バランス感覚というものは、なかなか一朝一夕では身につかないものである。
筋肉ならばトレーニングの回数と負荷を上げ、タンパク質を摂取すれば増大してゆくものだが、体幹や重心、安定感といったものは、いくら向上しているか自分の目ではわかりにくい。いちおう我流で鍛錬はおこなっているものの、はたしてどれだけ効果があるのか、効率はどうなのか、まるで自信はなかった。
「うーん」
うなり声を上げながら、私は自分の寮室内の床を壁沿いにグルグルと回り歩く。
――逆立ちをした状態で。
かつて道場で倒立歩きしていた人がいたのを思い出し、私も最近になってやりはじめたのだが、これがけっこう難しいのだ。単純に自分の体を持ち上げるだけなら余裕なのだが、体勢を維持するのが大変で、最初はそのまま十秒逆立ちすることも無理な有り様だった。今ではなんとか倒立したまま歩くことができるようになったが、やはり足のふらつきは依然としてあるし、気を抜くと転げてしまいそうになる。
「……ダメね」
私はため息のように呟きながら、足を着地させて手をはたいた。
上体の姿勢を保ちながら片足スクワットをしたりと、近頃は少しバランスを意識した鍛錬をしているのだが、どうにも成長というものがあまり実感できない。まあ素人がそんな短期間に急成長できたら、スポーツ選手や武道家の立つ瀬がないんだけれども――それでも、焦りというか口惜しさというものを感じてしまう。
「こう……ばぁっと強くならないかなぁ」
などと願望を口にするが、そんなことが起こるわけないと理解はしていた。少年漫画の主人公ではないのだから。
結局は、地道に努力を重ねるのがいちばん大事なのだ。空手家だった父がそうしていたように、私も一歩ずつ肉体を、そして技能を向上させてゆくしかない。
そんな当たり前なことを再認識しつつ、大きく深呼吸をして心身を落ち着ける。
――軽く足を開いた自然体で立つ。
拳は握った状態で、腰の位置で甲を下向きに。
その状態から、滑り込むように右足を一歩踏み出し、同時に右の拳を加速させて捻りながら突き出す。
いわゆる正拳順突き。空を切った拳は、虚空の無影を打ち抜く。攻撃が到達するまでの時間はほぼ一瞬で、普通の人間であれば警戒していても躱すのは不可能に近いだろう。筋肉と骨、そして皮膚に“気”を流し込みつつ放たれる殴打は、風のように速く、そして鉄のように硬い打撃となる。近距離の間合いでは無双を誇るに違いない。
「まあ理想論だけど」
相手が油断していたり、距離が近かったりしているとは限らないわけで、実戦ではそう上手くいくかは疑問だった。ミセリア・ブレウィスに対しては完勝を収めたが、あれは相手が戦闘技術を何も学んでいない素人だったわけで。近づかせないように工夫するような相手や、あるいは敵が複数人の場合などでは、なかなか圧勝というのは難しいのではなかろうか。
――なんにしても。
私に戦闘経験が足りないのは明白で、どうにかしたい部分でもあった。
「……探さないとなぁ」
今より強くなるための方法を。
飢えや渇きに似た、この物足りない感情を満たすために。
強い
◇
この学園でじつに不満なのは、朝食が泣けるほど質素ということである。
食堂で決まった時間に食事が提供されるのだが、昼食と夕食はなかなか美味しいものを出してくれる反面、朝はパンとスープしか用意されないという貧小っぷりだった。まあ朝食を取る学生が半数にも満たないので、仕方ないと言えば仕方ないのだけれど。
今日も細切れの肉しか入っていないスープに腹を立てながら、五人前の朝食を胃に収めた私は、そのまま教室へ向かう――前に校舎の裏手を訪れた。
昨日、ミセリアといざこざがあった時にぶん投げたままの鞄は、なんとも悲しそうに雑草の陰に佇んでいた。ざっと眺めてもミセリアの鞄やら杖やらは見当たらなかったので、一日放置していた私と違って、彼女は医務室を出たあとに回収していったのだろう。
「……頭が痛くなってきた」
昨夕のミセリアのアレを思い出して、私は解せぬ心情が湧き上がってきた。
いや、生を実感することは悪くないことである。しかしながら、そのための手段として危険な行為を求めるのは如何なものだろうか。
…………。
あれ? この指摘、私自身に返ってこない?
いやいや、強敵との闘いを求めるのは武道家として当たり前のことである。大丈夫だいじょうぶ、私はミセリアみたいな変態ではないのである。
そう自分を納得させながら、私はいつもより少し遅れて教室に入った。
――アニス・フェンネルが出待ちしていた。
「オルゲ――」
「お断りいたしますわ」
名前を言いきるよりも早く拒否すると、彼女はぶわっと泣きそうな顔になって抗議する。
「ま、まだ何も言ってないですよぉ……」
「はいはい、どうせお友達ごっこをしたいと言うのでしょう? 残念ながら、わたくしはあなたに構っている暇はありませんの。お退きあそばせ」
きみは親友ポジションの女の子(名前を忘れた)とつるんでいなさい。お願いだから、私に絡んでこないでくれ。
冷たくアニスをあしらった私は、後方のいつもの窓際席に座る。ふと反対側を見遣ると、いつもの灰色の少女の姿はなかった。単純に遅刻しているだけか、それとも休みか。
……まさか、自室で首を吊っていたりしてないでしょうね?
あらぬ想像を浮かべてしまったが、どうやらそれは杞憂だったようで。すぐに彼女――ミセリアは、教室に姿を現した。
「ブレウィ――」
とアニスが声をかけた瞬間、ミセリアはふるふると首を振った。まったく懲りずにあしらわれたアニスは、めそめそと悲しそうな表情を浮かべていた。学習しない女の子である。
お友達教の勧誘を断ったミセリアは、すたすたと教室の後ろへと向かって歩き――
私の隣に着席した。
……なんで?
「あらあら、席を間違えておりましてよ? 部屋に閉じこもって本を読んでばかりいるような根暗軟弱ちび助の座る場所は、日の当たらない廊下側の端でしょう?」
「ここでいい」
「わたくしが嫌なんですけど!?」
隣にひとがいたら気が散って仕方ない。というか、どうして今日になって私に近づいてきたのか。理由がわからなくて不気味である。アレなの? やっぱり昨日のアレなのか?
私が混乱とともに文句を口にしていると、ミセリアはポツリと無感情な声を漏らした。
「あなたが言った」
「はい?」
「仲良くしたいって」
「はぁ? そんなこと言って――」
…………。
あっ! 言ってるじゃん!?
最初に視線を合わせた時に、脅しと冗句を兼ねてそんな言葉を口走ってしまった覚えがある。いや、あれは本当にそう思っていたわけではなくて。馴れ合う気持ちなんて、これっぽっちもあるわけがなかった。
「おほほほほ。あれは、そう、こ、言葉のあやというものですのよ……」
なんとか撤回しようとする私に対して、ミセリアはふとまっすぐ顔を向けると、無表情のままこちらの目を見つめてきた。
「……嘘をついた?」
「そそそそんなことはありませんわっ!? このわたくしがッ! 高貴なる侯爵家の、強く勇ましい血筋たる、このわたくしがッ! 虚言を弄するなど、
「なら、問題ない」
うっ……こ、このガキんちょめ。弱いくせに私を手玉に取ろうなんて、いい根性しているじゃないの。
私が内心で歯ぎしりをしていると、なぜか近くに寄ってきていたアニスが、感動したような面持ちでこちらを眺めていた。
「オルゲリックさん……! ブレウィスさん……! とうとう友達ができたんだね……! よかったぁ……!」
「かかか勘違いしないでくださるッ!? 強者たるわたくしが、こんな貧相な小娘と対等な関係などッ! あろうはずがないでしょうにッ!?」
「友達」
「誰がよッ!?」
つい先日まで、ミセリアは人間関係にろくな興味もなかったくせに、まるで人が変わったかのような態度である。まあ鮮烈な体験が人格や思考に影響をもたらすというのは、ありえない話ではないけれども……。それでも、この予想していなかった展開には困惑が少しあった。
――現実とは、何が起こるかはわからない。
それは当たり前のことなのだが、改めて私は実感せざるをえなかった。
はたしてこの先、私の知識どおりのことが起きるのか、それとも――不測の事態が起きるのか。
後者であれば面白いな、と――
隣のミセリアを眺めながら、私はひそかに思うのだった。
◇
日が沈んだあとでありながらも、王都の街並みは驚くほど賑わっていた。どこの世界でも都市部というものは変わらないらしい。大通りで酔っぱらった男とすれ違うたびに、私は前世の繁華街を思い出して、どこか懐かしい気分を抱いてしまう。
夜中に寮を抜け出して、街に繰り出す――
などという行為は、もちろん学園の寮の寄宿生にとっては規則違反となっていた。だが私はそれを無視し、二階の自室から飛び降り、城壁のような囲いを跳び越え、こうして街中を歩いている。動機は至極個人的な理由で、学園内にいてはできないことを試したいからだった。
「ふぅん……」
通りを往来する男たちを、私は吟味するように眺める。やはりというか、学園の男たちよりも明らかに体つきが優れた者が多かった。
――魔法を使えない人々は、己の肉体を稼働させて日々の糧を得ている。ウェイトトレーニングをおこなっていなくとも、自然と体が鍛えられているのは当然のことだった。
とくに肉体労働者などは、その仕事自体が筋トレになっているようなものだ。ときおり見かける筋骨隆々な男性は、おそらくその手の稼業に従事しているのだろう。やはり女性より男性のほうが筋肉がつきやすいのだな、と私は再認識し、少し羨ましい気持ちが湧き上がった。
「さて……と」
物見遊山はその程度にして、私は本題に取り組むことにした。
盛況そうな店を探し出して、そこへ足を踏み入れる。店内に入った途端、喧騒と酒気が感覚を刺激した。活気に満ちたそこは、大衆向けの酒場だった。
何名かの視線が一瞬、こちらを向いたようだ。顔を隠すためにフードを目深にかぶり、ローブをまとっているので、さすがに怪しい人物に見えるだろうか。まあ堂々と普段の姿を見せるわけにはいかないので、仕方ないことではあるが。
「――失礼ですが、ちょっとお尋ねしてよろしいですか?」
テーブル席で談笑している男たちに目をつけ、私は声をかけた。彼らはいきなり近づいてきた私にぎょっと驚いた様子を見せたが、声と口元で相手が若い女だと気づいたのだろうか、すぐに機嫌がよさそうな表情を見せた。
「お……なんだい、姉ちゃん。そんな華のない恰好をして、野郎かと思っちまったよ」
「こりゃ、逆ナンってやつかぁ? 初めての経験だぜ。とうとうオレも運が巡って――」
「ばかやろう。お前じゃなくて、おれに惚れて声をかけてきたんだよ。な、お嬢さん?」
どうやら三人とも酔いが回っているようである。この状態できちんと話ができるのか不安だったが、引くに引けないので言葉をぶつけてみる。
「いえ、ちょっと……人を探していまして」
「あぁん? なんだい、人探しかい」
自分にまったく関係ない用件だとわかったのか、男は露骨につまらなそうな顔をした。ずいぶんとわかりやすい性格の人物である。
人選ミスだったろうか、と思いながらも、私はとりあえず質問を続けることにする。
「特定の人を探している、というわけではないんですが……。あなたたちが知る人のなかで――」
――いちばん喧嘩が強い者を教えてほしい。
そう言い放った時、男たちは一様にきょとんとした表情を浮かべた。予想外で、突飛な質問だったからだろう。こんなことを尋ねられるなど普通はないので、まあ当然の反応である。
ややあって、男の一人は胡乱な視線を向けながら言葉を返す。
「なんだぁ? 荒事を頼むつもりなのかい? 危ない話に関わるのは御免だぜ、姉ちゃん」
「いえ、そういうわけでは。単純に、強い男と交流を持ちたいから探しているだけです」
「はん? 男漁りってことか?」
「そんなところです」
恋愛的な意味などこれっぽっちもないのだが、わざわざ話をややこしくする必要もないだろう。
私がそう答えると、男はにやっと笑って立ち上がった。そして腕っぷしを見せるように、自分の上腕を掲げてみせる。自信に満ちた姿だった。
「へっへっへ。それなら俺なんかどうだい、姉ちゃん? 喧嘩だったら一度も負けたことないんだぜ?」
大言壮語――とは思えないほど、男の体つきはがっちりとしていた。腕は太く、成人男性の平均的な筋肉量をはるかに上回っている。身長は私よりもかなり高く、目線を合わせるには見上げなければならないほどだ。この体躯から放たれる殴打なら、相当な威力を持つだろう。
「負けそうな相手には喧嘩売らないからだろー?」
「うるせぇ。なんなら俺と勝負してみるか?」
「おぉん? やるってぇのかぁ?」
男たちは冗談っぽく陽気な掛け合いをしているが、私は真剣な顔のまま言葉を紡ぐ。
「勝負してみませんか?」
「は? おいおい、マジでやるつもりはねぇよ。ダチだしな」
「あなたと彼じゃなくて――」
あなたと私が。
そう誤解を訂正すると、男はぽかんと間抜けな表情を晒した。何を馬鹿なことを、と心底呆れているような感じだ。そう思うのも無理はないので、私はとくに怒ることもなかった。
代わりに、男の右手を握手するように掴む。そして――こちら側へと引っ張った。
「お、おい。何すんだよ、姉ちゃん」
「喧嘩に自信があるんでしょう? 私と少し、付き合ってみませんか?」
「冗談はよしな。あんたみたいな女が、俺にかなうわけ――」
男はそう吐き捨てて、引かれた腕を戻そうとしたが――できなかったようだ。
握った手を離さない私に対して、男は開いていた口を閉ざした。そして今度は体勢をしっかりと整えて、先ほどよりも強い力で引き戻そうとする。
――それでも、変化がなかった。
男は手を広げようとするが、それも私が握りこんでいるためビクともしない。自慢じゃないが、握力はそれなりに鍛えているのだ。この程度で動じるほど軟弱な手ではなかった。
「もっと強く、手にも力を込めなさい」
「…………」
敬語を捨てた私に一瞬、眉をぴくりと動かした男は、無言ながらも険しい顔つきになった。後方の飲み仲間ふたりに怪訝な目で見つめられるなか、男は改めて腕に力を入れた。……いや、腕だけではない。体を支える足腰、そして肩にも。全身の筋肉が連動し、力を伝達し、大きな膂力となって男の手に現れる。
――万力に締められるような、剛力を感じた。
か弱い女子供であれば握りつぶされてしまいそうな、男の本気の握力だった。その手の力と同時に、渾身を用いた強靭な引力が加わる。並みの男ではあっさりと力負けするであろう、凄まじい
私のような女であれば、抵抗することもできなかっただろう。
――肉体を流れる“気”の力がなければ。
「――――」
地に着いた足が、手を握る腕が、男の引き返そうとする力を押しとどめる。純粋な筋肉の差は、体に馴染む不可視の
――それは異様な光景だったろう。
筋肉質な男が、はるかに下回る体躯の女に、力比べで拮抗を許してしまっているのだから。
演技ではなく本気でやっていることは、男の額を伝う汗から明々白々だった。歯を食いしばり、酒によるものだけではない紅潮を顔に浮かべた男は、まさに必死の形相と呼ぶにふさわしい。
それでも、なお――状況に変化はもたらされない。
「……負けだ」
男は急に脱力すると、呆然としたように言葉を漏らした。
「俺の負けだ。……あんた、本当に人間か?」
「淑女に対して失礼ね。れっきとした女性よ」
そう文句を言いながら、私は男の手を離した。解放された彼はいまだ納得がいかなそうな表情で、右手の熱を払うように揺らす。その手のひらに付いた赤い跡は、握力の大きさを痛々しく物語っていた。
――もし本気を出していたら、どうなっていただろうか。
ふと疑問が湧いた。当然ながら気の力は抑えていたのだが、仮に手加減をせず全力で男の手を握ったら、どうなっていただろうか。その骨は、肉は、はたして原形をとどめるだろうか。興味を覚えたが、まさか実践するわけにもいかないので、心にしまっておくことにした。
「――それで」
私は話を戻すことにした。用件が終わったわけではない。
「私と付き合ってみない? こんな腕相撲なんかじゃなくて」
「……冗談きついぜ。ベッドの相手じゃなくて、殴り合いの相手だろ? 勘弁してくれ」
「弱気な男は嫌われるわよ」
「俺ぁ“負ける相手”には絡まないんだよ。姉ちゃん。そういう相手が欲しいなら、俺なんかじゃなくて――」
ずしり、と重みのある足音を感じ取った。後方から、まるで皮膚を打つかのような気配が漂ってくる。目が覚めるような思いがした。
「アルス……」
男が驚いたように呟いた。きっと、それが背後に立つ人物の名前なのだろう。
――私は
そして目に映した。途轍もなく大きな、威圧感のある人の形を。
その三十代の男は、飛びぬけて身長が高いわけではなかった。先ほど力比べをした男と変わらぬ背丈だ。だが――第一印象は“デカい”だった。
男の体は太く、大きく膨れ上がっている。しかし恰幅を描き出しているのは、脂肪ではなく筋肉だった。それはまるで無骨な鎧のようだ。鍛えられた肉の武具を身につけた男の身躯は、服越しでもはっきりと広背筋の逆三角形を視認できる。
男の肉体は、雄々しく、勇ましく――そして美しかった。
金髪を短く刈り上げた、筋骨隆々という言葉でも足りない体つきの男に、私は一瞬で意識を奪われた。
それは、もしかしたら……一目惚れとも呼べるのかもしれない。
「酒場に入った途端、お前らが何かしている姿が目に入ったんだが……揉め事でもあったのか?」
アルスという男は、眉をひそめながら尋ねた。どうやら、ついさっき酒場に入店したばかりらしい。
私は笑みを浮かべると、彼に話しかけた。
「べつにトラブルがあったわけじゃないわ。この辺で、強そうな男がいないか尋ねていただけよ。……で、私の目にはあなたが、いちばん強そうに見えるけど」
「はん? まあ、喧嘩じゃ負けたことはねぇなあ。……そもそも、おれに挑んでくる奴がほとんどいないが」
そりゃ、そうだろう。こんな筋肉ダルマのような偉丈夫に、勝負をしかけようとする人間はそうそういまい。
体格の差というのは、技術や経験では埋めがたい要素である。適当なフォームのパンチでさえ、彼から繰り出されたものなら人を容易にノックアウトさせ、当たり所によっては死にさえ至らしめるだろう。その肉体自体が、凶器のようなものだった。
「……すごい筋肉ね。鍛えているの?」
「まあ、多少は。おれは弓で猟をして生計を立てているから、上半身にそれなりの力が必要でな」
多少、それなり、などという表現が謙遜であることは明らかだった。彼と比べれば、私の腕など赤子のような細さである。
しかし狩人という職業については、なるほど納得がいった。弓を引いた経験はさすがにないが、おそらく引き絞る時に、かなり肩や腕の力が必要となるのだろう。この筋肉によって引かれる強弓の矢は、いったいどれほどの威力になるのか。なかなか興味深かった。
この男――アルスといろいろ雑談を重ねたい気もあるが、残念なことに時間が少し迫っていた。明日も授業があるので、ここにあまり長居はできない。
だから私は、さっさと本題に入ることにした。
「その腕で――私を殴ってみてくれない?」
言葉を口にした瞬間、周りの男たちは誰もが間の抜けた表情を浮かべた。
そして、すぐに正気を疑うような目になる。何を言っているんだ? と。――そう思うのも、まあ無理はない。
けれども私は本気だった。それを示すために、私は左手を掲げて、男の前に手のひらを広げてみせた。
「試しに打ち込んでみなさい」
「……冗談はよしなよ、お嬢ちゃん。手が折れちまうぜ?」
「大丈夫よ。あなた程度の力で、骨折するほどヤワな鍛え方をしていないから」
馬鹿にするような言葉を放ったのは、わざとだった。自分の肉体にそれなりの自信を持っているであろうアルスは、まるで睨むように目を細める。そこには、わずかな苛立ちが見てとれた。
だが、挑発にはすぐに乗ってくれないようだ。彼は肩をすくめると、呆れ笑いで対応してきた。
「……人をからかうのは、よくねぇぜ?」
「からかっているつもりはないわよ? ……手加減してもいいから、打ってみなさい」
「あのなぁ……」
はぁ、とアルスはため息をつくと、困ったように頭を掻いた。しかし、私がしつこく待機しているのを見ると、どうやら観念したようだ。右拳を握って、私の掲げた左手と同じ高さに持ち上げる。
体は棒立ちのままなので、適当に拳を当ててお引き取り願おうという魂胆なのだろう。それでいい。まずは、相手の拳と触れるだけで十分だ。
「ほらよ」
アルスはやる気のない声を上げながら、握り拳をポンと私の左手に当てた。まったく力の籠っていない、ただの児戯だった。
――私の手は、微動だにしなかった。
いっさい揺れずに拳を受け止めた直後、アルスはいちど大きく目を見開いたあと、訝しむような顔つきになった。拳骨を当てた時の違和感に気づいたのだろう。いま触れたのは、女子供の柔らかい繊手ではなく――もっと硬い何かであると、彼は理解が及びはじめていた。
「もう一度。強く打ってみなさい」
「…………」
自分の感覚を確かめるかのように、アルスは腕を引いて拳を形作る。先ほどより、はるかに様のある姿勢だった。
「……しっかり受け止めろよ」
いまだ本気を出すことに抵抗があるのだろう。彼は明らかに全力ではないが、それなりの速度で右手のパンチを繰り出した。
――左手のひらで迎え撃つ。
パシリ、と音が鳴ると同時に、アルスはびくりと腕を引いた。その青い瞳には、動揺の色が浮かんでいた。
「……おい、トリックか何かか?」
「なんのこと?」
「殴った時の感触、ばかみたいに硬かったんだが。女の手じゃねぇぞ」
「ひどい言い草をしてくれるわね」
だが、彼の発言は見当違いではない。気を集中させた私の左手は、おそらく石のように堅固な皮膚となっていたのだろう。
もっとも、左手一点に集約させたからこその結果であり、実際に体を動かしている時は不可能な芸当だ。だから私は、気を分散させた。実戦を想定し、全身に気を巡らせた状態で、ふたたび眼前の狩人の前に左手を掲げる。今の状態なら、本気で打ち込んできても彼が拳を痛めることはないだろう。
「来なさい。さっきよりは柔らかいから、安心して殴れるわよ」
「いやいや、冗談きついぜ。おれの手が折れたら、仕事ができなくなって困るんだが」
「私を信じなさい。……いいパンチをくれたら、酒を一杯おごるわよ」
「……本当か?」
アルスの目に欲が浮かんだ。意外と現金な性格らしい。金でどうにかなるのなら、私としてもやりやすかった。どうせ、実家からの仕送りが余るほどあるし。
私は体勢を変え、足腰に力を入れつつ、左手で受けられるよう構えた。
――拳を受けるのだ。さっきのような触れ合いではなく、本物の殴打を受け止める。
それは未知の経験だったが、私には確信があった。身についた筋肉は、体に流れる気は、男の拳に打ち破れることはない。今までの鍛錬が、素人なりに繰り返してきた肉体の運動が、眼前の男の膂力をはるかに上回ると主張していた。
私は――自分の体と、そして積み重ねてきたものを信用することにした。
「いくぜ――」
アルスが右腕を引いた。体は斜めに逸らし、左手は狙いをつけるかのように前へ構える。
――刹那、私は彼の手にありえない影を視た。
その手には、ただ拳が握られているはずなのに……どうしてか、全力で強弓の弦を引いているかのような光景が目の前にあった。
異様な幻視――しかし、私は不思議と納得していた。
そうだ、彼は言っていたではないか。狩りを仕事にしていると。弓を引くことで、生計を立てていると。
――毎日のように得物を手にし、その上半身に力を込め、弓を引き絞り、そして標的へと狙い放つ。
繰り返される射矢。それは彼の生活の一部であり、もはや自然体の一部でもある。彼の肉体は、筋肉は、弓矢とともに成長を重ね、そして力を築いてきたのだ。
――同じだ、と思った。
体に染みつかせ、積み重ねてきた
「――ッ」
来るッ!
引き絞った矢が、放たれる。
経験と技術が詰まった、獲物を確実に射止める、腕っ扱きの狩人の一打が飛来する。
大の男でも、まともには受けられないような打撃。
それを――この片手で受け止められるのか?
全身を駆け巡る血と、そして気が。鍛えられた骨と、そして筋肉が。一寸先の結果を予測し、脳に告げる。
――可能だ、と。
そして――アルスの拳が、私の手のひらを貫いた。
途轍もないパワーが、手首から肘、肩へと伝わり、全身を押し込まれるような感覚を抱く。だが同時に――筋肉と気が衝撃を押し殺す。床に食い込むかのように踏みしめた足は、少しの後退も許さなかった。私の体は……彼の拳を完全に受け入れていた。
肩の位置まで押し込まれた手のひらは、しかし確かに狩人の拳骨を包み込んでいた。
――勝負あり。私の勝ちといったところだろう。
「いいパンチね。素晴らしかったわ」
「…………」
唖然とした顔のアルスを見ると、どうやらこの結果をまるで予想していなかったのだろう。
だが、それは私とて同じだった。表情には出していないが、内心では彼の能力に驚嘆を抱いていた。
――“気”による補助もない状態の打撃で、肩まで私の手を押し込んだのだ。ただの生身で、これほどの威力を出す。それがどれほどの偉業なのか、語るまでもなかった。
「約束どおり、好きなものをおごるわよ」
「……そりゃ、どうも」
やっと声を上げたアルスは、どこか気がそがれたような様子だった。自分よりも歴然と体躯の劣る相手に拳を受け止められて、ショックを受けているのかもしれない。
さすがに気の毒に思えたので、私はフォローするように言葉を投げかけた。
「そう気を落とす必要はないわよ。……こっちには“タネ”があるんだから」
「タネ……? おれの目には、ただの素手にしか見えないんだが」
「目に見えるものだけが、すべてではない。そういうことよ」
「……わかんねぇなぁ。教えてくれよ、そのタネとやらを」
納得できないという表情で、アルスは私に食いついてくる。態度から察するに、こちらに十分な興味を抱いているらしい。
ならば――好都合かもしれない。これほどの男と交流が持てるなら、私としても悪い展開ではなかった。
アニスやフォルティス、そしてミセリアなどにない、特別な価値を彼は持っている。それを利用できるならば、さらなる強さのための道が拓けるだろう。――より実戦的で、敵意を打ち砕くための
私は、にぃっと歯を見せて、年頃の少女らしい笑みを浮かべた。
「教えてあげてもいいわよ。でも、その代わりに――」
その日、私は一人の男を得た。
技を磨き、力をつけるための――
◇
その男は、どこか怪しむように私を見つめていた。
無造作な黒い髪に、怠惰な印象を受ける無精ひげ。年齢は三十路くらいのはずだが、いかんせん疲れたような雰囲気が漂っており、それが実際の歳よりも老けている印象を抱かせる。
白衣を身にまとった男の名前は――ラーチェ・アルキゲネス。
先日のミセリアの件でも世話になった、魔法学園の医務室の主任であり、医学関係の授業も担当している教師である。
「……それで」
彼は確かめるように、私に言葉を投げかけてきた。
「自室で転んで、腕を椅子にぶつけたと。そういう理由で、ここにやってきたわけだな」
「ええ、わたくしが話したとおりですわ」
私は堂々と答えた。
真っ赤な嘘を。
――昨日、酒場でのやり取りのあと。
私はアルスに肉体強化の術、すなわち“気”の力を教えてから、少しだけ頼みごとをした。
もう一度、次は腕で受けるのでパンチをしてみてくれ、と。
肉体に流す気の量を減らしたら、どれくらいの威力と衝撃になるのか測ってみたかったのだ。全力を出せばアルスの攻撃を無力化できるのは自明だったが、逆にどの程度まで加減すればダメージを受けるラインに達するのか。その辺は実際に試さなければわからない事柄だった。
そういうわけで――彼の拳を、前腕でガードした結果がこれである。
骨が痺れるような感覚と、肉の痛みに涙が出そうになったが、まあ痛覚で気の量による効果を把握できたのは収穫だった。あざを作ったのは無駄ではなかったと言えよう。
――ただ、怪我を放置するのもいかがなものか。
そう思った私は、こうして医務室を訪れて、彼と対面しているというわけである。
「…………」
ラーチェ・アルキゲネスは目を細めて、こちらをじっと見つめてきた。その三白眼気味の瞳は、やはり鋭く威圧的な感じがある。そういえばアニスも、初見では彼が近寄りがたい人物だという感想を持っていたっけか。
もっとも、それは見た目だけの話だと私は知っているので、気楽に飄々と受け答えをする。
「何か問題でも、ありまして?」
「……いや」
彼は小さく首を振ったが、その内心には多少の不審がありそうだった。
ミセリアの時は、アルキゲネスに「倒れているのを見つけて、運んできただけ」とごまかしていたし、ミセリア自身もあの後、彼に対しては「覚えていない」で押し通したようなので、いちおう揉め事……というか殺し合い寸前のやり取りをしたことはバレていないはずだ。
ただ、短期間に二度目の来訪は、さすがに疑うところがあるらしい。
まあ女子に面と向かって「喧嘩でもしたのか?」などと問いただすことはないだろうから、今のところは問題はないはずである。たぶん。
「……見せてみろ」
言われるがまま、私は左手を差し出した。打ち身部分は長手袋に隠れているので、少しずらして見えるようにする。
「……その手袋、外したほうが早いと思うんだが」
「あら? 淑女の手はむやみに露出させるべきでない、というのが信条でして。ごめんあそばせ」
「そ、そうか……」
アルキゲネスは思いっきり呆れた表情を浮かべたが、私自身も彼と同感である。フォーマルな場でドレスと組み合わせるならともかく、日常的にオペラ・グローブを装着している娘なんぞ気取りすぎてアホっぽい。
にもかかわらず、私が手袋をつけているのは、単純に手や腕をあまり他人に見せないためだった。言わずもがな。長年鍛えてつづけてきた私の拳は、貴族のご令嬢にしてはいささか無骨すぎた。
「失礼――腕に触れるぞ」
「ご随意に」
彼はご丁寧に了承を得てから、右手に指揮棒のような杖を持ち、左手で私の腕を取る。そして、二人の肌が触れ合った瞬間――アルキゲネスは違和感に耐えきれないかのように、片方の眉を歪めた。
「どうなさいました?」
「い、いや……ずいぶん、健康的な腕だなと……」
「おほほほほっ! お上手ですのね、アルキゲネス先生は! お褒めいただき光栄ですわ!」
「…………」
褒めてねーよ! と彼は言いたげな顔だったが、まあ気持ちはわからなくはない。私ほど肉体を鍛えている女子学生など、普通は目にしないだろう。
くだらないやり取りをしつつも、アルキゲネスは治療を開始する。それは一般人がおこなうような処置ではなく――魔術師による、治癒の魔法であった。
傷を治す。あるいは、病を消し去る。そういった類の魔法は、この世界では希少だった。――実用性の高いレベルで行使するのは。
ほとんどの魔術師が傷病を治そうとしても、多少の賦活程度しか効果がないのである。高い魔力を持つ人間でさえも、かすり傷を癒すくらいがやっとのことらしい。
ただ、ごく一部の特質を持った人間だけは、“回復魔法”と呼ぶに値する治癒を発揮することができる。それは聖なる魔力の持ち主と言われ、該当する魔術師の数はきわめて少なかった。眼前のアルキゲネスは、その才能を持ったひとりというわけである。
そして、この学園には私が知るかぎり、もう一名――
アニス・フェンネルも、聖なる魔力の持ち主である。まあ、まだ本人でさえも気づいていないけれども。
彼女は魔法の才が低いように思われていたが、物語が進むにつれてその特質が判明する。回復魔法に関してはアルキゲネスを上回る効果を見せ、ことにデーモンに対しては強力な退魔を発揮し、さまざまな事件のキーパーソンとして活躍するのだ。まさに主人公らしい天才、といったところだろうか。
「――――」
アルキゲネスの杖の先端から、かすかな光のようなものが漏れ出る。それは私の怪我をした部分へと、染みこむように伝ってゆく。
他者の魔力が体内に入りこんでくる感覚は、どこか奇妙で落ち着かない気持ちにさせられた。それは私が、肉体に魔力を浸透させる“気”を常用しているからだろうか。異物が混入するような感じだ。
――時間にして数秒。
アルキゲネスが杖と、こちらの腕に添えていた手を離した。私の前腕からは、見事に打ち身の傷跡が消えていた。実際に回復魔法を受けるのは初めてだったが、なるほどこれは便利なものである。
聖なる力の恩恵を実感し、確認した私は、わずかに唇を吊り上げた。
「……ありがとうございます、先生」
「違和感などは?」
「いえ、とくに。素晴らしいお手並みですわ」
――怪我を負った時の備え。
それは私にとっては無視できないことだった。もし強大な敵と
少なくとも学園内にいるかぎりは、即死しないかぎり二人のうちどちらかの治療を受けられれば、死を免れることができるだろう。絶対的な保険ではないものの、私としてはいくらか安心して事に臨めるというわけである。
もっとも――最善なのは、一切の傷も負わずに勝利を収めることなのだろう。
だが、まだ私はその領域に至っていない。力は足りていないし、技には欠けている。
鍛えなければならない。磨かなければならない。はるか高みに登りつめたい。
それはきっと、果てしない道のりだろう。だが、だからこそ面白いのだ。苦労して高い山に登頂し、景色を眺めた時の感動は格別だろう。それと同じように、武を積み重ねて人よりも高い場所を目指せば、きっと何かが見えてくるはずだ。
――私は、その未知の景色を眺めてみたい。
「また“何か”あった時は、先生のお力を貸していただければ幸いですわ」
「……いや、ここに来ることのないほうがいいと思うんだが」
「ええ、そうでしょうね」
私は笑いながら頷いた。彼の世話になる必要がないほど、強さを手に入れたかった。
改めて礼を述べてから、私は医務室から立ち去ろうと背を向けたところで――
「ああ、そうそう」
アルキゲネスのことについて、ふと思い出して私は振り返った。
彼は怪訝そうな表情を浮かべていた。その顔を眺めると、やはり少し老けたような印象を受ける。その原因は明らかで――
「その無精ひげ、ちゃんと剃ったほうがよろしいかと」
「…………善処しよう」
アルキゲネスは困ったような顔つきで、あごを撫でながらそう言った。
きちんと身なりを整えた彼の立ち姿は、なかなかに恰好よかった覚えがある。本来ならばアニスがアドバイスする立場なのだが――まあ物語がどうなるかもうわからないので、私が言ったって構わないだろう。
――これから何が変わり、何が起きるのか。
未知の未来に対して、私は期待を寄せながら拳を握りしめた。
心の奥底で、待ち望んでいるのは――
もしかしたら、私の“知識”を超えたものなのかもしれなかった。