真っ逆さまに落ちている。
俺以外にも何千、何万もの人が理解の追いつかないまま落ちている。
学生服の野郎共や眼鏡をかけたいかにも社会人っぽいオッサン。噂話の好きそうなおばちゃんに……おいおい、あれって俺が昔通ってた幼稚園じゃねーか。
ガキ共と先生が建物ごと落下している。
ボーっと眺めてると、俺の横を誰かが通り過ぎた。
綺麗な女だ。黒の長髪と鷲のような鋭い目つき、他人を見下しているのがすぐにわかる雰囲気をしている。
その女は手の平を上……俺達の方に向け、横に振り払った。
それと同時に黒く発光する玉が女の背後で無数に現れ、四方八方へ散っていく。
これは、なにか不味い。
不味い事態が起きている。わからないが、そんな気がする。
だが、
………………
…………
……
気づけば、林の中に立っていた。
……それで?
それで、俺は……いや、ここは何処だ? どういう事だ。何なんだ、いったい。
…………
「あの……」
その背後からの声に、俺は反射的に距離を取った。前の職業柄、こうした咄嗟の判断で窮地を脱した事が何回かあったせいか、距離を取るのが癖になっている。
早く治さねばなとは思うがしかし、今は目下の問題を解決するべきだ。
そう、この女がまず誰なのかを知らなければ。
「ああ、すいません。驚かれました? 自分の癖みたいなものなんで、気にしないでください。それより、貴方は?」
突然の奇行に目を丸くしていた女に、勤めて優しく接っする。笑顔も添えよう。
なんて模範的な社会人なんだ。
だが、二十歳後半くらいの、同年代に見える年齢の女は俺のパーフェクトな挨拶などもうどうでもいいようで、
おい。そっちから話しかけといて無視とはいい度胸だな。ええ?
と、言いたかったが、結構綺麗な人だから言わないでおこう。
「そっちから話しかけといて無視とはいい度胸だな。ええ?」
言ってしまった。
「え!? す、すいません」
「仕方ない、許してやろう」
我ながらなんて傲慢な奴なんだ俺は。まぁ言ってしまったものはしょうがない。こんな事もあるさ。
前向きに考えよう、前向きに。
「それで、貴方は誰でしょうか。失礼ですが、年齢と体重とバストサイズを教えてもらえますか?」
「いや本当に失礼ですね!? 名前は兎も角体重とバ、バストサイズって!」
「いえ、僕が知る女性の一人は大抵快く教えてくれるんで、流れで聞き出せるのかなと思いまして。……なんですかその顔は?」
まるで変人を見るかのような目に、俺は不快感を感じた。これだけ丁寧な口調で話しているのに、失礼な奴だ。
だが俺は大人。
相手が名前も年齢も体重もバストサイズも教えてくれない奴でも、声を荒げて非難するようなことはしない。
そして何より、ここが何処なのかが重要なのだ。こんな女に構っている暇は無かった。
何か知ってるとも思えないしな。
失礼な奴だし。
俺はやれやれとため息を吐きながら鬱蒼とする林を進んだ。
「え? え? あの、ちょっと! 全部聞こえてるんですけど! あのぉ! って、なんで今ため息吐いたんですか! 吐きたいのはこっちなんですけど! もうっ、待ってくださーー」
ガサッ
聞こえてきた草の擦れる音に、俺は何か叫んでる女の口を手で押さえて地面に伏せる。
今度はなんだ? 知らない場所に居るわ、変な女が絡んでくるわ、もうお腹いっぱいなんだが。
そんな俺の思いが通じたのか、出て来たのは知らない学生服を着た少年。いや、青年か?
中学三年生くらいに見える。
ただ、その青年は肩や脇腹に擦り傷などを負っていて、とても尋常じゃない様子。
この不審者を見るような目は、今にも俺に蹴りかかってきそうなほど迫力が……え?
気づけば視界一面に土が広がり、腹に鈍痛が走る今日この頃。
母ちゃん元気にしてっかなぁ。
「お前っ! 何やってんだよ、こんな時に! ただでさえ余裕がねぇのにっ」
いやいや、いやいやいや。
何やってんだよはこっちの台詞だわ。なに? お前ら揃って挨拶もまともに出来ないの?
それともアレか、若者の間では挨拶に蹴りを入れるのが流行ってるのかね。
「五月蝿え! そこの人、早く逃げてください。じゃないともう」
心の内を見透かされるだけでなく、女に自分心配してますよアピールをする余裕があるとは。こいつ、只者じゃねぇな。
と、思ったのは束の間。事態は予想を上回る危機であると、
腕。
五月蝿い女の腕でも、常識の無い青年の腕でもない。
草木をかき分ける為に伸ばしたのだろうその腕は青く、
これだけならばまだ良かった。青い腕を持つワニやトカゲなど聞いた事もないが、まだわかる。
問題なのはその腕の高さ。
仰向けで下から見てもわかるその位置は、青年のだいたい百七十センチくらいの身長の、少し上にあるという異常。
時間が遅く感じる中、次に表したのは足。そして……頭。
あ、俺こいつ知ってる。
博物館とかでよく見るし、あれだ。えーっと、そう。
恐竜じゃん。
今度は言葉は出なかった。出た瞬間、俺が目を付けられそうだったから。
赤い
あうあうあうあう
お、俺じゃありませんように。俺全っ然美味しくないから、寧ろクソ不味いから。
バレンタインでクラスの皆んなに渡しちゃった手前、俺だけ無いと不自然だからと嫌々渡された義理チョコくらい苦い味だよ。あれ、砂糖と塩を間違えたのか少し塩辛い味だったな。ほんとおっちょこちょいなんだからさー、ほんと。
……動けない。動揺する心をなんとか抑えようと
ダメだ、落ち着け。まだ動くな俺。今一番不利なのは俺だ。青年はいつでも走れる状態、女は俺が蹴りで退かされた時にすぐ起き上がってるが今走れる体制じゃない。
だが希望が無い訳ではない。
この青い恐竜にある程度の知性があるのなら、一見苦しそうに寝転んでいる俺よりも、元気そうな獲物を優先する筈だ。そうに決まってる。
信じろ。信じろ信じろ信じろ。
そして、チャンスは来た。
女が恐怖に耐えきれなくなったのか、一歩、足が下がる。
たったの一歩。しかし、恐竜がそれを見逃すことはなかった。
目線が三人から一人へと移り、身体の向きが女へと変わる。
よし来た!
俺から意識が外れただろうタイミングを見計らい、身体を一気に起き上がらせる。後はもう、力いっぱい走るだけ。
「あ!」
フハハ、すまんね。一足先に抜けさせてもらうよ。可哀想とは思うが、そこはもう自分の間抜けさとか、不運を恨んでくれ。
そんな若干ハイになっている自分が一番の間抜けだったことは、すぐにわかった。
青い恐竜の横を通り抜け、さぁ逃げるぞと走り出した俺に追従する者が一、二、三、四。
そうだよな。別にあいつ一匹だけと決まってるわけじゃないよな。
ならやる事は決まった。
俺は青年と女の方へ顔だけ振り返り、叫んだ。
「こいつらは俺が引きつける! 早く逃げろ!」
ここぞとばかりに良いやつっぽい台詞を吐いて、俺は駆けた。二人とも待ってろよ。必ず助けてやるからな!
そして俺を助けろ!
◆○◆
助けに来ねぇ!
なんて奴らだ。人間じゃねぇ。
どれだけ時間が経ったのかわからないが、最初の地点よりも大分遠くまで走ったんじゃないだろうか。その間もあの青い恐竜達に襲われていたが、なんとか攻撃を受けずにいる。
幸いなのは、追いかけてくる奴が最初に見たアイツよりも小柄な恐竜だけってとこか。
「キョエエエエエエエェ!!」
……おかしいな。アイツ、さっき見た大柄な恐竜のような気がする。あれ〜?
まぁ泣き言を言っても仕方がない。
こんな時もあるさ。
ほら、前向き前向き。ポジティブさが俺の売りだろ? 頑張れ。俺はやれば出来る子だってマミーも言ってたし。
前向き前向き。
前向き前向き。
「前向き前向きいぃぃいぃいいいい!!」
けどさ、どんなに前向きで良い子でもさ、俺、人間だから。嫌な事されたらさ、やめろよ! って、怒りたくなるじゃん。
殴りたくなるじゃん。
じゃんじゃん。
道端で走りながら拾った木の枝を怒りに任せて振ると、案外恐竜に効果あったわ。近くにいたやつの頭に偶然当たった。
「キョエエエ! キョア! キョア!」
獲物だと思っていた相手からの手痛い反撃に怒り心頭のご様子。連携が得意な生物なのか、もう囲まれてしまった。
このままだと呆気なく喰われてしまうだろう。
けど、妙なんだ。あれだけ走って、しかもいつ死ぬかわからない逃走劇をしているのに、意外と体力に余裕がある。
気力も十分。
負ける気が、しない。
その原因はたぶん、俺の身体にまとわり付くこの黒い湯気みたいなのがそうなんじゃないかと、半ば確信を抱いている。
この黒い湯気が見えたのは、あの大柄な恐竜から逃げ出した数分後の事。はっきり言って、俺は逃げ切るのは無理だと諦めいていた。そりゃ当たり前だ。
前の職業柄多少は動けるものの、運動とは無縁の現代社会人の俺と、食うか食われるかの世界で生きているんだろうこの青い恐竜とでは、そもそも根本的な地力の差があり過ぎた。そして脅威はそれだけじゃない。
知らない地形、
ああ死ぬなって、思うのは当然だろう。
ところがだ。爪や噛み付きを避け、いくつもの死を掻い潜っていると、ふと、奇妙な
その発生源を辿ると頭だったり、腕や脚だったりと感覚で伝わってくる。その更に内側、体内を探っていくと、ヘソより下のところに強い違和感を覚えた。
それを夢中になって弄っていたら、いつの間にか黒い湯気が身体から出てて。
つまり、そういうことだ。
なんか不思議な力がでてスゲーってこと。
「よっしゃ行くぞテメェら! 覚悟しやがれ!」
戦いのゴングは、俺の掛け声で鳴らされた。
とは言うものの俺のやる事はいたってシンプル。木の棒を適当に振り回すだけだ。
五対一で囲まれた今の現状ではいつ、どこから攻撃されてもおかしくない。だから牽制として、有り余る体力を使って近寄らせない。
さっきの反撃も牽制としての効果は増したはず。
これである程度は時間を稼げるが、まだだ。これだけじゃあ体力が尽きて喰われるだけ。ならどうするか。
敢えて、隙を作る。
近寄って来ようとした小柄な青い恐竜を木の棒で追い払い、長く、息を吐いた。吸って、吐いて、吸って、吐いて。まるでもう疲れて一歩も動けないかのように。
だが目だけは前三匹を捉えたまま離さない。
こうする事であの獲物は疲れているが、まだ反撃してくるかもしれないと思わせる。そしてこうも思うだろう。
後ろの二匹が俺を仕留めるチャンスだと。
ここで二択だ。後ろには大柄な恐竜と小柄な恐竜が一匹ずついる。たぶん、飛びかかってくる。今までの動きでだいたいこう来るだろう事は予想済み。
なら次はどっちが飛びかかって来る?
大柄か、小柄か。
それとも両方か。
こんな時、決まって俺はこう選択する。
大柄だろ。
大きい男に、俺はなりたい。
遠心力をフルに生かした木の枝は、半回転を描き大柄な恐竜の頬を強かに打ち抜いた。空中で身動きの取れない体制、頭から地面に激突した恐竜の首は見事に折れ曲がっている。
まだ!
振った木の枝の勢いを殺さず、もう一回転。背後三匹を牽制して、大柄な恐竜の横にいたやつの首を殴打。と同時に、木の枝分かれしたところを首に引っ掛ける。
「キョ!?」
お、気付いちゃう? 気付いちゃったかー。元々青い顔が更に青くなるのを見て、ニヤニヤが止まらない。まぁこれも、弱肉強食ってなぁ!
「ふんぬぅううあああはははははは!!」
ミチミチミチと首の筋繊維が圧迫される音を無視して、俺は恐竜を振り回した。
楽しい! 俺、楽しい! 俺つっよー!
自分よりも重たい筈の生き物をこうも簡単に持ち上げられるとは。まったくもって意味不明だが、もうそんな事はどうでもいい。
よくも俺を喰おうとしたなコノヤロー!
死にさらせ!
ブォンと鳴る風切り音と共に、呆然と見ていた三匹に向かって投げる。そして俺は両腕を頭の上に持ち上げ、片足になりながら叫んだ。
「キェェエェエエエエエエエエエエエエ!!!」
二十六歳独身の男が森の中、初めて本気の威嚇をする図がそこにあった。
こんな主人公は嫌だ