空の境界 偽典福音/the Garden of false   作:旧世代の遺物

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 不定期更新です。


4/痛覚残留 -ever cry,never life.-
痛覚残留/1


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「どうしよう。わたし、どうしよう──」

 

 粘つくような闇の中、体にのし掛かる圧力が無くなった事を確認した藤乃は、乱れた着衣を直すと同時に胡乱だった意識を正常なものに戻す。

 彼女は近くにあるアルコールランプを灯し、自身を取り巻く闇を明るみに出す。

 足下には赤黒い雨が満ち、その上に幾つかのネジの様な肉塊が浮き上がっている。

 藤乃はそれを──昆虫じみた瞳で数える。

 

「一つ、二つ、三つ──四つ。──四つ⁉︎」

 

 どんなに数えても四つ。その事実に藤乃は愕然とする。

 ここに居たのは彼女を除き五人。それなのに肉塊は四つしかない。

 それが示す事実は実に単純だ。

 

「一人──逃がした」

 

 彼女は歯嚙みする。

 ここで彼を逃がしてしまった以上、自分の凶行が知れ渡るのは時間の問題だ。

 繰り返し彼女を陵辱した彼に警察を頼るという選択肢はないだろうが、苦し紛れに交番に駆け込む可能性も否定できない。

 ならば選ぶべき道は一つ。

 けれど──。

 

「わたし、なんてことを──」

 

 彼女は絶望する。

 自身の行いを知られたくないが為に彼を殺害しようと考えている自分と、そうしなければ破滅するしかないという現実に。

 しかし突如、彼女に声を掛ける者が現れた。

 

「キミ、どうかしたのかい?」

 

 気配もなく、いつの間にかソレは彼女の傍らに佇んでいた。

 藤乃は見られたという事とは別に、その不気味さに戦慄する。

 

「あなた、誰? どうしてここに──?」

 

 ソレはどうやら若い男の様で、獅子を思わせる金色の髪に爬虫類じみた同色の瞳は鮮烈な印象を与えている。

 そして何より際立つのはその匂い。

 腐臭と血の臭いが満ちるこの廃墟ですら消しきれない死の(かお)り。

 彼が幾度も血を浴びてきた事は明白だった。

 

「怖がらなくてもいい。俺はキミの味方だよ」

 

 男は存外に優しげな声色であやすように語りかける。

 恐怖と焦燥に囚われた藤乃はその蛇のように悪意に満ちた嗤いに気付かない。

 

「ああ、分かるとも。キミは復讐がしたい。そうだろう?」

 

 藤乃は首を横に振る。

 それは彼女の本心であるが、彼女は彼らをタダで赦すつもりもない。

 

「いいや、キミは本心に気付いていない。だってキミは──『普通』になりたいんだろう?」

 

 その言葉が、たったそれだけの単語が彼女を催眠術めいて縛りつける。

 彼女は、自分が頷いていた事に気付いていなかった。

 

「そうだろう、そうだろう! なら──彼に思い知らせてやるべきだ。キミがどれほど『普通』であるかをね」

 

 藤乃は応えない。

 確かに彼の言葉には一理ある。あれだけの事をされたというのなら、復讐を考えるのは()()()()()なら当然の事だ。

 でも──その為にもう一人殺すなんて。

 

「我慢する必要はない。()()だろう? 苦しいだろう? それはキミが普通だからだ。普通であるのなら──復讐は当然の権利だ」

 

 藤乃は自分が腹を刺されていた事を思い出す。

 瞬間、内側から捻られるような痛みが全身を駆け巡る。

 

 ああ、痛い。こんなにも痛い。

 痛いという事は普通という事。

 ──普通なら、復讐は当たり前の事。

 

「わたし、復讐しなくちゃいけないのかしら」

 

 藤乃は誰にでもなく呟く。

 その時、その口元が小さく笑みを作っていたことを男は見逃さなかった。

 

「それでいい。それでやっとキミは当たり前になれるんだ。……俺はここで。後はキミの好きにするといい」

 

 男は背を向け、足音もなく立ち去っていく。

 ──その前に。

 

「あなたは──何ですか?」

 

 男は幾許かの逡巡の後、言った。

 

「俺は何者でもない。──少なくとも今は」

 

 そうして男は去った。

 藤乃もまた、街へと歩み始めた。

 

 

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 今日も街を歩くことにした。

 昏睡状態から醒めて一ヶ月。僕は未だ自分が生きている事を実感できずにいた。

 ならばせめてその空白を埋めようと、かつての自分が嗜好していた行為を繰り返しているのだが、正直時間の無駄としか思えなかった。

 それでも止めない理由は決まっている。ほんの偶然でも何か変わった事に遭遇する機会を求めているからだ。

 トウコは、今の自分が空っぽだというのなら何かで埋め合わせていくしかないと言った。

 僕はただ、それを実践しているだけなのだ。

 

 時刻は既に午前零時。

 明日が平日だからなのか、いつもは喧しくて堪らない繁華街からは光が失われつつあった。

 雨が降った後だからか、湿気を纏った熱気が肌にまとわりついて気持ち悪い。暑さや寒さに鈍感な僕だが、この瞬間だけは黒の長袖に同色のコートを着てきた事を後悔している。

 そうして眉を顰めて歩いていると、路傍にしゃがみ込んでいる人影を見つけた。

 あれは──女か。

 女は修道女の様な服を着ていて、びしょ濡れのまま苦しげに蹲っている。

 ……確かその服は礼園とかいう女学院の制服だと幹也が言っていた憶えがある。

 

「不自然だな。なぜそんなヤツがこんな時間にこんな所に……」

 

 何にせよ、そいつが普通ではない事は明白だった。

 興味が湧いた僕は女に近づいていく。

 

「……!」

 

 ──血の臭い。

 眼前の女からは間違い様のない程の死の薫りがする。

 雨で殆ど流されてはいるが、僕の鼻を誤魔化すことはできなかったようだ。

 この濃度──おそらく血を全身に浴びたのでなければ説明がつかない。

 この時、僕は自分でも気付かないほど微かに笑っていたに違いない。

 

「おい」

「──⁉︎」

 

 女は明確に息を呑み、何度も瞬きする。

 その髪は長く、前髪はきちんと切り揃えられて一目で良家の出身だと判るが、ハサミで切られたように短い左側の房が違和感を感じさせる。

 

「あの、わたしに何か」

 

 女は蒼ざめた顔で応対する。おそらくチアノーゼだろう。

 彼女は腹部を押さえ、苦しげに顔を歪める。

 

「──トラブルか? 病気か? それとも両方か?」

「…………」

 

 女はしどろもどろするばかりで答えない。

 その姿を何故か──見たことがある気がした。

 

「おまえ、礼園の生徒だろ。全寮制だと聞いたが、家が近いから外出が認められているという事か?」

「違います。家はもっと遠くにあります」

「つまり家出だと?」

「……そうするしか、ないんです」

 

 ()()()()()()()()。この血の臭いといい、女が事件に巻き込まれたのは確実だ。それも人死にが絡んだものに。

 僕は益々興味が湧き、思わずこんな言葉を口に出していた。

 収穫があって何よりだ。とほくそ笑むのを隠しながら。

 

「なら、オレの所に来るか」

「えっ⁉︎ そんなの……いいんですか⁉︎」

 

 女は縋る瞳で訊く。

 

「ああ。あいにく何もない部屋だが、寝床だけなら貸してやるよ。それでも良いなら、来い」

 

 ぶっきらぼうに返したつもりだが、女は純粋に喜んでいるようだ。

 そして言葉を掛けることもなく手を差し出す。女もゆっくりと立ち上がる。

 ──やはり、僕は以前にもこんな風景を見た経験がある気がする。

 

 

    ◇

 

 

 特に話す事もなく歩いていく。

 女は苦しげに片腕を腹部に当てているが、真顔のまま平然とした足取りでついてくる。

 その動作のちぐはぐさは違和感となって現れ、知らず柄にもない呟きを零していた。

 

「痛いのか」

「……いえ」

「そうか」

 

 女は否定するが、それが虚勢である事は明白だった。

 それ以上言葉をかける事もなく黙々と足を進めていく。

 女は俯いたまま、チラチラとこちらの様子を窺う。

 その瞳に警戒は感じられず、どちらかというと信じられないモノを見ている、という感じだった。

 

 

    ◇

 

 

 女はアパートに辿り着くなり、シャワーを貸してくれと言い出した。

 僕はここに有る物は好きに使え、とだけ言ってすぐに上着をハンガーに掛けてベッドに入る。

 

「オレは寝る。後は好きにしろ」

 

 当然寝るなんてのは嘘で、実際は女の行動を観察する為の方便だ。

 何も起きなければそれで良し。何か変事があれば収穫だと考えての行動だった。

 

 十五分程経つと女はシャワー室から上がり、濡れた制服の代わりの箪笥にあった服を着る。

 それからすぐに一応置いてあった布団を敷いて眠りに就く。

 一時間は観察していただろうか、女は本当に眠っているようだった。

 僕はそれを見て、期待外れの為か薄っすら溜息をついていた。

 死んだように眠る女に釣られたのか、僕も眠りに落ちるまでそう時間は掛からなかった。

 

 

    ◇

 

 

 翌日、僕より先に起きていた女は礼儀正しく正座していた。

 僕が視線を向けると深々とお辞儀する。

 

「昨晩は本当にお世話になりました。返礼はできませんが、心から感謝しています」

 

 立ち上がってもう一度頭を下げると、女はすぐ出て行こうとする。

 それを認識した瞬間、僕は自分でも信じられない事を言っていた。

 

「まあ待て。メシぐらい食っていけ」

 

 半ば反射で言い放った言葉に女はあっさりと従う。

 ……一応、理由には心当たりがあった。

 この女には何故か奇妙な懐かしさを感じたからだ。

 以前、何かの機会に出会った事がある……。二年の空白で読み込めなくなった記憶では思い出す事はできないが、とにかくそう感じていた。

 だからもう少し彼女を観察したくなってこんな提案をしたのだろう。

 

「とりあえずそこに座ってろ。少し時間が掛かるからな」

 

 そうすると言った手前取り消す訳にもいかず、自分から提案した癖に渋々台所に立つ。

 冷蔵庫の中を確認してから、今ある食材で作れるものを考える。

 

「……米しかない」

 

 流石に自分ならともかく他人に出すとなれば炊いた米だけという訳にはいかない。

 そうなれば必然的にそれ単体で完成する料理──粥を作るしかないという答えに達し、滅多に着ない割烹着を身に付けて調理を始める。

 

 そうしているとあれこれと意味の無い雑念が頭を過る。

 もっとマシな提案はなかったのかとか、余分な面倒を負ってしまったものだとか。

 それに────。

 

「……鮮花にだって、してやった事ないのに」

 

 そうだ、他人に料理を出すなんて経験は家族相手ぐらいのものだった。

 友人である鮮花にだって試した事がないのに、どうしてあんな見ず知らずの女に──。

 

「……何を考えている」

 

 いや、そんなのは瑣末な事だろう。今はただ目の前の作業に集中するべきだ。

 そうして完成した粥を部屋に運び、食事を始める。

 ……そういえばこの部屋には机が無いのだった。多分、自炊なんて滅多にしないからだろう。今度からこういう状況に備えて用意しておこう。

 

「わたし、本当にお礼なんてできないのに……」

「気にするな」

 

 女と黙々と食事をしていると、不意に電話が鳴り出す。しかし食事中なので無視する事にした。

 すると留守番電話に切り替わり、もう聞き慣れた声が流れ出す。

 

「私だ。ニュースは見ているか? いや、見てないか。私も見てないからな」

 

 ……ナニヲイッテイルンダ、コイツハ?

 前々から妙なヤツだとは思っていたが、まさかこれほど思考様式が異なるとは知らなかった。

 

「どうにも妙な事が起きているそうだぞ。昨夜、放置されていた地下のバーで四人の少年の死体が発見された。四人の手足は全て捻じり切られており、血の付いた男の足跡があることから現場にはもう一人いた事が分かっている。もっともそいつが生存者なのか犯人なのかは明らかではないがね」

 

 興味深い話題に耳を傾けていると、女はびくりと反応する。

 その話題が出た途端に挙動不審を見せる女を、僕は怪訝な目で観察する。

 

 ──昨夜出会った時の匂いといい、明らかに不自然な反応といい、コイツが何らかの形で殺人事件に関わっている事は確実だ。

 まさか、この事件はコイツが──?

 いや、それこそまさかだ。この細腕で四人の男を捻じるなんて出来ようもない。

 ……それでも何故かこの女がただ者ではないという確信があった。

 

 突然、女は痛みに耐えるように蹲る。

 その蒼白としか言えない顔は昨夜見たものと同質のものだ。

 

「なんで……! 治った、はずなのに……!」

 

 彼女はカチカチと歯を鳴らし始め、飛び退くように立ち上がる。

 

「おい、どうした」

「──すみません。わたし、もう行かないと」

 

 彼女は茫洋とした瞳でよろよろと部屋から出て行く。

 その瞬間、ふと頭の中をある景色が過る。

 初秋の残暑の中、顔すら定かではない誰かに手を差し伸べる自分の姿が。

 

「もう行くのか」

「はい。わたし、もう戻れない。今まで本当にありがとうございました。 ……ごめんなさい」

 彼女は懺悔するように言葉を絞り出して立ち去る。

 僕はそれをただ呆と見つめていただけだった。

 

 ──この時はまだ知らない。

 ここで引き留めておけばあんな事にはならなかった、と後悔する事になるのだと。

 

 

    /2

 

 

「織、昨晩の事件の話は覚えているか?」

「ああ」

 

 翌日、いつものように事務所に向かった彼は早速、橙子から依頼の話をされる事となった。

 

「その件についてだが──」

「必要ない」

「ほう。やはり血の匂いには敏いようだな、おまえ」

 

 昨夜起きた廃棄されたバーでの殺人事件。その結末を教えただけでありながら彼は事件の概要をおおよそ理解していた。

 

「そこで一つ依頼が舞い込んで来てね。依頼主はどうにも犯人の関係者らしく、可能なら保護して欲しいと。だがもし抵抗したならその場で殺せ、とも言っているんだよ」

「''可能な限りは保護,,か……」

 

 織は眉を顰めて呟く。

 彼の意図を知ってか知らずにか橙子は付け足す。

 

「まあ、そこはどうでもいいだろう。これだけの事をしでかすヤツだ。おそらく戦闘は避けられん。──どうするね?」

 

 つまる所、依頼内容は明快。単なる見敵必殺(サーチアンドデストロイ)だ。

 

「もし、殺害した場合はどうする?」

「心配ない。依頼主が事故として処理するさ。事実上''彼女,,は社会的に死んだ者だ。死者を殺したところで法には触れない。──さあ、受けてくれるか?」

「──無論。答えるまでもない」

 

 織は感情もなく即答して歩き始める。

 

「いいね。初の対人戦だ。精々死ぬなよ?」

「……」

 

 彼は無視するのではなく、ただ聞き入れなかった。

 

「おい待て。標的の写真と経歴書を忘れているぞ。敵を知らずに戦うつもりか? おまえは」

 

 橙子は資料を投げるが、織は受け取らなかった。

 

「いや、いい。可能な限りは保護ってことはそっちを優先しろって意味だろ。なら、顔を知ればやりにくくなる。そいつとオレはきっと同類。だからこそ顔を知らない方が本質を理解できる筈。殺すならその後だ」

 

 当たり前のように、織は意外な答えを返す。

 てっきり即座に殺し合うつもりだと思っていた橙子は柄にもなく目を丸くする。

 

「意外だな。おまえがそこまで仕事に誠実だとは思わなかったぞ」

「回してきたのはあんただろう。何にせよ、仕事は仕事だ。結果はどうあれ、最低限の義理は尽くすさ」

 

 ──最低限の義理、か。 

 それは退魔としての誇りか? いや、それだけではない。

 ほう、まさかとは思うが織、おまえは──。

 

 敢えて言葉にせず、橙子はほくそ笑む。

 言ってしまえばつまらない。むしろ放っておいた方が面白い展開に転がるかもしれない。

 そんなある意味打算的とも思える事を考えながら。

 

 織は硬質な足音を響かせ事務所を立ち去る。

 残った橙子は独りごちる。

 

「これは認識を改める必要があるのかもしれんな。あの坊や、もしや殺人嗜好症という訳でもないのかもしれんぞ」

 

 それは誰に聞かせるものでもないが、心からの言葉だった。

 

 

    ◇

 

 

 橙子の前ではああ言ったものの、実際彼は犯人に心覚えがあった。

 あの時、路傍に蹲っていた一人の女。一晩部屋を貸したあの女。

 一度は否定したものの、彼には不思議と彼女こそ犯人であるという直感があった。

 橙子からの留守電に反応した時といい、纏っていた血の匂いといい。

 それでも彼には直感を信じきれずにいた。

 なぜなら、あの女には理由がないから。

 小動物のように臆病な、何かを怖れるように震える彼女。

 彼女が何らかの事件に関わっているのは確実だが、どう考えても今回のような猟奇殺人とは無縁だ。

 彼は橙子に自分と犯人は同類だと言った。

 ならば彼女も自分と同じような理由を持っていなければ犯人には成り得ない。

 殺人を愉しむ欠落、それを求める破綻が。

 

 一応、彼は犯人を保護するつもりでいた。

 彼自身、どうしてそうしたいのかは分からない。

 ただ、もし直感通りに彼女が犯人だったら、という懸念だけが渦巻いている。

 この時、彼はまだ気付いていない。

 本当に彼が殺人を求めているのなら、このような事で葛藤するなどあり得ないのだと。

 

 

    ◇

 

 

 友人に呼び出されて大学の食堂で待ち合わせていると、ちょうどいい時間に彼女はやってきた。

 彼女の名は相川春菜。わたしの幼馴染だ。

 なんでも頼みごとがあるらしく、しかもわたしにしか言えないというのだ。

 

「……で、何? 頼みごとって」

「うん、まあ人捜しなんだけどさ。わたしの後輩で行方が判らないヤツがいるの。どうにもソイツ、ヤバい事件に関わっちゃったらしくてね」

 

 春菜の話を纏めるとこうだ。

 彼女の後輩の一人が行方不明になっていて、しかもその後輩は昨夜の猟奇殺人の被害者の生き残りだという。名前は湊啓太だとか。

 当日、一度だけ彼は友人に連絡したが、話は支離滅裂でまったく要領を得ないものだったし、クスリでおかしくなっているようだったので、その友人が春菜に相談してきたというらしい。

 

「でも、どうしてそれをわたしに? 私立探偵にでも頼めばいいのに」

「だからよ。ほら、あんた探偵事務所でバイトしてるって噂があるでしょ。大学生のくせに探偵なんて珍しいもんだから、一部の界隈ではその噂で持ちきりよ」

 

 ……バレていたのか。わたしが『伽藍の堂』に勤務していることが。

 内心、わたしは自分が弟子入りしている人物の表社会での地名度に驚く。

 まあさすがにその実態までは気付かれることはないだろうけど。

 

「何よ一部の界隈って……。で、その後輩、ドラッグとかに手を染めてるの?」

「いや、やってたのは死んだ連中だけ。アイツは多分便乗して遊んでただけだと思う」

 

 あいにくわたしはそういった連中とは縁がなく、詳しくはないが彼らの行動理念はおおよそ想像がつく。

 

「ふぅん。珍しいわね、そういう連中と関わっているくせにクスリに手慣れてないなんて。……真相が単に初めてのクスリで悪酔いしてるだけならいいんだけど」

 

 そこで春菜が付け加える。彼が使っていたのは気分が陰鬱になるダウン系のクスリだと。

 わたしの見立てでは多分安価で入手性が高い大麻(マリファナ)あたりだろうと思う。

 

「とにかく、それだけの状況が揃っているなら彼が犯人に狙われているのは確実ね。どのみち犯人が生存者を生かしておく道理もないし。……しょうがない、引き受けるわ。彼らの交友関係とかわかる?」

 

 春菜は静かに頷き、アドレスをよこす。

 そこには膨大な数の名前と電話番号、それから溜まり場が書き込まれていた。

 

「それじゃ、見つけたら連絡するから。その場合、うちの刑事に保護してもらうことになるけどいい?」

「別に構わないけど。はい、これは捜査資金ね。一応、報酬はしっかり用意しておくから。その先輩の話じゃ五、六万は出すってさ。……あんまり無茶はしないこと。いいわね?」

 

 そうして春菜は二万円を渡してくる。

 正直こういう仕事は兄の方が得意だし、関わるべきではないと分かっているけど、わたしにはどうしても断れなかった。

 ──だって、わたしが放っておいたせいで人が死んだなんて寝覚めが悪いったらありゃしないじゃないの。

 まったく、こんなことだからお節介だのお人好しだの言われるのだろう。

 それでも悪い気はしなかった。少なくともそれで誰かの命が助かるというのだから。

 わたしは早速、街へ繰り出した。

 




 お読み頂きありがとうございます。
 今回から痛覚残留です。
 ようやく藤乃を描いていくことができますので執筆が楽しいのですが、繊細に感情を描かなければならないのでペース自体は落ちるかもしれません。
 何気に初めての料理回。しかも相手が鮮花ではなく藤乃という……。一晩泊めた事といい、もしバレたら修羅場不可避な感じが……。
 このssでの織は藤乃に対して少し思い入れがある感じで描いていこうと思います。

 感想等があれば気兼ねなくお書きください。その感想一つ一つが作者の燃料になります。
 
 
 

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