暫くして午後の授業が始まる。
机に肘付き、遠い空を窓から眺める少女は、魅音だった。
雲が近く、空が低い。目を離せば落ちて来てしまいそうだ。
夏の陽に輝いて、山は深緑を映えさせた。
教室は暑く、窓が開けられている。
蝉時雨が飛び込み、村は広いジオラマのようだ。
一人ごちに見渡し、ちょっとだけ乱れた頭の中を整理。
ただ目線は空ではなく、地に向かう。
消えた者が、ひょっこり歩いていそうで。夏の幻想がまた、夢を見せてくれそうで。
「コラっ」
頭をバサっと、教科書で叩かれ気が戻る。
恐る恐る顔を上げると、顰めっ面の知恵先生がいた。
「授業中ですよ」
「……た、たはは……いやぁ、ごめんなさいです」
「……はあ。心配なのは分かります」
部活メンバーが魅音以外欠席、しかも圭一に至っては消息不明。
部長である彼女が先生以上に心配しているとは、知恵も気付いてはいる。
「……また先生がみんなの家を周りますから。だからほら、元気出して?」
「いやいや、大丈夫大丈夫! おじさんはメンバーを信じているってば」
「……そう? それじゃ前を見て、次の問題解いてくれます?」
「そ、それは遠慮したいかな〜……なんて?」
結局答える事になり、嫌々ながらも席を立つ。
席を立ち、もう一度だけ窓の外を眺める。
ひたすら信じて。
その頃、山田と圭一は、富竹が帰って来るまで寛いでいた。
「……大丈夫っすかね?」
「大丈夫でしょ。なんか凄い自信でしたし」
「それより主人!」
「まだ肩書きつけるのか」
「あの三つのマジックって、どうやったんですか!?」
作業員らの囮になるに辺り披露した、三つのマジック。
暇潰しがてら、それらの種明しをしてやる事に。
「まず一つ目。同じ絵柄だった四枚のカードが、四枚とも変化するマジックですけど……実は四枚とも、別々のカードなんです」
上からクラブの五、ハートのクイーン、スペードの八、ジョーカーの順番に重ねたカード。
「一枚目のカードを見せている隙に、残り三枚の一番下をこう、弛ませて薬指で開けるんです。見せたカードは、一番下に入れる振りをして……下から二枚目に差し込みます」
引き抜いたクラブの五を、ジョーカーの前に入れる。
「あとは上の一枚を抜く振りをして……三枚重ねて同時に抜くんです。そしたら相手には二枚目のカードを引いたように見えて、それがクラブの五だって錯覚させられます」
「おぉ……!」
「次は三枚ともをひっくり返し、上の一枚……つまりハートのクイーンだけを下にすれば、クラブの五は一つ上がって二枚目に来るので、同じ要領でひっくり返せば良いだけです」
あとはそれを繰り返して、ハートのクイーンに化けさせたり、ジョーカーに化けさせたりするだけ。
「お札の変化マジック……これは本当に簡単です」
マジックに使った五ドル札を見せる。
後ろにひっくり返せば、すでに折り畳まれた千円札が貼り付けられていた。
「五ドル札を折り畳んで、後ろの千円札と同じ形にする。あとはこっそり返して、この貼り付けていた千円札を開くだけ」
リンカーンがパッと、聖徳太子に変わった。
最後は缶コーラの復活マジック。これは圭一も興奮していた。
「缶コーラは、元から開けていないんです。軽く糊付けしていた、黒い紙を飲み口に貼って開いているようにみせていただけです」
缶の側面に穴を開け、缶を潰しながら中身を抜く。
ある程度ベコベコになったら、穴を赤いテープで塞ぐ。これで空き缶に見せられる。
「後はこれを振ると、残ったコーラの炭酸が内側から缶を押して、凹みが無くなるんです。グラスを用意して残ったコーラを出してやれば、さも缶コーラの時間が巻き戻ったように見える仕掛けです」
「すげぇすげぇ……!!」
「ジオ・ウエキには一回騙されかけましたからね。同じ缶のマジックを披露してやりました」
「一生付いて行きます! 嗚呼、女神様ッ!!」
「……いつか変な宗教にハマりそうだなこの人」
圭一の将来を少し心配しながら、山田は「あっ」と思い出す。
「そう言えばレナさんは? レナさんも一緒に捕まっていたんですよね?」
「逃げたんですけど……途中で、親父さんに婚約者の正体を教えるって言って別れました。そのまま自宅に隠れるつもりだそうで」
「美人局か……えっぐい事するなぁ。しかもジオ・ウエキの妹……私の方が美人に決まってるだろ!」
「我が主はスレンダーでクールっす!」
「…………それ喧嘩売ってんのか?」
マジックに使ったコーラを飲みながら、圭一はふと壁に掛かっていた時計を眺める。もう正午を過ぎていた。
「……時間の進みが早く感じましたね」
「……私も昨日の今日でだいぶ濃い時間を過ごした気がする……全然寝足りない……」
「……御山田様」
「なんだその呼び方」
圭一はずっと抱えていた疑問を、彼女に聞く事にした。
「……あの。『鬼隠し』……何か知っているんですか? だったら……教えて欲しいです」
魅音から口止めされている禁句だ。
それを一対一の室内で問われ、山田はどうするべきかと口を歪めた。
──ここで時間は戻る。圭一と別れ、自宅へ向かったレナの話だ。
何とか帰ってこれた家には電気が点いており、不在では無いようだ。
だが家にいるのは父親だけとは限らない。恐る恐る、扉を開け、リナこと律子がいないか慎重に侵入する。
居間からドタバタと、忙しない音が聞こえる。
大勢ではなく、一人だけのもの。
襖を少しだけ開けて、覗く。そこにいたのは父親だった。
「お父さん……!!」
居間に入り、事の真相を彼へ教えてあげようと父を呼んだ。
だが次に言うべき律子の正体は、喉につっかえてしまう。
父親は、必死の形相で、身支度を整えていたからだ。
「礼奈……! どこ行ってたんだ!?」
「その、お父さんごめんなさい……聞いて欲しい事が」
「あぁ……それより礼奈ッ!!」
「それより」。一晩消えていた娘への心配は無いのか。その違和感が、レナを愕然とさせた。
「お父さん……?」
「すぐに支度するんだ!……リナさんが、園崎に狙われているらしいんだ……!」
「…………え?」
「早くッ!! この村から出るんだッ!!」
言っている意味が一瞬だけ、理解出来なかった。
父の話を理解出来なかったのは、これが初めてかもしれない。
彼はレナより、律子を優先している。
「……お父さん……!?」
「リナさんは今、二階に隠れている……! 良いかい? 園崎の人が来ても彼女の事は……」
「お父さん、聞いて……!!」
「さあ、早くッ!! 車に荷物を!!」
「聞いてッ!!」
レナの叫びに、やっと父親の手が止まった。
そのまま続けて、震える口で律子の正体を暴露する。
「あの人は……お父さんの事を愛していない……! あの人はお父さんを騙そうとしているんだよ!?」
やっと告げられた。
だが、父親は形相を厳しくさせ、レナへ詰め寄る。
信じていないようだ、実の娘を。
「……礼奈。お前は何を言っているんだ……!?」
憤怒し、語気を強めた、責め立てる声。
レナの脳裏に、フラッシュバックする。
離婚の原因は母親の浮気だった。
その浮気相手の事を知っていながら、父親に黙っていたのはレナだ。
その事を問い詰められた時のようだ。あの時も父親はこんな顔をして、レナを殴った。
恐怖が湧き上がる。言わなきゃ良かったと、妙な後悔まで。
押し黙ってしまった隙に、父親はレナの肩を強く掴んだ。
「リナさんに騙されている……!? こんな時に、何言っているんだ……!!」
「ぅ……うう……ッ……!!」
「お前がリナさんに懐いていないのは聞いていた……けど、彼女の命が危ない時に……!」
「…………ッ!!」
「……そうか……また、お前は壊すのか……!?」
「ッ!?」
心臓が痛くなる。
「ああ、そうなんだな……お前は前からそうなんだな!」
握られている肩が痛い。
「……お前なんか……! こうなるんだったら、あっちの方に行っていれば……!!」
彼の言葉がレナの心を抉った。
抉って抉って抉って、底の底まで到達した。
ヒビ割れたようにも、まるで掘り返したようにも。
ただ奥まで行く途中、今までの事が走馬灯のように巡っていた。
幸せも、間違いも、「嫌な事」も、「良い事」も。
深奥にあったモヤモヤが、抉った穴から噴き出した。
気付けば、父親の手を引き剥がし、頰へ平手をぶつけていた。
「……ッ!?」
唖然とする父親の丸い目には、叩いた側だと言うのに酷く狼狽しているレナの顔があった。
「…………!!」
「…………礼奈……?」
真っ直ぐ合わせた視線と視界。
目と目、顔と顔。
レナは大粒の涙を流していた。
そしてやっと、自分の娘の異常に気付けた。その顔は酷く汚れていて、その服は酷く寄れていて、顔をクシャクシャに歪ませながら泣いていた事を。
「ごめんなさい」
彼女の言葉は、謝罪だった。
「ごめんなさい」
涙を拭う事はしない。
流れ落ちるままだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい…!!」
一、二歩、後退り。自分でも何をしたのか分かっておらず、混乱していた。
「……礼奈……?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!!」
とうとうレナは駆け出し、家から出て行く。
「礼奈ぁッ!!」
父親が急いで彼女を呼び止める。
だが彼女はもう遠くまで、行っていた。
階段を降りる音。
「……ね、ねぇ! もう準備は良いでしょっ!?」
隠れていた律子だ。玄関先で呆然と立ち尽くすだけの彼の後ろ姿を、鬱陶しく思う。
「早く車出してよぉ……!! 私、殺される……!!」
「………………」
「ちょっと!? 聞いてんのッ!?」
叩かれた頰を、触る。
そして思い出した。
自分は礼奈を殴った。怒りに任せて、殴った。
その時も彼女は泣いていた。
何度も何度も謝って、泣いていた。
後悔したハズだった。
何もなくなってしまう自分に、彼女はずっと寄り添ってくれたじゃないか。
いつの間にか礼奈の幸せの為を、願い始めていたではないか。
今、自分は何をしていた。
また礼奈を──自分の娘を、支えを、泣かした。
信じてやれず、出て行くその手を掴めずにいたではないか。
律子が彼の背中を揺さぶる。
「早くぅ……!! 死にたくないのぉ……!!」
彼はくるりと、振り返る。
そして一つの質問をした。
「……君の正体は、なんなんだ?」
律子の目が丸くなった。
──午前の診察が終わり、夕方まで休憩だ。
淹れたコーヒーを飲み、ずっと抑え付けていた逸る気持ちにやっとの事で向き合う。
「……沙都子ちゃん……」
入江は所内から、空を見上げる。
誰もいない待合室に座り、上田が沙都子を連れ、ここに来るその時を待つ。
約束した。
沙都子を助け出せたら、真っ先にここに連れてくると。傷付いた彼女を診察してもらうと。
だからそれまで、彼は待っていた。
笑顔の沙都子がやって来るまで。
「……入江先生」
「おお!?」
物思いに耽っていた為、背後にいた鷹野に気付かなかった。
驚きで身体が跳ね、立ち上がった拍子にコーヒーをこぼしてしまう。
「うわわ!? やった!?」
「あぁ……もう、何しているの!」
「す、すいません! あぁ、ボクがやりますんで!」
ハンカチを取り出し、染みを拭う。そんな彼へ呆れながらも鷹野は告げる。
「仕事の方も気にして欲しいわね」
「…………」
「楽しんでばかりはいられないのよ? 時間はないんだから」
「……分かっています」
思わせ振りに微笑み、彼女は診療所の奥へ。
一人残された入江は唇を噛み、また座り込んだ。
染みのついた白衣を脱ぐ。ふと真っ白のものなんかこの世に無いのだろうかと、思ってしまう。
それでもただ入江は、今はひたすら信じるだけ。
「こっちなのです!」
神社から暫く歩き、上田と梨花は北条家前へ。
雛見沢村に於いて有力な家系だったともあり、なかなか大きな家だ。
上田は到着したと同時に颯爽と飛び込み、戸を叩く。
「沙都子!! いるなら出てきてくれッ!! 俺が来たぞー!」
「沙都子! 出て来て欲しいのです!!」
二人の必死の呼び掛け。
鉄平が出て来たのなら対処すると上田が言った為、恐れる事なく声を出せた。
何度も何度も、「沙都子」と叫ぶ。
暫くすると内側から、廊下を歩く音が聞こえ、それが玄関先まで近付いて、戸を開く。
現れたのは──
「沙都子……!」
──変わり果てた、彼女の姿。
前に見た快活さは顔から面影と共に消え失せ、濁った目と悪い顔色と、暗い影を落としていた。
だが梨花と上田の姿を見て、目に少し、闇夜の中の蝋燭のようだが微かな光が宿る。
「梨花に……上田先生……!?」
「なんてこった……! おい、大丈夫か!? ほら、野菜を食べないからそうなっちまうんだ! 完全に貧血の見た目だ!」
沙都子の憎まれ口を期待したが、出て来たのはか細い謝罪だった。
「……ごめんなさい……」
謝罪の意味が分からず、梨花は震えた声で返した。
「…………なんで謝るのですか?」
「……もう、そっちに帰れませんの……」
「沙都子……?」
「……お声掛けが遅れました。私はこっちに暮らしますわ」
「…………」
ああ、やっぱりそうだと、梨花の心にまた諦念が燻り始めた。
だがそれを、意思の力で払う。
もう後悔したくない、間違えたくない、見殺しになんかしたくない。
頭の中がそんな決意に満ちつつあった。
梨花はこの日、自分に素直になると決心した。
「もう……良いのですよ……」
「……え?」
「……どうして……自分にばかり罰を与えようとするのですか」
「梨花、私はそんな……平気ですわ。こっちのでの生活も、悪くはありません」
「嘘つきは上田で十分なのですっ!!」
「おう!?」
不意打ちされて驚く上田を余所に、梨花は大きな声で捲したてる。
自分でも、こんなに話せたんだと思うほどに、言葉や沙都子との思い出が連々と舌から放たれた。
「っ!?」
「沙都子はずっと、頑張って来たのですよ! 頑張って頑張って、頑張り続けて……ボクはそんな沙都子の強さに憧れているのです!!」
「……私はちっぽけで、弱いですわ」
梨花は必死に首を振る。
それは彼女の言葉を否定するものではなかった。
「ちっぽけで弱いのは……ボクだってそうなのです……!」
堰を切ったように梨花は、そこからは思いの丈を捲し立て始めた。
「沙都子は確かにお野菜苦手だし、その癖に得意料理は野菜炒めだけだし、泣き虫だし、お茶は渋過ぎる!!」
「確かにあの渋さは考えた方が良い」
「でも……でも……!」
空に浮かぶ雲のように当たり前に感じていたのに、まるで違った世界のようだ。
梨花の心に一点の曇りはなく、ずっとここまで抱いていた不安はどこかに行った。
「すぐに笑って、精一杯……ボクを手を引いて歩いてくれるのです……」
晴れ渡り、夏の始まりを予感させる、大きな入道雲。
それを一緒に眺めて来たのだろ。
「……いつもボクより早く起きて、朝食を準備して……ボクの手を引いて、暗い部屋から朝日に連れ出してくれる……それにボクはどれだけ救われたのか……」
思い出が巡れば巡るほど、涙が溢れ出す。
「……してくれただけじゃない。ボクだって、やらなくちゃ……」
その「思い出」は一年、二年、三年、四年五年六年……ずっとずっと、連続して行く。
先に行けば行くほど記憶は断片的。だけど、それを必死に掻き集めてみせた。
「……ボクは沙都子を見て来た。だから知っているのです……あなたの苦しみや、辛さを」
少し雰囲気の変わった彼女の口調に、沙都子は驚いたような顔を見せる。
「でも挫けなかった。喪失も苦難も、沙都子はそれを抱えて歩いて来た。でも、抱えるには重過ぎて……いつしか、その重さを罪だと思ってしまった」
「……ッ!」
「……あなたの過去は決して、あなたのせいじゃない……すぐにはそう考えられない、認められなくても良い。ならせめて、あなたの悲しみを……私にも抱えさせて欲しいのです……」
「り、梨花……」
「ボクだって沙都子に救われた……だからボクも、沙都子を救いたいのです」
目を背けてしまう沙都子だが、梨花はそれを許さない。
眼前まで近付き、顔を押さえ、無理やり目を合わさせる。
「沙都子……ボクたちは、親友でしょ……!? その苦しみを私にも、抱えさせて……一緒にまた……みんなと遊びましょう……?」
声が震え、次第に喉に力が入って行く。
固まった喉からは声は出ず、か細い嗚咽。泣き出してしまった。
呆然と彼女を見るだけの沙都子に、黙って見ていた上田が続ける。
「……沙都子。強さってのは、我慢する事だけじゃない。思いの丈を言う事もまた、強さだ……」
「…………」
「……梨花は本心で話した。次は、お前の番だ……さぁ。本当の事を教えてくれ……」
その目に、光が宿る。
暗い夜が終わりを告げ、黎明を迎えたかのようだ。
上田に促され、沙都子は目を泳がせながら、何か言わねばと口を開き始める。
「……わ、私……私は……!」
二人の顔が綻んだ。
だが、障害は最後にやって来る。
「沙都子ぉッ!! 誰かおるんね!?」
家の奥から、寝癖のある鉄平が飛び出して来た。玄関での騒ぎを聞き付け、昼寝から目を覚ましたようだ。
再び沙都子の目から光が消えた。
「ひっ……!」
「おお!?……あん時……!」
鉄平が梨花の姿を捉え、舌打ちを鳴らす。
「まぁた沙都子、誑かしに来たんか!?」
「お、おじさま……!」
「沙都子!!」
梨花は叫び、家に戻ろうとした彼女を引き留める。
「……私から絶対に目を離さないで」
「え? り、梨花……?」
「何やっとんじゃタワケがッ!? また蹴られたいんか!?」
背後から近づく罵声と怒号。
怯えて震え、すぐに戻らなければと沙都子は思う。
でも真っ直ぐと視線を奪う梨花を見ていたら、頭の片隅で「もしかしたら」と希望が照り出す。
「お前も離れんかいッ!!!!」
鉄平の腕が沙都子に伸び、肩を掴んで無理やり引き摺り込もうとした。
その腕は、戸の死角から現れた何者かの手によって逆につかまれてしまい、外に引き出されてしまう。
「な、なんじゃぁ!?」
「お前が沙都子の叔父か」
「誰じゃおま……うっ!?」
そこにいたのは自分より大きく、筋骨隆々とした男──上田。
そんな男が自分を見下ろしている。とうとう鉄平は怯えを見せた。
「……沙都子の叔父なんだな?」
「ほ、ほうじゃ! さ、沙都子とワシは、家族じゃ……! 法的にも認められとるわ!」
「つまりお前は沙都子の親って事だな。親は子に対し、扶養義務がある……この時間は学校のハズだろ? 学校にも行かせないのなら、それは親の扶養義務に反するッ!!」
「きょ、今日の沙都子は、調子が……!」
「調子悪い子に家の番をさせて、怒鳴りつけるのか?」
「ウチのシツケにケチつけるんかのぉ!?」
「
上田が、梨花と沙都子の前に立つ。
絶対に二人には指一本触れさせるつもりはないと、鉄平の前に塞がる。
「……裁判所に申告し、沙都子を証人にしてお前の親権を停止させる。……しかもどうやら梨花を蹴ったようだな。それはもはや『暴行罪』!! そんな危険な奴に……親の自覚がない奴に、親になる資格はないッ!!」
言い放った。
だがこれで下がる男では無いと分かっている。
鉄平は明らかな殺意を込め、睨み付けた。怒りが勝り、もう上田への怯えはなくなっている。
「……上等じゃあ。ぶっ殺してやるからのぉ……!」
ポケットから取り出したのは、折り畳みナイフ。
ギラリと刃を輝かせ、上田の前に突き付けた。
逞しい身体つきの上田とは言え、凶器を持つ人間に敵うのか。危険を察した梨花は上田に注意する。
「上田!? 危ないのです!!」
「おぉ!? 逃げるんか腰抜けェッ!?」
「………………」
上田は立ちたちはだかったまま、逃げも構えもしない。鉄平を睨んだまま、動かない。
「……梨花。沙都子」
二人の名を呼ぶ。
彼は、やるつもりだった。
「俺の戦う姿を……」
一歩、鉄平に近付く。
「……見ないでくれ」
「……え?」
「あっち向いてろ。こんな奴に、拳を使うまでもない」
「ワシを舐めとるんか!?」
なぜか二人に忠告させる上田。
何が何だか分からないが、梨花は沙都子を引っ張り、後ろを向かせる。上田と鉄平が何をするのかは分からない。
聞こえるのは、声と音のみ。
「ぶっ殺してやるからのぉ!!」
「……フンッ! 武器を使うのは弱い奴の証ッ! 武器なんか捨ててかかって来いッ!!」
「なんじゃとぉ!?」
「俺は……自分の身体一つで、戦う……来いよべネット……!」
「ベネットって誰なんじゃぁッ!? ふざけおってからに……! テメェなんか怖くねぇ……! 野郎ぶっ殺してやらぁぁぁぁッ!!」
「待てッ!!」
なぜ待たすのかと、疑問に思って振り向きかける梨花。
声が止み、今度は音が鳴る。
ジーッ。
ゴソゴソ。
パサッ。
ストンッ。
ボロンッ。
「あ……あぁ……あぁ……ッ!!」
「……ほぉら!」
「ああああああああああッ!!??」
聞いた事のない鉄平の絶叫が響く。
次にはバタバタ逃げる音が鳴り、一人の気配が消えた。
「鉄平が逃げた……? 上田、やったのですか!?」
「待て待て待て待て待て!? まだ振り向くなッ!!」
「は?」
「よぉし……ホッ……ベルトが嵌らないな……買い替え時か……おうっと、ポジションが……良し、いいぞぉ」
振り返ると、何も変わったところのない上田が、してやったり顔で立っていた。
癖かどうかは知らないが、ズボンをずり上げている。
「上田、一体……どうやったのですか……?」
「はっはっは!『男の器』だよ!」
「…………意味が分からないのです」
「まぁ、奴は大した事ないな! 生物学的に声のデカい奴ほど小さいって聞くが、あれじゃタカが知れるぜ!」
改めて梨花は、沙都子へ目を向けた。
そこにいるのはもう、暗く、絶望に染まっていた彼女ではない。
信じられないと言いたげな丸い目は、年相応に幼い。
「……沙都子。もう、自由なのですよ」
「……梨花」
「……ボクたちの勝ちなのです」
「……りかぁ……りかぁあ……!!」
涙を流し、抱き着く沙都子。
穏やかな表情でそれを受け入れ、頑張って来た彼女を労う。
そんな二人を見て、上田も鼻をすする。
「……上田、泣いているのですか?」
「グスッ……な、泣いていないッ!! ドライアイなんだ!」
「………………ふふっ!」
「……なんだ、何がおかしいんだ?」
目からは涙の痕がある。
でも今の梨花は、満面の笑みを浮かべていた。
「上田はやっぱり、嘘つきなのです。にぱーっ☆」
その笑顔を見て、拗ねた表情で顔を背ける。
二人から見えないところで、上田も笑った。
上田から逃げた鉄平は、道をひた走る。
「クソが……!! 覚えてやがれよ……!!」
夜になれば奴らは眠る。
その隙に仲間を集めて襲撃してやる。殺してバラバラにして、沼に捨ててやる。
強烈な殺意を抱きながら走り、ある所で石垣を曲がった。
「どこ行くんですかぁ?」
「うげっ!? てめぇは……!?」
「フンッ!!」
角で待ち構えていた何者かに腕を掴まれ、地面に突き倒される。
その上にのしかかられ、鉄平は動けなくなった。
「ナイフですかぁ……こんな物を持ち歩いちゃ、銃刀法違反ですかねぇ?」
「な、なんめテメェがここにおるんじゃ!?」
のしかかったまま彼は、淡々と述べた。
「銃刀法違反及び、『恐喝』と『麻薬の使用と所持』の疑いがある。署まで、ご同行願いますよ?」
その男は警部補の、大石であった。
少し離れた先に覆面パトカーが停められており、その中から詩音が出て来る。
見た目は詩音ながらも、彼女は腰に手を当てて豪傑のように笑う。
「……あっはっは! なぁんだ! 結構強かったりするぅ?」
「……全く。あんたの口車に乗せられちまうたぁ、こりゃ参った参った。今日は厄日ですよ!」
「まぁまぁ。治安維持に一役買ったんでしょお? 定年間際に検挙率上げられて良かったじゃーん!」
「…………二度と、あんたの話は聞きませんからね」
呆れた顔で彼女を見つめ、名前を呼んだ。
「……『園崎魅音』さん」