空の境界 偽典福音/the Garden of false   作:旧世代の遺物

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伽藍の洞/1

 

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「両儀さん、今月も目覚めませんでしたね。このままずっと、寝たきりなんでしょうか」

 

 唐突に、看護師が話題を持ちかける。

 無論、相手は医師である。

「いや、例えどれ程の時間を要そうとも彼は必ず目覚める。私はそう信じている」

 

 その医師は厳しい声で迷いなく答える。

 

「そうですよね。わたし達がしっかりしないと、黒桐さんに合わせる顔がありませんもの」

「彼女の事ならば心配は無用だ。決して諦めはせんだろう」

「でも、なんだか可哀想ですよねあの娘。二年間も両儀さんと話一つできないなんて」

 

 看護師の憐憫を聞き医師は話題を転換する。

 

「……実は私も十二年前、彼と話した事があるのだ」

「えっ⁉︎ 荒耶先生って両儀家の知り合いだったんですか⁉︎」

「如何にも。両儀家に限らず浅上家や巫条家とも縁が有ってな。私が彼の担当医となったのも、それが理由の一つだ」

「ああ、霧絵さんも先生の担当ですものね。霧絵さんも先生が父の知り合いで、医療費まで払って貰っているって言っていましたね。先生って本当に凄い人ですね!」

 

 純粋な賞賛に対し、荒耶はつまらなげに鼻を鳴らす。

 

「これはあくまで私の意志だからな。断じて賞賛に値するものなどではない」

「いえいえ、今時そんな謙虚な方って居ませんよ。前の先生なんて、本っ当に鼻もちにならない態度で威張り散らしてましたし」

 

 看護師の恨み言を聞き流しながら荒耶は廊下を歩んで行く。

 

「今日も御苦労だった。明日また会おう」

「ええ。先生こそお疲れ様でした」

 

 そうして彼は病院を去り、祈るかの様な面持ちで己の『 螺旋(セカイ)』へと帰還する。

 

 両儀織──私は待っているぞ。お前こそ、この醜き苦界を救済する弥勒である故に。

 

 

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一九九八年三月

 

「卒業式っていってもあんまり実感わかないわぁ」

「先生の方が泣いちゃったものね」

「ってか大学まで鮮花と一緒なんて思わなかったから尚更よ。ここまでくると腐れ縁って感じね」

「……こっちもまさかあんたがこの大学に受かるなんて思わなかったわよ」

 

 そう、今日は卒業式だ。

 といってもなんだか実感が湧かず、たいした感慨も無いのだった。…春菜も同じ大学だったから余計に。

 そんなことよりもむしろ春菜がこの日本一の難関大学に合格した事の方がよっぽどビッグニュースだと思えたのだ。

 

「あ、そうだ、あんた打ち上げどうすんの?」

 

 春菜は唐突に誘いをかけてくるものの、わたしにはやるべき事があるので素直に受ける訳にはいかなかった。

 

「行くけど、遅れるって伝えておいて」

「遅れる? ああ、なるほどね。ま、また後でね」

 

 春菜はそれで理解したのか、理由を問うことなく去っていった。

 わたしも、為すべき事を為すために一束の花束を持って''彼''の居る場所へと向かうのだった。

 

 

    ◇

 

 

 病室へ向かう途中、とある医師に出会った。

 その名は荒耶宗蓮。両儀織の担当医だった。

 

「こんにちは。いつも織がお世話になっております」

「うむ。創建な様で何よりだ。ところで、今日は卒業式だと聞いているが」

 

 この人は一見無愛想で怖い人という印象を与えるが、その反面仕事に対する態度は真剣そのもので人柄も寡黙ながらどこか穏健さを感じる、謂わば人間の鑑そのものである。

 

「ええ。もうあれから二年も経っているなんて実感が湧きませんよ」

「ふむ。だが、それでもその時間は事実として存在していたものだ。君にも私にも、…彼にもな」

 

 先生は重苦しい雰囲気を崩すことなく語る。もし、織が何らかのきっかけで目覚めたとしたら、彼は己に起きた事をどう受け止めるだろうか?

 二年、或いは十年。その喪った時間を何を以って埋め合わせてあげれば良いのだろうか?

 わたしは答えの出ない問いを抱えるばかりだった。

 

「なるほど、君は彼の目覚めた後の事を案じている様だな。それでは彼も''空''になる事はないようだ」

 

 率直に言って、わたしはこの人物が苦手だった。

 何せ、余りにも人の感情を読む事が上手いのだ。不思議と彼の言う事はわたしの思考を先読みしているかの様に的を射ていて、隠している不安や焦燥を表層に炙り出しているかの如く魔的だ。

 おそらくこの人の前ではどんな隠し事も忽ち暴かれてしまうだろう。

「焦る事はない。君がそうである様に、彼が目覚める事を信じている人物は確かに存在する。例えば、今君の前に居る医師などだ」

 

 そういって彼は迷い無い瞳でわたしを見つめる。

 その強い意志を前にわたしは少し安心しているようだった。

 

「やっぱり、あなたが担当で良かった。これからもどうか、織をお願いします」

「承った。その信頼、この私が確と受け止めよう」

 そうしてわたしは病室へ向かう。 

 この行為を何度繰り返したことだろうか。

 この二年間、何かが進展したという訳でもなかった。

 それでもわたしはこの繰り返しを止める訳にはいかなかった。

 そう、わたしには確信があるのだ。どれほど年月が経とうとも、織が必ず目覚めるという確信が。

 これほど絶望的な状況で何故ここまで信じられるのかは自分でもわからない。

 もしかすると、荒耶先生の影響もあるのかもしれないが、そんな事は最早どうでもよかった。

 どちらにせよ、わたしにできることはこの螺旋の様な繰り返しだけなのだから。

 

 

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一九九八年五月

 

 わたしは春菜からとある招待券を貰っていた。

 それはどうやら芸術関係のグループ展のものらしく、うちの大学のOBの画家が出展しているとの話だった。

 興味が湧いたわたしはそのギャラリーへと向かい、そこで奇妙な展示物を発見したのだった。

 人形。そう、そこには絵ではなく人型が置いてあったのだ。

 それは人形というにはあまりにも精巧すぎて、今にも息を吹き返しそうなほど活きていた。

 けれどもそれに生命などなく、だからこそ人間では届かない美しさを醸し出している。

 ──その、二律背反。

 わたしは、我を忘れる程に『それ』に魅入っていた。

 

 何故なら、そこには確かに織そのものの在り方全てがあったのだから。

 

 

    ◇

 

 

 後日、人形の出展者を調べたものの、収穫は見事に皆無だった。

 その後、情報収集能力が極めて高い兄の助けを借りたおかげで名刺を手に入れることができた為、それから先は自分で調べたところ、わたしはその人物の住処を調べる事ができたのだった。

 

 彼女の名は蒼崎橙子。

 業界きっての変人として有名な人物だった。

 人形師でありながら設計士でもあるのだが、仕事を受ける事はないというのだ。

 いつも自分から相手にコンセプトを売りに行き、報酬前払いで制作するという奇特なビジネススタイルを保っている、真性の変わり者ということらしい。

 そんな彼女に興味を深めたわたしは、今日彼女の家を訪れる事になるのだった。

 

 だが──

「あれ、此処で合ってる筈なんだけどなぁ」

 

 何故か住所である筈のビルは見当たらない。

 さらに不可思議な事なそこに近づくと『決して入るな』という警告が頭を過るのだ。

 わたしは半ば駄目元でその『禁忌』の匂いの強い方へと歩を進めていく。

 すると、明らかに他の場所と空気が違う空間へとたどり着いた。

 やはりわたしの感は当たっていたらしい。

 そこには、廃墟としか形容しようのないビルがあったのだった。

 ──まさか、やってはいけないと言われた事をやってしまう癖がこんな所で役立つなんて。

 

「というより、そもそもこんな所に人が住んでいるのかな」

 

 訝しみながらも、わたしはビルに足を踏み入れて行く。

 四階まで入った所で生活の痕跡らしき物を発見する。

 

 これは、女性の靴跡? それにダンボールが新しい。

 

 此処に誰かが住んでいることを確信したわたしは半開きになっている扉をノックをして、部屋の中へ進む。

 

 思わず息が漏れる。

 そこには、確かにギャラリーで見た人形と同一の物が置いてあった。

 

「誰?」

 

 そうして人形に意識を傾けていると、おもむろに背後から声をかけられた。

 

 

    ◇

 

 

 ──まさか、魔術の存在があんな小娘に気付かれるとは。

 それにしても、大切な人を守る為、誰かに守って貰わずとも自分の身を守る為に魔術師を目指す、か。

 魔術師としては三流もいいとこだが、魔術使いとしては上々と言った所だな。

 正直勢いで採用するとは言ってしまったものの、弟子としては中々に悪くない逸材だった。

 

 それに、魔術師でもないのに人避けの結界を通り抜ける粘り強さといい、内に秘めたモノといい、只者ではない様だったしな。

 

 ──これも何かの縁か。

 あそこで断ったところで、何時か何処かで出会う事になる。

 そんな気が、していた。

 

「なるほど、そう考えれば良い拾い物だったかも知れん」

 

 蒼崎橙子は未だ知らない。

 この出会いが、いずれ世界の命運を変える事になるのだという事を────

 

 

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 その世界には、何もなかった──。

 

 

    ◇

 

 

 ────ふと、目が覚めた。

 

 ……生きて、いるのか。

 ここは…….どこだ?

 夜、ベッド……病院?

 そもそも、どうして生きている?

 確か、自分は……

 

 そこまで思い出した所で、突如として頭に激痛が走る。

 

 体が、上手く動かない…何も、思い出せない…!

 

 それに……!

 

「なんだ……これは…….」

 

 目を開けるとそこには無数の赤黒い線が走っている。

 それだけではない。

 体にも、置いてある花にも、夥しい線が描かれている。

 まるで世界が線で埋め尽くされている様だった。

 そして自分の体が、天井が、壁が泥の様に崩れ落ちていく光景を見た所で、彼は己の目を押し潰した。

 

    ◇

 

 

 朝が来た。

 受付が始まった病院は普段の賑やかさを取り戻し、廊下を歩く職員と患者達の生活音が残響する。

 だが、そんな事は今の僕には瑣末な事だ。

 昨夜、目を潰そうとしたものの関節が上手く動かず、しどろもどろしている所を巡回に来た看護師に見つかり、阻止される事になったのだった。

 僕の担当医は心療内科の医師でもあったらしく、僕は精神状態が安定するまではその医師の診察を受ける事になっているらしい。

 損傷の為何も見えない目で周囲を呆と眺めていると、その医師が病室に入ってきた。

 

「ふむ……目覚めたようだな。気分は如何かね。両儀君」

「──」

 

 その声を聞いた途端、僕は無性に懐かしいと感じていた。

 なぜだろう。

 姿は見えないのに、その独特な気配と視線、それに声質からこの人物とは何処かで会った事があるという確信がある。

 必死に記憶を探ってみるものの、ところどころ欠損していて重要な事は何一つ思い出せない。

 何か一つでも手掛かりを得ようとその人物に対して質問を返す。

 

「あんた……何時か何処かで、会った事が……?」

 

 その質問に聞いた医師は意外そうに鼻を鳴らし、表情を僅かに変えて言葉を紡ぐ。

 まるで単語の一つ一つが神託ではないかと錯覚する程の重く染み入る声の持ち主だった。

 

「ほう……私を覚えているのかね。酷く不安定な状態だと聞いていたが、その様子では面会謝絶とするには過ぎているようだ」

「……答えてくれ」

「そう、答えは是だ。一九八六年の春、私と君は出会った。こうして会うのは実に十二年ぶりとなる」

 

 確かに、彼は望む答えを返した。

 だが、引っかかるものがある。

 ──十二年前? それに春?

 記憶の欠損の所為だろうか。目の前の人物には会ったことがあるという事実を知っているだけで、こうして言葉を交わしているのにその当時の映像は何一つとして浮かび上がらない。

 

「わかった……もういい」

「それでは改めて自己紹介をしよう。私は荒耶宗蓮。君の担当医にして、旧い知り合いだ」

 

 荒耶宗蓮。

 それが彼の名前。確かにこの圧倒的な存在感を放つ男には相応しい、厳粛な響きだ。

 そうして彼は半ば機械的に僕の身に起きた事について解説し始めた。

 

「簡潔に説明しよう。今日は一九九八年六月一四日だ。君、両儀織君は一九九六年三月五日の二三時に交通事故で重体となり此処に運ばれた。道路での乗用車との接触事故だ。覚えはあるかね?」

「……」

 

 何も言えなかった。そんな事は知らない。

 今の僕の散漫な記憶から引き出せるのは最後の資料は雨の中で立ち尽くす女と、夥しい血を流す黒い何者かの姿だけだ。そこからどうなって事故に会ったかなんて、見当もつかない。

 

「ふむ、やはりそこは覚えていないか……。なるほど記憶が喪失したのではなく、損傷していると言う事か、これはやはりあの男の『言葉』が必要か……」

 

荒耶は何かわけのわからない事を呟いているが、何やら気にかかる事を言っていた。

 

「喪失じゃなくて、損傷?」

「そうだ。君の喪った記憶の大多数は単に忘却しているだけ、つまり一時的に思い出せなくなっているだけなのだが、一部分は覚えているが読み込みが不可能な状態、所謂『再生』が出来なくなっている様なのだ」

「つまり、もう識る事は不可能ってこと?」

「……喪失ならば時間に任せれば回復するだろうが、損傷となればそれだけでは難しい。再生が出来ないと言う事はそもそも何を忘却しているかすら識る事が困難だ。原因は不明だが現場我々にできる事はもうない。そうだな──いずれ君がその忘却を識る手掛かりを得る事を待つと言った所か。何より昏睡からの回復という事自体極めて稀な事なのだ。その様な奇跡があれば何らかの代償は生じよう」

 

 荒耶の言う事は正しいが、最も重要な部分を逃している。

 再生が出来ないのは確かだが、何よりも自分の記憶が自分のものであると認識する事ができない、つまり『再認』が出来ないいうことこそが最も重要な問題なのだ。

 そう考えているこの瞬間すらも自分が自分でない、両儀織の肉体を借りた誰かであると感じてしまっている程に。

 

「また、両目の傷もそう重くはない様だ。昨夜君の近くに刃物がなかった事が幸運だった。一週間も経てば回復することだろう」

 

 荒耶は少し喜んでいる様に思える。何故か目を潰そうとした理由は聞いて来なかった。

 何だか、昨日見えてしまった線の正体を知っているとでも言いたげな口調だったせいか、無性に不安に駆られてしまう。

 

「それでは、今はここまで。記憶に関しては今はそこまで悩むことはない。喪失は時間が、損傷は機会次第で解決してくれるだろうからな。君に重要な事は二年という空白を如何に埋め合わせるかという一点だろう。特にその胸の穴、それこそが最大の課題なのだろう? 織君」

「……!」

 

 ……こいつ、中々に人の深層を見る事が得意らしい。

 だが、今の空っぽな自分にはその方が好ましいと思えた。もっとも、その『好ましい』という感覚さえ借り物の様にしか思えなかったのだが。

 

「では、また後でな。君に必要なものはわからないが、この荒耶にできる事があれば行おう。ただの会話であっても、解決の糸口は見出せるやも知れぬ」

 

 そう言って、荒耶は病室を出て行った。

 それからというものの、僕は何をするでもなくただ呆と周囲を眺めているだけだった。包帯越しに見える、何もかもが脆く悍ましい世界を──




 更新が遅れました。
 今回から伽藍の洞編になります。大好きな荒耶を本格的に書ける様になったのでモチベーションはかなり上がっています。
 映画版のパンフレットによると病院に勤務していた頃の荒耶はそれなりに社交性があったらしいので、今回は少し饒舌にしてみました。
 それではまた次回。
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