ある擦り切れた断片を掻い摘まもう。或いは記憶であり、或いは夢である。
その男は強く、優しく、彼にとっては理想の兄とも呼べる人物だった。
日々を苦痛に満たされていた彼にとって、その男の存在は希望であった。優しく、和やかで、いつも彼に力強い言葉をかけてくれた。彼はその男によく懐き、そして慕うようになっていた。
大丈夫だよ■■■――諦めては駄目だ。
救われていた。全てを諦めて、死んでいく彼の心はその男のおかげで辛うじて保たれていた。それだけが救いだった。それ以外はいらないと思った。それだけが、その男だけが、彼にとっては愛しき世界の全てですらあったのだ。
強くなりたかった。その男のように。守られているばかりの自分ではない。自分の、自分の力だけで成し得ぬ全てを成せるように。ただただ、強くなりたいと、彼は希ってやまなかった。
――大丈夫。君はきっと強くなる。
その言葉に勇気づけられた。舞い上がった。きっとそうだ。あなたがそう言うのならば間違いない。きっと自分は強くなれる。なってみせる。だから、どうか。あなたに傍で見ていてほしい。きっと強くなって見せるから。自分はもう弱くはないと、他でもないあなたに理解してほしいのだから。
だからどうか、いかないで。
一人にしないで。置いていかないで。
強くなるから。もっともっと、あなたの望むままに強くなるから。
だからどうか、見捨てないで。
何もかも、遥か昔に失せただけのことででしかない。記憶は鮮烈に、けれど癒えぬ呪いとなって、彼の全てを蝕んでいる。
差し伸ばした手は届かない。かつて在ったはずの温もりは、今はもうどこにも感じることはない。後には寂寥たる虚無と絶望のみが影を残した。暗くて空しい、遠くて侘しい。あるいは荒涼たる僻地に相違が無い。
いつからだろう。彼にはもう、そうした原初の思いすら、思い起こされることはなくなってしまっている。ただ救われぬ憎悪だけが、彼を支配し、変えてしまった。
もう、思い出せない。かつての自分が何者であったのかを。
もう、思い出せない。この呪縛の源泉が何であったのかを。
もう、思い出せない。この人生の、一番最初の幕開けを。
けれどもそれだけは、思い出せる。
あの男が、何者であるのかを。
あの男が、自分に何をしたのかを。
あの男と過ごした日々が、どれだけ和やかで平和な一時であったのかを。
それだけは、嘘にしてはならなかったのだ。
――或いはそれは、ただ甘やかなだけの追想であった。
第一章 その夜の邂逅 了
ぼくね、こーんなに