸き立つものを感じているだけだと思ったが、それだけではない。妙に引っかかる。こいつの姿が――その、顔が。対面した瞬間からずっと、オレの両眼を捕らえて離さない。
――お前は、一体。
義手の剣士が動いた。その僅かな初動をすら見逃さず、オレは即座に身構え戦闘姿勢を取る。
『……!』
しかし、義手の剣士は突然に体を反転させると、脱兎の如くその場から走り出し、身近にあった一室へと扉を破壊しながら逃げ去っていった。
完全に立ち向かってくるものだと確信していたオレは意表を突かれる形となったが、すぐに我に返ると奴の後を追い部屋に突入した。ふざけた真似をしてくれるものだ。だが確かに、奴からは正々堂々などといった凡そ洗礼された流儀のようなものは感じない。あるとすれば、ただ感慨も何もなく、目的を始末するだけの機械的な殺人機構――まるでオレ自身のような何か。
義手の剣士に奇妙な感慨を抱きながら、オレは奴の後を追う。部屋に入ると同時にガラスの粉砕音が耳朶を打ち、強引に開け放たれた窓から外の景色が見通せた。オレは窓枠に駆け寄ると、剣士の姿を探し眼下に視線を走らせる。
不意に頭上から物音が聞こえ、オレは顔を上げる。そこには器用にも、壁の取っ掛かりを利用し壁面を上り詰めている剣士の姿があった。奴の姿はすぐに屋根の方へと消えていく。唇を引き結びながら、オレも同じように壁を伝い屋根の上へと登る。
寄棟型の屋根である。人二人が立ち、そして十分に動き回れる余地があった。奴は端に居て、現れたオレの姿を感情の読めぬ眼差しで見つめていた。月明りがオレたちを照らし、つかの間の静寂があたりを包んだ。オレの心は、冷えた夜風を受けて穏やかにそよぎつつも、隠しきれぬ緊張と共に未だ鼓動を高鳴らせていた。
間違いない。オレは確信に至っていた。オレは、この男を知っている。その顔を、かつて見かけた感覚がある。そう、記憶ではなく、感覚だ。だからこの男が誰であるのか、どこで知ったのか。その答えに行きつくことはない。知らないはずなのに、知っている。そんな矛盾に満ちた思惟がオレの胸中で渦巻いていた。
「…………」
剣士が腰を落とし、ついに帯びた刀を鞘から引き抜く。流麗な曲線を描くその刃は、筋に沿い独特の模様が刻まれている。まるで武器ではなく、芸術品の一種である様にも思えることが、アキヅ刀の大きな特徴でる。故に、アキヅ刀をそれこそ芸術品として蒐集するコレクターがこの世界には多く存在するようだが、目の前の男はそのようには見えない。
オレも今宵初めて、明確に「構え」と呼べる姿勢を形作る。右手を相手に開いた状態で突き出し、左手を腰元に引き、手のひらを上にした状態で止める。
オレに武器は必要ない。強いて言うならば、この黒鉄の籠手に包まれた両腕。そして両足、あるいは全身そのものが殺戮を形成する凶器そのものだ。この体が覚えた特殊な体術――曰く、絶人葬と名付けたそれは、こと有機物に対し特別の効果を発揮する。
お前の間合いに入ったら死んだも同然。かつてセーヴィルに告げられた言葉だ。事実、肉弾戦において振るわれるオレの戦闘力はサイレント・ラウンジに属する何者をも完全に凌駕していた。このオレと純粋に正面から戦うということは、明確な死を意味している。そう断言できるだけの自負が、オレにはあるのだ。
故に――こうして睨み合う状況は滅多に起きることではなかった。オレが攻めを躊躇している。先んじて動き出そうとする意思が、湧いてこない。湧かせられない。むしろその逆、先に動けばやられるとさえ思ってしまっている。
この男は強い。それはわかる。だからといってこれほど警戒する必要はない。力量は定められた。油断すべき相手ではないとも分かっている。だがそれでも、そうした事実を踏まえた上で、オレならば殺せるはずだという確信があるはずだ。ああ、殺せば死ぬのだ。ならば何も問題ではない。
だのに、この違和感。次の一手に踏み切れない、これは一体なんなのか。
そう、或いは、オレはこの感覚を知っているのかもしれない。けれどそれを認めるということは、同時に、この男が「そう」であると認めることになってしまうから、オレは。
――オレは弱いと、認めてしまうことにもなるのだから。
走った。爪先のみで大地を弾くように、上下の揺れを極限に失くした高速移動。それは傍から見れば走るというより、滑っていると表す方が自然だろう。これもまた、オレの肉体に染み付いた独特の歩法である。
義手の剣士が右足を引き、胴体を右斜めに開くと共に刃の先を背後に向ける。奴の体に阻まれ、背後に構えた刀の身が見えなくなる。見慣れぬ構え方だ。しかし、これは明らかに守りに特化したものであることが感覚的に察せられる。
剣を背後に構えることで間合いをすら曖昧にした上で、左半身を無防備に曝け出す。これに誘われ、奴の間合いへと入ってしまえば、即座に下段からの切り上げが迫る。なるほど奴は、完全にオレを迎撃するつもりのようだ。
面白い。やってみせろ。そうした意図を理解した上で尚且つ、オレの体は止まらない。誘いに乗り、真っ向から突撃を仕掛ける。どの道、ただの斬撃であるのなら、この両腕で叩き伏せるのみだ。どれだけの速度であろうが、事前に斬撃の角度を予測できていれば捉えることはあまりに容易い。
この籠手は通常の道具ではない。生半可な衝撃ではほんの少したりとも歪むことさえないだろう。ならば、これもまたクルーガーの大鎌と同じく失色と呼ばれる兵器なのかと問われれば、すこし違う――そう答えるのみだ。
瞬きをするよりも早く、オレと剣士は月下の元に交差しようとしていた。剣士が動く。それよりも早く、奴の体が動くその前に、オレの右腕は振り上げられていた。
上から下へ、拳の振り下ろし。続けて、見据えていた軌道を違わず走る剣士の太刀。このままいけば、奴の刀へオレの右拳は衝突し、半ばから粉砕するだろう。そうなって然るべきはずだった。
異変。一秒にも満たぬ合間に起こる現象を素早くオレは察知し、思考が電流の如く瞬く。
迫る奴の刀身が、消える。――違う、増える。増えた、だと?
まさか、いいや。まさかソレ、は。
その、剣は。
是なるは必殺の剣技。かつて一度だけ目にしたことがある。忘れるはずがない。あの日、あの男が遣った剣の一つ。今、眼前で巻き起こる現象が、その剣技の起こりそのものと限りなく酷似していて。つまりこれは、これこそが。
『ア――』
逸らした。在りし日の残響を想起して、その時オレは――目を、逸らしてしまったのだ。
よって此処に、我が武技の原型。真なる「絶人葬」が一つ。かつて焦がれ憎悪した至高の再現が、定められた運命を迎え入れるように、然るべくして花開いた。
全方位より殺気の嵐が吹き荒れる。逃げ道を模索――皆無。
一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ。亀のように全身を丸め固めたオレは、肉体の端々をほぼ同時に切り裂いていく都合八つの斬撃からなる激痛に耐え忍ぶしか道はない。
是なるは絶人葬・大蛇。奴を象徴とする魔剣の一つに他ならない。
全身を硬質化。即ち、この両腕を包む黒鉄の装甲を全身に行き渡らせる。それはこの籠手の真なる形態へ近づくことになるが――ここで、見せるべきか。ああ、見せるべきだ。
だってこいつは――こいつこそが。
斬撃嵐が止む頃には、オレは鮮血を放出しながら屋根の上を転がり、そのまま空に投げ出された。眼下に広がる地面が迫り、オレは固い岩盤の上に激突した。だが、地面と接した箇所に現出した黒鉄が、不可思議にも衝撃のすべてを緩和してくれていた。
ぱりぱりという乾いた音を立てながら、顔面にまで黒鉄が侵食するように包まれていくのを感じる。すぐに起き上がり、虚空を見上げる。
見たぞ、大蛇。
屋根の縁に立ち、こちらを見下ろす剣士の姿はまるで陽炎のようだ。風に吹かれれば消えてしまいそうなほどに淡い。されど、その両目だけが、何か鋼鉄の如く瞬いている。随分と、印象が変わったものだ。気づけなかった。気づくことができなかった。だけどもう、問題はない。
『カ――』
震える手で、首輪を外した。奇妙な感覚が背筋を走っている。異様に喉が渇いていた。熱い。体の奥底で、長らく忘れ去っていた興奮の熱が、激しく沸き立ち蠢いている。喉に刻まれた傷跡が、灼熱の疼きを叫んでいた。
「オ――ま、え」
酷く掠れた、空気の抜ける様にも似たか細い声が漏れ出る。加えて無理な発声に凄絶たる激痛が駆け抜けた。けれど、奴にはしっかりこの声が届いているという確信があった。奴はオレを見つめている。オレも奴を見つめている。
「オマ……エ、だ、ろ……う」
ああ、お前だ。お前だお前だお前だ。お前こそがだ。
見つけた。見つけたんだ。ついに、今、ここで。お前を――。
「カ……イ……ン」
その名を口にした瞬間に、僅かに、奴の硬質的な眼差しに、ほんの少しだけ――変化があったような。
「ア、あ、ア、アァァァ――――アア」
そこで初めて、オレは先程からずっと顔に笑顔を湛えていただのと気が付いた。ならばこのしゃがれた叫びのようなものは、もう何年もしたことがない大笑いというやつだろう。大口を開き、口端は吊り上がり、楽しくて、楽しくて仕方がないとオレは笑い笑い笑い続ける。
義手の剣士は、くるりとこちらへ背を向けると、そのまま闇の向こうへ消えていった。待てよ、つれないな。ようやく会えたのに。組織としての仕事をすら忘却し、されど奴の後を追いかけようとする気にすらならないほどの歓喜の渦。どうしようもない。止めようがないほどに、オレは最高の喜悦に全身を振るわせてしまっていた。また会えた。まえた会えたのだ。
お前だお前だお前なんだ。ずっと探していた。ずっと会いたかった。ずっとずっと、お前をこの手で殺してやりたかった。ああ、どうか行かないでくれオレの人生。この世全ての証明よ。お前の存在こそがオレにとっての唯一無二、この生涯に意味を成すただ一つでしかないのだから。
だから、ああ。殺す。オレはお前を殺すんだ。
「カ、イ、ン……ヴァン……ジャ――ス」
カイン=ヴァンジャンス。
「ァ……イン――ヴァン……ジャン、スッ」
感極まり涙を流し、喜びに両腕を広げ、天を仰ぎ闇夜に響く狂笑を叫びながら、限りのない憎悪と終わりのない親愛を込めて、オレは今一度、その名を胸に刻み込んだ。
カイン=ヴァンジャンス。オレはお前と出会いたかった。
どこまでも、どこまでも。蒼褪めたように見える満月だけが、狂喜に震える憐れな狼の姿を見下ろしていた。
例年化ならず