空の境界 偽典福音/the Garden of false 作:旧世代の遺物
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「……紫希、そこに居るのか?」
返答はない。胸の内に何かが眠っているという感覚はあれど、明確に意志を持っているわけではないようだ。
記憶を取り戻してからというものの、漫然と思い出に耽ることが多くなった。
残る刺客は数少なく、もはや根源は近い。
だというのに──私はただ有り余る時間を空費するだけに終始している。
あれほど感情そのものを固定し、凍てつかせていた『起源』も、この迸る郷愁を止めるには至らない。
私は──かつて理想に焦がれていた頃に戻りつつある。
「何を畏れる──荒耶宗蓮」
暗闇の中から涼やかな声が響く。
この部屋に灯りは無い。故に昼夜を問わず永久に闇に閉ざされた空間を形成しているのだが、その男の瞳は炯々と輝きを放ち、その獅子の如き金の髪と紅い瞳を際立たせている。
「何を識った? まるで縁側に座す老人のようだぞ、荒耶さん」
青年はからかうように、乾いた嗤いを浮かべる。
彼の目にもそう映るほどに、今の私は変容しているということなのか。
「……過去だ。遠く、忘却に埋もれていた古い記憶。あの男の手でそれを思い出した」
「過去? あんたの? 想像もつかないね」
「左様。私もそれまで忘れ去っていたのだ。……彼女のことを、両儀の因果を」
「……やはり、両儀に因縁があったのか。それで、彼女とやらも両儀の関係者なのか?」
彼は珍しく真剣な面持ちで耳を傾ける。
私はこれまで感情らしきものを彼に見せることはなかった。興味を持つのは当然なのかもしれない。
「然り。彼女の名は──」
そうして思い出したことの全てを語った。
私の出生、紫希との出会いと別れ、守護者との戦い、織の誕生──今に至る全てを。
「──驚いたな。どうも俺はあんたのことを勘違いしていたらしい」
万感の思いを込めるかのように、青年は深く眼を瞑る。
彼もただ漫然と聞いていたわけではないらしい。
「俺は──あんたをもっと冷酷無比な魔術師だと思っていた。だが、あんたは変わった」
「──変わらんよ。今も昔も、そうあれと願われ、そうあると誓った時から。私はただ一人の荒耶宗蓮に過ぎぬ」
そう、変わらない。私はあの時から止まったままなのだ。
起源──魂のカタチを呼び起こしたその時からずっと。
そして眼前の青年もまた、それに目覚めてしまったのだ。
「しかし、よくもまあ数百年も意地を張り続けていられるもんだな。俺なら、きっと……」
青年は深く思案するように顔を曇らせる。
そう、彼にも因縁があり、だからこそ共にここに在る。
何故なら──青年の因縁とは、元を辿れば私の蒔いた種なのだから。
青年と『彼女』が出会ったのは偶然ではあるが、その始まりは私の計画だった故に。
「私が失ったのは一度だけだ。それからは何も。そうだ、何も失うものなどなかったのだ。故に私はこの在り方を貫き通してきた。おまえも同じだ。違うか?」
私が失ったものはただ一つ。そしてその一つも漸く取り戻せる。
ならば、もはや何も畏れるものは無い。
彼も同じく、失うものを持たないからこそここまで走り抜けられた。
「ああ、そうだな。俺には何もない。何一つ残るものはないし、残せるものもない。……だが一つだけ、捨て去れないものがある」
それは、ある偽物への執着にして、ある女への妄念。
その狂気にも似た意志こそが、彼を"人間"のままに押し留めた。
「それならば良い。あと数日で舞台は整い、必要な役者も揃う。あとはただ、座して終末の刻を待てば良い」
両儀を完全に戻すに必要となる最後の鍵。
彼が如何にして蒼崎に悟られることなく両儀を誘き出すかは未知数だ。
だが舞台はもう用意した。それは俗世より閉ざされた鋼の監獄、悪夢の妖精郷。
あれこそがまさしく第二の矛盾螺旋と言えよう。
「分かっているさ。だが俺はせっかちでね。ただ待っているというのはどうにも性に合わん。奴の動向を見張りに行くとしよう。……もしかしたら『あいつ』をまた見られるかもしれないしな」
「良かろう。だが手出しは禁物だぞ」
「言われるまでもねえよ」
言うが否や、青年はマンションの廊下から飛び降りて行った。
部屋に残ったのは私だけとなる。
私はやはり変調をきたしているらしい。
あれから──私は感傷的になり過ぎる。
そう、
そうすれば、織が里緒か、どちらが死するまで止まらないだろう。
不思議なことに──私はそれを畏れ始めているのだ。
里緒が織を仕留めれば、私は何のリスクも犯すことなく根源に至るだろう。
織が里緒を討てば、彼と再び対面することが叶うだろう。
この賭けに負けはない。どう転んだ処で私には成果のみがもたらされる。
だというのに──私はそれを惜しんでいるのだ。
「どうしたというのだ、荒耶よ」
己を叱咤するように声を漏らす。
私は──まさかあの二人に思い入れを抱きつつあるとでもいうのか?
最初にして最後の弟子として連れ添った里緒を。
始まりの因果を受け継いだ織を。
だとすれば、私は何をするべきなのだろうか?
「……まったく、厄介なことをしてくれたな、君は」
この胸に渦巻く彼女の魂の欠片。
それが私の起源を抑え、両儀家の特性に上書きしつつあるのだ。
私は『静止』するに飽き足らず、『虚無』にすらなりつつあるのか──。
かつて、私は理想を抱き続けるかどうか問われた時があった。
そして私は己を貫き通す道を選んだ。
引き返す道もあった。されど私はそれでも捨てられなかったのだ。
ならば──迷う必要などどこにある?
「……迷いとは、実に私らしくもない。だが、あと数日ある。それまでにならば存分に迷おうぞ」
時間ならあと少しだけ余っている。
何せ
もし仕留めてしまおうものなら、それこそ最上ではないか──。
何にせよ、まだ結論を出すには早すぎるのだ。
今はまだ、静かに彼らを見守るとしよう──。
私は瞼を下ろし、再び眠りに就いた。
夢でまた、彼女と逢えることを願って。
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「……」
「……」
午後十四時十五分、礼園女学院行きバスにて。
わたしこと、黒桐鮮花は普段のイメージが崩れるのを覚悟で盛大に眉を寄せて顔に影を作っていた。
どうしてそんなことになっているかというと──原因は間違いなく隣に座る青年だろう。
「……オレさ、トウコのこと常識知らずだと思ってたけど、まさかここまでとは知らなかったよ」
「ええ、寸分の余地もなく同意ね。まさか本気でやるとは思わなかった」
「だろうな。オレもまさかとは思ったが」
青年、両儀織は物憂げな表情でバスに揺られている。
窓に写るその顔は、奇しくもわたしとまったく同一の表情を浮かべていた。
「いや、ほんと。よりにもよってあなたをあそこに放り込むなんて、トウコさん体調でも悪いのかな」
「だろうな。余程拗らせていたんだろうよ。でなけりゃこんな発想は出てこないぜ」
礼園で起きた妖精絡みの事件。橙子さん自身が関わるべきではないという理由から、わたしが送られることになったのだが、それはある人物のお目付役という名目でのことだった。
そしてその主役となる人物こそが、眼前の両儀織なのだ。
いや、正気とは思えない。
いくら探偵という立場だからって、礼園がお嬢様学校だからって、女だけが固まった世界にこんな絶世の美青年を放り込めばどうなるかなんて、想像に易すぎるだろう。
いや、むしろ厳しい管理体制が敷かれ、刺激に飢えている女子生徒の集まりだ。人の少ない長期休学中ならともかく、こんな時に美青年、しかも探偵なんていうセンセーショナルな存在が現れようものなら調査どころの話ではないだろう。
織の話によれば、もう職員生徒には連絡がいっているらしいけれど、わたしはどうしても納得がいかなかった。
だって、何だか凄く嫌だ。
何がって、そう──織に見ず知らずの女達が群がるという絵面が。
ただでさえ神経質で繊細な織なのだ。耐えかねて体調でも崩そうものならどうしてくれるというのだ、まったく。
「……オレはこれからどうなるんだ」
「……大丈夫よ。女子校とはいえ、お嬢様の集まりだから。そう喧しいことにはならないと思う。……保証は出来ないけど」
「取り敢えず、煩わしいのだけは勘弁だな……」
バスの中に他の乗客は居ない。
今日は平日だが、もう十四時ということもあってバスにはわたしたちだけが乗っているようだ。
雑多な生活音が響く都心から離れ、山にある礼園に近づいて行くに連れて木々の騒めきが窓越しに響き渡る。
もう十月だからなのか、木から落ちる葉の中にも赤や山吹色が混じっているのが見える。
その清浄極まりない光景は、この高まる不安感を紛らわすのに十分なほど美しい。
だが、色付く木々が増えていくにつれ、心拍は速くなっていく。
何故なら──それは礼園が近付いている証なのだから。
あれこれと先行きを案じていると、もう礼園の校門が見えていた。
わたしたちは交互に溜息をつきながらバスを降り、迎えに来た職員と顔を合わせた。
◇
「こんにちは。『伽藍の堂』から派遣されて参りました、黒桐鮮花と申します」
「同じく、両儀織と申します。短い間ですが、黒桐共々お見知り置きを」
わたしに遅れて恭しく挨拶する織。
その様は途轍もなく上品かつ優美で、どう見ても完全無欠の御曹司といった所だ。
……何だか、昔の彼を思い出すようでどこか複雑な気分になる。
そうして職員である修道女に連れられて校門を潜ると、古めかしく大きな校舎が見えてくる。
それは尋常ならぬ広大さの森林に囲われていて、学園の森ではなく、森の中に学園があるとしか形容できないほどだ。
校門の前から見える景色は何てことのない、ただの古めかしい校舎でしかないのに、門を潜ればまるで別世界のように空気感が転調する。
それはまるで──結界でも張られているかのよう。
「──何だ、ここ」
織はその外界とは隔絶されたある種異様な空間に対して違和感を感じたのか、眼を細めて警戒心を剥き出しにしている。
環境の変化に機敏な彼のこと、きっとこの空気感の変容ぶりに不自然なものを感じているのだろう。
「……確かに、これなら妖精が潜むのも納得ね」
これほど外界から隔絶され、密閉された空間であれば、魔術師が潜むのも道理だろう。
……壁で囲われ、境界で仕切られた空間とは、それだけで一つの結界なのだから。
「とにかく……挨拶くらいは済ませておきましょう」
強烈な違和感を他所に置いて修道女に付いて行く。
おそらく学長であるマザー・リーズバイフェの許に行くのだろう。
わたしたちは校舎の窓から覗く生徒達の熱の篭った視線を浴びながら学長室に向かった。
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……視線。
すれ違う度に総身にぶつかる数多のそれは、全てが好奇と期待によるもの。
やはりお嬢様学校と言えど年頃の少女の集まり。外界がもたらす強烈な刺激には勝てないらしく、普段の淑やかさなどかなぐり捨てるかのように方々で固まって耳打ちをしている。
本来であればあれこれと質問責めに遭っていてもおかしくないが、教師達からの話でわたしたちから話し掛けない限りは声を掛けてはならないようになっているらしい。
ただ、それでも異物は異物。学校に探偵なんて珍しいどころの話ではないので、こうして壮絶に浮きまくっているというわけだ。
「……どいつもこいつもこっちを見てるな」
気怠げに呟く織。
その黒い瞳が生徒の一人と合うと、さらに熱の篭った──黄色い視線とでも言うべき──視線が織に飛ぶ。
……やはりこうなったか。
ただでさえ全寮生の女子校という抑圧された環境なのだ。
探偵なんて肩書の男──それも絶世の美男なんていうものが歩き回っていようものなら、注目の的にならない筈もないだろう。
話題には織だけでなく当然わたしも含まれているらしく、黄色い声に混じって噂話が否応なく耳に飛び入る。
「ねぇ、あの人すっごく綺麗じゃない? なんだか探偵っていうより女優よね」
「分かる。でも探偵っていうのもカッコいいよね。凄く頭が切れそうだし」
「でもやっぱり、あの人って……あのカッコいい人とそういう関係なのかな?」
内容は殆どが他愛のない、高校生が好むような話だ。
この学校はミッションスクールであり、敬虔なクリスチャンも多いのだが、どうやら高校から参入した生徒達は基督教に興味を持たないようだ。
そんな統制された混沌の中、溜息を吐きながら歩いていると、何かの存在に気が付いたのか織が唐突に早足に歩み出す。
「どうしたの? 何か見つかった?」
「やっぱり、居るとは思ったんだ」
そう言って織は騒めく群衆を掻い潜りながら、一人の生徒に向かって歩み寄る。
明らかに困惑している女生徒は、くせの付いた短い茶髪とどこか弱々しい表情が特徴の、何処かで見たことのある風貌をしている──って言うか、どう見ても会ったことのある人物であった。
「よう、久しぶりだな」
「お、お久しぶりです……。あの……本当に織さんと黒桐さんなんですか?」
「──あなた瀬尾さん、よね」
──彼女こそ、彼の"未来視の女"。
名を瀬尾静音と言った。
今回はここまでです。
やはり礼園に織が入ってくれば話題にならない筈もありませんよね。
それでも騒ぎにはならないのは流石に礼園と言った所でしょうか……。
さらに久しぶりに静音が登場。折角なので礼園ガールズにはガンガン活躍して貰おうと思っています。
もし良ければ感想や評価をお願いします。その全てが作者の糧となり燃料となります。