空の境界 偽典福音/the Garden of false 作:旧世代の遺物
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──遥か彼方、刻の果て。
男は目を覚ました瞬間、膨大な知識が脳髄に詰め込まれていく感覚を覚えた。
その通常ならありえない感覚を──男は当然のように受け入れ、深く、呪うように嘆息した。
「やれやれ、また汚れ仕事か。まあいい、何時ものことだ」
男は草臥れ、光というものの一切が消えた瞳で周囲を見渡す。
残響する蝉の声、一面に茂る芒、そこかしこに残る熱月の名残。
今が如何なる時代、如何なる場所であるかは自動的に詰め込まれた知識に依って理解していた。
男の知っている限りでは──故郷であるこの国のこの時代は、後の世の趨勢を決定する大きな戦の直前であり、世は不穏な空気に支配されている筈であった。
されど、この村にはそのような剣呑さは僅かにも見受けられなかった。
その楽園のような穏やかさと素朴な美景は、男に遠い過去に置いてきてしまった光景を連想させるには十分すぎた。
それ故に──これから己が行おうとしている事に、男は擦り切れた心で嘆きを漏らす。
だが契約を違えることは許されない。他でもなく己自身がそうさせた。
幾星霜の刻の果て、度重なる
「さて──世界を救いに行くか」
行うべきことは変わらない。
そうあれと願われ、そうあると誓った時から、これまでも、これからも。
赤い外套を涼風に棚引かせながら、男は救世の戦いに向かった。
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「──何ということだ」
青年、天邏阿紀は村人の報告に歯噛みしながら、装備を整えて村に向かった。
ある日の明け方、一人の傷を負った女が屋敷まで駆け込んできた。
何事かと阿紀自身が対面した処、村では緊急事態が起きているという。
何処からともなく現れた一人の他所者。
異様な風体の男に一人の子供が声を掛けた瞬間、子供は血を噴きながら地に伏した。
理由は明確。男が目にも留まらぬ迅さで子供の頸を斬り裂いたのだ。
恐慌に見舞われた村人の中から一人の青年が武器を手に躍りかかるも、男はこれまた珍妙な形状の鉄砲で容易く青年を地に転がしてしまった。
──そこからは、あまりにも一方的な殺戮だった。
男は未知の武装で家々を焼き払い、逃げ惑う者も抵抗する者も、老若男女を問わず狗のように殺していった。
その中で辛くも生き延びた一人の女──最初に殺された子供の姉である──は、兄が男の気を引いている間に、村の支配者である天邏を頼って此処に来たということである。
今まであり得なかった非常事態に、阿紀の脳裏には最悪の可能性が過る。
『内府か太閤方に姉上の存在を知られた? おのれ、何ということだ──」
女の言葉に依ると、男は黒い鎧の上に赤い羽織を纏っていて、手には短刀と短銃が握られていたという。
『赤い羽織──内府の赤備えかと思ったが、黒い甲冑となれば違うか。まさか宗蓮と同じ、"魔術師"とやらか──?』
状況は最悪だ。
さらに運の悪いことに、紫希と荒耶は妖狩りに出ていて山に居る。
屋敷から少し離れた山、そこにいる彼らが異変に気付いたとしても帰ってくるには時間が掛かる。
しかも襲われたのは村人達。これでは紫希達の下に向かうこともできない。
狙いは明白、間違いなく紫希だろう。
早急に荒耶の助力を仰げないのは惜しいが、標的たる彼女が離れた場所に居るのはむしろ僥倖と言えた。
跡継ぎでもなく、際立って精強という訳でもないが、阿紀はかの"退魔四家"たる両儀の分家の者である。
故に──凡百の武士では彼らの積み重ねた"業"には到底届かない。
傷ついた女の治療を屋敷の者に任せ、阿紀は僅かな護衛と共に村へと駆ける。
その瞳を"淨眼"の極彩に彩らせながら。
◇
「今日はこれで終わりにしましょうか」
ふぅ、と一息ついて紫希は提案する。
「そうだな。もう他には見当たらないようだ」
私たちは今、屋敷から離れた山中に居る。
理由は何時もの妖狩りだ。
空を見上げればもう明け方になりつつある。妖の気配が消えたのもその為だろうか。
「さて、大仕事も終えたことだし、少しばかり豪華な朝食と洒落込みましょう」
「ああ。君の下女の作る煮物は格別美味い。初めて食べた時の感動は
激しい戦闘の後だというのに、私たちは平然と会話を交わす。
彼女と共に死地に立ち始めて半年は経つが、彼女の戦闘技術はとりわけ異様だった。
両儀に連なる一族が伝えるという、退魔の秘奥。
刀を手にした瞬間に脳の機能を切り替え、肉体を戦闘用に作り変えてしまう絶技。
普段はたおやかな彼女すらも、一度この業を行使すれば焼け付くような殺気を放ち、私ですらも畏怖せざるを得ない程に変容する。
それ故に私は──安心して結界による防御に全力を回すことができる。
結界に特化した魔術適正を有する私は、鍛え上げた拳打に依ってしか攻撃することができないが故に人外の者を敵にする時は手を焼かされることが多い。
されど、紫希の''殺し''に特化した剣技があればもはや畏るる敵は無い。
何よりも彼女の持つ''妖刀''。それを前にして切れぬ魔は無し。
「……っ!?」
──突如、全身に寒気が走る。
この感覚は──
「紫希、村の結界に反応がある。──侵入者だ」
「──! 何者?」
村には以前から敵意を持った侵入者を探知する結界が張っておいた。
ここは鬱蒼とした樹々に囲まれていて村の様子は分からない。
それでも──私は今だかつてない程の焦燥を感じている。
「判らない。だがこの気配……尋常ではなく強大だ。……何か強烈な違和感を感じる。急ぐぞ」
「ええ。村には阿紀が居るから暫くは大丈夫だと思うけど……あなたがそこまで言うなんて、きっと途轍もない猛者ね」
途端に空気が張り詰め、刃のような緊張感が充満する。
「正体は判らないが……この上なく嫌な予感がする。気を付けろ」
本能の導くままに私たちは村へ向かう。
──思えばこの時が紫希と過ごした最後の平穏だった。
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「莫迦な……何故こんなことができる……」
村の地獄のような有様に阿紀は愕然とする他なかった。
家々を這い回る煉獄の炎。折り重なる屍と煤が積もった地面。
苦悶が張り付いたその死相の全ては──阿紀が見知っている人々のものだった。
「巫山戯るな……巫山戯るな!」
阿紀は平生の涼やかさからは想像もつかないような憤怒の形相で誰にでもなく怒鳴る。
天邏一族が築き上げてきた村が、紫希の犠牲の果てに守り抜かれた平穏が──僅か半刻で灰燼と化した。
武士として──人として、もはや下手人を生かしておく訳にはいかなかった。
憤怒を内に秘めたまま、阿紀は屍の一つを仔細に見遣る。
自分と同い年の青年。最近妻が出来たと嬉しそうに語った優しい若者。
この青年こそ──屋敷に駆け込んできた女の兄であった。
沈痛な面持ちで青年を眺める阿紀の耳に、掠れた声が入り込む。
「……阿紀様……」
「! 生きておるのか!?」
「……どう、か……妹と、妻を……」
「──待て! 逝くな!」
「頼みます……」
青年はそれきり動かなくなった。
女の話では、彼が敵を引きつけてくれたからどうにか逃げ切れたとの事だった。
「──大義である。後はこの天邏阿紀に任されよ」
今際においても家族のことを託すその気高き魂を、阿紀は敬意を以って見送った。
そこで阿紀は青年の躰に残る傷に違和感を覚える。
胴体に三発の弾。紛れもない死因である。
『一人の人間に三発……? 銃という武器は一度撃てば装填に時間の掛かる物だ。それを一人に三発も? それに短時間でこれ程の惨状、敵は一人ではないのか?」
阿紀は青年の近くに転がる奇妙な鉛弾に気がついた。
その椎の実にも似た珍妙な形の金属。
青年の躰を貫通したのであろうが、それはあまりにも常識から外れた形の弾であった。
『球形ではない銃弾……。内府や太閤は新兵器を開発していたのか? この状況、不可解に過ぎる』
違和感を拭い切れぬまま、阿紀と少数の護衛は歩を進める。
その渦巻く黒煙の先に、彼は緋色の影を見出した。
「待てい! そこな者よ、貌を見せい!」
「……」
声に呼応して、音も無く影は振り向く。
その出で立ちの異様さに──阿紀達は息を呑む。
見たこともない黒い軽鎧。血のような紅い羽織、包帯に覆われ隠された貌。
──何よりも、恐ろしいのは双眸である。
包帯から僅かに覗くその、絶望に塗り潰された亡者の如き灰の瞳。
阿紀は今まで生きてきて──このような悍ましい有様を見たことがなかった。
「──下手人は貴様か。仲間は何処に居る」
「──仲間など居ると思うか? 僕のような者に」
包帯の下から存外に優しげな声が響く。
間違いなく下手人はこの男であると言うのに、阿紀は彼を完全に憎み切ることができない。
何の故か──男と荒耶の姿が重なって見えた。
「目的は判っておる。大方、姉上の力だろう。生憎、
阿紀は己の"淨眼"を起動させ、男を睨めつける。
彼には退魔の者達が保有する"淨眼"と呼ばれる特殊な眼を備わっていた。
ある者に遠見の力を、ある者に歪曲の力を与えるそれは、阿紀に対しては『魔を視認する力』を与えている。
紫希が躰から発する"魔の気"、荒耶が結界を作る際に放出するような不可視の動力。
そして混血の類が纏う強烈な"魔"。
これらは西洋魔術においては『魔力』と呼ばれる元素であるが、阿紀の淨眼はその種類や効果を識別することに特化している。
そうした数々の経験を踏まえても尚、この男が驚愕に値する理由。それは──。
『この男は、"魔"だけが固まって出来ている──!」
人間ではないのは明白だった。
だが混血であろうと妖であろうと生物である以上例外なく実体を持ち、魔力はその肉体から放たれるだけのモノに過ぎない。
それなのに、この男は思念体である亡霊ですらないというのに、魔力だけで肉体が構成されていた。
「貴様……何者。姉上をどうするつもりだ」
「知る必要があるのか? ──これから死ぬおまえに」
男はそう言い捨てると同時に、左手の短銃を発砲した。
耳を劈くばかりの轟音と共に、莫大な数の銃弾が吐き出される。
阿紀は咄嗟に左右に身を躱すが、反応仕切れなかった護衛の三人がボロ雑巾のように頽れた。
『何だこの銃は!? このような連射ができる火器等、聞いたことがない──!』
阿紀は初めて見た連射可能な銃の威力に驚愕する。
男が人外であるのは分かりきっているが、そのような者が規格外の技術で作られた兵装を手にしている等誰が想像できようか。
「──滅びよ」
阿紀は刀を構えると稲妻じみた速度で男に肉薄し、銃撃を潜り抜けた一人の護衛が背後から男に切り掛かる。
前後を挟むことによる挟撃。男の頸が胴と泣き別れするのは瞬きにも満たぬ程先のことだった。
──そのはずだった。
「
聴き慣れぬ異国の言葉が紡がれ、男の姿が消失する。
瞬間、護衛の頸が地に転がり落ちた。
「なっ──!?」
背後を取ったのは護衛だった。
だが背後を取られていたのは護衛だった。
何と──阿紀も護衛も認識する暇すら無く男は背後に回り込み、右手の黒い短刀で護衛の頸を寸断したのだ。
『行動の急激な加速──それが奴の力か!』
阿紀は爆発的に放出された魔力を視認し、一目で男の行使した技の正体を看破した。
行動の加速。速度というものは戦闘においてとりわけ重要だと言えるだろう。
技量や筋力を基礎として成立し、その場で変化させられない基本速度そのものを爆発的に加速させられる男の能力はまさしく驚異である。
男は加速した肉体で阿紀から距離を取り、銃を構えたまま出方を窺う。
阿紀もまた男の肉体を構成する魔力とは異なる、もう一つの完成した魔力が男の体内に成立していることを視認する。
『あれは結界か? なるほど、己の体内に結界を展開させ、その内部を加速させることで自身もまた加速しているのか』
男の加速能力の正体。
それは荒耶が最も多用する魔術であり、退魔にとっても極めて馴染み深い"結界"であった。
『見たところ奴が加速による負担を感じている様子はない。代償なくアレを連発できると考えれば末恐ろしいが……何よりも危険なのはあの異様な火器だ。アレを封じなければ話にならん』
阿紀は男がひたすら距離を保とうとする様子から、接近戦は得手ではないと推測して距離を詰めることに専念する。
当然だ。こちらは刀であちらは銃。その上連射までできるというのだから、こちらの土俵に持ち込まなければ勝負にならない。
阿紀は銃の射線を目視、寸前で避けられる角度を読み姿勢を低くして蛇行しながら迫る。
鉛の嵐が間近を引き裂いていくが意にも介さずその左の懐に潜り込む。
だが──男は距離を取らず右手の短刀で振り上げられた刀と刃を交わす。
短刀であるというのに打刀に対してこの競り合い。
男の予想外の技量に驚きながらも阿紀は十合、二十合と刃をぶつけて行く。
接近戦においてはこちらが有利──そう思っていたが、むしろ劣勢に追い込まれていることに戦慄せざるを得ない。
十の力を以って打てば一の力で逸らされ、一の力を以って逸らそうとすれば二十の力でそれを許さない。
男はむしろ斬り合いを得手とするのではないかと錯覚する程の使い手であった。
「
だが男は敢えて斬り合いをやめ、再び距離を取って銃撃を始めようとする。
「──させん」
唐突な後退は予想外ではあったがむしろ僥倖だ。
どのみちこのまま打ち合っていればいずれは崩されていただろう。
男の後退の起動、挙動の癖を掴んでいた阿紀は男が呪文を唱えたと同時にその後退に追いすがる。
そして一閃。男の短銃が弾き飛ばされる。
『これで奴は打ち合いに応じざるを得まい。後は己の腕に賭けるのみ──』
刃が男の頸に迫る。
男が短刀で防ぎにかかると見込んでいた阿紀は切り返しに備えて足に力を込める。
しかし──。
「
なんと男は倒立背転しながら短刀を投擲、そのまま三倍速で後退する。
「武器を手放すとは、血迷ったか!」
飛来する短刀を容易く弾き、無手の男目掛けて突進する。
だが、それこそが男の狙いだった。
男の右腕に先の短銃とは比較にならない、長大な古めかしい銃が握られている。
「──莫迦な」
男が武器を隠している気配はなかった。 それなのに何故。
阿紀は漸く理解する。
男は短刀を投擲した時、同時かつ密かに己の背後に長銃を投げていたのだ。
男が短刀で応戦していたのは、全て確実に長銃を当てられる状況を作り出す為の戦略であった。
曇りなき戦術眼で敵を見抜いた阿紀と狂いなき戦略眼で敵を見据えた紅い男。
その違いが二人の命運を分けさせた。
「
男はその場で銃を構えたまま更に加速する。
男の魔術たる固有時制御による時間操作で変速するのは単に挙動だけではない。
その根本となる酸素の運搬速度、脳内物質の分泌速度──つまり反射速度が真っ先に加速される。
そして──全霊で突進する阿紀の動きを、四倍速の男が捉えられない道理はなかった。
今なお盛る焔の中、雷鳴じみた轟が木霊する。
「貴、様──」
長銃の威力は想像を絶するものだった。
その猛威に曝され胸を穿たれた阿紀は堪らず崩れ落ちる。
そうして──己が始めから男の敵ではなかったことを悟り、姉を守りきれなかった無念に打ちひしがれた。
「すまんな宗蓮、姉上は任せたぞ……。おまえなら──きっと」
薄れていく意識の中、阿紀はただ願った。
己の最も信を置く、『彼方を継ぐ者』たる男に。
最早、彼に思い残すことなど何もなかった。
「……最後に問おう。貴様は何者だ……?」
何の感慨もなく去っていく紅い男に、最後の問いを投げかけた。
男は背中を向けたまま、呪うように答えた。
「ただの──正義の味方のなりそこないだ」
視界が白く塗り潰されていく。
寂寥感の漂う紅い背中。
何度瞬いても尚、その姿は荒耶宗蓮と重なって見えた。
「そうか……おまえも、そうなのだな」
その呟きは果たして誰に向けられたものだったのか。
紅い男はそれを理解する気はなく、阿紀も理解させる気はなかった。
男はただ与えられた役割に、自らに課した
遂に理想の成就を見届けることなく、天邏阿紀は紅い男に看取られる形で消えて逝った。
今回もお読みくださりありがとうございます。
過去編もいよいよ佳境に入りました。
オリキャラの阿紀は正直名前があるだけのモブにするつもりだったのですが、思いの他活躍させてしまいました……。
登場した紅い男はお察しの通りの方です。
遂に現れた紅き正義の執行者。
儚い幸福は露と消え、苦難の螺旋が道を示す。
次回、正義の味方とセイギノミカタ。
もし良ければ気軽に感想や批評等お願いします。