空の境界 偽典福音/the Garden of false   作:旧世代の遺物

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 不定期更新です。
 今回からお待ちかねの忘却録音です。


6/忘却録音 -fairy tale-
忘却録音/1


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「……ここは」

 

 ──瞼を開く。

 見えるものは机と、張り巡らされたガラス窓。

 景色は紅く、燃えるような夕焼けの色。

 僕はここを知っている。馴染み深い、彼女とよく話していた教室だ。

 だというのに──僕は一度もここに来た事はない。

 それだけではない、僕はここに居てはならないという異物感が纏わり付いて離れない。

 

「──おい」

 

 背後から声を掛けられ、咄嗟に振り向く。

 涼やかで、中性的な高い声。

 

 そこに立っているのは、紅い皮のブルゾンを橙色の着物の上に羽織った──何者か。

 丁寧に切り揃えられた流麗な黒髪。光を吸い込むような人形じみた伽藍の黒眼。

 顔立ちは人間とは思えないほど整っていて、浮世離れした美を醸し出している。

 性別は──男とも取れるし女とも取れる。

 

「おまえだよおまえ。何ぼーっとしてんだよ?」

 

 着物の人物はじっと覗き込んでくる。

 屈託の無い、悪戯めいた快活な笑み。僕は便宜的にこの人物を『彼』と定義した。

 

「……君は、誰だ? 」

「はっ、それはおまえが一番分かってるんじゃないのか?」

 

 微笑みながら、少年は当たり前のように問いを返す。

 何故だろうか──この笑顔を見るだけで、とても耐え難い寂寥感に襲われる。

 この笑顔はある誰かにとって大切な、だが永遠に見ることのできないものなのだろう。

 

「分からないのなら、自分の名前を言ってみな」

 

 名前──僕の、名前。

 思い出せないのではなく、彼の前でだけはそれを言うのが憚られてしまう。

 だって、ここに居る彼こそが──。

 

「おいおい、そんなことも忘れちまったのか? それじゃ困るぜ。だって──オレが()()()()()()大切な名前なんだからな」

「貸してもらった──?」

 

 名前、借り物の名前──。

 そう、僕はそれすらも借り物なのだ。

 僕は『式』ではない。もう一つ用意された名前、それを僕は譲り受けた。

 他でも無い、眼前の彼に──。

 

「思い出したか? ならもう忘れるなよ。おまえに貸してやった以上、()()()()()()オレに名前は無いんだから」

「ああ。……やっぱり、君が本当の──」

 

 言いかけたが、そこで遮られてしまう。

 

「言うまでもないだろ? だってオレは──ずっとおまえを見ていたんだから。コクトーと一緒に居る程じゃなくても、楽しかった。こんなこともあるんだって思うと、すごく嬉しかったんだ」

 

 コクトー。この上ない親愛を込めて語るその単語は『彼女』とは違う誰か、或いはもう片方。

 その遠く、抱き締めるように細められた瞳は──何よりも満ち足りていた。

 

「"こっち"の事は心配するな。ちゃんとコクトーの奴が役目を果たしてくれているからさ。そっちはそっちなりに、出来ることからやればいいんだ」

「……よく分からないけど、ありがとう」

 

 教室の扉が独りでに開く。

 彼は窓際の机に座ったまま、にこやかに微笑んでいる。

 どうやら行かなければならないのは僕の方らしい。

 

「また会おうぜ。今度はそっちで起きた事とか聞かせてくれよな」

「……また、会おう」

 

 一言そういって、手を振る彼を尻目に扉へ向かう。

 白く、どこまでも広がる地平線の先、僕の居るべき世界へと、迷いなくただ一直線に。

 きっと、どこかでつまづいて振り返ることになった時、彼は必ず来てくれるのだろう。

 だって彼は──いつでもここにいるのだから。

 

 

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 不思議な夢を見た。

 名前は結局口にしてくれなかったけれど、他人ではなかった少年の夢。

 

 カレンダーはもう十月を指している。

 今日は例外だったが、最近は奇妙な夢ばかり見てしまう。

 例えば──それは焔。

 女は煉獄の中で倒れていて、男はそれを眺めて泣いている。

 男は傷だらけで、憂いと痛みに満ちた眼をしていた。

 

 夢の内容は毎日同じだ。

 正確には連続した一つの出来事を断片的に見ているのだが。

 それがとても偶然とは思えなくて、その度に内容を記録していたのだが、手帳には既に一つの物語が出来上がっていた。

 

 自分で見た夢に言うのも何だが、まるで三文小説のようだ。

 夢に焦がれた男と、それに惹かれた女が、最後には当然のように破滅を迎える。

 そのあまりにも愚かしい顛末は、まさに炎に向かう蛾そのもの。

 叶わないユメを見て、不可能だと悟り、それでも足掻き続けて──結局何も救えない。

 

 それはまるで──まるで自分みたいで、とても見るに堪えない光景だった。

 どうしてこんな三文芝居を見てしまったのか、自分でも理解できないが、異様に現実感のあるものだったことは間違いない。

 信じ難いことだが、まさか現実だったのか?

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 

 そうして手帳と共に夢の記録を思考の片隅に投げ捨て、自動機械のように朝の支度を済ませる。

 時計はもう十二時を示している。

 今日は仕事の依頼らしく、昼過ぎてから事務所に来いと言われていたのだった。

 何やら途轍もなく悪い予感がするが、折角の刺激を逃す手はない。

 巫条霧絵の事件からは目立った事件も無く、退屈していた処なのだ。

 それがより怪奇であればあるほど、意味のある出来事になるだろう。

 ……七月の事件と同じように。

 

 違和感を拭い切れぬまま、秋の涼風を受けながらあの嫌味な所長の待つ事務所へと向かった。

 

 

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 不思議と寒かった九月も終わり、十九度目の十月がやってきた。

 残暑もなく、信じられないほど寒冷だった先月とは打って変わって街は涼やかな秋風に包まれていて、夏の暑さなど忘れてしまうほどに快適だ。

 ……夏の暑さ。

 そう、わたしは今年の夏を一ヶ月飛ばしてしまっているのだ。

 七月の事件から暫く経ってから起きた爆弾魔事件の後、八月の初頭に巫条ビルでの連続自殺が世間を騒がせていた時から九月までの記憶がわたしには無い。

 なんと信じられないことに、わたしは一ヶ月近くもの間眠っていたというのだ。

 原因はやはり巫条ビルにあったらしく、織が自ら解決してくれたという話なのだが、下手すれば自分も屋上に浮かぶ少女達と同じ目に遭っていたかもしれないと考えると、彼と橙子さんへの感謝もそうだが、心底寒気がしてならない。

 

 ……昔は怪奇現象なんて都市伝説の中だけでのもので、笑い話同然に思っていたというのに、いつの間にかそれはわたしの日常と同化してしまっている。

 両儀織という青年と出会ってからというものの、わたしの日常は奇怪な非日常に彩られたものへと変質した。

 二年前の未解決の猟奇殺人事件。異能を宿す少女による殺人。廃ビルに浮かぶ少女達。

 その度に叩きつけられる、この世界の深層と常識に守られた日常の脆さと尊さ。

 その度に叩きつけられる──自分自身の無力と弱さ。

 わたしと、わたしを囲むこの世界はいったい──どこへ向かおうとしているのだろうか?

 もしかしたら、この先の路地裏にも何か常識では測りきれないものが潜んでいるのかもしれない。もしかしたらその建物にも──なんて不毛な懐疑がわたしの胸中には小さく燻り始めている。

 この例えようのない不安は──いったい何を根源にしているのだろう。

 そう、これは恐怖。失うことへの恐怖なのだ。

 わたしはただ、恐れているだけ。

 今の日常を失うことを。──今の非日常を続けることを。

 このまま惰性のように日々を廻しているだけでは、いつか大切なものを失ってしまうという予感が脳裏に渦巻いている。

 

 わたしにとって、最も恐ろしいもの。それはきっと──彼のことだろう。

 両儀織。二年前に出会った、文字通り誰よりも"特別"な青年。

 その在り方は抜き身の刃のようで、されどガラス細工のように鋭く脆い。

 二年という昏睡を経て目覚めた彼は、以前とは別人のように変質した人格を有するようになっていた。

 けれどその本質は変わっておらず、彼は今も優しいまま。

 思えば──わたしはどうして彼を特別だと思うようになったのだろうか。

 わたしには、その理由が分からない。

 気が付けば、わたしは彼を特別であるように思っていたのだ。

 まるで誰かに命じられたかのように、唐突に、不条理に。

 ──何度も、その時のことを思い返してみた。されど、決定的な答えは見当たらない。

 疑念は胸中を螺旋のように巡り、そして最後には始点に立ち戻ってしまう。

 ……きっと、答えを出すのはまだ早すぎるのだと、頭のどこかから声が聞こえる。

 その声に耳を傾けると──わたしはそこで思考を停止してしまうのだ。

 だって、こんなことを考えたところでどうせ結論など下せないのだから。

 丁度そこに置いてあるカラーコーンのように、終わりなく巡り続けるのが終わりなのだろう。

 

 そんなとりとめのないことを頭の中で掻き混ぜながら橙子さんの待つ事務所に向かう。

 もう慣れてしまった道程、日常の中では決して辿り着くことのなかった結界の張られた廃墟。

 わたしは慣れという力の恐ろしさを実感しながら──そのくせわたし自身も魔術師見習いなんていう怪奇現象に成りかけていることさえ忘れながら、事務所の錆びた扉を軋ませた。

 

 

    ◇

 

 

「おはようございます、橙子さん」

「うん、おはよう」

 

 事務所に入り挨拶を済ませると、橙子さんはなにやらキリッとした顔でこちらを見据えてくる。

 明らかに重要な用件がある、といった風な顔だ。

 

「……その顔ではやっぱり重要な話があるんですね? 何でしょうか」

「おまえはやはり鋭いね。それじゃあ言うぞ。鮮花は織に告白したのか、とね」

 

 ……どう考えても本題ではない質問を、彼女は真顔で口にしてきた。

 

「ええ、二年前にね。ですが了承されませんでした。あ、無論振られたわけじゃないですよ? 所謂保留ってやつですかね」

「──していたのか。からかいのつもりだったが、むしろこっちが驚かされるとはな……」

 

 橙子さんは本気で驚嘆しているようで、その整った目を丸くしている。

 ……わたしとしては何気なく返しただけなのだが、彼女にとっては大層驚きであるらしい。

 というのも、普段の織を知る者であれば彼がそんな解を返すなんて想像もつかないだろうけれど。

 

「はっ、あの坊やもおまえが相手では無下にはできないか。それにしても本当に驚きだよ。おまえ達、やっぱりとっくにデキてるんじゃないのか?」

「それならこんなに苦労はしませんよ。……その為にわたしもあれこれ講じているんですから」

 

 そう、保留どころか形だけでも了承して貰えていたら、もっと大胆に攻められていたというのに。我ながら実に一筋縄ではいかない相手に目を付けたものだ。

 まあ、そんなだからこそ特別だと思ったのかもしれないけれど。

 でもどうせなら、惚れるより惚れさせたい。今はまだ友人という段階なのだから、これはそうさせるチャンスと考えることもできなくはない。

 そう思うと、存分に恋路を楽しめる今の関係も悪くはないのかも。

 

「いやいや、おまえ達は本当に純粋だな。今のは悪かった。年に一度の失言さ、許せ」

「……この話も悪くはないですけど、そろそろ本題に入りませんか?」

「ああ、そうだったな。礼園女学院って知ってるだろう?」

「知ってます。あの有名な私立のお嬢様学校でしょう? 確か瀬尾さんも藤乃ちゃんも通ってる学校──」

 

 何の因果か、どちらも同じ学校に通っているという二人の奇妙な友人。

 思えばわたしは、あの学校との縁がないわけでもないのかもしれない。

 

「それで思い出したよ。あの二人も礼園の生徒だったな。これまた因果なことに、今度はあそこで奇妙な事件が起こってね」

「……事件? まさかあの学校の中で?」

 

 橙子さんは頷き、事件の詳細を語った。

 ほんの一週間ほど前、一年四組──Dクラスの生徒二人がカッターで切りあったというのだ。

 わたし自身は礼園の内情を知らないので何とも言えないが、瀬尾さんの話を聞く限りあそこは病的な清浄さが保たれた異界じみた場所なのだという。

 そんなお嬢様ばかり集まる場所で暴力沙汰が起こるなんて、正直考え難い。

 

 その後も橙子さんの説明は続く。

 問題はどうやらそこでなく、その処理の部分らしい。

 どうやらその事故はすぐには報告されず、保健室の記録を調べた為に発覚したのだという。

 しかも担任も隠蔽したのではなく、本当に事故そのものを綺麗さっぱり忘れていたらしい。

 それだけでも信じられない話だが、事件の原因もまた不可解だ。

 なんと二人の間には一ヶ月近くもの間、本人すら忘れていた子供の頃の秘密を書いた手紙が送り付けられていたのだという。それで幼馴染である二人はお互いを犯人だと思い、同時に切りあったのだという。

 ……そう、一番の問題は手紙には忘れていた過去の出来事しか書かれていないというこなのだ。

 不気味どころではない。自分すら知らない過去を知る謎の人物から送り付けられてくる手紙なんて、それだけでも気味が悪いのに、それが一ヶ月も続けばおかしくなるのは必然だ。

 

「橙子さん。その監視者の正体って誰なんですか?」

「判明はしているよ。妖精の仕業さ」

「──あの、すいません。聞き違えました」

「いいや合ってるよ。礼園にはおまえも知るように特異な人間が集まりやすい。目撃例もそれなりに多いそうだ」

 

 橙子さんは唖然としているわたしをよそに淡々と妖精や礼園の内情を語る。

 そうしてわたしは今度こそ驚きの声をあげた。

 だって──他ならぬ橙子さんが礼園のOGだと言うのだから。

 

「そんなに驚くことでもなかろう。あの学長が部外者に不祥事を漏らす筈もない。昨日の夜に彼女から原因究明の依頼を受けてね。私は探偵というわけではないが、別段専門外でもないしな。だが私が学園に乗り込むのもどうかとね。──そこでだ」

 

 橙子さんはにやにやとしながらわたしを見据える。

 ……何か、致命的に危険な予感がする。

 

「妖精というものは扱いが難しいものでね。一流の術者でもない限り、いつの間にか彼らに使役されてしまうことの方が多い。今回のは人の記憶を盗むという単一性能しか持たないから、おそらく妖精に似せた使い魔だろうよ。つまりは未熟者だな。修行にするには丁度良い。業務命名だ、目的は原因の究明と、可能なら排除。期間は指定なし。以上が本題だ」

 

 ……どうせこんなことだろうとは思っていた。

 わたしはあくまで冷静に、深く頷いた。

 

「……本当のことを言うとね、おまえはあくまである人物のお目付役ということなんだ。そいつが妙な行動を起こさないようにする為の監視員。だから妖精が見えないからって心配するな。おまえは頭脳として働いてくれればそれでいい。話は礼園に回してある」

 

 橙子さんは重要な部分をぼかしながら真相を語る。

 その人物のことを知らなければ話にならないと訴えたが、すぐに会えると言って躱されてしまった。

 

「それにな、この件はどうにも妙なんだ。あの学園での不祥事が漏れた事といい、すぐに私に話が回ってきた事といい、出来すぎている。まるで──誰かが裏でそうさせているかのように」

「──え?」

「だから敢えて私じゃなくそいつを送るんだ。理由は分からないが──何やら私が直接関わるべきではない気がしてね。むしろおまえ達こそ真実を知るべきだと考えてしまったんだ」

「私と──その人が?」

 

 脳裏にはやはり見慣れた影が浮かんでしまうが、即座に取り消して話を進める。

 まさか──橙子さんとて"彼"をあんなお嬢様学校に送るような真似なんかしないだろう。

 それに、橙子さんが妙だと言うほど不可解な事であれば、無視するというわけにもいかないだろうから。

 

「ああ。根拠こそないが、おまえ達がこの件に関わるのは定められた運命にすら思えてしまうんだ。だから、もし犯人とは別に裏で関与しているかもしれない誰かを見つけた時は私に知らせてくれ」

「──運命ですか。そこまで言うのなら仕方がありません」

 

 そう言って資料を受け取り、早速礼園に向かう為の準備を整える。

 だが、その前に引き止められた。

 

「おっと、交通手段だが。礼園は山にあるからバスを使ってくれ。午後十四時十五分の礼園行きのバスだ。そこでそいつと合流しろ」

 

 そう言って橙子さんはこの上なく不吉な笑みを浮かべる。

 まさか、と全身が粟立つ感覚を味わいながらわたしは事務所を後にした。

 




 漸く終盤に至りました。
 やっと本物の彼を登場させることができました。
 荒耶もかつての理想を思い出し、この偽典も終焉に向けて動き始めます。
 織を取り巻く世界の異変と、決着への布石の始まり。
 これから荒耶や先輩も表舞台に登場させていこうと思います。

 もし良ければ感想や評価の程をお願いします。その一つ一つが作者の燃料となります。
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