空の境界 偽典福音/the Garden of false 作:旧世代の遺物
今回は幕間です。
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──七月の終わり。
あの事件から一週間近くが経った頃、僕はまた夜の街を逍遥していた。
あの後、僕は病院には行かず、トウコによる手当によって傷を癒している。
まあ、副業とは言えどトウコは医師であるわけで、医術においてもその腕前は一級だ。
元々僕は人一倍頑強な肉体を持っている為か、肋骨が二本折れたというのに、一週間という短時間で支障を来すことなく激しい運動をこなすこともできている。
トウコにも鮮花にもできる限り安静にしていろ、と言われているが、そぞろ歩き程度なら良いだろうと、こうして街まで出てきたというわけだ。
一応、今回は以前のような怪異との遭遇を求めてというわけではなく、気晴らしであるので喧しく刺激の多い繁華街ではなく、閑静で人気のない路地を選ぶことにしている。
──そこでふと、左腕に痛みが走る。
……なんてことはない。ただの幻肢痛
浅上藤乃との二度目の逢瀬の時、僕は左腕を砕かれ、その代わりにトウコが製作した人形そのものの腕が収まっている。
詰まる所義手であるわけだが、そのシンプルな外見に反して内部は複雑な機構で隙間無く埋められており、神経も生身の腕と同様に機能している。
当然元の腕ではない為、人間の脳が失った四肢の痛みを誤認する現象──幻肢痛が起きることは覚悟していたのだが、トウコに言うには根底から異なる現象であるらしい。
どうにも、僕の肉体は
この残留した痛覚が甦る度に、彼女──浅上藤乃のことが思い出される。
見舞いに行ったトウコと鮮花が言うには、彼女はあの大橋に対して力を行使した所為で視力を殆ど喪失してしまったらしい。
だが、同情するつもりなどない。
実際、数々の要因は有れど復讐の名の下に無意味な殺戮を行ったのは彼女自身の意思であり、どんな理由が有ってもその所業の結末は己自身が見届け、背負って行かなければならないと思う。
つまりこの結末こそが彼女の贖うべき罪で、与えられた罰なのかもしれない。
……だが、話はそれだけではなかった。
なんと、視力を喪った彼女はその代わりとしてなのか、痛覚が復活したというのだ。
そしてそれは、あまりにも残酷な罰のカタチだと言える。
もし彼女が視力も痛覚も喪っていたならば、きっと自分に閉じ籠って逃げ続けることもできただろう。
だがあの歪曲の魔眼の所為で、本来歓喜すべき生の実感は、
きっと彼女は、これからも罪に刻まれながら、罰に苦しみながら生涯を築き上げて行くのだろう。
──かつて鮮花は言った。
藤乃は幸福に生きれば生きる程、その罰は重く苦しいものとなっていくのだと。
だから僕は答えた。
──なら、精々苦しめばいいと。
もし、今でも浅上藤乃が許せないか、と聞かれれば僕は許せないと答えると思う。
それはきっと彼女が僕の同類──もし一歩
だからこそ思う。
──いつの日か、彼女の罪を受け容れ、共に贖っていける者が現れることを。
そんな柄でもない感慨に浸っていると、どうやら路地裏に来てしまったらしく、眼前に月明かりすら照らしきれない、粘り纏わりつくような湿気を帯びた闇が顕現する。
──おかしい、何かがおかしい。
急激に深まっていく闇と、激烈に漂う鉄の匂い。
間違いない、この闇を──この骨の随まで染み渡る悪寒を僕は識っている。
あれは、いつのことだったか──?
心拍は跳ね上がり、冷汗が総身を潤し蒸気させる。
本能からなのか、ナイフを構え、前傾姿勢を取って狭い路地を突き進む。
──『ナニカ』が、そこに居る。
「おぉ、御ォ尾──◼︎オあぁ阿亜亞、キキきキ◼︎木──?」
『それ』は、およそ形容できるような存在ではなかった。
犬のようで猫のような、馬とも鼠とも取れる形状で、顔は無数の膿疱と眼のような組織で覆われており、躰からは肉食恐竜のような鋭い爪が付いた腕やら猛禽のような脚やらが突き出ている。
この世のものとは思えない、異形という概念を具現化したような姿もそうだが、何よりもその『死』の形が悍ましい。
捉える度に明滅を繰り返す死の線。
位置を変えながら全身を這い回るその線は、今まで見たありとあらゆる存在から外れた在り方だった。
「──ッ!」
ソレは僕の姿を知覚した瞬間、外見からは想像も付かない程計算された軌道で踊り掛かってきた。
そのチーターのような、舞い降りる鷲のような挙動と速度は、正しく
アレの鉤爪と牙に触れられてしまえば、数秒と経たずに僕は餌食にされてしまうだろう。
この饐えたような鉄の匂いは、おそらくこの異形の犠牲者のものである筈。
なら──。
「──殺さなくっちゃな」
勝負は一瞬だった。
僕は先ず頑強な左腕を敢えて翳し、その牙を封じる。
そして鰐のような顎が左腕を嚙み砕くより迅く、ナイフでその不揃いな腕を切り落とす。
だがその勢いは止まらず、左腕が軋みを上げる。
「──無駄だ」
ヤツの顎が僕の左腕を砕くことはあり得なかった。
寸前に僕はナイフを振り上げ、その無数の眼で覆われた脳天に突き刺し、眼前にその存在の死そのものを具現したからだ。
瞬間、異形の躰から種々の生物の組織が突き出し、聞くも堪えない叫びを上げながら泥のように溶解していく。
「……気持ち悪い」
こんなものを殺した所で、高揚感などある筈もない。
あるのは唯の不快感と、得体のしれない不安だけだ。
それにしても奇怪な生き物だった。
あれはこの世の摂理から外れた存在、非常識の世界にある存在だ。
僕には当然、その正体など知るべくもないが、アレの『起源』を定義するならば──。
「『食べる』か──」
──この時は知る由もなかった。
このあり得ざる怪奇は、ある男の狂気の一端でしかないということを。
◇
──今日はもう帰ろう。
取り敢えず今目にした怪奇を織は彼の雇い主たる蒼崎橙子に報告しようと考え、歩んできた道筋を辿る。
平常とは違う、異様な生暖かさが漂う路地裏。夏の暑さもあってビルに閉ざされた狭い道は、人工の灯火が照らすことのできる歩道を境界に異界と化していた。
──まだ、何かが居る──?
気配はまだ消えていなかった。
尚も薄まらない血の匂い。
それは先の異形と同じ怪奇がもう一つこの場に存在していることに他ならない。
……そこに灯火はなく、道行く幸せな人々の騒めきも、耳障りな車の嘶きすらも届くことはない。
その静謐に異常などある筈もないが、だからこそ悍ましい闇を育む苗床に成り得るのだ。
そしてそこには──確かに人影があった。
織は歩みを止めなかった。
誘い出されていることは分かりきっている。
けれど本能が、両儀織という個人の深層に潜む記憶の残滓が、彼に立ち去ることを赦さなかった。
織は曖昧に闇へ踏み込み、模糊に光へ背を向けた。
「──!」
この場に第三者など存在しないが、それでも
そこに居たのは、紛れもなく人間だった。
だが、驚愕に値するのはそこではない。
何故なら、憶えてこそいないが織はこの状況を何度も体験していたからだ。
つまりこの異様な邂逅は、かつて織を運命の螺旋へと誘ったあの事件の再演なのだから。
──知っている──。
その人物は真鍮色の外套の下に青いワイシャツを着込み、黒のスラックスを履いている。
フードと薄暗さの所為で顔は見えないが、立ち姿から若い男だということだけは判明した。
何よりも異様であるのはその身に纏う血の匂いとも違う、更に別種の異端の薫り。
それは、紛れも無くヒトでありながらヒトではなかった。
「──くく」
声を押し殺して獣のような男が嗤う。
忘却した筈の悪夢の再現に、織はただ当惑するしか処方を知らない。
そう、この男はきっと──。
「おまえは、誰だ──⁉︎」
織の疑念の発露は、虚しく空を響かせるだけに終わった。
その純粋な問いが投げかけられるや否や男は織に向かって動き始める。
織は脳裏に渦巻き蠢めく無数の疑問を無視し、眼前の敵対者の挙動を捉えることに集中することにした。
だが──。
「捉えられんよ、おまえには」
存外に流麗な声音で、楽しげに男は呟く。
おそらく、織にとっては幾度も聞いたことのある、奇妙な日常の一部であっただろう声。
その決定的な答えの一端は、その余りにも不可解な男の動作を前に何の意味も持たなかった。
それは、既に人間の動きではなかった。
織は退魔の大家で育ち、鍛え上げられてきた『ヒトでありながらヒトを超える』ことを体現した純正の人間だ。
故に人間の構造を深く理解し、徹底的に利用することができた。
つまりそれは自分以外に対しても同じで、相手が人型であればどれだけ速かろうとその動きのクセを摑むことは造作もないことである。
それは超常の魔を身に宿す『混血』であれ、霊長の敵対者である『死徒』であれ人間としての構造を持つ生命体である以上、ある程度は共通する弱点だと言える。
故に退魔に属する者たちは単一の異能を武器とし、磨き上げることで彼らに挑み、殺すことが可能となるのだ。
──それなのに。
男は、完全に人型の制限を無視した挙動で織に迫っていた。
不自然な角度、方向に関節を可動させ、あり得ない筋肉の使い方をすることで実現された蛇そのものとしか言いようのない疾走。
それに山猫の柔軟性と迅さを加えた走りは、人外の魔と拮抗できる退魔の眼を以ってしても捉え難いものだった。
更に男は織の必殺の間合いの少し手前に迫ると、突如として蛇の走法を止め、さらに奇怪な方法で織の視界から逃れる。
「──くっ⁉︎」
刹那、織は自分が居た地面に深々と鋭利な刃が突き刺さったことを視認する。
あとコンマ一秒遅ければ、抉られていたのは自分の脳天だった。
久しく忘れていた死の恐怖、生の躍動に織は知らず歓喜していた。
織は頭上から飛びかかられたと認識していたが、実際は違った。
男は跳躍してなどおらず、腰を地面に擦るほど引くした状態で接近してから、獲物を捕らえる蟷螂のように急激に姿勢を高くすることで織に頭上から攻撃されたと錯覚させたのだ。
男の爪から織を生かしたのは織が速かったからではなく、単に織がこれから行われるであろう攻撃を予測し、実行に移されるより先に背後に跳躍したからに過ぎない。
織はあくまで冷静に、沈着に敵を観察する。
その手に握られている得物は分厚く、艶のない黒一色で刀身が塗り潰された、鉈に酷似した刃物であった。
マチェーテ、或いはマチェット。中南米で日常的に使われる万能の刃物であるそれは、時に海兵隊などが軍用に用いることもある代物だ。
時に藪を払い、薪を割り、動物を解体する為に使われるそれは、軍に使われるだけあってヒトを殺傷するには十分すぎる威力を秘めていた。
しかもそれを振るうのがヒトでなく人外の獣であるのだから尚のこと。
対してこちらの武装は戦闘用の大型ナイフ。リーチの上では圧倒的に不利であることは明白だ。
次に身体能力──これも先の接触で埋め難い差が付いていることが分かりきっていた。
力と速度。この二点においては極めたとはいえヒトでしかない織は決定的に劣っている。
それを埋めあわせるものがあるとすれば──。
「見せてやるよ。勝敗を決めるのは力や速さだけじゃないってことを」
男が跳躍を始める。
今度はビルの壁を利用した三次元の軌道で今度こそ織の頭上から隼じみた姿勢で迫り来る。
織には当然その動きは捉えられない。だが、そんなことは問題にはならない。
男の奇怪な動きそのものは確かに不可捉だ。だがそれはあくまでも『過程』でしかなく、最終的に攻撃という単一の結果に至るまでの計算式でしかない。
つまり、結局のところ攻撃できる場所は一つしかないということだ。
なら、捉えるべき場所はその一点だけだ。
男が急降下を始めた瞬間、織は寸分の狂いなく精密機械のような技巧を以って薄刃を投擲した。
単純ながらも凄まじい速度で迫る刃に、男は驚くべき技術で以って対抗する。
その刃が男の眉間に突き立つ前に、男は首ではなく頭そのものを曲げ、完全に回避することに成功したのだった。
「骨格が、変形した──⁉︎」
あまりにも理不尽な光景に、織は改めて戦慄する。
あれだけの動きができる相手なのだ、当然と言えばそうかもしれないが、それでも関節ではない箇所に関節を作り出して可動させるというのは聞いたこともない能力だった。
或いは。
「その能力──体内操作か?」
織の推測に、嘲るように男は沈黙する。
体内操作──混血の持つ異能としてはごくありふれたそれは、彼らを超常の存在として視覚的に表現することが多い。
実際、織の推測は外れてはいなかったが、全てではないことは彼自身理解していた。
──この男からはそんなありふれたものではない『特別性』を感じる。根拠はないが、この男の持つ異能の本質はおそらくこの世に二つとないとびきりの『異常』であると。
それからは、同じような対峙が繰り返された。
男は様々な獣の術理を以って織に迫り、その度に織の精緻な技巧に押し返される。
それは互いの技量が拮抗しているからなのか、それとも決着をつけるつもりがないのか、既に双方にすら判らない解であった。
「……おまえは、何なんだ?」
先に口を開いたのは織だった。
未だ正体の摑めない謎の存在。織自身、いつかどこかでこの青年と遭遇したという確信があった。
ならば、なぜ自分を害そうとするのか。
疑問は絶えない。
「……おまえさん、そこにいると死ぬぜ」
織はその唐突すぎる忠告を、理解するより先に受け容れた。
織は躰を限界まで引き絞り、バネのように解放することで瞬時に後方へ移動する。
次の瞬間、尋常ではない轟音と爆炎が路地裏を包み込む。
何の偶然か、織と男の間に位置していた柵には時限爆弾が仕掛けられていたのだ。
織は爆弾が発する赤い光を察知して、爆発する寸前に回避することで難を逃れることができたのだった。
暫くすると煙が晴れ、視界が明瞭になるが、男の姿は消えていた。どうやら爆発に乗じて逃げてしまったらしい。
「……また、変なのが現れたということか」
この爆弾が男の仕掛けたものではないことは明白だった。
疑問は渦巻き、消えることなく漂い続けている。
結局、あの異形と獣のような男の正体は少しも摑めなかったが、それでも解ることはある。
それは、この夜の闘いは新たなる敵の出現を意味するものであるということだった──。
お読み頂きありがとうございます。
今回の異形の外見は、何処ぞの狩人が悪夢の中で狩っているようなのをイメージして描きました。
いよいよ次回から未来福音です。
もし宜しければ感想、評価の程をお願いします。