空の境界 偽典福音/the Garden of false 作:旧世代の遺物
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「ようやく、出来たか」
仄暗い闇の中、獅子のような青年は狂気を含んだ笑みを浮かべる。
周囲には雑多な実験器具が並べられており、中には乾燥させた植物──おそらく麻薬の類であろうものまで置かれていた。
彼はその内の一つである紙片を手に取り満足げに笑っていたのだ。
その紙片は全体的にピンクががっていて、所々が血を零したように赤く染まっている。
その奇妙な代物こそ彼の発明品であり、名を『ブラッドチップ』と言った。
「さて、まずは試験だが、何がいいかねぇ」
発明品とはいうものの、まだあくまで試作品であり、その効果は未知数だ。
そこで彼は、部屋で飼っているハツカネズミで実験する事にした。
「ほら、お食事の時間だ」
彼はネズミの餌に刻んだブラッドチップを混ぜ、ネズミに投与する。
すると投与した五匹の内三匹がもがき始め、嘔吐して息絶える。
だが、残った二匹には目に見えるほどの変異が始まっていた。
ネズミは途端にけたたましい叫びをあげ、お互いの身体に喰らいつく。
「こいつは……!」
なんと変異したネズミはほんの十分ほどでクマネズミ並の体躯に成長し、もはやネズミとは思えないほど強靭な爪と牙を生やしていた。
二匹は檻を破壊するほどの力で互いに喰い合う。
その様はもはやネズミ同士の闘いではなく、猛獣の対決だった。
勝負は呆気なく終わった。一方の牙が相手の首に突き刺さり、そのまま骨ごと噛み砕いたからだ。
そして勝者となった一匹は残りの死体を一息に喰い尽くす。
それは正しく『食べる』事にだけ特化した生物でなければ成しえない光景だった。
「ほう、これが効果だということか。摂取した対象に俺の起源を押し付ける。だから『食べる』起源に肉体を上書きされたこいつはそれだけを衝動とする生ける現象と化した。相手の起源ではなく俺の起源を表出させるクスリとは、使い道はありそうだが、失敗だな」
彼は発明品の欠陥を見抜き、失敗に終わったと断じる。
確かに『食べる』事に特化した生命を作れば使い道もあるだろう。だが彼が求めているのはそんな陳腐な事ではない。
「俺は見たいんだ……。人間の本質、その存在の根底そのものを。両儀……おまえが起源に目覚めた時、おまえは何を見せてくれる?」
彼が求めるもの、それは究極の超越性だ。
彼の師は言った。両儀を筆頭とする異能者達は起源に近い故に皆それに引き寄せられ、特別な力を手にしているのだと。
だが自分は違う。いや、むしろ起源そのもの覚醒させ肉体を支配させた自分は彼ら以上の特別だ。
あの両儀ですら、あの魔眼ですらもヤツの持つ起源の一部でしかない。
ならばヤツが完全に起源覚醒を果たした時、ヤツは何を見せてくれるのか。
それだけが、気になって仕方がない。だからそれに固執した。
今の自分には他者の起源に干渉する力はない。だからこそブラッドチップを完成させなければならない。
それが師の望みからは外れている事は識っている。だからこの実験は誰にも知られてはならない。
しかし止まるわけにはいかない。
いつか奴を完全に覚醒させ──それを超える。
ただその為だけに。
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早朝、わたしはようやく湊啓太を見つけ出した。
兄の真似事だが、ありとあらゆる情報を積み重ねて地道な調査を行い、その果てに隠れ家を絞り込んだ。
一応その部屋のチャイムを鳴らしてからドアノブを捻る。
鍵は掛けられていなかった。
「湊啓太さんね? あなたの先輩、相川春菜に頼まれて捜しに来ました。入りますよ」
できる限り音を立てずに入る。中は静謐に包まれていて薄暗かった。当然だろう。元よりこの部屋には住人は居ないのだから。
「──あんた誰だよ」
部屋に入るとその少年は怯えきった声で問いかける。
酷い有様だった。
頬はこけて眼は血走り、身体も小刻みに震えている。
春菜はクスリをやっていると言っていたが違う。
彼はそんな外部的なものに頼らずとも正気を失いかけていた。
多分、あの惨劇を目の当たりにしてしまったからだろう。
「あんた、一体」
彼は繰言のように問いを投げる。わたしはある程度距離をとって答える。
「春菜の知り合いの黒桐鮮花よ。依頼を受けてあなたを捜しに来たの。よろしく」
わたしは上辺だけの挨拶を交わし、感情を含めずに笑みを浮かべる。
……本当に気が進まなかった。
何故なら、わたしは彼がやった事を知っているから。
それでも目的の為に私情を挟むわけにはいかなかった。
「相川先輩の? どうしてあの人が」
「あなたが厄介事に巻き込まれたと聞いて心配してるみたいだから。保護してくれって頼まれたのよ」
行きましょう、と手を差し出すと彼は激しく拒絶した。
「ダメだ! 外に出れば殺される!」
「ここにいてもいずれは見つかるわ。ほら、その前に」
彼は充血した眼を見開いて睨みつけてくる。
わたしは冷静である事を示す為に腕を組んで壁に寄りかかる。
「事件の事は大体知ってる。犯人の事も──あなた達が彼女に何をしていたかもね」
彼は先程までとは違い、蒼ざめた顔で怯える。おそらく、今までしてきた所業を全て暴かれてしまっているという恐怖からだろう。
「事件の夜にあなた達五人は彼女をバーに連れ込んで暴行した。そしてその最中に四人が殺され、あなただけが逃げ延びた。でも──どうやって? 男五人もいて女一人にやられるなんてありえない」
わたしはそんなことは既に知っているのだが、確認の為に演技をする。
おそらく彼女が織と対峙していた時に見せたあの超常的な力。あれが彼らを葬った手段なのだろう。
「でも本当なんだ! 何を言っているかわからないだろうけど、オレもわからない……! あいつ、ただ『見つめていた』だけなのにみんな捻じ切れていくんだ。わけがわからなかった。そしてリーダーがバラバラにされた時、恐ろしくなっちまって逃げ出したんだ……! あいつ、初めから変だったけど、やっぱりおかしかったんだ──」
これで確認は取れた。やはり彼女の特別な眼が彼らを死に至らしめたのだ。
「やっぱりそうなんだ。実を言うとね、わたしもその子のこと知ってるんだ。まあそのことは置いておいて、初めから変だったっていうのは?」
彼は信じられない、というような表情で固まる。多分、どうしてそんな無茶苦茶な供述を信じられる、とでも言いたいのだろう。
「本当に変だったんだ……。何をしても無反応で、殴ってもクスリを呑ませてもけろりとしてるんだ」
「……」
彼らが藤乃に暴行を働いていたのは知っているけど、益々憤りが増してくる。
半年も暴行を受けた彼女はその報復として彼らを殺害した、というのは織からも聞いていた。だからこそ彼女は今も復讐の為の殺人を行っている。
元はといえば彼らが原因だというのに、無関係な人が殺され、藤乃自身も止まれなくなってしまった。
それが、どうしようもなく苛立たしい。
「見た目も肩書きも最高だったけど、凄くつまらなかった。なんか締まりも悪かったし。でも、あの夜は楽しかったな。仲間にヤバいヤツがいて、ナイフで軽く切っても無反応の藤乃にイラついたのか、バットで背中をぶん殴ったんだ。そうしたら派手に飛んで痛そうに呻いてた。そんな初めて見せた人間味がそりゃあもうそそるもんで。そっからはもうメチャクチャだった。もうやめて、なんて泣きながら懇願するあいつを全員でマワした。でもオレは逆にホッとしたんだ。ああ、こいつもちゃんと痛みがあるんだなあって。んで、それから──」
「──────最低」
ただ、それだけを言い放つ。
自分から感情の波が引いていくのを感じる。
沸騰しそうな怒りとかそんなものじゃない、もっと冷たい何か。
これ以上聞いていると自分でも何をしでかすか分からない。
だからこそ憤るのは止めにして、目の前の人物に一切の感情を向けないようにした。
「ふぅん。そういうことね。警察に知り合いがいるから、そこに保護してもらいましょう。そうすればもう安全よ」
「そ、それは嫌だ! それに出て行けば殺されるんだ! あんな風に殺られるならここで飢え死にした方がマシだ!」
出て行けば殺される、という言葉が引っかかる。
待ち構えているわけじゃあるまいし、見つかるのならまだしも、いきなり殺されるというのは飛躍しすぎだ。つまり、それは監視されているのと同じということで。
「もしかして、この携帯電話って」
「オレ、あの時にリーダーの携帯を持って逃げたんだ。それでその後電話がかかってきた。捨てたら殺すって。しかも毎晩電話をかけてくるんだ……。一昨日は昭乃、昨日は康平を殺したって! 友達を助けたいなら会いに来いって! できるわけがない……」
「ならここに辿り着くのは時間の問題ね。ほら、来なさいな」
「やめてくれ! どの道オレは死ぬんだ! なら死ぬまでここで隠れ続けるまでだ!」
もう勝手にしなさい、と言いかけたが、あくまでもこれは仕事だと割り切る事にする。
そこでわたしはある案を思いついた。
「……一つだけ、助かる方法があるけど。ただし条件付きでね」
その瞬間、彼の目に僅かながら光が戻る。
……こんな人間とはいえ、生死の境に立つ人間を助けるのに条件を提示するのは我ながらどうかと思うが。
「あなたをわたしの知っている内で最も安全な場所で匿う。それこそ警察よりも安全な所にね。その代わりあなたには浅上藤乃を誘き出す為の陽動役になってもらう。そしてわたし達が浅上藤乃に対処する。それだけであなたは警察に行かなくとも命が保証される。どう? 条件としては悪くないでしょう?」
陽動役になる、という言葉に目に見て動揺するも、警察に行かずとも助かる、という条件は魅力的だったようですぐに了承してくれた。
これだけのことをやったのだ、せめてその程度のことはやって貰わないと割に合わない。
……まあ、それでも虫の良い話だと思うが。
一応、自棄とはいえ死の覚悟を決めていたのだからその報酬という事にしておこう。
ともあれ、これで事は一歩進んだ。
わたしは薬物中毒者のように震える後輩を連れて事務所に向かった。
……その道中、通行人に怪訝な目で見られていたのはかなり恥ずかしかった。
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「ふむ、もう見つけ出すとは中々の手腕だな。しかも陽動に使おうとはおまえもそれなりにドライじゃないか」
「ええ。被害者とはいえ、場合が場合ですから。タダで助かろうなんて虫の良すぎる話でしょう」
橙子は自分の弟子が思っているよりも打算的な思考ができる事に感心していた。
とはいえ、実際は敢えて打算的に徹することで自分を納得させようとしているだけなのだが。
つまり、鮮花は利益になろうとなるまいと湊啓太を助けるつもりだったのだ。
そんな無駄だらけな、されど捨て去ってはならない未熟さに、橙子は微笑む。
「……それは良いが、これからどうするつもりだ?」
隙を見計らって織が口を挟む。
鮮花はやや食い気味に返すことしかできない。
「そうね、説得する……のが一番だと思うのだけれど」
「本気か? おまえも見ただろう、あの突発的な力の放出を。仮に対話が可能だったとしても、その最中に再発する可能性もある。そうなればもう手遅れだ。殺すしかない」
彼女は何も言えなかった。
確かに彼の言い分には一理ある。
実際、彼女もあの時の光景を忘れることはできなかった。
自分を見つめていた螺旋の瞳、捻じ切れた織の左腕、叫びと共に消し飛んでいく倉庫街。
それを思い出すと──今でも足が竦みそうになる。
本当に、浅上藤乃は手遅れかもしれない。それでも──。
「駄目よ。あなたにあの子を殺させるわけにはいかない。だってあなたが初めて助けてあげた人なんだもの。それを──無駄になんてさせない」
織は目に見えて呆れる。
これだけ言って、死にそうな目にも遭った癖に、彼女はまだ諦めないというのだから。
されど、少しばかり安堵してもいた。
やはり、この諦めの悪さがあってこその彼女だと。
二年前もそうであったように、彼女は今も変わらない。
その在り方に、少しだけ安心させられる。
「あと少しだけ、時間を頂戴。わたしもわたしなりに調べてみるから。あの子の異能、その根源が何処にあるのか、どうして今になってそれに目覚めたのかをね」
鮮花がそう言うと、橙子はあるだけの資料を手渡す。それを使えということだろう。
織は安堵したような、不満があるような複雑な表情で頷く。
彼自身も、その内にある本心に気付かないままに。
「それじゃ二人とも、行ってきます。遠出になるので、今日明日は帰れないかもしれないけれど、織のことは頼みますね橙子さん」
橙子は満足げに首を振る。
鮮花は最後に、形容し難い表情で佇む織に話しかける。
「待ってて織。上手くいけば助けられる方法が見つかるかもしれないから。……だから、もう無茶はしないで」
「分かってるさ。……おまえは変わらないな」
織は皮肉げに笑うが、その言葉には確かな信頼が含まれていた。
◇
「織、七人目が出たぞ」
切れ味の良い刃物のような鋭さを持った口調で、橙子は織に最悪の事態を告げた。
「それは、関係ある殺しなのか?」
「いや、湊啓太も被害者の事など知らないと。これは完全に余分な殺人だよ」
織は怒りと焦燥が綯交ぜになった表情のまま佇む。
「ふむ。行動するなら頃合いだと思うが、まだ待つというのか?」
「ああ。待つとも。約束……だからな」
織は何をするでもなく待ち続ける。
彼自身は今すぐにでも行動を起こしたいのだろうが、約束であらば破るわけにはいかない。
空っぽで薄情ではあるが妙に義理堅い。それがこの両儀織という男なのだ。
急いでくれよ鮮花、もう待てないかもしれないぞ──。
絵の具で塗り潰されたような青い空は、淀んだ暗雲に呑み込まれようとしていた。
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吹き荒れる暴風の中、鮮花は事務所に帰還した。
びしょ濡れの彼女を目にして橙子はきょとんとした顔を、織は安堵の表情を浮かべて出迎える。
「早いな。もう終わったのか」
「ええ。台風で交通機関が麻痺する前に帰ってきたんです」
橙子は興味深そうな顔で成果である浅上藤乃の話を催促する。
「まあ、その前に一つ。織、あの子を一晩泊めたって言ったよね。その時には何か不審な点はなかった? 違和感でもいい」
「むしろ不審な点しかなかったから泊めたんだよ。そうだな、あいつ、突発的に体調が良くなったり悪くなったりしていたな。痛みが治ったり甦ったりしているみたいだった」
そこで橙子は何か閃いたのか口を挟む。
「ああ、そうだ。藤乃が啓太のグループを殺害した時の決定打を言い忘れていたな。彼らは最後の夜に刃物で藤乃を刺したらしい。復讐のきっかけはおそらくそれだろう。彼女が腹部を刺されたのは二十日の夜。織が彼女を拾ったのもその直後だ。その時点では彼女には傷が残っていた。その二日に再開した時、彼女に傷はなかった」
橙子の提供した情報はどこか違和感があるものだった。
自身の見た記憶とその情報の食い違いに織は疑問を抱く。
「待て、何かヘンだぞ。刃物で刺されたと言ったな。なら傷は治るまで痛み続ける筈だ。けどオレが泊めた時からあいつは痛みが消えたり甦ったりしていた。先日会った時もそれは変わらなかった」
「何だと? ふむ、考えてみれば刺し傷が一日二日で完治するのも奇妙な話だな。つまり彼女はありもしない痛みを錯覚しているのか。治っているのに痛む傷ではなく忌まわしい記憶から生まれ出る痛みの幻視。それなら消えたり甦ったりするのも納得がいく」
「いいや違う。あいつには確かに痛みがある。オレの“眼”は誤魔化せない。あいつの体内には本物の痛みがあるんだ」
「あの、二人ともいい?」
そこで鮮花が口を開く。次の瞬間には予想だにしなかった情報がもたらされることを二人は知らない。
「話は変わるけど、湊啓太はあの子は何をしても動じなかったって言ったでしょう。調査で知ったことなんだけど、実はね、彼女は無痛症だったのよ」
「なんだと……! 彼女には初めから痛みがなかったと。それなら傷が治ってないにしても痛みが消える筈だな。しかしナイフで刺されていないとすると、彼女に痛みを呼び起こす発端が他にある筈だ。背中を強打したとか」
「ええ。彼女は背中をバットで殴られた事があるようです」
橙子はどこか快活に笑う。鮮花はそれを感情を抑えたまま眺めていた。
「ははあ、連中は彼女の背骨を折ったか罅を入れたというのか。その所為で彼女に痛覚が復活したと。それで初めて痛みを知った彼女はその意味を知り、憎しみという形に昇華させた。それで傷の痛みと共に屈辱の記憶が戻り復讐の動機に至った……」
「いいえ。付け加えますが、彼女は後天的な無痛症です。四歳になるまでは普通の体質だった」
「……そんな馬鹿な。脊髄空洞症ならば後天的にも成り得るが、それでは須く運動障害を引き起こす。彼女は痛覚麻痺を発症していても運動障害は患っていない。そんな特殊なケースは……。無痛症患者の多くは反復性脱臼によるシャルコー関節を発症し車椅子での生活を余儀なくされる事が多い。そして彼女にはそれは見受けられない。後天的というのもあり得ない訳ではないが、それなら前述のような脊髄空洞症になる筈だが……」
「ええ、そこは彼女の主治医も訝しんでいました」
鮮花は長野の山奥、嘗て隆盛を誇った浅神家跡での出来事を端的に説明する。
「彼女の旧姓は浅神。古くは地域一帯に名を轟かせた名家だったようですが、彼女が十二歳の時に破産し、母親共々今の父親──分家の浅上に引き取られています。彼女は四歳までは痛覚があったのですが、特別な力を持っていたようで。物を見るだけで捻ることが出来た、と」
「──待て。浅神というのは、あの浅神なのか⁉︎」
黙って座っていた織は目の色を変えて唐突に割って入る。どうやらその名は彼にとって無視できないものであるらしい。
「ええ。それがどうしたの?」
「まさか、あの浅神の直系とは。道理であれ程の力を行使できる筈だぜ」
疑問符を浮かべる鮮花に対し、織は整然と語り始める。
織自身、信じられないというような表情を浮かべながら。
「この国にはな、神代から存在し人間と敵対していた
鮮花は愕然とする。
当然だろう。妖の実在は橙子から聞かされていたとはいえ、まさかこんな身近にその敵対者、それも筆頭となる者達が居るなど夢にも思わなかったのだから。
「それじゃあ、あの巫条グループや浅上建設っていうのは……」
「ああ。あれも分家だ。それだけじゃない、遠野グループって知ってるよな。あれは表向きは単なる企業連合だが、その本質は混血の一族を纏める宗主なんだ。このように、オレたちの社会の上層には一般人が知らない形で
橙子は興味深いだろう、と鮮花に微笑みかける。
鮮花は予想だにしなかったその因果に驚愕する。改めて自分の暮らす日常の世界こそが伝奇小説めいた怪奇の巣窟になっていると実感させられたのだから。
「オレみたいなのを作り出そうなんて考えた両儀も相当に特異だか、浅神はさらに特異だ。あの一族は戦闘で捕らえた混血を飼っていたんだが、どうにも自分達がその混血と交じり合い、最後には没落しちまったらしい。その果てに生まれたのがあの浅上藤乃──。混血と退魔の合いの子とは、改めて恐ろしいものに出会ったもんだな」
鮮花は閉口する。
本当、なんて運命なんだろう。そんな二人が同じ街に暮らし、こうして争おうとしているなんて、と。
頃合いを見計らって鮮花は調査の続きを話す。
「彼女は里では鬼子と忌み嫌われていました。でも、四歳になった頃からその異能は消失していました。その感覚と共に」
「何故だ?」
「そこから彼女には主治医があてがわれたのですが、この主治医はなぜ藤乃が無痛症になったのかは知らないようなんです。それで事情を知らないまま薬品を提供した」
「提供した? つまりそれは投与したということか?」
「いえ。主治医はあくまでも提供しただけで、投与そのものは藤乃の実父が行っています。主治医自身の診察では藤乃は視神系脊髄炎の可能性が高かった為、ステロイドやインドメタシン等の副腎皮質ホルモンが流されていました。それと、藤乃の父は無痛症を治すつもりはなかったと」
橙子は突然に笑いだす。
察しの良い鮮花はその理由が理解できてしまったのか、何も言えずにいた。
「なんと──アレは先天的でも後天的でもない、人工的な無痛症だったのか! なるほど、浅神は意図的に感覚を封じることで能力も封じたのか。彼らは両儀や七夜とは同じ退魔でありながら全く真逆の道を選んだ。しかしその所為で彼女の能力は密かに鍛え上げられていった」
「……ふん。血の定めから逃がそうとした末路がこれか。せっかく綻びを繕ったのに、さらに大きな綻びが生じる。救えないな、オレもあいつも」
織は自嘲と憐憫がない交ぜになった顔で呟く。
きっとそれは、藤乃だけでなく全ての退魔と混血に向けられたものなのだろう。
「……それでどうする鮮花。確かにあいつの事は分かった。だがそれでどう対処するというんだ?」
「保護する、というのが一番だけど多分無理よね。きっとあの子はもうわたしたちを敵だと見なしてる」
「なら、戦闘は避けられないな。元より依頼主はそれを望んでいるんだ。あの怪物を殺せ、とな。あの時に止められなかった時点であいつは行き詰まりだったんだ」
鮮花は言葉を詰まらせ硬直する。
もはや、藤乃を救う手段などないという事実が彼女を打ちのめす。
それと同時に、尋常ならざる後悔が胸の内に突き刺さる。
そう、藤乃と街中で出会った時、彼女の異常に気付いてさえいれば──。
「わたしが……わたしがもっと早く湊啓太を見つけていれば……。全部、手遅れだったんだ──!」
鮮花は頭を抱え、その端正な顔を苦渋に染める。
思い出すのは一つの邂逅、二度の逢瀬、そしてこの悔恨。
そもそも前提からして望みなどなかった。その事実が彼女を鋭い棘のように苛む。
「違う。後悔するのはオレだ。おまえはよくやってくれた。オレはあいつの異常性に気付いていながら引き止めることはしなかった。だからこれはオレの責任でもある。せっかく最初から犯人だと感づいていたのに、何もしてやれなかった」
それを見かねた織はそれは筋違いな後悔だと鮮花を慰める。
責任を負うべきは自分である、と言って。
「……織、もうそろそろ依頼主も痺れを切らす頃だろう。いい加減行動をとるべきだと思うがね」
「分かってるさ。清算するのなら今しかないって事は。それで、あいつの潜伏場所は判る?」
「一応、心当たりはある。候補は三つあるから手当たり次第に行くしかないが」
橙子はそこで三枚のカードを織に渡す。それらは浅上グループの身分証明書だった。
しかし織はそのカードに書かれた名前を見て愕然とする。
──荒耶宗蓮。その厳かな響きを堪えた名は確かにカードに刻み込まれていた。
「そいつは偽名だ。適当な名前が思いつかなかったから友人の名を拝借させてもらってね。ま、そんなことは些事だ。浅上藤乃が潜伏しているのはその内のどれかだろう。これ以上被害が拡大する前に決着を付けてしまえ」
荒耶宗蓮。その名前に織の思考は釘付けとなっていた。
口には出さなかったが、彼は橙子とあの男が知り合いだとは考えもしなかったからこその驚きだった。
今思えば、橙子は彼の後釜だった訳で、同じ病院で勤務していたからこそ知り合いである事そのものには何ら不審な点はないのだが。
そこまで考えて、彼は一人納得してから思考を切り替えることにした。
「オレは行ってくる。鮮花、これはただ運が悪かっただけだ。誰の所為でもない。無論、責任はあいつとあいつを襲った連中にあるんだろうが、それでも誰か一人が悪いなんてことなないんだ。それに──もしあいつを殺すことになったなら、罪はオレとあいつだけのものだ。──だから、おまえがそう気負う道理はないよ」
織は背中を見せて鮮花にそう告げる。
顔は見えず、どんな表情であるのかは判然としない。されど、そこには確かな後悔と強い覚悟が感じられた。
そう──彼は藤乃の犯した余分な殺人の罪と彼女を殺す罪。その二つの咎を一身に負う心積もりなのだ。
鮮花は掛ける言葉が見つからなかった。きっと今反論した処で意味などないだろうから。
だから、ただ一つだけ言葉を送った。
「それじゃあ、気をつけて。くれぐれも無茶は禁物よ。……あなたを信じてる」
鮮花に出来ること、それはただ信じることだ。
織の良心を、藤乃の善性を、信じる。
「……努力してみる」
そう言って彼は発った。
空は暗く、風は強く。
──嵐は刻一刻と迫っている。
読んで頂きありがとうございます。
リアルが忙しくて中々執筆が進まず更新が遅れてしまいました……。
今回は漫画版月姫で説明されていた退魔と混血の説明を混ぜてみました。
おそらく次話で決着が着くと思います。
感想があれば気軽にご投稿ください。その一つ一つが作者の燃料となります。