――以前にもまして、アルスの顔つきは精悍になっていた。
もともと筋骨隆々の大男だったが、その威圧感や鋭さはさらに磨かれていた。ひとの雰囲気というものは、環境によって変わるのだろうか。相手を打ち倒そうと攻撃する――その行為を繰り返しつづけた彼は、素人ながらも
力強く、かつ素早い拳が、私に迫っていた。
私はそれを視認し、ぎりぎりのところで躱す。頬を掠めた打撃の脅威に、わずかに口元を緩めてしまった。いい攻撃を繰り出されると、なんとなく嬉しくなるのだ。
その一撃だけでは終わらず、今度は左手による連撃がやってくる。胸部の中心を狙った突きだった。正中線――すなわち人体に効率よくダメージを与えられる部位を狙うのは、格闘における基本である。アルスはそれを、すでに身をもって学んでいた。
後ろに退きつつ――その直進する拳を打ち払うように、右腕の前膊でいなす。
二撃目も対応されたアルスは、さらに左足による前蹴りを放ってきた。その狙いは、ちょうど私の右膝関節である。普通のスパーリングであれば、人体を壊しかねない危険な行為は禁止にするものだが――私はあえてアルスに、急所も遠慮なく狙っていいと伝えていた。
彼の攻撃が到達するよりも早く――私は右足を振り上げ、そしてアルスの蹴りに合わせて振り下ろしていた。
「おわっ!?」
前蹴りで伸びきったアルスの脚を、私の右足が絡めとる。不安定な体勢で一本足になった彼が、立っていられるはずもなかった。地面に転んだアルスの頭を――もし私が拳を振るえば、粉々に破壊できていただろう。
「……反応が速すぎだぜ、姐さん」
「あら、おだてても何も出ないわよ」
「ははは……」
アルスは苦笑を浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。
そして、ふたたび私とのスパーリングを再開する。
――けっして、私からは攻撃することなく。
アルスに攻撃させ、それをギリギリで避ける、あるいは防ぐことを繰り返す。
なぜ攻撃をしないのか、というのは単純だった。私の打撃にアルスが対応できないからだ。言い方は悪いが、格下をボコボコにしても得られるものがあまりなかった。
だから、基本的には受けを鍛錬していた。
避けようと思えば、もっと余裕をもって避けられるが――あえて、そうはせず。
当たるか当たらないか、その寸前のところを見定めて、防御を成功させる。その繰り返しは、私の反応速度を研磨する。冷静に、冷徹に、脅威を見抜いて行動する能力を向上させてくれるのだ。
もっと、強く――
どんな強敵が相手でも、勝利を得られるように。
生きるか死ぬかの死線を乗り越え、生殺与奪の支配者となるために。
「――――」
顔面へ向けて、アルスのフックが飛んできた。
見えている。私はそれを、極限まで少ない動作で防ごうとした。
擦れ擦れの、掠るような一撃。あごの先端、薄皮一枚で受けたそれは、大したダメージもなく受け流せる見立てだった――はずなのに。
――世界が、傾いた。
気づいた時には、私は片膝と片手を地面についていた。
何が起こったのか、わからなかった。意識が一瞬途切れ、いつの間にか倒れていたのだ。
「――お、おいっ! 大丈夫か、姐さん?」
普段はありえない私のダウンに、アルスも困惑したような声をかけていた。
私はゆっくりと立ち上がると、手や服についた土を払う。それと同時に、ようやく今の出来事に理解が及びはじめていた。
『もし暴漢に襲われたら――アゴか股間を狙え』
私に空手を学ばせた、かつての父がそう言っていたことを思い出す。
なぜ、その部位なのか。理由は簡単だった。
――たとえ腕力で劣っていても、うまくそこへ攻撃が入れば打ち倒せるからだ。
金的。これは言うまでもない。男の股間に蹴りを入れれば、容易に相手は悶絶することだろう。
そして――あごへの攻撃。ここに衝撃を受けると、てこの原理で頭部が揺り動かされる。それはつまり――内部の脳も揺さぶられるということだった。
軽い脳震盪。
それがさっき、私がアルスに引き起こされたモノの正体だった。
そして――もし、今のが実戦だったら。
意識が飛んで“気”の力が弱まった私の首に、鋭利な刃物でも突き立てていたら。もしかしたら、私を殺せていたかもしれない。
「油断すると……いけないわね」
私はそれを痛感しながら、笑って言った。
たとえ、どれだけ力の差があろうとも。肉体的な優劣があろうとも。今さっきのように、効果的な攻撃が格上の存在を打倒することもあるのだ。
肝に銘じておかなければならない。自分が負けないために。そして――勝つために。
「――続けましょう」
私は構えをとって、スパーリングの再開を促した。
次は慢心しない。見逃さない。すべての動きを、あらゆる攻撃を、この五感で正確に把握して、適切な行動を返す。
今の私は――空間のすべてに感覚が及んでいた。
初めは、ただ肉体の強さを身につけ。
そして徐々に、技術を手に入れて。
今や、五感を研ぎ澄ましつつある。
――その先に、何があるのか。
私の心は、いまだ見えぬ高みへと向いていた。
◇
朝から続く、裏庭での鍛錬を終えて。
ちょうど正午の時間に、二人で昼食を取ること。それはアルスの家を訪れた時の定例となっていた。
食事、といっても学園の食堂で出されるような料理とは、もちろん大きく違う。調味料はせいぜい塩があるくらいだし、調理方法も限られているので、私がふだん口にしているものと比べれば質素と表現するしかなかった。
アルスの生業は狩人だが、森で狩った動物の肉や毛皮を、近所の住人たちと物々交換しているらしい。なので、パンと野菜にはそれほど困っていないのだとか。庶民としてはわりと栄養バランスのいい食生活を送っていると言えるかもしれない。
「……相変わらずの食いっぷりだな」
「あら? あなたが少食なだけではないかしら」
そう平然と答えると、アルスは苦笑を浮かべてスープに口をつけた。
いま食しているのは、ウサギ肉と野菜を煮込んだスープ料理だった。もちろん肉はアルスが弓で狩ったものである。シカやイノシシなどの大型の獲物の場合は王都で売り払っているが、ウサギのような小型の動物が獲れた場合は、基本的に自分で食べるなり農民に分け与えるなりしているのだ――と彼は語っていた。
スープのほかには、切り分けられたパンが盛られた皿もあるが、それは私が王都のパン屋で買ってきたものである。肉や野菜の入った料理を食べさせてもらう代わりに、私もアルスにパンを提供するという形で、お互い釣り合わせていた。
ちなみにアルスは普段、保存のためにカッチカチに水分を飛ばしたパンを食べているらしい。高級な柔らかいパンを食べる機会はめったにないようで、私の持ってきたパンがスープに浸さなくても食べられることに感動していた。そういう庶民的な感性を眺めることは、貴族中心の世界で生きている私にとってはちょっと面白かったりする。
「……不思議なもんだな」
どこかしみじみとした様子で呟いたアルスに、私は怪訝な目線を送った。「何が?」と尋ねると、彼は恥ずかしそうに頭を掻く。ややあって、苦笑しつつその口を開いた。
「おれのほうが、ずっと年上のはずなんだが……。なーんか、そう感じないんだよな。まるで、本当に……姉貴みたいだぜ」
「…………」
――その感覚は、そう間違いではない。
私には“前”の経験と知識があるぶん、精神的な年齢は肉体よりもはるかに上だった。実際に、この世界で生きてきた年月を加えれば、アルスよりも年上であると言えるだろう。
唇をわずかに緩めつつ、私は彼に尋ねた。
「姉貴、ね……。兄弟とかは、いなかったの?」
「いたぜ。つっても、いろいろと家庭が複雑でね。そんなに仲がよくなかったんだ」
ふぅん、と頷きながら、私はスプーンでウサギ肉をすくった。
見た目、味ともに鶏肉に似ているが、口に入れて噛んでみると意外なほど身のしまりを感じる。やや野性的な風味があるものの、癖もなく淡泊な味わいで、家畜の食肉と比べても劣らなかった。口の中でスープと一緒に咀嚼すれば、旨味が食欲をさらに湧かしてくれる。
昔はまるで興味もなかったが、こうして実際に食べてみると、なるほどジビエ料理も悪くなかった。
「――だから、一人暮らしをしているってことかしら」
「まぁな。家族もおれが出ていってくれたほうが助かるから、手切れ金を渡してくれてね。それから、ここを住まいにしてのんびり生きている……ってわけさ」
「実家は金持ちなのね」
「……多少は」
ふっ、とアルスは笑みを浮かべた。
郊外の農村部とはいえ、ここは王都周辺の土地である。家はもとからあったのか、新しく建てたのかは知らないが、諸々の資金がそれなりに必要だったことはうかがえた。そんな金を渡して放逐したということは――彼の出身は、相応の資産を持っている家に違いない。
気にはなったものの……まあ、それは本人の事情である。さすがにこれ以上、家族については詮索すべきではなかった。
「――今の生活には、満足している?」
過去には触れない。代わりに、今について尋ねた。
アルスは少し考えこんだような面持ちをしたが、すぐに照れくさそうな表情を浮かべる。そして私の顔をまっすぐ見据えながら答えた。
「――ああ。こうして毎週……姐さんと過ごすようになってから、楽しくて仕方ないぜ」
「……ボコボコにされて喜ぶタイプの男だったの?」
「ち、ちげーってッ!? そういう意味じゃ――」
「ただの冗談よ。わかっているわ」
私はほほ笑みながら言った。
変わり映えのない、静かな暮らしを続けていたのだろうか。だがアルスの人柄を見るかぎり、それほど人との付き合いが嫌いなタイプではないはずだ。郊外で一人暮らしをしていても、本心では誰かとの交流を求めていたのかもしれない。
つまるところ――こうして私と週末に会い、手合わせしたり食事をともにしたりすることが嬉しくてたまらないのだろう。
ひとは真に孤高を貫くことなどできない。
他者と距離を置こうとしても、どこかで誰かと交わることに恋しさを抱くものだ。
それを知っているからこそ――私はなんだかんだで、ミセリアと“友達”でありつづけているのかもしれない。
そんなことを思いつつも。
アルスと雑談しながら食事を続け、そろそろ午後のスパーリングに移ろうかという時――
――来訪者を知らせる、呼び鈴の音が鳴り響くのだった。
◇
来客に対応するのは、もちろん家主であるアルスの役割だった。彼は玄関のほうで、付近に住む農民らしき人物と言葉を交わしている。その会話は――私の耳なら簡単に聞き取ることができた。
「……そのイノシシは、いまどこに?」
「果樹園のほうをうろついているみたいなんだが、わしも迂闊に確認しにいけなくてな……。あれだけデカいのは、初めて見た」
「実物を目で見ていないから、なんとも言えないが――おれも獣をすべて狩れるわけじゃないぜ? マジでヤバいやつなら、魔法を使える“騎士”を派遣してもらうしかない」
――二人が話している内容は、剣呑で深刻な色を帯びていた。
どうやら、生活圏内にイノシシが入りこんできたようだ。森のほうから下ってきたのだろう。いつもなら、そういう場合はアルスが弓で射止めているらしいが――
今回のイノシシは、通常の個体よりもはるかに巨大な体つきという情報だった。
そして私は――それがどれだけ危険な存在なのかも理解していた。
住宅街に迷い込んだイノシシが人間を襲った。そんなニュースは、前世で何度も目にしたものである。家畜化されたブタとは違い、野生のイノシシは攻撃性の高い動物なのだ。
そんなイノシシを狩るのは、ライフル銃などがあれば難しくもないのだろうが――ここは高度な銃火器が存在しない世界である。
アルスが得物としている
野生動物は、強いのだ。
厳しい環境で生き抜くために、彼らは強力な肉体を培ってきた。
その純粋な体躯の威力は――人間のちっぽけな身体能力をはるかに凌駕する。
だが、だからこそ――
素手で獣に勝つことは、格闘家の箔をつけることに利用されてきたのだろう。
「――そのイノシシがいる場所、教えてくれる?」
私は玄関のほうへ歩み寄りながら声をかけた。
何をするつもりなのか、アルスはすぐに察したのだろう。彼は引き攣った顔を、こちらへ向けてきた。
「あー……姐さん……いくらなんでも……」
「私は“魔法”が使えるわ。イノシシどころかクマだって倒せるわよ」
そう言うと、アルスを訪ねてきた年配の男は明るい表情になった。魔法の使える者は、戦争においては重火器の役割をも担う存在である。レベルの高い魔術師であれば、大型の獣を斃すことも容易であった。
「お嬢さん……どこかの貴族の方ですか? 魔法が使えるというのは――」
「――本当よ。この私の“手”にかかれば、どんな敵だろうと打ちのめせるわよ」
「いやぁ……やめておいたほうが……」
後ろでアルスが気弱な発言をするが、もはや私の心は決まっていた。困っている住民がすぐそこにいるのだ。助けてあげるのが貴族の務めというものだろう。
男性から詳しい目撃情報を聞き出した私は、アルスに笑みを向けて言った。
「午後は、日が暮れる前に別れる予定だったけど」
「…………?」
「夕方まで、一緒に過ごすのもいいかもしれないわね」
「は……はぁ……」
意味がわからなそうな様子のアルスは、呆れた声色で頷いた。そして頭を掻くと、諦めたように口を開く。
「……おれも装備を用意したら、とりあえず姐さんの後を追うぜ」
――なら、彼が着く前にすべてを終わらせるべきだろう。
そう内心で思いながら、手を振って了解の合図を示し、私は家の外に出た。
正午過ぎの空は青く、爽快な陽気だった。広々とした農耕地帯の風景は、王都の雑踏にあふれた通りと違って解放感がある。ここなら――全力で走っても迷惑をかけることがなかった。
果樹園の位置は把握していた。すぐ近くの場所だ。――私にとっては。
「よし」
小さく呟いて……私は一歩を踏み出した。
――ストライド、という言葉がある。
陸上競技などにおける、歩幅を示す単語だ。近代オリンピックでは、この一歩の幅を広げて走るストライド走法が重要視されてきた。
人類史上最速と言われるスプリンターは、100メートルを9秒台で駆け抜ける。ある世界選手権では、この選手の平均ストライドが244センチにも達していたという。
むろん、これは平均の値である。最長のストライドは300センチをも超えていたことから、一歩でどれだけ驚異的な距離を進んでいたのかが理解できよう。
そして――
今の私は、“人類史上最速”を置き去りにする身体能力を持っていた。
「……ッ!」
風を切る、などという言葉は似つかない。
例えるならば――自身が暴風と化したと言うべきかもしれない。
跳ぶように走るそれは、もし誰かが目にしていたら――本当に飛んでいるように見えただろう。
大地を蹴り、飛翔した私が次の足を踏むまでの距離――じつに500センチは下るまい。
100メートルを――わずか20歩で駆け抜けるストライド!
時速70kmを超えた私の脚力は――
周囲を景色を一瞬で後方へ追いやり、目的地へと到達させた。
「――――」
獣除けの柵が張り巡らされた、果実の成る樹木を栽培する一帯。
王都の周辺には、こうした果樹園も数多く経営されており、都への果物の供給を担っていた。
そして、いま私が見つけた果樹園の外周部は――
柵の一部が破壊され、何者かが中へ侵入した形跡を残していた。
間違いない。
イノシシは、ここから園内に潜り込んでいったのだ。
私は跳躍し、柵を乗り越えて中に飛び込んだ。
果樹は一定間隔で植えられ、雑草も取り除かれているので、遠くまで簡単に見渡すことができた。
そして――私は見つけた。
彼方で地面に落ちた果物を、むさぼり食らう野獣を。
その大きさは――
「……っ」
初めは距離感による見間違えかと思った。
だが――私の視覚は、その大きさを正確に捉えていると確信する。
樹木との比較から、推定されるイノシシの図体は――
おそらくは、体長2メートル近くあるッ!
一般的なイノシシが、体重100kg前後はあることを考えると――
肉や脂肪を十分にまとった、あの巨大なイノシシは……間違いなく体重200kgはゆうに超えるだろう。
……猛獣だ。
イノシシは、捕食しようとしてきたトラやクマを、逆に返り討ちにすることもあるという。
つまり――あれは大型のトラやクマに匹敵する力を備えた、恐ろしい獣にほかならなかった。
「ふふふ……」
なぜ笑みがこぼれるのだろうか。自分でもわからなかった。
私はまっすぐ、その猛獣のもとへ歩み寄ってゆく。
少しして、向こうも気配を感じたのだろうか。その顔を――私のほうへと動かした。
目が合った。
その瞬間、イノシシは果物のことも忘れたように……私をはっきりと見据える。
威嚇するように唸った獣の口元には、大きな牙が備わっていた。鋭利なそれは、オスの証である。
その巨体を備えるまで生きてきたのならば――獣も十分に理解していることだろう。
人間の領域に入りこんだからには、狩人の脅威があるということを。
眼前に立つ存在が、みずからの生命を奪いに来た敵であるとことを。
――生き延びるためには、闘争か逃走のどちらかを選ばねばならぬということを。
尻尾を巻いて逃げ出すか。それとも邪魔者を蹴散らすか。
己の弱さを自覚している動物であれば、すぐさま逃げる選択をしたことだろう。
だが――並外れた巨躯を持ち、おそらく森の中でもカーストの最上位に君臨していたであろう、そのイノシシは。
――私に立ち向かうことを選んだのだった。
「あァ……」
いい心意気だ。
野生の世界では、あらゆる要素が生きるか死ぬかに直結する。
人間と違って医療技術のない世界では、ほんの些細なケガでさえ致命傷に至ることもある。
その限りなく死が身近な環境で生きてきた“彼”が、己の命の危険も顧みず勝負を挑んできたのだ。
素晴らしい!
それは賞賛に値する、勇気ある行動だ。
私が抱いたのは――闘う者に対する、敬意と礼意の熱い感情だった。
「いいわ……」
最高の好敵手に、笑みを送る。
最初は緩やかに動きはじめたイノシシも、徐々に速度を上げて疾走を始めていた。
そのスピードは、目算でも時速50kmは出ているように思える。
脚の速さだけ見れば、猟犬などとそう変わらないが――体重は文字どおり桁違いだった。
百キロ単位の肉塊が、全力でぶつかって来ようとしていた。
さらに、その口元には――敵を刺し貫ける牙が殺意をあらわにしている。
たとえ“気”を巡らせていても……その刺突を受けきれるかはわからなかった。
もし大腿動脈にでも突き刺されば、私は殺される可能性もある。
つまり――
これは、お互いに生死を賭けた真剣勝負だった。
「全力で……」
――構えを取る。
腰に溜めた右拳は、いつでも正拳突きをできる状態であった。
震えも緊張もない。ただ静かに、敵が肉薄するのを待っていた。
「――――」
来た。
すぐそこに、獣の必死な形相が映る。
その顔には――恐怖が浮かんでいるようにも見えた。
死に対する、怯え。
それが相手にはあって、私にはなかった。
……決定的な違いだ。
死を恐れる者に――私が敗れるはずなどなかった。
「……ッ!」
体の捻りを加えながら、下段へと正拳を繰り出すッ!
爆発的な気のエネルギーと、練り上げられた筋肉の力が――腕を伝わって拳の先へと宿るッ!
イノシシの剛毛と厚い皮膚に覆われた頭部を――
――打ち抜いた。
瞬間、凄まじい衝撃が手を、腕を、そして体を襲った。
――自動車に撥ね飛ばされる瞬間とは、きっとこれと同じような感覚なのだろう。
このまま弾かれて、威力を受け流したら、どれだけ楽なことか。
だが――相手は命懸けで突貫してきたのだ。
それを真っ向から打ち破ってこそ――礼儀というものだろう。
衝撃を、すべて打ち殺す。
突き出した拳は、けっして退くことなく――
その頭蓋に……凄惨に食い込んでいった。
「――――」
止まった。
静止した時、右手は――
いや、“右腕”はイノシシの顔面に深々と突き刺さっていた。
その牙は――あと一寸で、私の腿と接触するような位置だった。
「…………」
勝った。
それを実感しながら、右腕を引き抜く。血と脳漿を流しながら、どさりと斃れゆくイノシシの姿は――敗者に訪れる無慈悲な死を、強烈に演出していた。
この獣は強かった。
だが――私が少しだけ上回る力を持っていたから、今の結果になったのだ。
強き者は生き、弱き者は死ぬ――それが、この世に存在する生命の単純な原則だった。
力を。
さらなる強さを。
巨大な屍を前にして抱くのは――より強力な肉体と技術への渇望だった。
「さぁ……」
帰ろう。
アルスの家へ。
ひとまず、体にこびりついた穢れを清めたい思いが湧いていた。
汗や血を洗い流した、そのあとは――
「お、おいおい。もう帰ってきたのかよ、姐さ――」
アルスの玄関の戸口。
呼び鈴を鳴らしてから少しして、ドアを開けて姿を現したのは――革の防具と矢筒、そして長弓を携えて、完全武装をした狩人の姿だった。
さすがに獣が危険な大型だったからか、準備に時間をかけていたようだ。もっとも私がイノシシを斃してしまったので、それはすべて徒労になってしまったが。アルスには悪いことをしたかもしれない。
「……姐さん」
「なに?」
「…………それは?」
それ、が何を指しているのか、聞くまでもなかった。
私が肩に担いだ――顔面を粉砕された、巨大なイノシシの死体。
そのずっしりとした重みに、抑えきれぬ期待を寄せながら――
まるで、買い物から帰ってきた主婦のように。
私はアルスに、ニッコリと笑いながら言った。
「――今日の晩御飯は、イノシシ鍋よ」