誤魔化す余裕もない。僕は激怒していた。
「畜生めが」
怒りの感情が溢れ、言葉になってしまう。それぐらいに許せないことがあった。自制は効く方だとは思っていたけど、今はその限界を越してしまっている。包丁を持つ手が震えるのを抑えられない。
だけど、やらなければならないんだ。以前にこの身に受けたイフリートの炎よりも熱く、濃いこの感情を。許せないという思いを基礎とする怒りが爆発する前に。
その選択を突きつけ、疑問さえも浮かばせなかった周囲に思い知らせてやるつもりだ。決死の気概を持って挑めば彼女も満ち足りるだろう。ゆえに、振り下ろす。赤い飛沫が、大気に舞った。
「ク、クククク」
笑って、振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。ああ、本当によく切れる包丁だ。これならばやれる。満足ゆくものまでに仕上げられるだろう。否、できないはずがあろうか。最初にこれを覚えてより、8年。絶え間ない修行の後に至った位階は、そこらの素人ならば薙ぎ倒せる程に。
ああ、我は無知を憎む一人の戦士ゆえに。知識あるゆえに許容できないことを知った、一人の賢者であるがために。
「さあ、戦おう」
足止めは用意している。メインディッシュが来る前の前菜。だが、決して手を抜いてはいない。きっと喜んでくれていることだろう。そして、それを越えるメインを今より創り上げる。
「敵は、まな板の上にあり」
“食べること。美味、すなわち戦争なのだよ”とは店長の言葉だ。故に従い、我はこれより修羅に入る。風と水しか味わったことのない、ただの一人の存在の。
彼女のあるべき欲求の三分の一を埋めるために。
「ミラに、美味しい料理を作るのだ」
で、完成した料理を持って行くと驚かれた。
「うわ………これ、本当にお前が作ったのか?」
「当たり前でしょ」
「いや………美味ーよ、これ。完成度たけーよ、おい」
出された料理にがっつくアルヴィン。その表情を見ながら、満足だと頷く。下ごしらえもなしに、30分。待たせてはならぬと作り上げた一品は、どうやら美味に足るものだったようだ。
「最初の、レタスとチーズとトマトを挟んだパンも美味かったけどな。いや、これも大したもんだ。肉は少ないってのに、やけに味わい深い………なんだ、魔法の調味料とか入れたのか?」
「料理に魔法は無用。基本こそが奥義と心得ております」
地道な研鑽に勝る調味料なし。あとは愛とか、心とか、想いとか。取り敢えず全部こめてやった。いや、捧げたと言ってもいい。この、無言で料理にがっついている彼女。ミラ=マクスウェルの――――生涯初めてという食事のために。
「でも決してアルヴィンに向けてじゃない。そこんとこよろしく」
「死んでも勘違いしねーよ!」
いや、でも僕も驚いたよ。先ほどまで、ミラの力量と、各々の力量、そして連携の確認具合を見るために受けた依頼をこなしていた。街道横のモンスターを退治して欲しいという依頼を達成して。その後直後に、ミラは倒れたのだ。曰く、腹が空いたとのこと。
それはまあいい。僕も腹が減っていたし、アルヴィンだってそうだろう。だけど、続く言葉に度肝を抜かれた。なんと彼女、今まで食事をしたことが無いという。シルフとウンディーネより、必要な栄養分を与えられていたので問題はないと言った。頭の中が真っ白になった。なんだそれ、という言葉さえも出なかった。
食欲というのは、人の三大欲求の一つと親父から聞かされている。食、睡眠、性。この3つを満たすことで、人は生きていることを実感するのだとか。事実、そうだと思う。特に前者2つは必須だ。それでいて、この欲を解消する時の"質"が高ければ、それだけで人は満足するだろう。
例えば、美味しい料理。例えば、陽の光が匂うふかふかの布団。良き食事も、良き睡眠も、考えるだけでワクワクしてくる。味わえば、至高だ。実際、そうだと思った。だから考えてしまった。
では、その一つが欠落している彼女は、そのひとつをずっと満たされないままでいたミラは、一体どれだけ満たされない人生を送ってきたのだろうと。ああ、人では無いかもしれない。だけど、まるきり人ではないとも考えられない。
見せる意志。戦う姿。発する言葉。そのどれを見ても、理解できない存在とは思えない。
なればこそ許せないのだ。人には、あるいは食のために人生を捧げる者がいる。店長のような料理人がそうだ。彼らは食を尊敬し、だからこそ料理を作る事に誇りを覚え、自らの時間を費やすことを厭わない。
その数は決して少なくない。それは、他者がその想いに共感していることの証拠とも言えよう。それほどまでに大事な食というもの。しかし齢にして20に近いと思われる彼女は、それを知らないと言う。
許せない。到底、許容できることではなかった。だから海停にある宿に走った。必死の説得により厨房を借りて。そして戦うことを決意した。
前菜はパン。空かせている腹を取り敢えずは満たすもの。だけど、買った食材の中から厳選し、短時間で出来る工夫をこらしたものだ。
アルヴィンの同意を得られたように、簡単なものではない。慣れていることもある。修行と勉強の合間、それでも治療院の仕事が忙しい二人よりは時間がある僕が、夕飯を作ることが多かった。短時間で作る料理は知り尽くしている。
「なんか大仰になってるぞ少年。でも、30分は確かに早いと思うぞ」
アルヴィンが言うが、それは確かだ。複数を作るならば、少なくとも2時間はかかる。だから捨てた。待たせてはならぬと、前菜一つにメインを一つで勝負することにした。
前菜は、簡単サンドイッチ。パンはロールパンで、中身はレタスとトマトとチーズに少量の胡椒とマヨネーズを入れたもの。最後に少し焼くのがコツだ。アルヴィンが言うに、それもなんかスゴイ勢いで完食したらしい。
二人に2つずつ、4つ作ったけどアルヴィンが食べられたのは一つだけだとか。
なんでも、ミラは電光石火の如く自分の分を完食。後に、アルヴィンの分も凝視していたらしい。
餓狼のような眼光に負けたアルヴィンは、自分の分の一つを分けたとか。でも、あげると言った時の顔はすげー可愛かったらしい。くそ、僕も見たかった。メインディッシュはミートパスタ。トマトをベースに、牛ミンチと刻んだ野菜を煮詰めたもの。
フライパンの上にミートソースに使うトマトを入れ、肉を入れ、細かく刻んだピーマンと椎茸と玉ねぎと人参を入れて30分ほど加熱したもの。
最後にマカロニを入れて完成。本来ならばスパゲッティを使いたいことだが、今は無いとのことなのでマカロニで代用した。
メインの味はトマト。かの赤き宝珠の如き野菜、その旨味成分は尋常でない。煮ることでまた味が代わる優れものである。
その旨味あふれるメインの中に、牛ミンチはジューシーさを、刻んだ野菜はそれぞれの旨みを、遠慮なく容赦無く染みこませていく。
玉ねぎと椎茸と人参はそれぞれ違った旨みを。ピーマンはアクセントに。混ざり合えば、それこそ至高。地面より取れる豊穣の恵みとも言える野菜の"味"は、時に肉をも上回る。
なるべく多くの旨味と甘みを味わってもらおうと作りあげたが、どうやら成功だったようだ。ミラさん、もう完食している。というか、満足した顔の後に突っ伏した。疲れたのだろう。というか早すぎるな、3人前はあったはずなのに。
「美味しかった?」
「ああ!」
ちょー眩しい笑顔でそんなこと言う。通常の、凛とした表情ではなく。崩れ、輝かしいばかりに笑うその顔はまるで子供のようだ。やべー、顔が整っているのは分かっていたし、凛とした顔も悪くなかったけど、この笑顔は反則すぎる。初めての料理、初めて知る美味というもの。それに出会えて歓喜しているのだろうが、その顔は無防備にすぎるだろう。
無防備な美女の笑い顔がこんなにヤバイものだとは知らなかった。見れば、アルヴィンもミラの顔を凝視していた。うん、これはちょっと、男として眼福すぎるよね。
―――というか、何だろうこれは。
感謝、というものをされた事は少ない。あっても、表向きだけ。門番さんはちょっと違うが、それでもこれほどまでに真正面から、何の含みも無く感謝を示されたことは、無い。それは、あの日精霊術を使えなくなった時から。故郷は言うにおよばず。
イル・ファンでも、僕が精霊術を使えないと知っている者は、また別の眼で見てくる。汚れた者を扱うように。はれものを扱うように。銀髪バカはまた違うが。あいつが笑顔でありがとうとか、まじでありえんし。
ともあれ今、僕の中の鼓動がヤバイ。そんな笑顔を向けるな。そんなにまっすぐ、笑顔を向けないでくれ。
三大欲求とは違うものが、満たされていくけど。何かが解けていくと同時に、何かが締め付けられるんだよ。
「ん、どうしたジュード」
「いや………」
笑わないでくれ、と言おうとしたが、止めた。言える雰囲気でもないし、言われた方も、意味が分からないだろうし。だから、首を振った。そんな僕にミラは、童女のような顔をしたまま、興奮したように言う。
「食事というものは良いな! 人は、こういうものをもっと大事にすべきだと思う!」
「いや、大事にしてるんだけどね」
力説するミラに苦笑を返す。なんかテンションが振りきれている。それほどに美味しかったか。
「ウンディーネもシルフもひどいな! ああ、もっと早くに教えられていれば、もっと味わえただろうに」
「それには全面的に同意する。マジで酷過ぎるだろ、それは」
消えにくいペンで顔を落書きされても許されると思う。というか、傍に居る人はなんも言わなかったのか?食事というものについて。旨い飯があれば、士気も上がるだろうに。なんていうか、歪だ。人間じゃないから、と彼女は言うかもしれないが人間の形をしている以上、人体の理に従うべきだと思う。いち医学生として、そう考えてしまう。あるいは食事も、人格形成のひとつであるかもしれないのに。そんな事を考えていると、隣に居るアルヴィンがミラを凝視していた。
驚いているようだけど――――あ。
そういえば、まだ説明してなかった。ミラの事情、マクスウェルについての事をちょっと話す必要があるな。それから食事を済ませた僕は、食器を厨房へと持っていった。
で、戻ってくるとミラは寝ていた。テーブルに顔を突っ伏したまま、穏やかな寝息が聞こえてくる。
「………かなり、疲れていたみたいだな」
「まあ、そうだろうね」
今に至るまで、大精霊の補助を受けられないまま活動することなんて無かっただろうし。
「それで………さっきの事について聞きてーんだけど、少年?」
「ご想像にお任せするよ」
恐らく、知っているだろうし。港で情報を集めたというなら分かっていないはずがない。
(ミラもなあ。研究所内で大精霊をブッパしすぎだろ)
あれでバレない訳がない。情報が漏れない理由もない。
「じゃあ、彼女が………"あの"マクスウェルだってのか?」
「どの、かは知らないけどね」
というか、なんだ今の口調は。精霊の主マクスウェルというのは、リーゼ・マクシアに住まうものから見れば、絶対的な存在に近い。それなのに、アルヴィンの口調からは、もっと別の何かを感じる。
(やっぱり、胡散臭いな)
通常の反応ではない。でも、何だろうこの感覚は。この時の僕はアルヴィンに対して、何か近しいものを感じていた。同じなような、決定的に違うような。
―――その理由が判明するのは、ずっと後になるが。
「いや、いいさ。それより、寝ちまったお姫様を部屋まで運びますか。このまま寝かせておくわけにもいかんしな」
「あ、それじゃあじゃんけんね。三回勝負で」
「………独り占めは良くないと思わないか、ジュード君?」
「だって少年だし。まだわんぱくなお年ごろだし。15才だし。青春まっただ中だし」
「自分で言うなよ!」
ツッコんでくるが、無視。青い春の欲は、それこそ蒼天のように無限大なのだよ。その後のことは、まああれだ。三回勝負の激闘の末。アルヴィンが勝った。ムッツリめ。だけどミラは、僕達の勝負が終わる前に自分で部屋の方に戻っていたらしい。気づけば、こつ然と姿を消していた。
「………うるさくしすぎたのが不味かったか」
「起こしてしまったようだね。って、あれ、宿屋の主人が、鬼のような形相で、こっちに――――」
その後、僕達は鬼神になった宿屋の主人に、こっぴどく叱られてしまった。