空の境界 偽典福音/the Garden of false 作:旧世代の遺物
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「────」
言を絶する光景があった。
私が幾度となく目にした景色。
もう見慣れてすらいたそれは──私の胸に罅を入れるには充分すぎた。
隣に立つ紫希に視線を向ける。
煮え滾る憤怒を見せると思っていたが、そこには凍えるような氷の双眸があった。
「……の所為で」
「紫希?」
「──わたしの、所為で」
村を包む紅蓮の焔。累々たる死屍。
その地獄を一目見た瞬間──彼女はその元凶を理解していた。
「……わたしは、在ってはならないモノだった」
絶望的な言葉。
そこにはまるでこの世の全ての罪過を背負うかのような嘆きが含まれている。
「──違う」
それは違う。
それだけは、その言葉だけは断じて口にして欲しくなかった。
「そんなことを言うな。君はただ、多くの人を救っただけだ。それに──君は必要だったからこそ生まれた」
「……それは、ただの妄執よ」
「そうかもしれん。だが、明確に必要とする者が居る。──例えば君の側に居る者だ」
彼女をじっと見つめる。
……細い双肩。こんな華奢な軀で彼女は全ての痛みを背負ってきた。
もし、それが分かち合えるのだとしたら。
「以前言ってくれたな。『私の味方で在り続ける』と。……私としては本気だと思っているのだが」
「……ごめんなさい。本当に惰弱ね、わたし……」
状況は絶望的としか言えないが、ともかく彼女が気力を取り戻してくれたのは幸いだ。
敵の目的はおそらく彼女。
ならば彼女自身にも戦力になって貰わなければこの状況は打破できない。
だが……。
『私は──結局誰も救えないのか』
眼前には無間地獄。足元には死屍累々。
──変わらない。
今回もまた、醜い欲得が尊いモノを踏み躙った。
胸を搔き毟る憤怒があった。泥のような悲嘆があった。それでも。
私の胸中は不思議と静まり返り、ただ諦観だけが囁きかけてくる。
どれほどの美景も、儚く咲く花でさえも、人は貪欲に踏み潰す。
変わらない人の性。本質を覗かせる獣性。
なら──もう諦めてしまえばいいではないか、と。
『……黙れ』
この村はもう終わりだ。ここまで徹底して蹂躙されては復興すらままならない。
何故何の宣告も無く襲ってきたのかは甚だ疑問ではあるが、そんなことは既に些事。
私も彼女も、首謀者を叩き潰すことだけしか考えられなかった。
「……阿紀が居たというのに、よもやこれほどとは」
「……彼とて退魔の端くれ。その力は凡百の武士とは比較にならないわ。それでも持たなかったなんて、敵は余程の手練れね」
私を信じ、姉を案じ続けた涼やかな青年。
弟のように思っていた一人の若人。
私は今まで特別な繋がりを持とうとしなかった。
それ故に──知らなかった。
喪失の痛み。傷とは比較にならない圧力。
だから紫希はずっと独りで居たかったのか。
この痛みを二度と思い出さぬ為に。
「必ずや、仇を討つ。これからどうするかはそれから考えよう」
「ええ。わたしにも誇りがある。もう何も残っていないけど──生きてさえいればやり直せる。──あなたは、連れ行ってくれるんでしょう?」
静かに、深く頷き違いを見遣る。
彼女の瞳に弱々しさはない。
退魔としての誇り、一人の人間としての決意が、そこにはあった。
──負けない。私と彼女なら。
「──行こう。為すべき事を為すのだ」
二人して焦熱地獄を歩む。
緩やかな坂道は既に遠く。
紅蓮に染まりし屍の道がまっすぐに世界を繋げている。
遠い遠い、慣れきった家路にて。
私は始まりの終端と出会った。
◇
まず目にしたのは紅。
鮮烈な色に染まった羽織り。
命の全てが途絶えた陽炎の彼方、ソレは屹立していた。
そして──その亡者が如き双眸と、視線が交錯する。
「貴様が……」
「ほう、漸くお出ましか、"太極の模造品"」
「……! あなた……!」
男は紫希を見て小さく驚きを零す。
南蛮風の装備といい、男が只者ではないのは明白だ。
だがそれ以上に──男は異様だった。
「貴様、何者だ? その身、霊体ではないが実体ですらない」
「ご名答。僕は人間でも亡霊でもない、"守護者"と呼ばれる類のモノだ」
「守護者だと? これだけの悪虐を為しておきながら何を血迷った」
よくも抜け抜けと。
男が何者であるかはもはやどうでもいい。
ただその語り口も、空気すらも癪に障る。
「……そういうこと。あなたはわたしを捕らえる気なんてない。確実に消し去る為に送られてきたのね」
「そうだ"ニセモノ"。おまえの存在は世界にとって危険だ。僕はおまえを殺し、世界を救う」
「莫迦な! 彼女が何をしたというのだ? 彼女の力は救いの力。それを消し去るなど……!」
男は呆れたように嘆息し、鬱陶しいと言わんばかりに紫希を見る。
まるで、『この駄目狗を黙らせろ』とでも言いたげな顔で。
「……ふん、何も分かっちゃいないな。あんた、話を聞いているかは知らないが、その女の力の本質は"収奪と譲渡"だ。これの意味が解らないとでも?」
「知っているとも。彼女は天邏一族の作り出した太極の伽藍。その力は遥か遠い"空"が齎す力の流れに干渉し、その流れの一部から力を取り出し、他者に譲渡する。そうだろう?」
「正解だ。だが無限の資源などという都合の良いモノは存在しない。万物には綻びがある。水にだって、大気にだって、意志にだって。"空"とは"万物の根源"。あらゆる存在は"根源の渦"から齎される魔力によって成立している」
──根源の渦。
魔術師が追い求めてやまない存在。
紫希の力が途方もないものであるのは知っている。
されど──その力がよもや世界の始まりにまで手を伸ばすものだとは──。
「……なるほどね。わたしが力を汲み取っていたのは"根源の渦"とやらの流れから。それはつまり、本来世界に回される筈の力の一部をわたしが奪い取っていたということなのね……」
「漸く理解したか。救いの力? 莫迦莫迦しい。おまえ達の行いは世界から寿命を前借りしていただけの、決定的な破壊だ。その女は世界の敵。霊長に仇なす破壊者だ。そんなことも解らずに救いなどと──まるでタチの悪い冗談だ」
何も言えなかった。
私たちの行い。その正体は致命的な過ちだった。
認められない──。それでは、私たちの悲願は一体何だったのだろうか?
「あはは……本当に、莫迦みたいね……。人を救うなんて言っておきながら、その実世界を破壊していただけだったなんて……。やっぱり、わたしは……」
紫希は項垂れ、人形のように渇いた嗤いを零し、ただ己の愚かさを呪った。
男は明確な怒りを湛え、激昂するかのように強く語る。
「人を救うだと? ふざけるのも大概にしろ! 人間を救うことなど不可能だ! 救われない者が居なければ救われる者は吐き出されない。誰かを救えば誰かが救われない。そもそも──僕がここにいるのはおまえたちが直接の原因じゃない」
「──もし大名達がわたしの力を手にすれば、より多くの力が消費される。……より世界の終末が早まってしまうから」
「その通りだ。全ての人間を救うことはできない。結局、救えるのは肩入れした方だけなんだ。十の人間が居たならば、九を救う為に一を切り捨てなくちゃならない。初めから全てを救う選択肢なんて無いのさ。なら、最小の消費と最大の効率を以って最短の内に終わらせる。救いとはそういうものだ。それすらも解らずに救いを語るなど……愚かしいにも程がある!」
──何も言えない。
男の言い分は全てが正しかった。
私の願いが叶わないのは当然の話だ。
よく考えてみれば──救いとは相対的なものなのだ。
他者よりも報われたから幸福。他者よりも豊かだから幸福。
人間とは他者の存在があって初めて自分を実感できる。
ならば幸福とて同じこと。
ただ、誰かと比較することでしかその価値を認識できない。
ならば誰も彼もが幸福であるということは──誰も救われていないのと同じこと。
「一つ例え話をしよう。片方の船に三百人、もう片方の船に二百人。そこで両方の船に同時に穴が開いた。船を修復できるのはあんただけ。だが両方を修復できる時間はない。どうする?」
「……決まっている。三百人を救う」
「そうだろうな。それが正解だ。これで理解しただろう? 救いとは単なる演算なんだ。誰かを救うということは誰かを見捨てるということ。ならば──今回も同じことだ。僕はその女を殺して、全人類を救おう」
男の言葉は正しかった。
けれど──大切な何かを忘れている気がした。
「恨むなら好きにしろ。おまえが誰かを救う度に名声は高まり、その力を巡って争いが起きる。……より多くが犠牲になる。もう諦めろ。おまえ達は僕と同じ、度し難い愚か者だ。ならいっそ、ここで死んだ方がマシだ」
「……そうかもね。結局、わたしに出来たことなんて破壊だけ。なら──」
「──!」
彼女はなんら抵抗することなく静かに佇んでいる。
男が彼女に銃口を向ける。
後一秒も経たない内に、全ては終わってしまう。
「やめろ!」
脳裏にふと、ある言葉が甦る。
『大丈夫、あなたの祈りは間違いなんかじゃない。──できるわ。あなたとわたしなら』
──男は正しい。
人が人である以上、救いなどどこにもないことは分かっていた。
私の追い求める理想が空虚であることも知っている。
人は生き汚くて、醜いということも何度となく叩きつけられてきた。
それでも、救うことには意味があると信じてきた。
そうできたのは、人が美しいからではない。
当たり前のように生まれて、生きて、死んでいくだけの生命。
それでも──尊いモノはあった。
間違いだらけで、愚かで、欲望だらけの人間。
彼らは必死だった。必死に生きて、少しでも多くの幸福を掬い取ろうとしていた。
変わらない、変えられない人の性。
だが──だからこそ尊いと思えた。
それを、彼女達は思い出させてくれた。
男は正しい。
けれど、男はそれを忘れてしまっている。
私は──何を迷っていたというのだ?
轟が響く。火薬が弾ける。
鉛は一直線に紫希に向かっていく。
されど──それは彼女を穿つことはなかった。
「──金剛」
男は憎々しげに私を見る。紫希は愕然と私を見た。
私が前面に展開した結界。それが銃弾を中空に縫い止めていた。
◇
「──宗蓮」
「……案ずるな。我らは確かに誤っていたのかもしれん。だが、あやつが正しいとも思えん」
荒耶の目に迷いはない。
その炎のような瞳は──まっすぐに『彼方』を捉えている。
「守護者と言ったか。確かに貴様は正しかろう。だが、何も分かっていないな。貴様は忘れている。人の尊さ、本当に大切なことの全てを」
「戯言を。あんたが正義とやらを標榜するのなら、そいつは討つべき敵だ。だと言うのにどうして守る? 何故邪魔をする?」
荒耶は思い出す。
己の半生。孤児として戦火をくぐり、僧に拾われ、魔術を学んだ日々。
そして──運命に出会った瞬間を。
忘れていない。否、忘れられなかった。
眩い後姿。彼はその姿に奇跡を見た。
「守護者とやら。命は数ではない。貴様の救いとやらが──誰を幸福にしてやれた? 貴様はただ死をばら撒いているだけだ。それで救いなどと、それこそ片腹痛いことよ。私は変わらない。そうあると誓った刻から、これまでも、これからも。ただ眼前の人を救おうとするだけだ」
ただ超然と、泰然と、荒耶は語る。
彼は変わらない。これまでも、これからも、いつまでも。
そして──その在り方は、ある一人の女を救うには充分すぎた。
「あなたは変わらないわね……。そうよね、わたしも誓ったんだもの。あなたが理想を果たすまで側に在り続けるって。まったく、わたしがこれじゃあ阿紀に示しが付かないわ」
紫希は当然のように粛々と、荒耶の側に立つ。
その瞳に、もはや儚さなど欠片も見当たらない。
「……識っているとも。その愚かさを、その罪深い在り方を。ああ、認めよう。おまえ達は僕と同じだと。だからこそ──ここで死ぬべきだ」
守護者は呪うように二人を見る。
二人は泰然と守護者を見定める。
悠久の刻の果て、永久に遥か理想の途上。
ここに二つの正義は逢瀬する。
September,1595
────焔。
轟々と猛る業火と暗雲じみた黒煙。
蒼天は紅く焼き尽くされ、地すら真黒に焦げ付いた。
涼風は熱風に、茂る木々は皆木炭に加工され、かつて在った幸せな世界は微塵に砕かれ泡沫と消えた。
揺らめく陽炎の彼方、果てなき地獄の果てに、二人と一体は互いを見遣った。
救世の求道者達は魔銃の射手を見出し……。
正義の執行者は黒衣の僧兵と太極の代用品を見定めた。
二人は執行者を赦すことはできなかった。
一体は求道者達を許す訳にはいかなかった。
語るべき言葉は、まだ多分にある。その気になれば、互いに憐れみ合えたのかもしれない。
それでも。
彼らが彼らである以上、この対決は運命の導きであった。
求道者達の一人──黒衣の僧兵は双拳を構え、もう一人の女は大太刀を抜刀する。
抜き身の刃そのものの殺意を受けながら、執行者は撃鉄を引き下げる。
雷鳴じみた轟が大気を駆け抜けるよりも遥か先に、双影は烈風のように疾駆した。
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守護者はまず紫希が握る刀を見遣った。
金の悉曇文字が鋳込まれた黒塗りの鞘から飛び出した漆黒の刀身。その大業物が纏う紅い妖気。
その宝具にも等しい神秘の放出に、男は敵の危険性を再認識する。
『あれは──なるほど、不死殺しの概念礼装か。ということはあの女は退魔。そしてこのキャリコの銃撃を防いだ結界。あの男も相当な手練れと見える』
守護者たる男は所謂"英霊"と呼ばれるものに分類される存在だ。
それは即ち世界からバックアップを受けているということであり、その無尽蔵の魔力によってどんな傷も即座に回復させることを可能とする。
だが神秘とはより強い神秘に破れるのが常。
宝具級の神秘性に加え不死殺しの概念を纏う妖刀でその身を断たれてしまえば英霊といえど無事でいられる保証はない。
地球という惑星の秩序から外れた存在である異形達、その歪みを正す秩序の力こそが天邏の妖刀の本質だ。
矛盾したことではあるが、その秩序の力は霊体である守護者にも極めて効果的に作用するのである。
『見たところ、女が前衛で男が後衛か。反則級の結界に退魔の剣技。この状況で僕が取れる戦略は──』
そこで守護者はまず短銃を二人に向けて連射した。
だが、荒耶が展開した"金剛"の前に容易く静止させられる。
そして、その隙間を縫って紫希が烈風のように躍りかかる。
「
思考する隙すらも与えない筈の神速の斬撃。それを守護者は三倍速に加速することで寸前で回避した。
『──急激に加速した!? まさか、そんなことまでできるなんて──』
紫希と荒耶は共に驚愕する。
守護者が見せた急激な加速魔術。荒耶は魔術に精通しているが故に"時間そのものを加速する"というその超常の絶技に息を呑む。
『間違いなく今の魔術は時間の加速。だがそんな大技を咄嗟に行うことなど不可能だ。どうやって──?』
そこで荒耶は男の体内に解析をかける。
たった一秒、それだけで荒耶は看破した。それは結界という単一の魔術に特化した彼だからこそ可能な技巧であった。
『なるほど。体内に結界を展開して、その内部だけを加速しているのか。それならば己に掛かる負担は最小限で済む。考えたものだな』
二人の驚嘆を他所に守護者は思案する。
完璧に連携の取れた二人。ぴったりとくっ付いて互いの欠点を埋めあっている彼らに対して攻めあぐねているのだ。
『女の圧倒的な剣速に加え、男の結界の強度。これを同時に破るのは僕では厳しいか……。なら分断して各個撃破するのが最上だな』
そこで守護者は二人の足元に筒状の物体を投擲する。
瞬間、それは凄まじい勢いで煙を噴射し、一面を煙で包み込む。
「これは──煙玉!? これじゃ見えない……!」
突如として現れた煙幕に対し二人は背中を合わせ牽制する。
「喰らえ」
白い煙の中から紅い影が出現する。
まず彼が狙ったのは荒耶。先に厄介な防御手段を持つ荒耶を潰そうと考えてのことだった。
「──させん!」
だが、荒耶は振り下ろされた短刀を左腕で受け止めた。
荒耶の左腕に埋め込まれた仏舎利。その加護が荒耶の左腕に途轍もない強度と再生力を与えていた。
そして守護者を捉えた荒耶は彼に猛然と迫る。
完全に攻撃を紫希に任せていると思ってた守護者は予想外の行動に瞠目するも、脊髄反射で呪文を唱えた。
「
大きく仰け反った守護者の鼻先を、風を巻き込んで振り上げられた右脚が掠める。
追撃として左脚が放たれるも、既に守護者は射程圏外に逃れていた。
計算を完全に狂わされた守護者は歯噛みする。結界だけでなく超常的な破壊力を持つ荒耶の拳打。速度と技量に力の全てを依存する紫希よりも、攻防一体の戦闘を実現する荒耶の方が、返って守護者には驚異であった。
だが守護者とは英霊。歪なれど精霊の域にまで祭り上げられた英雄である。
なれば、この程度の修羅場を潜ることなど造作もない。
『僕には抑止力としての権能が与えられている。だから敗れることはあり得ないが……敵は二人だ。決着をつけるなら短期決戦で挑むべきだろう。なら、賭けに出るのも悪くない』
勝負は膠着状態。一見すると互いに決定打を下せない状況にあるように見える。
だが、守護者にはそれを覆すに足る"切り札"がある。
一通り戦略を固めた彼はそれを実行に移す為の賭けに打って出た。
「
彼は四倍という驚異的な速度にまで加速したや否や、紫希に向かって短刀を振り翳す。
されどその程度を捌けずして退魔は務まらぬ、とばかりに紫希も容易くそれを弾く。
紫希の手に握られているのはあらゆる歪みを正す妖刀。
だが守護者が持つ短刀とて尋常の武器ではない。
それは"宝具"と呼ばれる英霊を象徴する"兵器"。
彼のそれは宝具としては平均の域を出ない代物ではあるが、その神秘性は最高位の概念礼装に値する。
故に武器の性能においては互角。
なればこそ、この状況は必然。
紅い大太刀と黒い短刀が激突する度に風が巻き上がり、土が捲れ上がっていく。
だが四倍速ですらも、肉体そのものを作り変える退魔の業の前では遅い。
そもそも彼の本分は射手。剣を振るう者に非ず。
拮抗が崩れようとする刹那、彼はさらなる呪文を紡ぐ。
「
──轟音、旋風。
音すらも置き去りにする剣戟は、重なる度に衝撃波を巻き起こし、焼け残った家に亀裂を入れていく。
ここに拮抗という言葉はない。
時に短刀が頸に迫り、大太刀が胴を抜かんとする。
優勢と劣勢、その二つが目まぐるしく入れ替わり、決着は更に遠のいていく。
達人であっても到底捉えられない刃の逢瀬に、荒耶は近寄ることすらできなかった。
だが、できることは残されている。
「蛇蝎!」
荒耶が右手を翳した瞬間、二人を円形の結界が包み込む。
途端、剣戟は目に捉えられる程に停滞していく。
本来であれば守護者の動きはとうに停止している筈だが、人である荒耶の魔術では人ならざる神秘で構成された肉体を持つ守護者を停止させるには至らず、その動きを遅くするに留まった。
ならば、紫希は──?
『やはり推測通りか。あの女の羽織りは──』
停滞していく守護者を他所に、構うことなく剣撃を放つ紫希。
そう、紫希が纏う黒い羽織り。それはただの布でなく、魔力の働きを阻害する効果があった。
紫希だけが結界の効果を受けない理由はそれである。
だが、守護者とて手を拱いてはいない。
自身が減速していることを理解した彼は、それを埋めるべく次の手を打つ。
「
さらなる加速を為した彼は容易く結界の減速を相殺する。
この瞬間、一日を六日として過ごしていける彼の攻勢が、拮抗という停滞を打ち破っていく。
されど、紫希は破れない。
音すらも遅れて届く世界の中では、眼すらも頼りにはならない。
彼女は舞い踊る風の感覚だけを頼りに、正確に刃を逸らしていく。
『この女、六倍速ですら喰い下がるか!』
予想を超えた紫希の力量に守護者は歯噛みする。
あと一押し、ほんの一手あれば押し切れるというのに、僅かに届かない。
彼の戦略において最重要事項は荒耶を潰すこと。
だというのに、その為の布石を打つことが難しい。
『このままでは押し切られかねないか! 仕方がない──』
これまで幾度となく地獄をかい潜り、作り上げてきた彼。
その経験の中にすらも無い未踏の領域。
彼は世界のバックアップに任せ、迷いなくそれを実行する。
「さあ、ついてこれるか──
試みたこともない七倍の加速。
結界の中にあっても尚、それ以前とは比較にならない速度で繰り出される剣戟。
「うおおぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「覇ぁぁぁぁぁぁ!!」
二人は共に咆哮をあげながら刃を交わす。
だが拮抗は一瞬、さらなる停滞が守護者を襲う。
「王顕」
荒耶が重ねた結界。
紫希はその影響を受けないのに対し、守護者は二重に減速してしまう。
追い詰められた守護者は、そこで切り札の一つを切る決断を下した。
「──
声高らかに解放された短刀の真名。
爆発的に増大した魔力が紫希の妖刀に重なった瞬間、その刃が纏っていた紅い妖気が霧散する。
神秘はより強い神秘に敗れるが定め。
圧倒的な魔力を纏ったその宝具が、妖刀が有する特殊効果を打ち消したのだ。
もっとも、彼の宝具が効果を発揮できるのはあくまでも魔術回路に対してである。
無論、刀に魔術回路などなく、故に効果を打ち消しておけるのは一瞬。
だが、一瞬という時間さえあればそれで充分だった。
「──
真価を露わにした黒い短刀に瞠目したものの、構うことなく紫希は刃を振るう。
その妖気の消えた黒く塗り潰された刃は守護者の防御を潜り抜け、その喉を斬り裂いた。
勝負は終わった。
そう確信した彼女は警戒を僅かに緩める。
だが、それこそが守護者の狙いだった。
守護者は多少よろめいたものの、即座に体勢を戻し倒立背転しながら後退し、結界の範囲外に逃れる。
「っ! やっぱりあなた、亡霊の類ね!?」
斬り裂いた筈の喉には傷一つない。
原因は明白。刃が喉を裂いた一瞬、不死殺しとしての効果を喪失していたことによるものだ。
守護者とは世界のバックアップで現界している存在。故に致命的な損傷を受けようとも再生するのは道理である。
そして彼は七倍速のまま、懐からもう一つの銃を取り出す。
古めかしく長大なソレこそが、彼が生涯手放すことなく愛用し続けた、まさしく切り札というに相応しい代物である。
大砲の如き轟音と閃光、それに遅れて大気を斬り裂き音を置いて行きながら鋭利な鉛が射出される。
その圧倒的な破壊力の前に、『蛇蝎』と『王顕』は容易く打ち破られていく。
だが、それを阻む影があった。
「──化勁・纏!」
仏舎利の加護を纏った荒耶の左腕が銃弾を絡め取るように畝る。
鮮烈な力のぶつかり合い。その左腕から火花が散り、電動鋸じみた不協和音が鳴り響く。
そして──結界による減衰もあってか、車輌すらも貫く弾丸を仏の加護が打ち破った。
「ふん、貴様こそ化け物だな」
「左様。怪物を討つとなればこちらも只人ではいられぬでな」
無事に安堵する紫希を他所に、荒耶は歯噛みする。
『なんという威力か──これは渾身の魔力を注がねば防ぎきれまい』
そんな二人を他所に守護者は内心ほくそ笑む。
『女は仕留め損なったが、概ね計算通りだ。これで奴らはコイツの威力を思い知っただろう。次こそは渾身の魔力で防御してくる筈だ』
そうして守護者は七倍速のまま後退し、実に三十メートルもの距離を取る。
一瞬では詰められない距離、そこで守護者は悠々と愛銃を再装填する。──誰一人として逃れることのできなかった 、その"真の切り札"を。
一秒が七秒に引き伸ばされた世界では、弾薬が薬室に滑り落ちていくことすらもどかしい。
守護者が銃身を荒耶に向け、照星を覗き込む。
それを視認した荒耶は魔術回路を限界まで励起させ、明快に呪文を言祝いでいく。
「不倶、金剛、蛇蝎、戴天、頂経、王顕!」
それは彼が最も頼みにする結界『六道境界 』。
空間と平面に三つずつ張り巡らされるそれを、彼は盾のように前面に六つ展開する。
引鉄が引かれ、切り札たる銃弾が回転しながら結界を喰い千切らんと迫る。
守護者はそれを見て──勝ち誇ったように嗤った。
「──駄目よ! 避けなさい!」
一目でその銃弾の正体を看破した紫希は怒鳴るように声をあげる。
だが、時というものは待ってはくれない。
音速を軽く超える銃弾は、六道境界の前に容易く縫い止められる。
だが、それは同時に荒耶の決定的な敗北を意味していた。
全てはこの為の布石に過ぎなかったのだ。
「な、に、これは──があぁぁぁぁああっ!?」
結界に銃弾が触れた瞬間、神経が引き裂かれたような激痛が荒耶を襲う。いや、実際に引き裂かれていた。
守護者の真の切り札たる魔弾『起源弾』。
それは彼自身の肋骨が込められており、触れた対象に自身の起源である『切断』と『結合』を表出させる効果を宿しており、これに魔術を以って干渉するとその性質により、魔術回路が神経諸共断絶し無茶苦茶に繋ぎ直されてしまうという、凶悪極まりない代物だ。
そして──魔銃の威力を知ったが故に魔術回路を励起させてしまった荒耶はその起源の影響を直に受けてしまったのだ。
「あ、ぁ──嘘、でしょ、こんな──」
荒耶は暴走した魔術回路から溢れた魔力に全身を破壊され、血を流しながら地に倒れ伏す。
彼の軀は、既に死滅していた。
「これで一人。……いや、勝負ありだな」
紫希にもはや戦意はなかった。
親を失った雛鳥のように、呆然と荒耶の屍を揺さぶっている。
「お願い、目を開いてよ! ほら、生命力だってあげてるじゃない! どうしてよ──こんなこと、ただの一度も失敗したことなかったのに! どうして──なんで戻ってくれないの!? 置いていかれるのはイヤ! もう喪うのはイヤなの! だから……置いていかないで……」
紫希は何度も何度も力を行使し、死滅した荒耶を必死に治癒しようとする。
だが彼は死者。起源によって破壊されたその肉体は、根源から魔力を掠めとる彼女を以ってしても蘇生は不可能だ。もとより──蘇生とは魔法の領域。ただ生命力を生み出すだけの紫希では『死』そのものを覆すことはできない。
その苦闘を見届けながら守護者は悠然と、家畜を屠殺する肉屋のように彼女に近寄っていく。
「……ねぇ」
「……僕に言っているのか?」
小さく零れた呟きに、守護者は足を止める。
どうせ最期だと思って余裕が生まれたのか、静かに彼は耳を傾けていた。
「……あなたの任務はわたしを殺すことだったわね? なら、もしわたしが消えてこの人が蘇れば……この人を殺さないでいてくれる?」
「そうだな、ありえない話だが、可能だとも。僕はあくまでもおまえが最優先さ。それに──その男はもう『死んだ』。なら生き返ったところで僕の仕事の対象にはならない」
そう──安心した。
そう呟いた彼女は、意を決したように毅然とした顔を浮かべ荒耶の胸に手を置く。
途端、淡い蒼の輝きが紫希の軀から迸り、荒耶の軀に流れ込んでいく。
「これは──馬鹿な! 魔法だと!?」
守護者すらも驚愕する神秘の行使。
輝きは優しい温かみすら帯びて、煉獄を包み込んでいった。
決着はついた。
されど、これこそが始まり。
荒耶宗蓮という一人の男を取り巻く数奇な運命は、この光景を起点としてこれからも進んでいく。
そして──彼女が選んだ最期の願いこそが両儀式を紛い物に堕としたのだった。
これで過去編はおおよそ終わりですが、エピローグが残っています。
しかし戦闘シーンが難しかった……複数戦ともなれば尚更ですよね。
紫希が見せた魔法。確かにそれは死をも覆すに足るものであろう。
されど力には代償が伴うが常。彼女が、彼が支払うこととなった代価とは──。
次回、過去編完結。両儀式と両儀織の代用品誕生の謎はここに解き明かされる。
今回もお読みくださりありがとうございます。
もし良ければ感想や評価の程をお願いします。