空の境界 偽典福音/the Garden of false 作:旧世代の遺物
このペースが維持できれば……。
/1
心臓にナイフを突き刺されて目が覚めた。
普通ではない絶技だった。あんなにも迷いなく正確に心臓を貫くなんて、あの人はとんでもない達人なのだろう。
あれは正しく神業だった。
無駄がなく、骨と筋肉を躱して心臓のみを潰すなんて到底真似できないことだ。
全身を覆い尽くしていく死の感覚。
心臓を突き破られる音と音と音──。
◇
扉が開かれる音がする。
どうやら外はまだ暗いようだった。
診察の人が来るまでにはまだ時間がある。どうやら面会人らしい。
「……誰?」
人影は答えない。それでもわたしは誰かが訪ねて来てくれたという事実が嬉しくて、取り留めもない事を話し始めた。
「良い眺めでしょう?」
そうして初めてその人物は声を発する。どうやら女性の様だった。
「今夜は……月が綺麗でしょう?」
その意味の無い問いに対して、律儀にもその人は返答を返していた。
「やっぱり。わたし……此処からの眺めが好きなの。桜…春はね、桜がとても綺麗なの。花弁が空に散って空に花が咲いたみたいになって……」
そうしていると突如として青年の声が響いた。
「来年も見られるといいな」
どうやら来ていたのは女性一人ではないらしい。
そしてその声はどこか聞き憶えのあるものだった。
……それは、冷酷で恐ろしい響きだった。この人はきっとわたしを破滅させる。
「あなたはわたしの敵ね」
ああ、と女性は頷き、青年は沈黙をもって応えた。
「あなた達はどうしてわたしに会いに来てくれたの?わたしは何もできないのに」
その問いに青年が答えた。
「別に、おまえに興味があったわけじゃない。ただ、おまえに似ているかもしれないヤツを知っているからな。オレは確かめたかっただけだ。」
そうして女性が本題に入ろうとしていた。
「君の状態は知っている。だから無理にとは言わないが」
その気遣いにわたしは少しだけこの人物に好感を持ったのか、知らず微笑みを浮かべていた。
「失礼する」
そうして女性は扉を閉め、わたしの傍らにある椅子に座る。
わたしには久しぶりの来訪者の名前を知りたいという感情が湧き上がってくるのを抑えることは出来なかった。
「名前を聞いてもいい?」
「蒼崎橙子だ。彼は両儀織だ」
「わたしは巫条霧絵。珍しい名前ね、二人とも。よろしく橙子さん。織さん」
「…ああ」
両者共に答えを返してくれた。冷酷に見えてこの人達は存外律儀なのだろうか。
そして橙子さんは本題に進んだ。
「此処に来てどの位になる」
「さあ……覚えてない。長い、長い間毎日毎日……窓の外ばかり見てた。ずっとずっと、この窓からこの景色だけ……」
「つらいのか」
それは同情ではないのだろうが、わたしにはそれが嬉しい。
「でも、この景色だけは居なくならないから……」
ふと、傍らに置いてある写真を見る。
もう何年も前にわたしを置いてどこかに行ってしまった家族のものだ。
その現実がどうしようもなく憎かった。
「どれだけ憎んでもわたしには……これしか無いから」
「だから窓の外を見続けた。そしてこの風景を脳内に取り込んだと。そして俯瞰を手に入れた」
「気が付いたら、わたしの目は''空''にあった」
その言葉が引っかかったのか橙子さんは確認する様な口調で話を続ける。
「視力を喪ったのもその頃か」
「目には何も見えなくなったけど、わたしの風景は変わらなかった」
「つまり、君の景色は空にあった。だが巫条ビルに居た幽霊が君なら、君はもう死んでいる筈だ。織が仕事を仕損じるとは思えない」
やっぱりあの影みたいな人は目の前に居る織さんだったらしい。
「あのわたしはわたしじゃない。空のわたしは行ってしまったの。わたしは自分にさえ見限られたの」
「二重人格ではないな。君は一つの人格で二つの身体を操っていた。なるほど、二重身体者とは他に類を見ないな。おそらく君のその力を引き出した者がいるな」
その言葉はわたしにとある人物のことを彷彿とさせた。
「二重存在。あの人はそう呼んでいた」
そして織さんは少しだけ責める様な口調で口を挟んだ。
「なら、何故おまえは外を見ているだけで満足しなかった?あいつらを落とす必要はなかった筈なのに」
ああ、あの羨ましくて可哀想な彼女達。わたしは落としたかったわけじゃない、ただ──。
「あの子達はわたしの周りを飛んでた。友達に成りたかったの。けれど、あの子達はわたしに気付いてくれなかった」
「意識が無いから当然だろ」
織さんは呆れ気味に続ける。
「だから……呼びかければ気付いてくれると思ったの。''わたしはここに居る、ここに居るんだ──''って。それだけなのにどうして──」
わたしは泣いていた。わたしが彼女達を死へ誘ってしまったという事実が自分を苛んでいく。
「
その言葉には怒りが滲んでいた。怖くなったのか、わたしは首を横に振る。
「病院の廊下で彼女に会った……。毎週毎週、同じ時間に。綺麗な花束を持って……」
わたしは止めどなく涙を流していた。
この悲しみがわたしの凍てついた心を揺り動かしている。
織さんは何故か愕然としている様に感じた。
「わたしを……連れて行って欲しかった」
「そう……か。だが、生憎それは──」
それは、決して叶わないユメ。決してカタチを与えてはならないものだったのだ。
何よりもここに居る彼が許さないだろう。
わたしは泣き続けたままだった。数年ぶりの感情の波を抑えきれなくなってしまったからだ。
そして橙子さんは一つ言葉を残していった。
◇
月明りだけが、生きているようだった。
そうして二人は去ってしまった。──また、一人になってしまった。
先の言葉がわたしの脳裏を過る。
「逃走には二種類ある。目的のない逃走と目的のある逃走だ。一般に前者を浮遊と呼び、後者を飛行と呼ぶ。君の俯瞰風景は君自身が決める事だ。ただ、君が罪の意識で何方かをえらぶのなら、それは間違いだ。我々は罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道で罪を負うべきなのだから」
──それが彼女の最後の言葉。彼女にはわたしのとる結末が分かっていたに違いない。
その言葉に聞き入っていた織さんも同様だろう。
だってわたしは飛べなかった。ただ浮いていただけだったから。
わたしは弱いからあの人の言った通りにはできない。だからこの誘惑にも勝てない。
あの時感じた圧倒的なまでの死の奔流と生の鼓動──。
わたしには何もないと思っていたけれど、あの人がわたしに残っていた大切なことを思い出させてくれた。
けれど、あの時の様な死を迎えるのは不可能だ。だから出来るだけソレに近付こうと思う。
それに方法だけはもう決まっている。
言うまでもなく、わたしの最期は俯瞰からの墜落死が良いと思うのだ──。
そうして彼女は再び異界の淵に立ち、浮遊ではなく最期の飛行を試みた──。
/2
「もうこんな時間か、今日は帰っていいぞ鮮花」
確かに橙子さんの言う通り時計は既に五時を指していた。
自分はどうやら寝てしまっていたらしい。
「はい。わかりました」
目が覚めてから暫くして、わたしは帰宅の準備を始める。
……寒い。まだ八月だというのにどうしてこんなにも寒いのかわたしにはわからなかった。
外ももう陽が暮れかけているし。こんな事なら上着を持ってくるべきだった。
「織、送ってやれ」
そう言われた織は何故だか不満と少しばかりの安堵、それから僅かな哀しみを浮かべていた。
そうしてわたし達は陽が暮れる前に事務所を後にした。
◇
夏の夕暮れの中、わたし達は二人帰路についていた。
織のアパートはここから近いが、わたしのアパートはここから電車で20分は離れている。
織は何か不安でもあるのか覚束ない足取りでわたしの側をぴったりと歩いている。
「……なあ鮮花。おまえは自分が選んだ道で罪を背負うことが出来るか? それとも負った罪で道を選ぶのか?」
唐突に、彼はそんな問いを投げ掛けてきた。
「難しい質問ね。……そうね、わたしに限らずほとんどの人は前者を選びたいと思うかな」
「やっぱりそうなのか」
「でもね、それってとっても難しい決断なの。だって人っていう生き物はどうしようもなく逃げたくなってしまうものだから。罪を背負うことが分かってでも自分の選択を信じ続けるのは苦しいことだもの。だから多くの人は罪から逃げてしまうのかもしれない。でもわたしはそれを否定できないし、無意識にわたしも後者の方を選んでいるのかもしれない。わたしにも前者を選ぶのは難しいかな。……だってわたしも弱い人間だから」
けれど、間違っていると分かっていても自分の選択を信じたいこともあるだろう。
でもそれはいくら決意に満ちたものであっても結局は逃避にすぎないんだ。
だからわたしたちはどんなに無様でも愚かでも自身の行いの結末とその罪を受け入れなくてはならない。
そしてその過ちを正さなくてはいけない。
それはとても過酷で、強い意志がいる決断だ。
多分わたしにもそんな選択はできないし、わたしの見解がそんなに正しいとも思えないので口に出すのはやめておいた。
「えーと、とにかく、正しさとか選択とかって人それぞれだと思うかな」
「……でも、おまえは違うよ」
そう織は呟く。それはわたしを励ましてくれたということでいいのだろうか。
雑踏に満ち満ちた人工のジャングルを暫し無言歩いていると、わたしの部屋は目前に迫っていた。
「織、今日はありがとう。また明日ね」
わたしは普段と変わらない、一時だけの別れを何気なく告げる。
「……また、明日」
それに対して織は何故だか熱の入った言葉で返してきた。
夕日に遮られて正確に見ることはできなかったけれど。
その表情は目覚めてから初めて見せてくれた時と同じ本当の笑顔のように見えた。
◇
「今の、飛び降り自殺でしたね」
「その様だな」
目の前で惨事が起きたというのに橙子はそっけない態度をとる。
「なんでも、病気を苦にした自殺だとか。……悲しい話だ。そこまでして死を選ぶなんて、余程苦しかったんでしょうね」
黒い眼鏡を掛けた人の良さそうな青年は実に彼らしい感想を漏らす。
橙子は屋上を見上げ、ありえない幻像を見るように呟く。
「自殺に理由はない。今日は飛べなかっただけだろう」
◇
「行かれるのですね」
霧絵が屋上に出た時、そこには何者かが待ち構えていた。
その声は哀しげで、憂いを含んだものだった。
「あなた……誰?」
視力を喪失した霧絵には目の前の人物が何者かを判別する事はできないが、声色から若い男である事は判る。
「私は玄霧皐月。貴女を見届けに来たのです」
霧絵は本能的に理解する。この青年は自分にとどめを刺しに来た死神、あるいは妖精なのだと。
それでも、優しく穏やかに話す彼は味方にしか思えなかった。
「あら……嬉しいわ。会いに来てくれるのなら妖精でも死神でも大歓迎よ」
「それはどうも。お望みとあれば、いつまでも」
やはり、この妖精の様な人は味方だ。
そう確信した霧絵は玄霧と名乗る人物に興味が湧き、あれこれと質問する。
「あなた、''あの人''の知り合いでしょう? だからわたしを見届けに来たのね?」
「ええ。彼は理由あってあの建物からは出られない。だから彼の代行として来たのです」
やっぱり。彼はわたしの選ぶ結末が分かっていたらしい。
そうにも関わらずわざわざ代行者を送ってまで見届けるというのは、彼なりの気遣いなのか。あるいはとどめを刺す為なのか。
「そうね……。できればいつまでも一緒にいたいけど、わたしにはもっと強い望みがあるから……」
霧絵は哀しげに微笑む。それに連動して玄霧も悼む様に目を伏せる。
視力の無い霧絵にも理解できる程、玄霧は優しい表情をしていた。
「ありがとう玄霧さん。今ならわたし、どこへでも飛んで行けるわ」
霧絵の体は、既に限界だった。
ここで生き延びたとしても、半年と保たないだろう。
それを理解しているからこそ、玄霧は彼女の望みのままに背中を押すのだ。
せめてその最期が、報われるものであるようにと。
「さようなら、霧絵さん。貴女の最期が何よりも美しいものであることを──祈っています」
霧絵は静かに頷き、異界の淵に立つ。
何よりも昏く悍ましく、壮絶なまでに美しいそこに。
そうして霧絵は空を飛ぶ。風に揺られる綿毛の様に。
夜明けに浮かぶ白い姿はまるで百合。
ふわりふわりと蝶じみて、紅く大地に咲き誇る。
「ああ、貴女は正しく──白百合だ」
万感の思いと共に、玄霧は呟く。
彼女は飛び、花となった。
その瞬間は何よりも美しく、『永遠』にすら近しい輝きを放っている。
''彼''の真似事ではないが、玄霧はそれを永遠に憶えておくことにした。
玄霧はその極限の美を──ぼんやりと、刻み付ける様に俯瞰しているのだった。
/俯瞰風景・了
これにて俯瞰風景は終わりです。インターミッションを挟んで次はようやく殺人考察(前)です。
少しでも霧絵さんに報われて欲しかったので、玄霧先生に出張して貰う事にしました。
両儀織がどうして男なのか、原作とどう分岐した世界なのかは前日編の『彼方を継ぐ者』にて語っていきます。
とにかくここまで読んで頂いた方々、本当にありがとうございました!