――いつからだろうか、この身の五感が鋭くなっていることに気づいたのは。
肉体に“気”を巡らせることによって、身体能力を向上させられることについては言うまでもない。普段の日常生活においても少量の気をつねに流し、体に馴染ませることをずっと続けてきた。
そうしているうちに――身体的な強度以外の部分についても、いつの間にか向上しているようだった。
たとえば――いま食堂にて、学生たちが昼食を取りながら雑談を繰り広げている場面で。
この耳に意識と気を集中させれば、ざわめく音の中からどんなかすかな声も、選り分けて聴き取ることができていた。
『――この前の法学の試験、どうだった?』
『ぜんぜんー。あんなの覚えられないよ……』
『魔法関係の授業だけあればいいのにねぇ……』
はるか遠くの席で交わされている会話は、学園での授業に対するぼやきだった。
ここでは魔法だけでなく、国の歴史や実定法学、簡単な基礎医学などの学問も必修となっている。幅広い知識と教養は、貴族や上流階級の人間として身につけておくべきものと見なされていた。魔法に関わらない授業は、多くの学生たちから好まれていないようだが……私はけっこう気に入っていたりする。
『あー、でもアルキゲネス先生の授業は好き』
『わかるー! 役立つ内容が多いよね』
『ねー。わたしも貧血気味だったけど、教えられたとおりにしたら治ったし』
ラーチェ・アルキゲネスの基礎医学講義は、病気や傷痍に対する実用的知識を教えることで有名だった。貧血の時は紅茶を控えろ、などという雑学的なアドバイスが授業中にあったが――タンニンが鉄分の吸収を阻害して貧血を招くことは、科学的見地がなくとも経験的に理解されているらしい。なかなか面白い話である。
もともとこの魔法学園は、戦争が激しかった時代に士官を養成するために建てられた学校が前身であるため、一部の授業はとくに実用志向だった。魔法だけ巧みであれば良いわけではない――そんな教育方針は、理にかなっていると言える。戦争において、闘争において、勝利に必要となるのは――さまざまな知識と経験、そして能力の総合力だった。
『――えっ!? まだ食べるんですか、あの人!?』
『あー。あなた新入りだから、知らなかったのね……。あのお嬢様、食事はいつも五人前が基本なのよ』
『ご、五人前!? どんだけですかっ!? 同じ女性に思えないですよ……』
彼方から聞こえてくるのは、食事を運ぶ給仕たちの会話だった。どうやら片方は、最近働きはじめたばかりの新人らしい。その声色からは驚愕と恐怖の感情がにじみ出ていた。
「…………」
おかわりした三皿目を平らげて、次の皿が来るまで暇を持て余した私は――ふと、隣の席をちらりと見た。
そこにはミセリアが、遅々としたペースで食事を口に運んでいる。鶏肉のソテーをもぐもぐと咀嚼している表情は、まったくの無感情である。食べ物を味わうという行為を知らなそうな顔だった。
「……あなた、もうちょっと美味しそうに食べたら?」
ごっくん、と口に含んだものを嚥下したミセリアは、「おいしい」と無表情で言い放った。どう見ても、おいしそうには見えない。……この子、ぜったい食レポに向いていない。
ミセリアがのろのろと食事を進めるなか、ようやく給仕が次の皿を持ってきたようだ。私とそう変わらない年頃の新入り給仕は、恐ろしいものに接するかのような態度で「ど、どうぞ……」と料理の皿をテーブルに置く。その声はわずかに震えていた。
……そんなに怖い雰囲気をしているのかしら、私は。
微妙にショックを受けつつ、ふたたび食事に手をつけはじめ――
『――ねぇねぇ、知ってる? 最近、昼休みに変なことをしてる男子』
『あっ、グラウンドのあの人たちでしょ』
その声を耳に拾った瞬間、私はフォークを持った手をとめた。
昼休みのグラウンド……。思い当たるのは、“彼ら”だった。
『なんかさー。前からヴァレンス家の子がランニングしてるのは見たけど……』
『もう一人のほう……レーヴァン様だっけ? あの出身不明の、素敵な方』
『そうそう、女子からひそかに人気の殿方。……なんで、あの人まで走るようになったのかしら』
『体の運動が流行り……なのかなぁ……』
彼女たちが話題にしているのは、フォルティスとレオドのことで間違いなかった。
あの舞踏会の日以来、どうやらレオドも何か思うところがあったらしい。それまで魔法の練習に
肉体の錬磨に励む美青年の二人。
……うーん、いい絵ね。私としては、もうちょっとあの子たちは筋肉をつけるべきだと思うけど。
『せっかくカッコイイ人たちなのに……なんで汗臭そうなことをするのかしらねぇ』
『ねー。力仕事をする平民じゃないんだから……』
『貴族らしく、優雅であってほしいわ……』
……なんですって?
洗練された肉体的強度が生み出す、純然たるパワーの美しさを知らないなんて……。
哀れな娘たちなこと。煌びやかで生っちょろい世界で生きる、ぼんぼん育ちの貴族の典型というやつかしら?
「フォーク」
隣からミセリアの声がした。
自分の手元に目を向けると――私が持っているフォークの柄が、直角にねじ曲がっていた。
「あら、ごめんあそばせ」
私はうそぶくように言うと、片手のままグイとフォークをもとの形に戻す。銀食器はどうも柔らかすぎていけない。……鋼鉄の食器が欲しくなるわね。
そんな冗談じみたことを考えつつ、私はふたたび料理を口に運びはじめる。食事はいくら取っても、取りすぎるということはなかった。この肉体に“気”を流して動かすには、それだけのエネルギーが必要なのだ。
『――次の授業、ラボニ先生の歴史学かぁ』
『お昼のあとの座学は眠くなるよねー』
『あの先生、話し方もお堅いしね……』
黙々と食事を進めつつ、ふいに耳に入ってきた声に私は目を細めた。
フェオンド・ラボニ――学園の中でもとくにベテランの教師で、落ち着いた性格の初老の男性だった。その年齢と経験から、教師の中でもいちばん上の地位に立つまとめ役となっているようだ。貴族としても由緒正しい家柄であり、いずれは学園長に就任することも確実視されている、実力のある人間だった。
実際に何度も授業を受けているが、話を聞くかぎり相当な知識と経験が窺えるし、魔法の技能についても秀でた力を持っていた。――教師の鑑とも言えるだろう。
――そんな彼が、悪魔の力を求めているということを私は知っていた。
この世界には、私たちの住んでいる場所とはまったく異なる“世界”があるらしい。それを言い表すならば――魔界だろうか。
千年以上も昔。世界は今よりも混沌としていて、人間の領域と魔の住人の領域が交じり合っていたと言われている。だが古代の人々は、なんらかの手段によって人間と魔の世界を隔絶させたようだ。結果的に、魔の住人――デーモンの存在は、われわれにとってはおとぎ話の中の存在になってしまった。
だが――長い歴史の中で、幾人かの人間は魔界とつながる手段を見いだし、さらにその方法を書物にも残していた。
学園の図書館に眠っているであろう、その魔本を解読し扱えば、ふたたび現世にデーモンを
なぜ彼は、デーモンを召喚しようと思ったのだろうか。
その疑問は、これまでずっと抱いてきた。授業でラボニの様子を見るかぎり、とても欲にまみれた悪人のようには思えない。むしろ真逆で、真面目で誠実なタイプの人物だった。
そして――私の頭に入っている“知識”からでも、ラボニの真意というのは見極めることが難しかった。
魔本を利用してデーモンを召喚した彼は、学園の貴族子弟を人質にとって、王国に「もっとも強い騎士を連れてこい」と要求する。その騎士をデーモンに殺させ、武威を示すのが狙いだったのだろうか。だが――反抗に出たアニスたちによって、デーモンは斃されて計画が崩れ去ってしまう。……それが“ストーリー”だった。
アニスが行動をともにする人物、あるいはそれまでの選択によって差異が存在するものの、そのルートの話の筋はあまり変わらない。主人公の聖なる魔力はデーモンを弱化して、最終的にヒーローによって打ち倒されるのだ。
力を失い、弱くなったデーモンを見て、ラボニは絶望的な表情を浮かべていた。だが――ミセリアの場合と同じように、最後までその心中の告白は存在しなかった。だから彼の願望や目的については、客観的事実と描写から推測するしかなかった。
――もし私がその場に居合わせたら、どうだろうか。
アニスの魔法を浴びて、学生にも負けてしまうくらい弱体化したデーモンが、必死で戦う姿を目にしたら。
「――当然、でしょうねぇ」
「…………?」
「独り言よ」
不思議そうな視線を送ってくるミセリアに、私は笑みを浮かべながら答えた。
以前はわからなかったことが、今ではよく理解できていた。
強大な力を持った圧倒的存在が、そのパワーを失ってしまったら。
きっと――私だって、喪失感に絶望するだろうから。
◇
その日の放課後。
図書館の扉を開けた時、目に入ってきたのは――息も絶え絶えにカウンターに突っ伏している、リベル・ウルバヌスの姿だった。
「…………何をやっていらっしゃるのですか?」
私は呆れながら、疲労困憊の様子の司書に尋ねた。ウルバヌスはようやくこちらに気づいたのか、「あっ、すみませんっ」と慌てたように顔を上げる。よっぽど大変なことでもあったのだろうか。
ふと、私は書庫の入り口近くに木箱が置いてあることに気づいた。中には本が積まれているようだ。――なるほど、と私は思い当たった。
図書館には半年ごとに本が一括納品されるようだが、あの箱に入っているのが新しい本に違いない。そういえば昼休みに、荷物を抱えて学園に出入りする人々を見かけた。あれは書籍を取り扱う業者だったのだろう。
「あはは……本を抱えてあちこち移動するのは、なかなか重労働でして……」
ウルバヌスは弁解するかのように、苦笑いを浮かべながら言った。
私は彼の体を一瞥したが、その腕は成人男性の平均と比べても細く、とても膂力があるようには見えない。部屋に引きこもって読書をするのが趣味な、
「とりあえず、置き場所の近い新書は片付けたのですが……まだ作業が終わりそうになくて」
「……手伝いましょうか?」
「い、いえっ! そんな、ご迷惑をおかけするわけには」
「先生おひとりでは、大変でしょう? それに――先日は、本を紹介してくださいましたし。お礼に、という形でいかがかしら?」
そう、図書館に来たのはべつに気まぐれではなかった。私はある情報を得るために本を探していたのだが、この前は彼から役立ちそうな書物を教えてもらったのだ。今日ここを訪れたのも、その本を続きを読むためであった。
納本されたものを整理するのは、よほど苦労する仕事なのだろうか。ウルバヌスは迷ったような表情をしつつも、「では、一つだけお願いが……」と提案をしてきた。
「その本が入っている箱を、私と一緒に運搬していただけませんか? 書庫の奥のほうに持っていきたいのですが……どうにも重くて。反対側を持っていただいて、運べたらいいなと……」
おずおずとした口調でお願いされた内容は、単純な荷物運びだった。あれが重い? と眉をひそめてしまったが、なるほど彼のような運動不足の青年には重労働なのだろう。
……仕方がない。手伝ってあげるとしよう。
「――あれを、書庫の奥に持っていけばいいのですわね?」
「ええ。地下の閉架書庫の入り口付近まで運べたら、残りの仕事がやりやすくなるので……」
「お安い御用でしてよ」
私は木箱のところまで近寄ると、ひょいとそれを持ち上げた。あまりの軽さに、拍子抜けしてしまう。これでは両手で持つまでもないので、片手の上に乗っけて運ぶことにしよう。
「あ、あの……二人で……」
「必要ありませんわ」
「……ち、力持ちなんです……ね……?」
「ウルバヌス先生が非力すぎるのではないかしら」
「そ…………そうですか……」
ショックを受けたような反応の彼に、私はニコリとほほ笑んで――そのまま書庫に入っていった。
書庫内は本の日焼けを防ぐために、採光窓のない暗所になっている。以前の私はその暗さに、普通の魔法を使えない不便さを痛感していた。肉体の力を高めるだけの“気”の力では、日常の生活において劣る場面もあると。
――だが、それは間違っていた。
いま、暗い書庫を歩く私の足取りは、平時とまったく変わらなかった。視界の光はたしかに少ない。しかし、その場所を移動するのになんの不都合もなかった。
空間がわかるのだ。はっきりとモノの位置を捉えることができる。肉体と気を運用しつづけて向上した知覚は、暗闇でも活動できる能力をいつの間にか私に授けていた。
――もし、闇夜で敵と闘ったとしても。
私は相手の攻撃を見逃すことはないだろう。この身に迫る脅威を認識し、対応する自信があった。闇討ちなどというものは、私にはもはや意味をなさない行為である。
指定されたとおりに荷物を運び、ついでに一冊の本を書架から取り出して、私は図書館の読書スペースまで戻っていった。こちらの姿を確認したウルバヌスは、まさかこれほど早く私が戻ってくるとは思っていなかったのか、慄いたような表情を浮かべていた。
「……お……お早いですね……」
「体を鍛えていれば、この程度は造作もないことですわ」
「か、体ですか……」
「ええ。ウルバヌス先生も、もう少し筋肉をつけたほうが良いのではないかしら」
「な、なるほど……」
顔に困惑を浮かべながら、ウルバヌスは自身の上腕に手を触れた。その貧弱な肢体は、私より二回りは細いことだろう。もしこちらが暇を持て余していたら、食事とトレーニングのサポートをしてやりたいくらいだった。
……さて。
司書の手伝いを終えた私は、読書机に赴いて持ってきた本を広げる。前回に中断したページを開くと、章のタイトルが目に入った。
――『デーモンの階級について』。
今となってはほとんど発行されていない、魔界についての情報をまとめた書物だった。ちなみに著者はそれなりに有名な大学教授のようなので、内容もデタラメというわけではないはずだ。
――敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。
いずれ対峙するかもしれない相手について調べるのは、私にとって必要なことだった。
「……爵位、か」
本の記述に目を通しながら、ぽつりと呟く。
どうやらデーモンの世界でも、その能力と支配領地によって格付けがなされているらしい。それは人間世界――つまり、私たちの国と同じだった。
五つの爵位――公・侯・伯・子・男。
人間世界においては、伯以上の爵位の権威や価値はピンキリだったりするが――魔界では、その階級は絶対的な上下関係があるらしい。上の爵位になるほど、その強さは比べ物にならなくなるのだとか。
そして下位のデーモンは姿かたちが異形で禍々しいが、上位になってゆくと見た目が人間に似たものとなるらしい。古い戦記やおとぎ話ではどれも、高位のデーモンは知性と気品と武力を兼ね備えた存在として記されている。けっして横暴な化け物ではなく、むしろ人間と近しい存在として見られていたようだ。
――ラボニが召喚に成功したデーモンは、どうだったろうか。
黒紫の体色に、巨大な肉体。その手には禍々しい爪が、刃物のように伸びていた。いちおう片言で言葉も発していたが、人間とのコミュニケーションを取ろうという気配など微塵もなかったはずだ。
本の情報と照らし合わせてみれば、おそらくは最高でも子爵級のデーモンだったのではないか。
と、いうことは――
「ふふふ…………」
私は笑いを漏らしながら、読みおえた本を閉じた。窓の外は、ほのかに赤くなっている。そろそろ図書館を出なければならない時間だろう。
本を書庫に戻した私は、出口のほうへ向かおうとした。そのタイミングで、カウンターで何か記帳作業をしていたウルバヌスと目が合う。彼はどこか引き攣ったような笑みを浮かべて、おずおずと声をかけてきた。
「お……お帰りですか?」
「ええ」
「ず、ずいぶん機嫌がよさそうですね……」
「有益な情報が得られましたから」
「そ、そうですか。それはよかった」
ウルバヌスは詳しく聞こうとはしてこなかった。まあ、言っても理解されないだろうから好都合だ。私の“知識”にあるデーモンよりも、さらに強い存在がいることを知って喜んでいるなど、誰にも言えるはずがなかった。
――いまだ見ぬ世界には、はるか強大な敵が存在する。
知りたかった。それがどれだけ強いのかを。そして――私の肉体と技術が、どこまで通用するのかを。
下級のデーモンなど、もはや私は求めていなかった。さらに上の存在を――この侯爵家のヴィオレ・オルゲリックに
「――ああ、そうそう」
図書館の扉を開けた私は、ふと思い出したように振り返った。
びくりと反応したウルバヌスは、緊張したようにこちらを見つめている。私は淑やかにほほ笑むと、彼のためのアドバイスを口にした。
「毎日、腕立て伏せ百回から始めるといいですわよ」
ウルバヌスの表情を確かめることもなく――
私はすぐに体を外に向けると、図書館をあとにした。
☆投稿方法の変更について
11話より、投稿サイトによって投稿の仕方を変更しています。
さすがに一話で1万5000字近く行ってしまったりするのは、閲覧者によっては長すぎると感じる方もいらっしゃるためです。
そこで、ハーメルン側を従来どおりの文章量、なろう側を3000~4000字程度に分割した文章量で投稿することにしました。
長くても一話がきっちりキリのいいところまで終わっているほうがいい、という方はハーメルンを。長すぎる文章を一度に読むのがつらい、という方はなろうを。好みに合わせてご利用いただければ幸いです。
実際の投稿予定例としては、以下のようになります。
2019/07/26(金) なろう(011a)
2019/07/27(土) なろう(011b)、ハーメルン(011)
2019/07/28(日) なろう(012a)
2019/07/29(月) なろう(012b)
2019/07/30(火) なろう(012c)、ハーメルン(012)
現在、012まで執筆済みですが、このような感じで試してみようかと考えています。
文章の内容に差異は出ませんので、その点はご安心ください。
ハーメルン:
https://syosetu.org/novel/178297/
小説家になろう:
https://ncode.syosetu.com/n7148ff/
☆ここまで読んでくださった方々への御礼
去年から細々と更新を続けてきましたが、ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございます。
当初はただの一発ネタであり、なんてことのない作品でしたが、思いのほか好評を頂けて私自身も驚いております。
物語のラストまで構想は決まっているので、のんびりとですが終わりまで継続していけたらと考えています。これからもご支援いただければ幸いです。
今後とも、どうぞよろしくお願いします。