空の境界 偽典福音/the Garden of false 作:旧世代の遺物
/1
「両儀……だったか。彼の話をしてくれないか。いい暇潰しになる」
蒼崎橙子が両儀織の名を聞いたのは、六月の初頭の事だった。
橙子の気紛れで採った弟子が両儀織の友人で、暇潰しに彼女の話を聞いたのが発端である。
彼は二年前に事故に遭い昏睡状態に陥り、それから目覚める気配が無いのだという。
「ふぅん、面白い。もっと聞かせてくれ」
本当に面白そうに言う橙子の態度に、鮮花は眉を顰める。
「あのですねぇ……! これでもわたし、真剣に話してるんですよ……!」
「まぁそう言うな。私だって物見遊山という訳でもないんだ。幹也も
幹也、という名前が橙子の口から出た事に鮮花は言葉を失う。
「えぇ……うちの兄と橙子さんって知り合いだったんですか……。どうりであんなにあっさり見つけられる筈ね……」
「一年程前の事だったかな。あいつの通う大学から依頼があって出向いた時に縁が出来てね。私だってまさかあんなに易々と見つかるとは思わなかったさ」
「はあ、そんな事が。兄さんは馬鹿が付くほど真面目なんですから、変な事を吹き込まないで下さいよ。本気で信じかねませんから」
「幹也が真面目、ねぇ。ああいうのは真面目というよりはむしろ……。いや、今は幹也の事は置いておいて、シキという男の話に戻ろう」
態度を変えずに言う橙子に、鮮花は仕方ないという風に語る。
両儀織という人物の、極めて特異な在り方を。
彼女と両儀織は高校時代の同級生で、入学前からその名前に縁がある彼女は両儀織と同じクラスになった時に交友関係を結んだ。
人を避けようとする両儀織と友人になったのは彼女、それから白純里緒だけだったという。
「ちょっと待て。その白純里緒というのは何者だ?」
突如として登場した人物に、橙子は関心を寄せる。
「女性だと間違われそうな名前ですけど、男性です。生徒会の
鮮花は明らかに悲しげな顔をする。その変化に橙子は何らかの因縁があると推測した。
「……一九九五年七月末から起きた連続殺人事件から、わたし達の関係は変わってしまった。織はわたしに自分が二重人格者で、名の無い二つ目の人格を持っている事、その人格が殺人を嗜好しているという事を打ち明けました。白純里緒もまた、それを知った上で関わっていたんです。ですが二月の初めに彼は姿を消してしまった……。そして真相が明らかになる前に、織は……」
「どうなったんだ?」
「三月の初めの、雨の夜の事でした。わたしは両儀邸の近くで何者かに襲われたのですが、突然現れた織が追い返してくれたんです。すると彼は自分から車道に飛び出し、そのまま轢かれてしまいました。……その後彼の意識は戻る事はなく、わたしを襲った人物も殺人鬼も不明のまま……。それが、彼に纏わる事件の顚末です」
橙子は今の話に只ならぬものを感じたのか、暫し思考を巡らす。
二重人格者、殺人を嗜好する両儀シキ、姿を消した白純里緒、謎の人物、──殺人鬼。
これらの単語は、橙子でなくとも偶然ではない何かが関わっていると推測させるには十分過ぎた。
「キナ臭いな。私には全てが仕組まれた事のように思えるが」
「仕組まれたって──どうして」
「だって、都合が良すぎやしないか。事件と共に失踪した友人に殺人鬼と思しき謎の人物。自ら眠りに就いた両儀。あまりにも噛み合いすぎている。まるで初めからそうなる事が決まっていた様に」
鮮花は押し黙る。
彼女とて薄々気付いていた。だが、無意識に事件に関する考察を自ら封じていたのだ。
……そうであれと、何かに命じられていた様に、事件の真相を考える事さえ忘れて。
事実、彼女にとってもあの事件に関する記憶は不都合なものでもあったのだ。
「いや、この際事件の事はどうでもいいな。それは警察の仕事であって我々の領分じゃない。続きを話そうじゃないか」
橙子はそれ以上探る事はせず、話題を修正する。
彼女としても興味深い話ではあるが、少なくとも今真相を知ることはできない為、これ以上の考察は無意味と判断したからだ。
「さて、その男の名前はどう書くんだ? 漢字一文字? それとも二文字?」
「えっと、織物の織ですが」
「ははぁ、『織り成す』に『織物』か。それで名字が両儀とは、因果なものだな」
橙子は立ち上がり、手近な上着を羽織り扉を開く。
「君の話を聞いて興味が湧いた。少し様子を見てくるから留守番を頼む」
彼女は返答を待つ事なく事務所を去った。
先程の話もそうだが、それ以前に何もかも出来過ぎている。と思索に耽りながら。
……それらは全て、ある男の選択の結果である事を、彼女達はまだ知る由もなかった。
/2
朝の診察が終わった後、僕が目覚めてから七日経ったという事を知らされた。
身体も順調に回復している僕は明日退院という事になる。
その間に得たものなど、際限なく渦巻く疑問位だ。
家族も秋隆も、以前のまま変わってはいないだろう。だが僕が見ている彼らは別人の様に映る。両儀織という自己が変わった以上、それを取り巻くものが変質するのは当然の結果なのだが。
意味もなく、両目の包帯に触れる。
これが、今回新しく手に入れた唯一のモノだ。
二年間もの間『死』に触れていた自分は、その概念をカタチとして視覚化する力を手に入れていた。
それは線として具現化し、無機物、有機物、空間を問わず現れていた。
それを見た時、世界とはどれほど不安定で脆いものであるかを思い知った。
そしてそれが『死』そのものであると理解した時、僕は自ら両目を潰そうとした。
しかし腕力が弱くなっていた僕は最後まで遂行する事はできず、途中で医者に止められてしまった。
そうして『死』を理解できる様になった僕の前に、さらに奇妙な人物が現れた。
荒耶宗蓮。僕の担当医だという彼には、唯一『死』が現れなかった。
包帯越しであっても線だけは見えてしまうのだが、彼は唯一の例外のようだった。
空間にも、無機物にも見えるのに、どうして彼だけは『死』が無いのか。
その事実は、僕の中にしこりを作っていた。
「目が、治る──」
確かにあんな世界を見るのは二度と御免だが、もう一度彼に会って、その『死』を確かめてみたいという欲求も芽生えていた。
何もない世界。そこに『あった』頃はとても満ち足りていたように思える。──何故なら僕の側には、朧げな姿をした『誰か』が寄り添ってくれていたから。だから、あの場所でも耐えていけたのだ。
それらを思えば、あそこに繋がっているこの目を潰してしまうのは躊躇われた。そうするば、荒耶の『死』が見えない絡繰りも、あの幻じみた人物が誰だったのかすら確かめられなくなってしまうから。
「ほう、思い留まったか。それほどに気になる事があって何よりだ」
突然、女の声がする。
こいつは──何だ?
足音も無くにじり寄ってくる。
この重さすら感じる威圧感と、気配が少しも感じられない不気味さは、まるで──。
「直死の魔眼か。そんなものを生きている内に見ることができるとはな。まったく、易々と奇跡を起こしてくれるな、おまえは」
「おまえは、何だ?」
僕の問いに、ソレは笑みを零し、カチッとライターを起動する。
「魔術師、蒼崎橙子。おまえの目、そいつの使い道を教えてやりに来たんだ」
──蒼崎橙子。それはあの女医と全く同じ名前だった。
「これの使い道……?」
「そうだ。その目は知っての通り、対象を視るだけでその死を具現するものだ。両儀に限らず退魔の者達は皆『淨眼』と呼ばれる霊視能力を持つが、おまえの場合は長く死に触れていた所為で魔眼に昇華されてしまったんだろうな。それも睨むだけで万物を死に至らしめる眼という特級の貴重品に。何に使うつもりかは知らんが、破壊を免れて何よりだな」
「……目的なんてないが、壊しても意味がないだけだ」
「そうだろうよ。意味など無い。おまえの苦悩と同じでな。いい加減認めろ、両儀織。どうあってもおまえは普通には生きられないし、『両儀式』に戻る事もできやしない。なら、『幸福に生きる』などという幻想は棄ててしまえ」
……確かに、僕はどうあっても普通にはなれないし、ホンモノになる事もできない。
でも、そうであってもいいと、ダレカが言ってくれたような気がしたから。
覆すことなどできまいと、反論だけはしておく。
「僕には、どちらを選ぶ意志なんて残ってない」
「ふん。空っぽだからか? そんなのは今に始まったことじゃない。おまえは始まりから欠けていたんだよ。両儀として二つの人格を持って生まれたにもかかわらず、おまえには『女性』が芽生えなかった。この時点で歪みが生じていたんだが、それでもおまえは太極として機能を果たし、あちらの世界に到達した。おまえの肉体が純正ならざる『混ざり物』だからさ。織という人格はね、正確には『陽中の陰』でしかないんだ。男の肉体に男の人格しか持てなかったおまえは性質が違う人格を持ったところで陽極しか体現しえない。それを補う『女性の因子』が埋め込まれていたからこそおまえは完全になれたという事さ。おまえの染色体が通常とは異なる型なのもそれの影響だ。……まあ、おまえが両儀式にならなかったのも、大方その因子の所為だろうがね。 まったく、混ぜ物とはとんでもない事をしでかす輩もいるものだ」
「なん、だって──?」
「だから、両儀家は遥か昔に混ぜ物をされて純血を失ったという事さ。何処の誰がやった事かは知らんが、おまえの先祖は何らかの霊的手術を受け、その際に異物を埋め込まれたんだよ。おまえが両儀織として生まれたのは偶然なんかじゃない。……悠久より受け継がれた因果の果て。その必然。それがおまえの正体だ」
あまりの事実に、僕は愕然としていたようだ。
僕という存在が、不具合が、必然だって──?
莫迦な。そんなこと、誰も教えてくれなかったのに──。
「そうだな、事故の様な事さね。話は戻るが、おまえの悩みは単純な事だ。シキが欠けたから何だ。機能の一部を喪っただけだというのに。何か大切なモノが欠けてしまったとしても、それでもおまえは両儀織なんだ。両儀式に焦がれようと、不完全な存在である自分を憎もうと、おまえはおまえとして生きていくしかないんだ。死を選ぶ意志が無い限り、望もうと、望むまいとね」
「────」
ただ、静かな殺意を持って魔術師を睨む。
そうするだけで、視力を損なった目が死を具現する。
──死が、そこまで迫っている。
「上出来だ。やはりおまえは見どころがある。……その力の使い道を教えると言ったな。実はね、今日はあまり時間が無いんだ。何故なら──」
魔術師が言い切る前に、扉を開く音がする。
ずるりずるりと、引き摺る様な足音が部屋に響き渡る。
魔術師はそいつに対し、指先から何らかの弾丸の様なものを飛ばし、両膝を撃ち抜いて地面に倒す。
「──今日は、来客が多いようだからな。さあ、リハビリの時間だぞ。絶対に手を放すなよ!」
「一体、何なんだ──⁉︎」
そいつが何者かとか、何でとかを聞く前に、魔術師は僕をベッドから起き上がらせ、手を引いて走りだす。
状況を理解する暇もないまま病室を飛び出そうとした矢先、這いずっていた『客人』に足を掴まれ転倒しかける。
──冷たい。その人間としてはあまりにも温度の低い手に、驚くほど生気を感じない死んだ指に、ただひたすらに怖気が走る。
「放せ!」
それが生きた人間でなく死者である事を理解した僕は振りほどこうとするが、見た目以上に屈強な腕は弱った体ではびくともしない。
「ちっ、往生際が悪いな──!」
魔術師は追い討ちをかけるように中空に何らかの文字を描き、衝撃波で死者を壁に叩きつける。
死者が動き出さない内に病室を脱した僕たちは、全速力で走りながら地上を目指す。
途中、走りながら疑問を口にする。
「アレは一体、何なんだ?」
「アレはね、おまえの見立て通りの『死者』だよ。誰の差し金かは知らないが、呪詛を以って操られている。だから心臓を穿とうと、脳髄を焼き尽くそうとも、死ぬ事はない。肉体を完全に破壊するまで止まらない、厄介者だ」
「じゃあ、どうにもできないって言うのか」
「そうだ、あいにく手持ちの武装では効きが悪い。徳の高い坊主でも居れば話は別だがね」
「……そうか」
死んでいる者は殺せない。確かにそれは道理だ。
だが、一つだけ。
一つだけ、その理を覆し得る不条理を──知っている気がする。
……もっとも、それを実行するのは危険かもしれないから、今は手を握っている魔術師に任せることにしよう。
それに、今の僕には生きる意志も死ぬ覚悟も無い以上、状況に身を任せるしかないのだ。
◇
病室を抜け出した二人を待ち構えていたのは、もう三体の死者だった。
三体は何の統制も無いバラバラかつ緩慢な動きで彼らに迫る。
「まったく、おまえはつくづく人気者だな──」
魔術師──橙子は先と同じように中空に文字を描いて死者を迎撃する。
それはルーンと呼ばれる、古ゲルマンの民族文字であり、同時に描いた対象に文字の意味を具現する魔術刻印でもある。
描かれた三つの文字は起動すると共に死者の脚を焼き、その場に転倒させる。
そのまま這いずる死者に橙子は先も見せた、ガンドと言う名の呪いに、魔力によって物理的威力を持たせた赤黒い弾丸で手と頭を撃ち抜く。
こうしてほんの五秒程度の時間で橙子は死者を無力化した。これぞ熟達した魔術師の成せる技である。
「あいつら、僕を狙っているのか?」
「そうだろうな。でなければ病院全体に結界を張るなんて真似はしない。呪詛で動く死者といい、明らかにおまえを狙っているよ」
「そうか……巻き込んでしまって悪い」
突如として予想外の率直さを見せる織に、橙子は思わず笑う。
──空っぽだと言う割に、生死が掛かっている状況でも他人を気遣う。これは鮮花が気にかける筈だな。
「いいんだ。こうなることを見越してここまで来たんだ。それに弟子の頼みでね。守れない様では師として面目が立たん」
「──分かった。今はあんたに全部任せるよ」
「承知」
純然たる信頼に、橙子は迷いなく応える。
弟子の為、目の前の青年の為、或いは魔術師としての尊厳の為に。
◇
今の位置は病院の三階。
脱出を計るには階段を降りればいいだけなのだが、不幸な事に織の病室は階段から最も遠い位置にあった。その為正面出口から出るには廊下から階段まで直行するしか無い。
だが──。
「おやおや、こんなにお見舞いに来るなんて聞いてないぞ」
廊下から階段まで、死者の数は十二。
若者から老人、腐敗が進んだものから新しいものまで、多種多様な死体が二人を見据えている。
「悪いが、面会時間は二十時までなんでね。全員お引き取り願おう」
軽口を叩きながら、橙子はルーンを刻む。
同時に、全員の体が炎上する。
しかし、火力が弱すぎるのか即座に鎮火し、勢いを落とすことなく死者達は前進する。
手持ちのルーンでは火力も速度も不足と判断した橙子はガンドに切り替えて彼らを迎撃する。
その容赦ない射撃は死者達の体に穴を開けていくが、その勢いが衰える様子は微塵もない。
そして橙子が当面の脅威であると判断した彼らは、先ほどの連中とは違う、統制のとれた動きで彼女に殺到する。
予想を上回る知性と耐久性を持つ敵に橙子は歯嚙みする。
──まずいな。予想外に高性能だぞこいつら。それに前後を囲まれてしまった所為で逃走は困難、無力化も不能か……。
橙子が一人奮闘している中、織はただ立ち尽くす事しかできなかった。
──此処で死ぬ? シキと同じに死ぬ?
このまま殺されるというのならそれでもいい。そもそも生きている意味なんてないし、何の喜びも無いというのならいっそ消えてしまう方がマシだ。
死者が、橙子に押し寄せる。
そこで、ふと疑問が生まれる。
シキは、果たして死を望んでいたのだろうか。
いや、違う。結果はどうあれ彼はそんな事を望んではいなかった。
それに──自分の為に誰かが犠牲になる。それを彼が容認するだろうか?
これも違う。間違いだらけな彼だからこそ、そんな間違いは許さない。
そして今、自分の隣で危険に晒されているのは誰だろうか。
蒼崎橙子。僕の為に戦うと決めてくれた魔術師であり、何かと気に掛けてくれたカウンセラー。
彼女は今、僕の為に体を張って窮地に陥っている。
僕の為に。生きる事も死ぬ事も選べない、空っぽの器なんかの為に。
──駄目だ。
織の目が、心音の様に脈動する。
──そんなこと、絶対に許さない──。
包帯は落ち、その瞳が開かれる。それは正しく──
「生きているのなら、なんであろうと──────殺してみせる」
──『死』だ。
その瞬間、橙子は背中の粟立ちを感じ、迫ろうとしていた死者の腕が突然斬りとばされた事を認識した。
橙子は驚愕する。
当然だ。先ほどまで弱々しかった青年が、突如として死神もかくやというべき存在に変貌していたのだから。
織の右腕が突き出される。それだけで死者は胸を穿たれ、完全に活動を停止する。
「織、君は……」
「あんたに任せると言ったな、──あれは嘘だ」
それだけを伝えて、織は疾走を始める。
死者は躊躇うことなく腕を振るう。織はそれをいなし、ぐらついた隙に首を手刀で切断する。
死者は標的を切り替え、織だけを取り囲むように動きだす。
「織! こいつを使え!」
橙子は織に向かって鞘付きの短刀を投げる。
織はそれを受け取り、速やかに抜刀する。
そうするや否や、織は死者の群れに向かって回転斬りを放つ。
くるりくるりと、バレエの様に鮮やかに舞う。
それだけで、五体が両断されて地面に転がっていた。
死の舞踏は、終わらない。
鋭い蹴りを放つ死者に対し、織は足を踏みつけて地面に固定し、足先から寸刻みにしていく。
このままでは全滅と判断したのか残りの六体は分散し、内三体は橙子に向かっていく。
「舐めるな」
橙子はルーンによって結界を作り、防御体制を整える。
そして複数のルーンを描くことによって効果を重ね、死者に魔力の斬撃を見舞う。
魔力の刃は死者の四肢を切り落とし、戦闘不能に追い込む。
その間に三体の死者を斬り伏せた織は、地面に転がる残りの死者にトドメを刺し、念の為病室周辺の死者も殺しておく。
全ての敵を殲滅した二人は増援が居ない事を確認し、急ぎ病院から脱出する。
そして正面玄関のドアを魔術でこじ開けた彼らの前に、一体の死者が立ちはだかる。
「……ほう、死体に怨霊を取り憑かせるとは中々考えたものだな」
それはただの死者ではなく、怨霊によって操作されるより上位の存在であった。
これは自分では足止めするのが精々だと判断した橙子は、隣に佇む死神に問う。
「織、アレは殺せるのか?」
「当然。死んでいようがそうでなかろうが、アレは"生きた"死体だろ。なら──殺せる」
死神は、嗤いながら答える。
そうだ。死にたくないのなら、殺られる前に殺るだけの事。そう思うだけで、空虚さももどかしさも綺麗さっぱり消え失せる。
「ああ──それだけの、ことか」
知らず呟く。たったそれだけで、自分は目覚めた。
そうだ。この高揚、この刺激、これだけが自分を自分だと否応なく感じさせてくれる。
まったく、こんなに簡単なことなら、もっと早く教えてくれれば良かったのに──。
死者は、これまでの敵とは比較にならない疾さで織に接近する。
織もそれに応えるように直線的な軌道で距離を縮める。
勝負は一瞬。
死者が繰り出した高速のラリアットに対し、織はそれより数倍速く斬撃を見舞う。
交差する一瞬、死者の右腕は宙を舞い、重力に引かれて地面に落ちる。
──その前に。
斬られた腕が宙を舞っている間、織はとても常人には捉えられない速度で背面刺しを行い、死者は堪らず倒れ込む。
「つまらん。出直して来いよ、おまえ」
言葉とは裏腹に笑みを零す織は、掴もうとする左腕を踏み躙る。
そして何の躊躇いもなくその喉を突き刺す。
死者はその瞬間に死に絶えた。だが。
「──待て! まだ終わってはいないぞ、織!」
死体を操っていた怨霊は肉体を放棄し、織に乗り移らんとばかりに飛び出した。
──それも遅い。
織の肉体に飛び込む筈だった死者は、不可思議な壁によって阻まれていた。
「──存外に便利なものだな、魔術ってのは」
織の左手には、ルーンが刻まれた石が握りしめてあった。
そう、彼は病室を抜け出す際に扉の脇に置いてあったルーン石を回収していたのだ。
最初に這いずる死者に足を掴まれた時に偶然目に入った為、気紛れに拾った事が彼を救ったのだった。
「──終わりだ」
ゾッとするような笑みを浮かべ、織はルーンの結界ごと怨霊を抹殺する。
完全に敵を殲滅した織は最後にもう一度刃を振るう。刀身に付着した血と霊の残滓を祓う為に。
「……平気か、トウコ」
「ああ、おまえにそんなことを言われる程衰えてはいないよ」
橙子は突っ撥ねるように応える。
やはり、おまえはどれだけ空っぽになろうと両儀織なんだ。と内心ほくそ笑みながら。
「……それと、約束は守れよ。オレにこの目の使い道を教えてやるって」
彼の口調、在り方が定まった。魔術師もまた満足げに頷く。
「無論だ。ただし相応の対価は払ってもらおう。おまえには私の汚れ仕事を請け負ってもらう。生憎使い魔がなくなってしまってな。おまえなら私の片腕、良き狩人になるだろう」
織はただ静かに頷き、呟くように問いかける。
「それって、人も殺せるのか?」
魔術師は呆れたように嘆息する。
「当然、おまえの望み次第だ」
「いいだろう。勝手に使え。それ以外に意義もないからな」
空っぽな織は戦闘の疲労の所為か、地面にくずおれる。
魔術師は彼を介抱し、凍り付いた様な寝顔を眺める。
そして穏やかな顔で語りかける。
「意義がない、か。確かにおまえには意義なんて無い。それでも、そんなことがどうでもよくなるほど素晴らしいものを持っているじゃないか、織」
魔術師は妬むように、羨むように言う。
「まったく、なんて贅沢な男なんだおまえは。そんなに空っぽだというのなら、これからどんなカタチにでもなれるという事だろうに。この大たわけめ。おまえが手にしたものは無限の可能性、際限無く広がる未来なんだよ」
思わず魔術師は舌打ちする。
心から羨望していた自らの弱さを呪うかのように。
……こんな情が、私にもまだ残っていたとは。
橙子は嗤った。
人の縁の面白さを、自らの因果の奇妙さを。
されど、彼女達はまだ知らない。
この奇妙な出会いが、全て一つの意図の上に成り立っているという事を。
/3
穏やかな眠りを得て、夢の続きを見る。
いなくなった名も無きシキ。初めから意義の無かったもう一人の自分。
彼は何の為に生き、何の為に消えていったのか。
それを、理解してしまった。
彼は──僕に託したのだ。
そうでありたいという理想。そうであれという望みを。
それはどちらもあの少女が持っていたものではなかったか。
今はもう分からないが。
彼は最後まで無価値なまま、されど最後に意味を手に入れて消えていったのだ。
僕だけを、別れさえ告げずに置いていったまま。
◇
朝が来た。
漸く視界を手に入れた僕は、その眩しさに何度も瞬きする。
ベッドで眠っていた事に気付く。昨夜の出来事はきっとトウコが後始末したに違いない。……どうせ、不満を垂らしながらの作業だろうが。
まあ、そんなのは瑣末な事で。
僕はただ彼の事を考える。
名も無きシキ。何一つとして与えられなかった無価値なシキ。それでも、その生涯は決して無意味なものではなかった。
無様でも、滑稽でも、その最後に手に入れたモノはきっと何よりも尊く、素晴らしいモノだったに違いない。
そう考えると、僕は彼のことが羨ましくなった。
でも、それは彼だからこそ有り得た結末だったのだろう。
この朝日に消されゆく暁の様に、儚く消えることを選んだのは、僕ではないのだから。
◇
「おはよう、織」
傍らで鈴の様な声がした。
そこに居るのは、遥かな昔に知った友人だ。
黒絹みたいな髪も、海みたいな瞳も、僕の知っているそれと変わらない。
「わたしのこと、わかる……?」
声は明らかに震えていた。
──そうか。おまえがずっと織を待って、おまえだけがずっと、僕を導いてくれていたんだ。
「黒桐鮮花。……両儀織を導く者」
その呟きに、彼女は驚くべき反応を見せる。
ぼろぼろと涙を流しながら、全力で笑顔を作る。
それは矛盾しているようで、何よりも自然に映った。
「もう、二年も遅刻するなんて……! ホント、良い度胸してるじゃないの……!」
できる限りの明るさで彼女は軽口を叩く。嗚咽を漏らしながらだが。
それが、今は何よりも嬉しかった。
泣き顔である事も笑顔である事も、鮮花は選んだ。
無価値でありながら無意味でない事を、シキは選んだ。
──僕にはまだ、両方を選ぶことはできないが。
「……悪かったよ。謝るからほら、機嫌直してくれ」
その悲しみと喜びを両立した彼女の顔を、ただぼんやりと眺める。
そうしたところで意味は無いけれど、今はそうするのが精一杯だ。
柔らかで華やかな彼女の笑顔。
それは確かに僕の記憶にあるものと同じ、なくてはならない笑顔だった。
/4
「漸く、全ては振り出しに戻ったという事か」
「ああ、ヤツは完璧な殺人鬼だよ」
魔術師は昏く嗤う。
部屋のモニターに映っているのは、死者を相手に圧倒的な剣舞を見せる両儀織の姿だった。
その映像は傍らの青年──白純里緒が密かに撮影したものである。
「八卦を束ね、四象を廻し、両儀へと到る──」
魔術師は呟きを漏らす。
「"いずれ、相克する螺旋にて君を待つ"ってか? 正直聞き飽きちまったよ、ソレ」
青年もまた溜息をつく。会う度に同じ様なことを言う魔術師に内心呆れていたらしい。
「そう言うな。とにかく、これで計画は第二段階に入った。後は''あの四人,,に暴れて貰えばいいだけの事。おまえの出番はその後だ」
「つまり?」
「……おまえこそ、両儀織を破壊するに相応しいという事だ。二年前にもそうしたように」
堪らず青年はくつくつと嘲笑う様な笑みを零す。
「それにはあと半年は待つ必要がある。それまでに命じた事は成しておけ」
「了解。早速浅上藤乃の様子を見てくるぜ。あいつ、どうにも面白い事になってるんでな」
青年は音もなく立ち去り、部屋には魔術師だけが残される。
──浅上藤乃。第一の駒。
その力、どれ程のモノか見せて貰おう。
魔術師、荒耶宗蓮は静かに目を閉じた。
伽藍の洞・了
お読みいただきありがとうございます。
これで伽藍の洞は終わりです。一・二章は瞬殺だった所為でまともな戦闘を書くのは初めてという事に……。
橙子さんにも大活躍していただきました。
次回からは痛覚残留になります。
少し間が開きますが、気楽にお待ちしていただけると幸いです。
感想等があれば気軽にお寄せください。