クソゲーの『悪役』令嬢と『デーモンスレイヤー』   作:傘花ぐちちく

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第十二話 神々とプレイヤー

 鬱血した紫とカビ様の緑の入り交じる触手は、頭のない筋骨隆々とした人型を形成した。

 

 先程は子供が蹴飛ばすボールの様に弄ばれたアリスだが、邪神の力と混沌の力の作用によって人ならざる異形に変異した彼女の膂力(りょりょく)は一薙ぎで山を崩せる程だ。

 

 半ば勝利を確信したアリスは、胸の内の鬱憤を晴らすべく暴力衝動と内なる狂気に身を任せた。彼女の頭の中で次々と欲望が組み立てられていく。

 

 まずは、眼前の者を挽き肉にして悲鳴を浴びる。

 

 次に、己未満の全ての劣等種――全ての人間を、恥辱と後悔と苦痛と絶えない悲鳴の中で貪り尽くす。人間牧場を始めるのもいいと考える。

 

 そして、己の心の邪悪のままに残忍に、血と殺戮と狂気の海に身を投げて、無限の空虚を永劫の快楽と背徳で満たさんと渇望する。

 

 体の中心に浮き出た彼女の顔面達は虚空を見つめたり恍惚とした表情を浮かべたり、品と呼べるものが存在しない畜生未満の有り様であった。されども、永遠に満たされない心を埋めようとする惨めな姿でもあった。

 

人間が敵うものかァ! 神に対してッ!

 

 アリスはアズの身体よりも太い腕を振り上げて、ただただ愚直に振り下ろした。

 

 体格差は二倍。

 

 尋常であれば小細工を弄する必要がない。

 

 単純な腕力で殴るだけで、あっという間に死に至る。相手が人間だった時の話だが。

 

 とはいえ強力であることには変わりなく、彼はその一撃を受ける事はせず、黄金球の一振りで弾き飛ばした。

 

 球は不規則な凹凸がある歪んだ形をしているが、打撃の位置を変えることで最も効率よく力が伝達される――彼は最も効率の良い一撃を見舞った。

 

 更に、黄金球はアズの魔力を少しばかり吸い上げ、本来の機能を発揮した。魔力によって同一存在を同一座標に形成し、一撃で二度の衝撃を与える――理力の打撃だ。

 

 質量にして一九三八〇キログラムにも及ぶ黄金球の一撃は、十分の一にも満たない重さのアリスを完全に跳ね除けた。

 

 衝撃につられてアリスの触手と巨体は浮き上がり、軽々と壁まで吹き飛ばされる。

 

 ズン……と部屋全体が振動し、天井から砂塵が降ってくる。

 

 戦いが長引けば天井が崩れ落ちてくるだろうが、アズはそこまで悠長でもなければ生易しくもない。

 

 彼は己よりも遥かに強大な悪魔(デーモン)の神を憎しみのままに殺した男だ。敵が如何に強靭な肉体を持っていようと、それを殺す術を磨いてきた。

 

 しかしアリスにとっては初耳で、彼女の顔はどれもが驚愕に満ちていた。

 

 しばらく呆けて、力負けしたと分かった途端に叫んだ。

 

お前ぇぇええええええ! お前お前お前お前ッ! あああああああああああ!

「ペルティア、そいつらはどうだ?」

「怪我は治したけど昏睡しているわ。植物みたいにピクリともしない……」

「そうか。いつも言っているが、魔法とブレスは庇えん。離れるぞ」

 

 《テレポート・アウェイ》で雑に逃がすには身分も高く、状態も安定していない。寒空の下に晒す方が危うい。

 

 ペルティアは《壁生成》の魔法棒を八回振り、彼らの前に一辺一メートルの立方体を八つ重ねて壁を作った。材質はダンジョンにある石壁と同じであり、魔物が意図的に破壊することは滅多に無い性質だが、アリスを魔物と同等に考えるのは危うい。彼女には一応知能がある。

 

 二人は死んだように眠る「ハーレム」の六人から距離をとる。

 

 アリスはその様子を食い入るように観察し、ブツブツと呟きながら別の口で激しく歯ぎしりをした。

 

おまえおまえおまえ――消し飛ばしてやるぁぁああああああ!

 

 胴体にある口が花弁の様に四つに大きく裂け、ブレスを吐き出した。

 

 彼女の力の中心たる混沌とその副産物である万能の酸が混じり合っており、床はおろか空気でさえも消化しながら二人に迫る。

 

 アズはペルティアの前に躍り出ると、柄を捻って黄金球を高速回転。

 

 回転の力で生じた真空と空間の歪みによって強引にブレスを拡散し、後方への被害を最小限に留める。

 

 混沌と酸のブレスが途切れた瞬間、彼は真空の中を何事もなかったかのように駆けていき、棒立ちの――正確にはとても動作の遅いアリスを滅多打ちにする。

 

 いくら力が強大であろうとも、それに見合った制御と運用をしなければ宝の持ち腐れだ。戦いに関して言えばアリスはド素人だった。

 

 各地で弱者をいたぶり拷問して凄惨に殺しただけの者が、どれほど立派な戦闘技術を身につけられるのか。

 

 だがしかし、弱者を徹底的に痛めつけることに関しては、誰よりも一家言ある。

 

 さながら雨の如き猛打を浴びながら壁にめり込んでいくアリス。反撃はおろか肉体の再生すら追いつかない有様であるが、ペルティアをはっきりとその目に捉えた。

 

 意図的に触手を切り離してペルティアの前に飛ばし、一気に再生させた触手で絞め殺す。

 

 アズがその小賢しい企みに反応した時には、何十本もの触手が肥大化してペルティアに殺到していた。

 

ウヒ、フヒヒヒ、殺してやる!

「させん」

 

 アズはもう片方の手に握る手斧を、その場で思いっきり振った。

 

 その軌道はもちろん空を切り、触手もアリス本体も切り裂かない。

 

マヌケがァっ!

「《次元断》」

 

 彼の得物――祝福された『次元の』重力鋼の手斧《パーティータイム》が青く輝けば、ペルティアに迫る触手は三次元空間ごと叩き斬られて魂との繋がりを絶たれた。

 

 彼の奥の手の一つであった《次元断》を問答無用で発動させた事は、紛い物の亜神にしては上出来であった。

 

 だが、それはアズに対してより苛烈な攻めを要求したのと同義である。

 

 アズが魔法一つを発動させた途端、アリスの目でさえも追いつけない程に彼は《加速》していた。

 

 数瞬の後に残されたのは、アリスの顔が浮き出た肉塊だけであった。魂は打ち砕かれ、もう自力では動けない。

 

 ペルティアの目に映ったのは、塵に帰った何かと戦いの終わりであった。

 

E……Ahhh……Nyar……』

「ペルティア、戦いは終わった」

「え、ええ、そうみたいね」

 

 ペルティアは安堵の息を吐いた。

 

 僅かに笑みを浮かべ、万事が無事に終わったことへの喜びを隠しきれなかった。

 

 対するアズは、彼基準からすればあまりにも弱すぎる敵に一抹の違和感を覚える。

 

 アズの()ではもっと凄まじい敵が現れるはずであった、ともすればペルティアを守りきれなくなるような強大な敵が。

 

『Nyar shthan』

「あまりにも呆気なさ過ぎるが……」

「待って、なにか聞こえる」

 

 沈黙した二人の耳に聞こえたのは、アリスの顔が無表情に呟く音だ。

 

 いや、もはやアリスではないただの有機物が、音を発した。

 

 意味を持つのかすら分からないその“言葉”は、アズの持つ神としての権能ですら解読不可能であった。人の言葉ではない。

 

『Nyar gashanna』

「何をしている……? 何の意味があって、いや、何の力も無い筈だ」

「アズ、これが何を言っているのかわかるの?」

「こんな言葉に、だがおかしい、全てが始めからおかしかった……?」

 

 今度はアズが、正気を失ってしまったように思考に没入する。

 

 その間にもアリスはただ唱え続ける。意味のない音を。仕掛けに組み込まれた歯車のように淡々と。

 

『Nyar shthan Nyar gashanna』

「アズ? アズ!」肩を揺さぶるが、正気を取り戻さない。

「俺はすべてを知っていた。知っていたのは何故だ、何者がどうやって俺に知らせていた」

「しっかりして! アズッ!」

『Nyar shthan Nyar gashanna』

「偽神Ratloypanehtはその腕の全ては完遂された道筋の知らせによって時間の不連続的な流れが」

「ッ!」

 

 矢継ぎ早に繰り出される意味不明なアズの言葉。

 

 狂気から心を守る装備を着けているというのに、アズはペルティアの言葉に耳も貸さずひたすらに考え続けていた。

 

 ペルティアの鋭敏な直感はこの未曾有の危機を無意識に感じ取り、思考よりも早く身体を動かしていた。

 

 アリスの下へ飛び出すと、ペルティアは彼女の無表情な顔を切り刻んでただの肉塊にしてみせた。

 

「……そうか、ペルティア、今すぐ地上に引き返せ。そこの全員は捨て置け」

「正気!? 彼らはまだ生きて――」

「手遅れだ。既に魂を収奪されている」

 

 アズが断言したと同時に、この部屋のありとあらゆる場所から様々な者の声が響いた。

 

 それは詠唱であり輪唱でもあった。

 

 男と女と子供と老人と胎児と死者の魂の叫びであり、狂信的に繰り返される礼賛であった。

 

『Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna』『Nyar shthan! Nyar gashanna!『Nyar shthan! Nyar gashanna『Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna!『Nyar sh『Nyar shthan! Nyar gashanna!『Nyar shthan! Nyar gashanna!』 shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar g『Nyar shthan! Nyar gashannaan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna!『Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashaNyar shthan! Nyar gashanna shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna』『Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna『Nyar shthan! Nyar gashannaNyar gashanna!』『Nyar sh『Nyar shthan! Nyar gashanna!』thn! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan Nyar gashanna!Nyar shhan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Ny『Nyar shthan! Nyar gashanna!anna!』『yar shthan! Nyar gashanna!』Nyar shthan! Nyar gashanna『Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar 『Nyar shthan! Nyar gshanna!』than! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna! Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna!『Nyrr shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna!Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashanna!』『Nyar shthan! Nyar gashann』『Nyar shthan! Nyar gashan『Nyar shthan! Nyar gashanna!naNyar shthan! Nyar gashanna!』

 

「な、なに……何なの、この声は……」震えた声だ。

「儀式は過去の水面下で進行し、今この瞬間に執り行われた」

 

 あらゆる生贄の魂が、過去から未来へ捧げた神への言葉。

 

 過去の未来(・・・・・)は今この瞬間であり、それらは同時に同一の空間に存在し、神への供物として血と狂信と苦痛を捧げている。

 

 この空間を見渡せば、死せる魂の叫びと今まさに死にゆく者の礼賛と、苦痛に歪む者の信仰と恐怖に駆られる者の絶叫が一心不乱に響いていた。

 

「何を言っているのか分からない!」

「時間がない。もう俺達の関係も終わりだ」

 

 貴族たちの魂もまたこの絶叫の礼賛に混じり、神を称える言葉を叫んだ。魂が抜けきった身体は生気を奪われ老人のように朽ち果て、腐り落ち光を返さぬ漆黒の液体になった。

 

 ペルティアは彼らを救えなかったことを恥じたが、この身の毛もよだつ現象とアズの発言に、滅多打ちにされたような衝撃を受けた。

 

 その彼は鎧の背面の留め具を外し、背部を外に露出した。

 

「土台不可能な話であったのだ。化け物とヒトが共に歩むなど」

「冗談を言わないで……あなたが居なくなったら――」

「ひたすらに西へ走れ。西へ、西へ行くのだ。厳冬が来るまでに、お前の足ならば街に辿り着けるだろう」

「止めて! 聞きたくない!」

 

 ペルティアの絶叫に呼応するように、彼の背中から生えた(・・・)

 

 ささくれ立った黒い幽星(アストラル)体が大樹のように太く、太く、天を衝く巨人のように高く生えた。

 

 それは天井をすり抜けてなお伸び続け、街の城壁から見て初めて全容が分かる程の大きさになった。

 

 黒々とした天を衝く柱からは、二十本もの捻れた幽星(アストラル)体が渦を巻きながら伸びていた。

 

 その内の八本は、捻れた三本の鉤爪を持つ赤熱する腕であった。空間が歪む程の高熱を放ち、大気を波打たせている。

 

 その内の八本は、蜘蛛の脚のように折り曲がり、四房の輪で作られた指で大地を踏み締めていた。糸で吊るすように、根本にあるアズの身体が少し持ち上がった。

 

 その内の四本は、ゲマジェフ、アダイア、ローグリン、そして“死に至る螺旋”のこの世ならざる頭が取り付けられていた。夜回りをしていた二人組の警邏がこの顔を見て悲鳴を上げ、逃げ出した。

 

 アズは《支配》の悪魔(デーモン)で最も強大な四柱の、四頭、八腕、八脚分の幽星(アストラル)体を取り込み、意志を切り離してその身に宿し、顕現させた。

 

 即ち、外法・祟神(すいじん)魔性承臨(じょうりん)の術。

 

 ヒト如きが始祖に近き神を討つのであれば、その身は深淵の深さを知らねばならない。

 

 しかし、ただ目指せば闇に溺れるのみ。正視するに堪えない苦痛と破壊衝動に耐えなければならない。それが叶わないのなら、彼はただ死を撒き散らす悍ましき怪物に成り果てていただろう。

 

 今、アズはヒトのふりを辞めた。無限の螺旋に死の暗黒を映すだけの悍ましき幽星(アストラル)体を解き放ち、正真正銘全力全開の力を発揮できる状態になった。

 

 ヒトにトロールの血が四半分、そこに魔性が半分割り込み、それらの倍の神の気質を併せ持つ。ヒトの成分は僅かに十六分の三だ。

 

 彼をヒトと呼ぶにはあまりにも混ざりすぎている。そして、彼らの神より強大で、あまりにヒトに近すぎた。

 

「お前にだけは、見せたくなかった。この俺の最も醜き姿を」

「ア、ズ……」

 

 “針鼠の肉屋”は魔法のポーチを放り投げて天井を貫くと、幽星(アストラル)体で数多の武器と防具を取り出し武装した。魔法の武具は大きさを変え、山のように(そび)える各部位に合致した。

 

 閃光と暗黒による負の影響を完全に遮断し、感知範囲を飛躍的に伸ばす四つの兜。

 加速(・・)と肉体を著しく増強させる二十四の指輪。

 燃焼の概念で象られた燃え盛る白炎の理力剣、ミスリルとアダマンタイトの幽星的同位体合金で鍛えられた輪郭を持たぬ二対一振りの剣。即ち三の剣。

 四次元的連続性を削ぐ鮫肌の大鎚、完全なる球体を柄頭に据えた星より重きメイス、石化と分解を(もたら)す理力の戦鎚。即ち三の鈍器。

 《実体》を捉える神殺しの弓と無尽かつ必中の概念を宿す矢を産む矢筒。

 地形を無視し次元の軸から浮遊できる四組のブーツ。

 

 他にも細々とした効果はあるが――アーティファクトによる効果は彼の強さを更に底上げし、“死に至る螺旋”や始祖に連なる悪魔の神々と真っ向から戦ったとしても負けはしない。

 

 五頭十腕十本脚の化け物“針鼠の肉屋”は本体である“肉体”だけを部屋に残し、巨大な幽星(アストラル)体を静かに背負う。

 

 彼が完全に武装を整えた瞬間、女の奇妙な言葉が二人の脳内に響き渡った。

 

もー! “針鼠の肉屋”さんったら酷いじゃないですかぁ、こんなに待たせるだなんて。プンプン!

 

 場違いなほど明るい猫撫で声で、ソレは世間話のように軽く彼を呼んだ。

 

 ただ、ペルティアはその粘着質で怖気の走る声に生理的嫌悪感を覚える。今すぐにでも耳を塞ぎたい気分だ。

 

 虚空から這い出てきたのは女の上半身であった。

 

 肌は褐色、眼は暗黒と星々を輝かせ、丸みを帯びた幼い顔立ちながらも鼻梁(びりょう)は芯が通っており左右対称、長い銀髪からは甘ったるく男を誘う魔性が薫る。艶めかしく蠱惑的な肉体が惜しげもなく曝け出され、女は肌に指を伝わせて誘惑するような仕草をとった。

 

 下半身は、いつの間にか空いていた光を返さぬ暗黒の穴と繋がっていた。ペルティアの目は無意識の内に直視するのを避ける。

 

 その底知れぬ瘴気の中からは、好奇と侮蔑と欲情と執着と悦楽の視線が彼に投げ掛けられていた。

 

 舐め回すような視線にペルティアはゾッとし、危うく短剣を落としそうになる。

 

収穫期は実に待ち遠しいものだ。熟し腐らせ堕とし這い蹲らせて踏み付けるのが何より堪らない

我らが愛子にして操り人形(プレイヤー)の君よ、今日この日を今か今かと待ち望んでおりました

 

 欲望に歪んだ言葉が“針鼠の肉屋”に向けられた。

 

 新たに二人、仕立ての良い黒い神父服に身を包んだ浅黒い男と、燃えるように赤い三眼の色白な女が現れた。

 

 彼らは己の背部を渦巻く血濡れた漆黒の肉に埋め、さながら柱に刻まれた彫刻のようであった。その柱は無数の縄が蠢くように絶えず悶え、人々の苦悶と嘆きの表情が貼り付けられたように見える。

 

 柱は虚空の穴から延々と伸びており、そこは無数の肉と幽星(アストラル)体で満たされている。

 

 ただ無限の暗黒があった。

 

 彼らはあまりにも強大な存在であり――それは宇宙を飲み込む嵐のようで、矮小なペルティア如きでは大きさ比べ(・・・・・)など出来るはずもなく、彼女は絶望に立ち竦むしかなかった。

 

 ペルティアの精神は今にも押し潰されてしまいそうな衝撃に悲鳴を上げる。

 

 味方のアズと虚空から現れた者共がただそこに居るだけで。

 

「あ、あ、あ、あ、あ、あっ……」

 

 広漠とした光のない空間で一人取り残されてしまう孤独と、自分の存在が無限に希釈されているのではないかという不安。

 

 ペルティアは己の無力さに胸が締め付けられ、訳も分からず溢れ出そうになる涙を必死にこらえることしかできない。

 

 彼女は即座に発狂しただろう、アーティファクトで『狂気』から身を守っていなければ。

 

お☆ひ☆さ☆し☆ぶ☆り☆でっすよー! あなたの愛しの心の恋人Nyarlathotepが来ちゃいました! テヘペロ(のワの)

 

 その言葉は脳内に響く文章であり、頭痛を併発する思念会話であった。声色は軽いが、侮辱の色が隠しきれていない。

 

 しかしペルティアなどは眼中になく、それはどうしようもなく幸運なことであった。

 

優良血統(プレイヤー)にして主人公(プレイヤー)にして神の玩具(プレイヤー)! 今の気分はどうだね?

「命乞いにしては達者な口だ。“世界の穴”の最奥にて、“混沌”をあやす眠りの守り手“Nyarlathotep”よ。動けぬ本体代わりに化身を寄越してくるとはな」

命乞い? 何故君が私を殺すのかね。動機があるのか?

「貴様を殺せば片が付く」

ふっ、くくく……はははははっ……あーっはっはっはっは! 本気で言っているのか!? ちっぽけだが思考回路が在る筈だろう?

 

 不愉快な思念が二人の頭に響いた。

 

復讐を終えたのであろう? 何故生きる、何故死なぬ? 何の理由で以ってお前は立つのだ?

「……」

 

 突然の問い掛けに“針鼠の肉屋”は言葉を詰まらせた。

 

 アッテムトで復讐を遂げた“あの日”、悪魔(デーモン)が現れなければ彼は抜け殻のようになって野垂れ死んだに違いない。

 

 なにせ復讐の為に生きてきたのだ。家族の顔も名前もまして己の名前すら記憶から焼き消し、知り合いの言葉は命乞いと罵倒以外思い出すことができないという有様なのだ。

 

 ただ(ひとえ)に憎み憎み憎み殺して復讐だけで生きてきた。

 

 始祖殺しを成し遂げた後は、激しく喜ぶこともなければ深く悲しむこともなく、植物のように黙々と殺しの業を磨く日々。

 

 他者に請われては魔物を殺し、その力で人々に忌み嫌われていく。

 

 訳も分からずに生きるままに生き、自分でさえ理解し得ぬ事をする。

 

 空虚な生と言う他ない。

 

「理由は必要ではない。死なぬから生きるのだ」

(カビ)臭い人生だお前にはよく似合っているぞ。地に這い蹲って侵し、汚し、見た者全てを不快にする汚物め。だが我々は! 知っているとも、望むところを。お前が何故生き、殺し、憎み、何を切望するのかその答えを!

「貴様の甘言、揺さぶりは意味を成さん」

 

 彼は黄金球の柄を強く握り締める。

 

おお、怖い怖い。そんなに睨まれては殺されてしまいそうだ。お前が殺した人間のように、プチリと

あーっ! それ私が言いたかったんですよ! このグズがァ!! 黙って煽れねぇのかッ!

 

 Nyarlathotepの銀髪褐色の化身は、食材を前に調理手段の横取りをされ激怒する。

 

 その豹変ぶりや人を人とも思わぬ態度。ペルティアは邪神の邪神たる所以を目の当たりにし、たじろぐ。

 

 彼らはヒトのような形をしてヒトのように話しているが、その心が悪辣な企みと残忍な欲望で煮え(たぎ)っているのが見え透いていた。

 

 当たり前だが、ペルティアの理解の範疇にある生物ではなかった。

 

 千の化身を持つ無貌(むぼう)の神Nyarlathotep本体は、“世界の穴”から決して動くことができない。

 

 だが、“針鼠の肉屋”達が存在している真実の世界(実体)から派生した平行世界()は化身たちの遊び場となっており、人類が滅びた世界は無数にある。

 

 いかなる世界であっても歴史の裏側では常にNyarlathotepの化身が暗躍しており、壮絶な死を遂げた者が何十万人、何百万、下手をすれば何百億人も存在する。

 

 Nyarlathotepは己の娯楽の為に化身を送り込み、化身を通してその頭の中にある最悪の計画の成否を、ニヤニヤと笑いながら眺めるのだ。

 

 この場で戦いが始まれば、現世に顕現している三柱以外の化身も虚空の穴から溢れ出し、“針鼠の肉屋”に襲いかかるだろう。

 

 その時を今か今かと待ちわびているように、虚空の穴から幾つもの吠えるような声がした。

 

我らの化身たちもいきり立っております。同族殺しにて鍛え上げられたお手前、拝見したく存じます

ヒトも悪魔も神も、なんだってあなたは殺すのだけは得意ですからね!

「……」

 

 72543人。

 

 《支配》の魔法で操られ、“針鼠の肉屋”がやむを得ず殺した人間の数だ。尤も、《支配》されてすらいない者が三千五百人強はいたが、彼一人で殺し尽くした方が数値としての被害は少ない。

 

 なにせ、《支配》の悪魔どもを野放しにしていたら倍は死んだだろうから。

 

 結果、滅ぼした都市は四つ。

 

 煉瓦と尖塔の街並みは尽く崩れ去り、都市をたまたま離れていた幸運な者だけが災禍から逃れられた。忌まわしき過去は炎と殺戮に埋もれ、悲しみが覆い尽くした。

 

 唯一詳細を知る者の脳裏には、住人一人一人の断末魔と死に顔がはっきり思い出せるほど焼き付いていた。

 

 “針鼠の肉屋”はただ憎しみを感じていた。家族殺しの仇は討った、原因の悪魔は滅ぼした、されども殺戮の記憶を思い出す度に憎悪が降り積もる。誰かに向けた際限無い憎悪だけがしんしんと。

 

 三つの都市は復興したが、彼の悪名は飛躍的に広まった。

 

 人々は“針鼠の肉屋”から目を逸らし、心の内で厭悪した。

 

 原因はたった一人での虐殺ではない、もう一つの人ならざる所業のせいだ。それは“針鼠の肉屋”という不名誉極まりない呼び名の所以(ゆえん)でもあった。

 

あなたが殺したのって十万でしたっけ? 百万でしたっけ? 端数を数えても仕方ありませんけどぉ~、わたし、気になります!

 

 銀髪褐色の化身が口の端を吊り上げて嘲笑(あざわら)った。

 

 “針鼠の肉屋”は一切反応しないが、それこそ化身達に愉悦を感じさせるものだった。

 

人間のお肉ってぇ、私あんまり好みじゃないんですよねぇ~~。でもでもぉ、“針鼠の肉屋”ゎぁ、頑張って集めたもんねっ! 殺した人間の肉を、他人に食べさせるのは楽しかったですかぁぁぁぁ~~~~? 答えろよ殺人鬼

 

 今まで小石のように縮こまっていたペルティアが、その言葉で奮い立った。

 

 力量差に圧倒されて身じろぎ一つ取れずにいたが、化身達のアズに対する侮辱は到底我慢できるものではなかった。傷付けられたのはペルティアの心ではない、彼の秘めたる胸の内だ。

 

 それを思うだけで彼女の胸の奥は抉られたように痛み、耐え難い熱を感じる。溢れ出た感情はペルティアの口から言葉になって飛び出した。

 

「彼が好き好んで人を殺すものか!」

 

 虚空の穴から触手が飛び出して、反射的にペルティアを打った。

 

 防御したとしてもペルティア程度のゴミでは即死する一撃であったが、彼女は微動だにせずその場に立っていた。

 

 アーティファクトに秘められた《無敵》の魔法がペルティアを守った。六時間に一度しか使えないが、その効果は絶大だ。

 

んぁ?

まぁ、愛しの君。かような情婦を連れているなど聞いておりませんわ。どの様に処分なさるつもりでしたの?

なんですかぁこのモブキャラは。ペットプレイならマシな物を連れてくればよかったのに

「情婦でもペットでもない! 仲間だ!」

あれま生意気

 

 銀髪褐色の化身の腕が赤黒い触手に変貌すると、ペルティアの周りで蛇のようにとぐろを巻いた。触手の表面に女と全く同じ顔が浮かび上がって嗤ったが、その目は全く笑っていなかった。

 

 《無敵》が解けた瞬間に死ぬ――彼女は死の危機を間近に感じたが、引くわけにはいかなかった。

 

《無敵》の間だけそのド低脳に話してあげますよ。このカオスゲートに通じる三つの主要な交易路は、それぞれ中規模の都市に繋がっているんです

「っ、それがどうしたのよ」

 

 ペルティアは息を呑んだが、当の化身は気にも掛けずに早口で話を続けた。

 

時期は“冬籠り”の前、カオスゲートの食料庫に火が放たれました。食料供給を急遽行わなくてはいけませんでしたが……おやっさしいぃ~“針鼠の肉屋”は近隣の(・・・)都市を三つ潰して、死体を運んでみんなに配りましたとさ、チャンチャン☆

カオスゲートの住人は同族殺しに同族喰らいを強制されたのだよ。馬肉と言って配ったが、心の底では誰もが理解していたさ、これは人間の肉だとね

 

 食料供給は到底間に合うものではなかった。三都市が悪魔の軍勢に支配されたためカオスゲートは孤立し、王国が食料と軍隊を送ろうにも厳冬を越さなければ手の打ちようがない、そんな時期であった。

 

 “針鼠の肉屋”は《支配》の悪魔を打ち破り、《支配》された住人を殺し尽くした後に解体して運んだ。三都市の食料も尽く焼かれており、食べられるものがソレしかなかったのだ。

 

 カオスゲートの住人はこの出来事を“獣配りの夜”と呼んで心の内に秘め、厳冬期と冬籠りを恐れて暮らしている。彼らが何も言わないのは、彼に汚名を着せれば自らを人食いだと言わなければならないからだ。

 

 だが、何者か(・・・)が彼の所業を噂して以来、彼はこう呼ばれてきた。

 

 “針鼠の肉屋”と。

 

 由来を知る者は侮蔑と憎悪を込めて、由来を知らぬ者は畏怖と憧憬を込めて。

 

罪深き罪人を我らが裁いて差し上げるのです。そうでしょう? 死んで当然のゴミなんですから♡

「称賛せずとも理解はできるわ、彼がやらなければ餓死していたかも知れないのよ!」

奴の望みを偽れはしないぞメスカス肉。湿ったタンパク質風情がよくもそんな口を利けるな。居ても居なくても同じだ、考える能すら無いあの男など

「腐り落ちた外道め。貴様の言うことなど何一つ信ずるに値するものか!」

お前は陵辱して苗床にした後に未来永劫生き血を搾取し続けてやる

 

 底冷えするような思念を発して、化身はペルティアの目を覗き込んだ。

 

 宇宙のような瞳からペルティアは目を離せない。その場に縛り付けられた訳でもないのに、首も目線も動かすことが出来なかった。

 

 一瞬経って《無敵》の効果が切れると、彼女の心臓は跳ね上がった。汗が吹き出して、血管の脈動がうるさいほど聞こえてくる。

 

 まばたきの後には、雑巾の様に絞られて血と臓物を撒き散らすかも知れないと考えると、ペルティアの心の奥からじわじわと恐怖が浮上してくる。

 

(でも、邪神に怯えて何も言わないよりはずっと良いもの、アズ……)

 

 それでもペルティアに後悔はなかった。

 

「あなたの事、信じているわ。必ず*勝利*してくれるって……」

 

 遺言のように言い残してから、ペルティアは拳を握った。

 

 それでも彼女は眼は閉じず、化身は黄金のような意志を秘めた瞳を覗き込んだ。その誇りに対する残虐な仕打ちを思いつき、Nyarlathotepは愉悦に嗤う。

 

 ペルティアの予想に反して、触手は銀髪褐色の化身の下へ戻っていった。

 

なーんて☆殺しませんってば。お楽しみは最後まで取っておくでしょう? あなたの目の前で滅ぼしてあげますよ、このカオスゲートを今度こそ(・・・・)

「……まさか、まさか!」

 

 ペルティアの脳裏に電流が走る。彼女はアズの過去に付き纏う殺戮の影を捉えた。

 

 都市を《支配》したのは悪魔であり、カオスゲートを間接的に潰そうとしたのも悪魔だ。

 

 しかし、それを手引きし裏で糸を引いていたのはNyarlathotepだと暗に示された。

 

 “針鼠の肉屋”も《支配》の悪魔も、Nyarlathotepの掌の上で転がされた駒に過ぎない。

 

 貴族に伝わる都合の悪い噂、役立たずの悪魔どもが食いつく都合のいい話、復讐のために力をつける冒険者が耳に入れる情報。全ては思うがままなのだ、千の化身を持つ神Nyarlathotepの。

 

 誰かに何かをさせるなど児戯も同然。未来を見通し、思いのままに玩具を創り上げる手腕で右に出る者はいない。

 

 そのようなつまらない事、できて当たり前なのだから。

 

戯れでも何でも、被害は大きいほうが良いですよねぇ!

「――ッニャルラトホテプぅぅぅううううう!!」

 

 化身は口をにんまりと広げて邪悪な笑いを浮かべる。

 

 全てを察したペルティアは顔を真っ赤にして吠えた。

 

 馬鹿げた数の人間を遊びで葬らせた。ただの一人に重荷を背負わせて、生き様を罵倒し足蹴にして嘲笑った。そんな行為は何より最も許してはいけないと、ペルティアは憤った。

 

 人が人であるために必要なのは誇りだと、彼女は考えていた。それさえあればギリギリまでは踏ん張れるが、そう思っていたペルティアでさえ折れた。

 

「――それも、それさえもお前がッ!」

 

 彼の“誇り”を傷つけさせるわけにはいかないと、ペルティアは二の句を継ぐが。

 

あ、ショーギって知ってます? 次は大駒が欲しいんで《魔――

「《テレポート・アウェイ》」

――力の嵐》

 

 化身が無造作に《魔力の嵐》を放つ。

 

 ペルティアを死に至らしめる威力の魔法であったが、不意打ちを極限まで警戒していた“針鼠の肉屋”が割り込んだ。

 

 ペルティアは無事、ここから離れた地上に逃れることができた。

 

 その代償として“針鼠の肉屋”は無防備なまま《魔力の嵐》を喰らったが、そのダメージは微々たるものだ。

 

 そうでなければ、始祖に連なる悪魔殺しなど出来るはずもない。

 

「《影の投影》」『《魔力消去》 クソが! 解除できないヤツじゃないですかー

 

 魔法の打ち合いはすなわち、戦いの火ぶたが切られたのと同義だ。

 

 彼らは刹那の内に相手の次の手を読み合った。

 

 魔法による強化は《魔力消去》で打ち消せるが、《魔力消去》は《魔力の嵐》を掻き消すことができない。しかし《魔力の嵐》だけを連発しては、重ねられた強化が容易に自分の首を絞める。

 

 どうとでも覆せる三竦みだが、《影の投影》は魔法としては別格だ。

 

 真実の世界(実体の世界)から投影した『影』の自分を己に纏わせて、あらゆるダメージを『影』の自分に肩代わりさせる。本物の“針鼠の肉屋”には数段劣るが、《魔力消去》では消せない肉盾を手に入れることができる強大な魔法だ。

 

 それらに続いて、彼らはすぐさま魔法を唱えた。

 

《無敵》《魔力の嵐》《魔力消去》《無敵》』『《魔力消去》《魔力の嵐》《加速》

《魔力の嵐》《魔力の嵐》《加速》《魔力の嵐》』『《魔力消去》《魔力の嵐》《魔力消去》《加速》

《肉体強化》《魔力の嵐》《魔力消去》《加速》』『《魔力の嵐》《魔力の嵐》《加速》《魔力消去》

《魔力の嵐》《肉体強化》《究極の耐性》《無敵》

 

 須臾の魔法合戦。

 

 アストラル体に働きかけて四度同時に呪文を唱える《四重詠唱》の応用。四つの呪文を一つの口で同時に唱える異口詠唱だ。

 

 五つの頭と三柱の化身が一斉に魔法を唱え、互いの強化を打ち消し合い《魔力の嵐》を飛ばし合って苛烈に攻め合う。頭数の差でアズに強化が掛かったが、お互いの魂に与えたダメージはごく僅か。大局を決定付ける程ではない。

 

 しかし、数瞬の間に放たれた十度の《魔力の嵐》は地下室で波濤の如く荒れ狂う。長屋ごと天井が吹き飛び、瓦礫が火山弾のように噴出すると共に土埃が天高く舞い上がった。

 

 時刻は0時過ぎ、空には満天の星空が広がっていた。

 

 街には小さな灯りが二、三個見えるだけで、起きている者などほとんど居なかったが、その轟音で近くに居た大半の住人は飛び起きた。

 

 都市の壁に近く住宅の多い北区であったが、幸いにも瓦礫は人の居ない通りに落ちた。警邏の叫びで目覚めた北区の住人も、尋常ではないと慌てて家から逃げ出した。

 

 しかし、土煙のヴェールを引き裂いて、千の化身をその身に宿した巨大な異形の肉柱がせり上がると、運悪く目撃してしまった数十人が発狂した。

 

 それに続いて五頭十腕十本脚の化け物も蜘蛛に似た脚を伸ばして立ち上がる。これを見た者は、同じ様に恐慌に陥った。

 

 そんな地上の様子はお構いなしに、彼の蜘蛛様の六つ脚は格闘戦のため腕のように構えられた。

 

 本体である“針鼠の肉屋”はただ幽星(アストラル)体に吊るされているようにみえるが、残った二つの脚の根本を動かしながら空を飛ぶように接近し、黄金球で殴り殺さんと肉薄する。幽星(アストラル)体の六つの腕は手に持ったアーティファクトを振るい、残りの二本は弓に矢をつがえて放つ。

 

 対するNyarlathotepの化身達は、まず理性のない狂った化身が次々と柱の表層に現れては矢面に立ち、家々よりも太い触手の束で迎撃した。森のように触手を生やしながら理解し得ない叫びを撒き散らし、触手の鞭をしならせて四方八方から打ち付ける。

 

 “針鼠の肉屋”はその巨体に見合わぬ身軽さで六腕を動かし、全ての触手を《無敵》や《影の投影》で防御した上で切り落とすか受け流すかしてやり過ごす。

 

 そして攻撃の反動を利用して化身達の柱――本体に百数回もの反撃を叩き込んだ。流れる雲の長さの矢は肉を貫通し、遠方の地面に大きな凹みを残すと瞬く間に霧散した。

 

 化身共はその隙間のない連撃を神がかった腕前で幾度か受け流すが、捌ききれず大半をもろに食らう。

 

 戦闘がずば抜けて得意な神ではないのだ、Nyarlathotepは。意識が幾つも在ることが弱さの原因でもある。

 

 ただ恐るべき事に、魔法の打ち合いから近接戦闘までを一周期と仮定しても一秒として経ってはいない。化身は自身の想定以上の速さで“針鼠の肉屋”が動いていることに苛立ちを隠せず、同じ化身共を罵倒していた。

 

 既に人間では踏み込めない領域の戦い、“針鼠の肉屋”がカオスゲート最後の砦であることは最早言うまでもない。

 

蛆虫共が脳無しの貴様らをこの私が使ってやっているというのに無価値の塵芥がァ!!

ハハハハハハッ! 想像を絶する化け物じゃないですか! まさか“死に至る螺旋”を本当に殺したとは! 人間如きの身でここまで至ったなんて!

「いくら束になろうとも、貴様ら化身の実力は“奴”未満だ。無駄な足掻きをする」

 

 八腕が煌き、数多の魔法が化身達を粉々に砕いた。

 

 触手が悶えるように歓喜の声を上げ、新たに作られた口が喚き出した。

 

観測用の子機を潰されたのは予想外だったが、最高級の玩具になって帰ってきたとは嬉しい誤算だ

「悪魔殺しの神アトゥスライアーも貴様の化身か。古の神々は欺かれたようだが、最早これまでだ」

 

 “針鼠の肉屋”の猛攻が激しさを増した。

 

 触手をただ振るう化身――勿論並の技量ではない――に比べ、“針鼠の肉屋”は一撃一撃を神業のような精密さで通してくる。ただ凄まじく速く、技の出も早く、見切りも疾い上、狙った部位を決して外さない。

 

 三筋の剣閃をするりと躱した触手を、そのまま剣の僅かな機動と殺戮(固定値)で灰にする。埋め合わせで飛来した多臓器様の化身を四股の足で叩きつけてすり潰し、肉柱から伸びる触手の森を因果攻撃の鎚で過去ごと削ぎ落とす。

 

 “(ころし)”に特化した“針鼠の肉屋”に真っ向勝負を挑むなど、そもそも戦いが成立するかどうかも怪しい行為だ。

 

ちょちょち』『ょ! 一ター』『ンに何』『回こうげ』『きしてるん』『ですっあ――』『消耗速度がぁ!

一七八れ』『ん撃だ』『口の生』『成すらお』『いつかん』『とは

逞し』『きは良き』『ことですが』『いささ』『か激しす』『ぎますわ』『次なる』『策に移』『行しま』『しょう

 

 雨粒の様に降り注ぐ《魔力の嵐》で消えていく化身もいれば、凄まじい連撃と殺戮の力で叩きのめされる化身もいる。だが、どの化身も神には違いなく、負けじと《魔力の嵐》や触手で反撃している。

 

 秒間七柱の速さで、化身が粉微塵に砕かれては消えていく。

 

 何万と両断され肉が欠け落ちようとも削られた部位は瞬く間に再生し、死した化身の穴埋め要員は雲霞の如く湧いて出てくる。

 

 無尽蔵とも思えるほどの化身を持つNyarlathotepであったが、有無を言わさぬ攻撃には音を上げた。このペースでは一日と持たない、と。

 

《四重詠唱》《龍召喚》』「《四重詠唱》《魔力の嵐》」

 

 化身は《召喚》によって攻撃対象をバラけさせる作戦に出た。彼はすぐさまその動きに対応し、有象無象を一掃する方向に舵を切る。

 

《魔力の嵐》《魔力の嵐》《魔力の嵐》《無敵》』『《四重詠唱》《龍召喚》

《究極の耐性》《魔力の嵐》《魔力の嵐》《魔力の嵐》』『《四重詠唱》《龍召喚》

《四重詠唱》《魔力の嵐》

《四重詠唱》《魔力の嵐》

 

 百を超える数の龍が一気に召喚された。

 

 カオスワイアームや時空ワイアームに真なる龍といった龍の祖であり頂点に近い種もあれば、この星で“厳冬”として徘徊する龍も居る。いずれも凄まじき力の持ち主であるがこの場では端役だ。

 

 好き勝手にブレスや物理攻撃を仕掛けたものの、《魔力の嵐》に巻き込まれてあっという間に蒸発してしまう。

 

クソがァァァあああああ!! 役立たず共がッ! 見てる暇があったらお前らも《召喚》し』『クソがァァァあああああ!

 

 柱の中で脈打つ化身達が、癇癪を起こした銀髪褐色の化身を(あざ)笑う。

 

 彼女は化身共を口汚く罵倒して《召喚》するように促した。化身達は同じNyarlathotepであって上下関係があるはずもない。互いに互いを見下し合い、指示されたとしても梃子でも動かないだろう。

 

 しかし、彼らの心は“針鼠の肉屋”に対する残忍で冷酷な欲望に溢れていた。調理したいと思うもの、引き裂いて生き血を貪ることを望むもの、堕落と退廃の道に引きずり込もうとするもの。

 

 そして、彼を完膚なきまでに叩きのめそうとするもの。

 

 いずれにせよ“針鼠の肉屋”に地獄を味わわせたいと望む心が一致し、化身達は行動していた(・・・・)

 

 直接対面した以上、彼らにとっては最早消化試合。“針鼠の肉屋”に抗う術など万が一にもない。だから化身共は手を抜いて、同じ化身の醜態を嗤っていられるのだ。

 

 “針鼠の肉屋”が大した傷もなく龍を消していく中、化身達は気まぐれに《召喚》の魔法を唱え始めた。一口に《召喚》と言っても、実に多種多様な種族が呼び出される。それは時に、強大な龍よりも恐ろしい数の力となる。

 

 それは盤上遊戯の駒を(かたど)った人形の兵団を。

 

 それは形のないエレメントの群れを。

 

 それは灰色の肌と白目をした地下世界(アンダーグラウンド)のダークエルフ達を。

 

 それは陸では生きられぬ剣のような魚を。

 

 それは薄汚れた緑の肌の狂ったゴブリン軍団を。

 

 それは死せる魔法使いの骨(リッチー)死せる戦士の死体(レヴナント)の大群を。

 

 それは女王アリと死を恐れぬその配下たちを。

 

 それは天使と悪魔の最終戦争(ハルマゲドン)を。

 

 《召喚》された魔物はそれだけではなかったが、その数はゆうに千を越していた。

 

 彼らの足元では召喚魔法によって混沌から呼び出された意志無き魔物たちが、定められた善と悪の概念に従って殺し合うばかりか、北区を南下して住人を殺しつくそうと飛び出した。

 

 一秒あれば何万という数の魔物が溢れ出す――“針鼠の肉屋”はこの手法をよく知っていた。

 

 彼が《支配》の悪魔の拠点を潰す時は、まず無数の魔物を呼び出していた。そして呼び出された魔物が《召喚》を行い、《召喚》された魔物がまた《召喚》を行い……と、《召喚》を無限に連鎖させて、数の暴力で悪魔を轢き殺す。

 

 通称、“召喚地獄”。

 

 ダンジョンの中でよく起こる現象であり、大抵の場合“召喚地獄”に陥った階層は攻略不可になる。大人しく《帰還》や脱出の巻物、《フロア・アップ》の魔法棒で逃げるのが鉄則であるが、ここは地上だ。

 

 地上を諦める――そんな事を“針鼠の肉屋”はしない。

 

 だが、《魔力の嵐》を地上に放てば人間が巻き添えを食う。Nyarlathotepは期待に目を輝かせた。

 

「無駄だ」

ィィッィィィィィィイィイィィィィアアァァァァッア"ア"ア"ア"アアアア!!

 

 無数の《魔力の嵐》と近接攻撃が化身の幾つかを消し飛ばした。そして、四つの頭の一つ、アダイアの頭がガラスを引き裂くような声で絶叫した。

 

 魔力を多分に含んだ“死の音”は聞かされた者に強力な衝撃波をぶつけ、抽象的な“死”を与える。

 

 抵抗できなかったものは時間が過ぎ去るように当然に、前触れ無く肉体が粒子となって崩れ去り、そこに存在しなかったように消え去った。

 

 《召喚》された全ての魔物は龍にも劣るほどか弱く、その“声”に耐えられるはずもなかった。

 

 後に残った魔物は居ない。

 

ゲェーッ! 敵味方識』『別のMAP兵器とか聞いてない!

 

 当然ながら“針鼠の肉屋”は耳を貸さない。

 

 一度戦いを始めたが最後、彼を止めるには敵を滅ぼすしかない。

 

 分子の穴を通すほど精密に攻撃し、かつ宇宙が滅びても死なない程度に頑丈な殺戮兵器だ。邪神と言えど尋常ならざる手段がなければこのまま死ぬ。

 

だが倒す方法など幾らでもあるのだよ。唯一にして絶対の欠点、素体の限界がね

“針鼠の肉屋”さぁん! 忘れているかも知れませんがぁ! 死んだお兄さんのお肉は美味しかったですかぁ?

 

 化身が揺さぶりを駆けるが無駄だ。

 

 彼は決して惑わない。

 

 憎しみ以外を抱かず、必要を必要なだけ満たすことができる戦闘機械だ。

 

 彼は《召喚》された魔物共を蹴散らしながらも、魔物を北区から逃さないよう体を張って進路を塞ぐ。

 

埃と小石を喰む人間が生きられると思います? あなたの肉体は何一つとして正常ではないんですよ!

 

 彼は決して惑わない。

 

 研鑽に眠りがなければ全ての時間を費やせるだろう。

 

 研鑽に迷いがなければ食事は一つで十分だろう。

 

 鋼の肉体、不壊の精神、神に通ずる技量、全てを身に着けて彼は個体としての頂点に至った。

 

 化身を粉砕し魔物をいとも容易く屠るその威容は、あらゆる者に逆らおうという気さえ起こさせはしないだろう。

 

人間単体の効率的な殺し方に一番詳しいのはあなたですよ! 知り合いを殺すのはさぞ楽しかったでしょう? 顔は思い出せますかぁぁ~? 名前は? どんな会話をしましたか? え? 思い出せないとは冷血な!

 

 彼は決して惑わない。

 

 戦いに喜びは不必要だ。

 

 殺しに悲しみは不必要だ。

 

 殺人に迷いは不必要だ。

 

 無駄な思い出は無い。だが、惨劇の記憶は、彼の脳裏に今もはっきりと鮮明に焼き付いている。

 

 振り返れば、沈み行くような人生の記憶だけがあった。

 

 ――それは何故だろうか?

 

アトゥスライアーの教えを信じた聖女は殺しやすかったでしょう? でも殺して正解でしたよ、なんてったって私の忠実な下僕でしたから! でもどうしてそれが、あなたに分かったのでしょうねぇ? 誰が手綱を引いていたのか、まるであなたは知っていた!

 

 彼は決して惑わない。

 

 “目的のためには何をしてもいい”。

 

 “何も知らずに邪神の教えを信じる者を殺してもいい”。

 

 “復讐を遂げて素知らぬ顔で戻っても良い”。

 

 人類の為になるなら躊躇いなくやれる。

 

 “針鼠の肉屋”はその兜の奥の表情をピクリとも変えず、淡々と作業をこなし化身を殺し続けている。

 

 化身は決して手強い相手ではない。厄介な攻撃は《影の投影》で肩代わりされ、それを突き抜けても《無敵》か幽星(アストラル)体で防御できる。ラッキーパンチは彼我の隔絶した技量差だとありえない。

 

昂ぶるでしょう、憎悪が掻き立てられるでしょう!? 私をもっともっともっと楽しませてくださいよぉッ!

 

 虚空からの化身の流入は更に加速し、巨大に、太く、長く、無尽に湧き出した。肉の柱が更に天へと伸び、四つに分かたれて花開く。裂けてなお、各個の柱は小さくならず膨らんだ。

 

 それらは蛇のように地を這い、宙で弧を描き、迂回して彼を包囲する。

 

 狙いを分散させれば被害は結果的に抑えられる――ああ、そんな馬鹿な考えでNyarlathotepが動くわけがない。これは恋にも似た燃え上がる執着心の現れだ。彼の思考を一瞬でも長く独占していたいと、街への脅威をチラつかせる。

 

 彼は石化と分解の鎚で肉柱の一本を一瞬だけその場に留めると、誘引の矢に持ち替え射て一本、肉体を近づけて黄金球の打撃で一本、片脚で蹴り跳ね上げて一本と、分散した肉柱を押し返す。

 

 肉柱をある程度の範囲に――精々一キロ以内に――固めると、四本丸ごと燃焼の剣で根本から両断。そのまま圧倒的手数で蹴散らしていく。

 

 それに負けじと化身もまた柱を四股に割く。彼が十六本を押し返すと、今度こそとまた肉柱が裂け、潰され、裂け、潰され――延々と続くにつれて彼の動きもまた加速していく。

 

 彼は一時間もの間、無言で戦い続けていたが、化身は罵倒と《召喚》だけは決して絶やさなかった。

 

 刹那の区切りが付き、肉柱が元の一本に戻る。

 

 加速度的に増加していった消耗に悲鳴を上げたかと“針鼠の肉屋”は考えたが、化身は余裕の表情を浮かべ続ける。

 

 それに、彼は疑念を抱いた。

 

 問いただそうと思う程度には。

 

「貴様の戯言は無意味と知れ。今まで俺を見てきたのならば、その足掻きは――」

*おおっと* やっと反応してくれましたね? ええ勿論、あなたを見てきましたよ

アトゥスライアーが消えてからは久しいがな

男子三日会わざれば刮目して見よ、と申しますが、益荒男であればあるほど昂りますわ

「何を企む。言え」

いえいえ、言ったじゃないですか。大駒が欲しいと

「下らん。数だけは多い有象無象が」

 

 “針鼠の肉屋”が相も変わらず無関心を貫くと、化身は口を大きく開けてこれみよがしに笑った。

 

ぷっぷぷぷ……ふぐっくっくっぶっ……ふっはははは……ははははははっ! あ~っハッハッハ! 腹www筋www崩www壊wwwするwww

己の滑稽さに腹が捩れないのか? 知恵遅れの欠陥品の欠損品でもここまで愚かではないぞ!

 

 化身は皆一斉に笑い始めた。

 

 愉快で愉快でたまらないといった風に笑い転げた。

 

 笑って嘲笑(わら)って嗤って、その目に嗜虐心をたっぷりと(たた)えていた。

 

何故あなたが眠りもせずに戦えるか! 何故あなたが満腹だけを必要とするのか! 何故子供が復讐だけを夢見て生きてこられたのか! 何故あなたが憎悪以外を感じないのか! 何故ェ! あなたがっ! 一人で戦い続けなければならないのかッ!

答えは明白だ。そうだともなぁ?

そうッ! 他ならぬあなた自身が、全ては“針鼠の肉屋”が選んだことぉッ!

「何を馬鹿な」

忘れたんですよぉ、全ての記憶を胎内で! 全ての運命(さだめ)を放り投げた! あなたが自ら捨てたんですよッ! 望んで止まない大切な物ォ!

 

 彼はそんな記憶は無いと、化身の言うことを切り捨てた。切り捨てたが、頭の片隅で何かが引っかかった。

 

 銀髪褐色の化身は満足げに頷くと、たっぷりと勿体付けてから、パチンと指を鳴らした。

 

 直後、魔法の雨霰を喰らっても微動だにしなかったあの“針鼠の肉屋”の身体が、糸が切れたマリオネットの様に落下した。

 

 蜘蛛様の脚は力を喪って倒れ、地に足を着いて黄金球の支えがあっても満足に立つことすらできない。

 

ィィイイィイイイィイァアァァアァアアアァアアアァアアアア!!!

オオオォォオオォオ"オ"オ"オ"ォオオァアァオオォォオゥゥゥウッゥウ"ウ"ウウウウッ!

ガァァアァアアァアアギギィィィイィィイイィイィッ!!

ァァァァアアァァッアァア"ア"ア"ァッァアアアッアアアアアァァア"ア"ァア!!

 

 彼の幽星(アストラル)体は全身から紅い血を吹き出し、四ツ頭は絶叫する。

 

 空気は怯えたように震え、長屋や石畳がひび割れて砕けた。

 

 運悪く近くに居た者は頭が破裂し、膨れ上がった存在(・・)に空間ごと消し飛ばされた。

 

 彼は片手で胸を抑え、息を切らし、震えた。

 

「は――――な、にを、した……っ!」

 

 彼は《癒し》の呪文を唱えるが、早鐘を打つ心臓も、喉から漏れる声も、滲む視界も、手足の震えるような寒さも治らない。

 

 魔法で身体の異常が治せない――そんな事は当たり前だ。

 

 己の内から湧き出たものを、治す事などできる筈がない。

 

いいぃ~~~~事を教えてあげますよぉぉぉぉ?

 

 ニタニタと笑いながら、吹き出す血を浴びて銀髪褐色の化身は囁いた。

 

憎悪以外は感じないよう、心に細工をしたんです。あなたが最初に抱いた感情だから、私はそれだけを大切に大切に大っ切に、いつまでも感じていられるようにしたんです

「たかだかっ――言葉だ!」

 

 されども彼は直立することさえできない。

 

 なにか手を打たなければ決定的な打撃を被ると、彼の直感が囁いていた。

 

 だが、遅い。

 

 化身の意思が彼に伝わってしまう限り、最低でも脳を破壊しなければ、Nyarlathotepの術中から逃れることは不可能だ。

 

強がらなくて良いんですよ? ありとあらゆる感情は、記憶と一緒にいつでも思い出せますから! 今でも鮮明に脳裏に浮かぶでしょう……聞きたくなかった恨み言、死に顔、罵倒……

 

死ねばいいのに

どうして弟を殺したのよッ!

お前なんかいなければッ!

 

「っ……なんだ、これは……!」

憎悪、畏怖、憤怒……

「何を、したッ!」

 

 化身が囁く度、彼の脳裏にはっきりと焼き付いた記憶が蘇る。

 

助けてぇ!

怖いわ……

あのバケモノめ……

無駄に使えるから腹が立つ

ころさないで

お前が死ねェ!

どうして助けてくれなかったんですか!

人殺し!

近づかないでッ!

ゴミが!

誰がこんな事をしろと頼んだっ!

何でアイツがここに居るのよ

何故あんな男が!

うぁぁああああっ!

人を殺して平気な顔をするクズめ

死んでくれ

正気じゃない、人間の肉だぞこれは!

頭のおかしいヒトモドキが

気色悪いやつだよ

お前はそうやって俺たちを殺す!

死ね

寄るな都市殺しの化け物めっ!

“血塗れ”だ逃げろ!

同族殺して喰う飯は美味いか?

もう生きたくない……

お前なんかが帰ってこなくても

お前が死ねばよかったんだ、どうして娘が死ななくちゃいけない!

騙したなぁあああああ!

お母さん! お母さん!

殺してぇ!

あんなクズは死んでしまえば良かった!

殺して下さい

どうしてたすけてくれないの

もっと、はや、くき……

死にたくないぃぃぃぃ!

お前のせいだぁぁああああ!

死ね!

裏切り者っ!

人殺しが……

大人しく死ねないのか?

あいつが生きているだけで俺たちは夜も眠れないんだぞ!

災厄を撒き散らすな疫病神め……

お前なんか生まれてこなければよかったのに

アレは魔物だけを殺せないのか?

もう死ねば?

何で生きているのっ、お前見たいなクズが!

近寄らないでくれ……

何で平気でいられるんだ!?

お前なんかいなければ!

死ねぇぇえええええええ!!

何笑ってんだ死ね!

無能が

しっ、聞こえたら何されるか……

出ていってくれぇ!

 

 乞う言葉、吐き捨てられた悪意、陰口、真正面から叩きつけられた罵倒。

 

 彼の脳裏に蘇る言葉は何だって、軽蔑と殺意と憎悪に溢れていた。

 

「……こ、れは」

楽しかったですかぁ? あなたの人生ぃ?

 

 気にも留めていなかったと思う一方で、彼の腕から瞬く間に力が抜けていく。

 

 大粒の血の雨が降り注ぎ、あっという間に大地を紅で染め上げた。幽星(アストラル)体は悲鳴を上げてビクリと跳ね、周囲をなぎ払って倒れ伏した。

 

 直後に《召喚》された魔物が彼ら(・・)の脇を抜けて南の方へ走っていく。“針鼠の肉屋”は黄金球に縋り付いたまま恨めしそうにそれを見送った。

 

あなたの感情は感じた時そのままに保存されるんです。心と共に魂の奥深くに、深き微睡みの中で大事に、鍵を掛けて

「馬鹿な、ありえない、気付かないはずが……」

 

 魂に細工をすれば彼に見抜かれる。

 

 だが、それは神を殺す程度の実力があった場合の話だ。

 

いやぁ、魂に細工するのなんて簡単ですよ? 生まれつき(・・・・・)腕が三本あったらおかしいとは思いませんよね? 比較しようはありますが、支障がなければそれは異常ではない。故に気付かない、人間なんて単純ですから

 

 Nyarlathotepにしてみれば人間一匹の人生など簡単に予想できるものだ――未来予知も組み合わされば、多少の不都合であろうと一切合切を捻じ伏せられる。

 

「ありえん、ありえん……! 感情など、心など!」

喜んでもいいですよ! 無いと思って切り捨てていたモノが、実はあなたの中に眠っていたんですから。人間らしい感情が欲しかったんですよねぇぇぇぇ?

人の真似事も随分と上手であったなぁ? 憎悪だけで生きる者が何故都合よく生きていられたと思う、プレイヤー(操り人形)よ。貴様は何もかもを取りこぼし、我らに導かれて生き長らえていたに過ぎない

 

 憎悪だけで生きる者ではなかった。

 

 “針鼠の肉屋”の感性でも『嬉しい』とさえ感じられるハズの言葉が、猛毒のように彼の心を蝕んでいく。

 

 それは味わったことのない――

 

「俺にそんなものはない! 貴様への煮えたぎる憎悪がその証明だ!」

吠え立てるその有様こそが答えでありましょう? それは憤怒です

あ、そうだ、良いことを思い付いていました!

 

 彼は決して膝をつかず、闘志も衰えてはいなかった。

 

 彼の内から憎悪と共に憤怒が溢れ出した。平静さは欠け落ちて身体が煮え滾り、周囲の空間が歪んで捩じ切れる。

 

 だが、戦いの主たる幽星(アストラル)体は全く制御できない上、肉体は人生全ての激情に苛まれてろくに動かない。

 

 “針鼠の肉屋”は別人になったように叫んだ。

 

 憎悪を湧き立てなければ、もうマトモでは居られないと気付いたから。

 

「引き裂いてくれるッ、貴様の全てをォォォォオオオオオオオッ!」

今からここ一帯の魂を奪い取って、飽きるまで拷問しますね♡ そしたら人間にぶち込んで化物作っちゃえ♡

J’meenmen E’jyorlrg(月の欠けたる異界より) Y’hktji Zephere‘t(跳躍せよ魂)

 

 化身が神秘の呪文を詠唱し始めた。

 

 突発的な行動に対処しようとするが、“針鼠の肉屋”の思考は煮え立った溶岩のように落ち着かない。

 

 どうすればいいのか、何が最善手なのか……『最も手早い手段』を彼は選んだ。

 

 長年の習慣。身に付いた解決策。それ以外が彼の頭には無い。

 

 時間はなかったと、彼は心の中で叫ぶ。

 

 選択の余地は――山程あったとNyarlathotepはほくそ笑む。それしか選択できなかった(・・・・・・・・・・・・)が、別の手法はあったとせせら笑う。

 

 誤った道を歩ませる事こそがNyarlathotepの神算鬼謀。

 

 破滅の海にうず高く積み上げられた塩の塔へ、彼は迷い込んでいたのだ。

 

 産まれた時から運命(さだめ)は決まっていた。今まさに彼の心が崩壊せんとする。

 

「【Y’clukd Nhyutger(渇欲を搾取せよ)

Y’jolmodes digthyua(星は地に墜ちよ)

N’amelgah Fumesl B’ulgens(燃立つ幽星の泉よ)】」

 

 彼は感情を抑えて必死に詠唱する

 

 一字一句間違えてはいけない、誤れば不発になるだけだ。

 

「【H’dum Ze-ims Illuohmu(望みある限り灰へ)

Wplaxn Ze-ins M’jhfgrhf(闇ある限り輝け)】」

 

Sebedygt S’ign eamshe’t(咆哮の標を与えし者の) H’yfum Re-Medi buyevuant(唾棄すべき宴へ)

 

 残念だが、彼らの命を救う魔法はない。

 

 しかし、彼の中では、死後の安寧を守る手段はあった。

 

 魂が連れ去られる前に、苦痛なく滅して砕けばいい。

 

 死んだ方がマシな目に合うくらいなら、死んだ方が良いと信じて。

 

 “針鼠の肉屋”は吠えた。

 

「――【Sahmreyt D’yghancht(憎悪の太陽)】ッ!」

 

『――Nyarlathotep(この呪文に意味なんてありませんよ♡)

 

 彼の呪文は化身の詠唱よりも、一瞬早く終了した。

 

 気付いた時にはもう遅い。

 

 ぎらぎらと暗黒に輝く太陽が頭上に輝き、空を真っ白に染め上げる。

 

 カオスゲートの人口約二十五万の内、八万が蒸発した。

 

 住宅街の多い北の区画は人口密集地であり、そこが東西に長い楕円状に消し飛んだ。何者も残っては居ない。男女問わず、子供も老人も、例えどれほど善良な市民であったとしても、その存在は魂ごと消え去り、その生活は眠りと混乱の内に奪われたのだ。

 

 たった一人の短慮によって。

 

「――――」

 

 街並みは瞬時に融解して乾燥し、一面の砂漠に。

 

 砂の山には生命の痕跡すら無く、ケーキをカットしたように不自然に途絶えた境界から街は続いていた。

 

 その断面を侵すように漆黒の炎が立ち上がり、徐々に徐々に南下していく。

 

 彼の幽星(アストラル)体から吹き出た血は即座に霧となり、上空で錆色の雲を形成したが、太陽の輝きは曇らずに在った。

 

 雨になって降り注いだ血は再び蒸発し、雲になる。刹那の内に激しく繰り返されたサイクルで錆色は渦を巻き、雷を打ち鳴らしながら轟いた。

 

 化身共が笑い転げながらやたらめったらに《召喚》を唱えると、魔物の中でも核熱と暗黒への耐性を持つものが選別され、砂煙を上げながら街へ乗り込んでいく。

 

ひーっひっひひひひひぇギャハハハハ! えw? なんですかw? 『貴様の甘言、揺さぶりは意味を成さん』キリッ! これはwwwww一体何事wwwww

「ばかな、ばかな……」

未来既知に僅かでも頼っていれば回避できただろう? 不眠と偏食も含めて、我らの加護であったというのに、貴様のような白痴を見ていると片腹痛いわなぁ!

 

 “針鼠の肉屋”の手は震え、支えにしていた黄金球の柄がこぼれ落ちた。

 

 彼は二歩三歩とたたらを踏むと、腕をだらりと垂らして空を見上げる。

 

 【憎悪の太陽】が煌々と地上を照らし、“針鼠の肉屋”の憎悪を吸って黒々と輝いていた。

 

 砂が風に巻き上げられてパラパラと降り注ぐ。

 

 目も眩む憎悪に照らされ、彼は干涸らびていくような心の渇きと新たな憎悪の芽生えを感じ取った。

 

 感情の水脈は湧き出る度に揮発して消え去り、憎しみだけが彼の心を覆い隠していく。

 

 彼は再び憎悪で満たされると、平静を取り戻し、呼吸を整えた。

 

「……俺の魂に、細工が仕掛けてあったか」

 

 彼は黄金球を拾い上げた。

 

 それでも足取りは重く、幽星(アストラル)体でさえ立ち上がるのは遅い。

 

「お前のお陰で一つ、気付けた。代償は、大きかったがな……」

ほう、何かね?

 

 見透かしたような笑みを浮かべ、神父姿の化身が問う。

 

「俺は人を救いたいと……あらゆる暴威から守りたいと、願っていた……」

笑えますね、あなたが人を救う? おまけに守るぅ? 何人殺したと思っているんですか! 人でなしのろくでなしが!

お前の足掻きは罪から逃れようとしているに過ぎない、己の慰撫(いぶ)のために何人殺したか数えてみるといい。十四年で積み上げた同族の死体は、今の一瞬で倍になったではないか!

 

 化身の言葉で感情が掘り起こされ、少しずつ湧き出している。

 

 時間切れが近い事は彼にもはっきりと分かっていた。

 

 彼の全身を無力感が覆っていき、力を奪っていく。

 

「そうだ、だからこそ、立ち塞がる全てに*勝利*しなければならない」

 

 化身の言うことを肯定して、それでも自分に言い聞かせるように断言した。

 

 倒れている場合ではない。勝たなければならないのだ。

 

 今まで過ごした人生が、邪神の掌の上で踊っていただけであったとしても。その人生の軌跡は、心と感情は、願いは彼だけのものだ。憎悪も、内に秘めたる思いさえ譲ることは出来ない。

 

 そして今、死んでいった人々の人生もまた彼らだけのものであった。

 

 彼は八万の十字架を背負い、積み上げた屍と血の上で、見知らぬ者の人生に思いを馳せた。

 

 蘇りつつある心と感情が、彼の記憶に憎悪と理性以外のものをもたらす。

 

 街を歩けば聞こえる子供の声はなぜ弾むようなのか――“それは楽しいからだろう”。

 

 僅かな小銭のために汗水垂らして働く父親の顔は何故生き生きとしているのか――“恐らく献身だ”。

 

 子を思う母親の挺身はなぜ尊ばれるのか――“多分愛故に”。

 

 金、力、栄光、冒険、平穏を求めるのは何故か――“それは感情があるからだ”。

 

 無数の声が、彼の中に響き渡る。

 

 それは封じられた心たちの叫びであった。

 

 憎しみだけを抱き必要だけを満たしてきた彼は、不条理な人生で得た疑問への答えを、不意に掴んだ気がした。

 

 それは同時に、己の行いの罪深さを自覚する劇薬でもあった。

 

 “仕方なかった”は己を庇う理由にならない。残酷で冷酷な行いが、幾多の血と屍を築き上げた。人間性を削るような行いで得た力は、己を世界から孤立させた。

 

 だが、思い起こしたのはそれだけではない。世界には無数の人間が生きており、人々は命を掛け替えのないモノとして背負っている。

 

 その無数の“人生”を彼は塵芥のように葬り去っていた。葛藤もなく、ゴミのように切り捨てたのだ。

 

 今ならば分かる――――それは途方もなく尊いもので、命をかけて守るに値する、容易に切り捨ててはいけないものだと。

 

 知らずに奪ったからこそ守り抜きたいと、そう思うのは決して間違いではない――彼は断定した。

 

 幸福の逆光に位置する生であったが故に、見出された彼の“願い”は叫ぶ。

 

 ――次こそは守り抜け。

 

 例え“殺す”しか選べなくとも、絶滅を断つ刃は己にしか振るえない。

 

 魂が人から遠ざかり、無数の傷を背負おうとも、どれほど死体を積み上げようとも、例え永遠の孤独が待ち受けるとしても――最後まで戦う事こそ、彼が彼自身に課した使命だ。

 

「誰も俺のようにしてたまるものか、これ以上は誰からも奪わせん…………全ての者の為に戦え……全てが俺に掛かっているぞッ!!」

 

 彼は産まれて初めて己を鼓舞した。

 

 立ち直れない程の感情に苛まれようとも、願いへの執念が彼を支える。

 

「負けるわけにはいかない……」

 

 記憶の中で死に続ける者の、悲鳴と流血が彼を正気に留める。

 

「立ち上がれッ……」

 

 それを思えば、誰に認められなかったとしても。

 

 憧れを眺めるだけだとしても。

 

 人の尊厳(もてあそ)ぶ邪悪なるNyarlathotepの好きにさせてはならないと、彼の人生が背中を押した。

 

「行く先を照らせ……暗闇を、払えぇぇぇぇええええええええッ!」

お前如きに守れるものか。宇宙を飲み込む嵐は吹き荒れているぞ!

 

 決意し、“針鼠の肉屋”は憎悪の記憶を掘り返して思考を塗りつぶす。

 

「灯火を、高く掲げろッ!」

 

 五頭十腕十本脚の化け物が、再び身を起こす。

 

 その暗黒の体は光の中に浮かび上がり、腰に携えた青白い角灯(ランタン)が白夜に輝く星となった。

 

 まだ負けていない。

 

 殺すために、守るために、救うために、誰かの希望を照らさなくてはならないのだ。

 

ィィッィィィィィィイィイィィィィアアァァァァッアアアアアアアアア"ア"ア"ア"アアア!!

 

 “死の音”が鳴り響いて砂漠の魔物を塵に帰すと、“針鼠の肉屋”は再び化身の柱と激突した。

 

 【憎悪の太陽】がより激しい輝きを放ち、光奪う暗黒と核熱の力が彼らの表皮を焦がす。物体は砂漠に近寄っただけで発火し、立ち入ればたちまち蒸発する。

 

無駄無駄無駄! あなたが立ち上がる事ですら予定調和なんですよ! 無限に分岐する世界の終わりで、あなたはいつだって一人だったじゃないですか!

「Nyャァルらとhoテェエッpウゥゥゥウウ!」

やーん♡ ちゃんと名前で呼んでくださいよぉ♡ 人間の真似事は止めて化け物らしく!

 

 魔力の大爆発が炸裂し、応えるように“召喚地獄”が引き起こされ、絶滅と《召喚》が繰り返される。

 

 十本の腕に握られたアーティファクトは遺憾なくその効果を発揮し、余波で砂漠にクレーターを作りながら肉を消し飛ばす。

 

 大地は揺れ動き、空は憎悪に支配され、常人では近づくことすらできない神話の戦いが始まった。

 

ハッハハハハハ――ッハッハハハハハ!! なんて可哀想な化け物なんでしょう! こんなに惨めで哀れなあ・な・た――花を手折るように歪めてしまいたい

ああ、愛しの君。あなたのような逞しい男性には、泥濘の中で孤独に苛まれて頂きたいのです!

 

 化身の囁きに応えて、人ならざる咆哮がカオスゲートに轟く。

 

 一つの暴力と化した彼は湧き出た感情を揮発させて――限界まで時間を引き伸ばす。

 

いま奪って差し上げます! ああ、私の“針鼠の肉屋(プレイヤー)”!

 

 燃えるような三眼の女は柱から分離し猛スピードで飛び出した。

 

 死体のように青ざめた肌は透き通り、その化身の全身が(あら)わになった。海月(クラゲ)のように広がり布のように薄く、その中に蟲の卵塊にも似た黒く(うごめ)く化け物を孕んでいる。

 

私に見せて下さい、あなたの――

「《スターストリーム・ヘル》ッ!」

 

 もはや“針鼠の肉屋”は三眼の女を見てはいなかった。

 

 詠唱が終わると同時に、白夜の中に黒点がいくつも浮かび上がる。

 

 それは大魔法によって作り出された星であり、赤黒く輝くその表面は魂砕く地獄のエネルギーで満ちている。

 

 そして、星は空を埋め尽くしていた。

 

 地獄の星々は瞬く間に一条、また一条と地上へ墜ち――虫が通る隙間も無い地獄の大瀑布が絶え間なく押し寄せ、飛び出した三眼の化身は刹那の内に消えた。

 

使えねぇ売女がッ! 無能の塵芥が死んだだけじゃねぇか!

 

 莫大なエネルギーが化身を呑み込み砂を巻き上げては叩き潰し、無限に等しい星々が大地を揺らしては大爆発を起こし、地獄の力を撒き散らす。

 

 幸か不幸か、巻き込む者が居なくなったため、なりふり構わず大魔法を連発できるようになった。

 

 だが、この場に引き込まれれば、誰であろうと守る暇もなく死ぬ。

 

「《テレポート・ブロック》」

《引き寄せ――おっと読まれてしまったか

 

 【憎悪の太陽】が輝き地獄の星々が降り注ぐ中で、彼はこれ以上の《召喚》と犠牲を封じた。

 

 遠距離攻撃は撃ち落とせる。ただ逃走するなら轢き潰せばいい。体積を増したら空間ごと破壊してしまえば済む。神秘の魔法を唱えるのであれば唱えてみればいい。

 

 神にも伍する化身ですら溶けるように死んでく中で、口の生成が追いつくはずもない。

 

ハッハハハハアッハハハ』『無駄無駄無駄』『夜明けまでど』『ころか三十分も保た』『ないでしょうに!

 

 “針鼠の肉屋”は《スターストリーム・ヘル》に匹敵する範囲と威力と持続性を兼ね備えた大魔法を更に五つほど吐き出す。

 

 無色の魔力が際限無く荒れ狂い、至る所で時空が歪んでは破裂して莫大なエネルギーを撒き散らし、超新星爆発に匹敵する熱量が一点に降り注ぎ、竜巻のように渦巻く闘気があらゆる物体を消し飛ばし、万物を侵し蝕む毒と酸の大海が呼び出された。

 

 光が洪水のように溢れては消え、恒星が顕現したかの如く地上は照らされる。

 

 盲目への耐性がなければ目を灼かれる破壊的な光量の中で、先程と同様に“針鼠の肉屋”は得物を握って魔法を唱える。

 

 絶え間ない爆発音と身の毛もよだつ絶叫が鳴り響く中で、女の高らかな笑い声が狂ったように木霊し続けていた。

 

 しかし、十分経って“針鼠の肉屋”の得物を振る手が精彩を欠き始めた。

 

何故抗う何故戦う何故生きる? 殺すしか能のない貴様に救いを望むモノなど居るものか!

「貴様に理解(わか)るものか、殺したからこそ救いたいと願うのだ。どれほどの辛苦を味わおうとも未来は続く、その限り俺は戦う!」

続かぬさ! 宇宙とて所詮はあと数年だ

「“混沌”か――――だとしてもッ、未来を人に紡がせる!」

 

 彼の足取りは鉛を詰めたかのように重く、その隙を化身共が見逃すはずもなかった。

 

《影の投影》を打ち破り、何百本もの触手が彼の幽星(アストラル)体を貫いた。

 

 が、素早く千切り飛ばして再生し、《影の投影》を再度発動する。

 

滅びに抗えるものか。運命は変えられぬさ! 貴様如きにはなァ!

「人の運命は、貴様が決めるっ――ものではない!」

己が運命さえ覆せぬ癖にぃぃぃ! あなたはプレイヤー(操る者)ではない! 実に愚かなプレイヤー(操られる者)だ!

 

 魔法の異口詠唱が不発し始め、殲滅速度がNyarlathotepの再生速度に追いつかなくなる。

 

 呂律(ろれつ)が回らない。

 

 唇は震え、喉が異様に渇き、嗚咽をこらえるように奥歯を噛み締めてしまう。

 

 幽星(アストラル)体は血を吹き出し、何一つ力を持たない悲鳴を上げた。

 

そら、口が回らなくなってきたぞ。認めるがいい、己では何もできぬと

「――俺がやるのだ。貴様を、殺さなければッ、死んでいった者達は何になる!」

何にもならぬさ。いや、強いて言えば君のスコアだ! 十五万と少々で新記録じゃないか!

「俺が報いなければならないのだ! 消え去れッ! 居てはならぬ者共よ!」

 

 彼の手足は痺れて痙攣し、攻撃はまともな威力にならない。

 

 どれほど己を奮い立たせても、過去が追い縋ってしがみつき、引きずり下ろして滅多打ちにしてくる。

 

 “針鼠の肉屋”はもう限界だった。

 

無様ですねぇ。ほら、二十分足らずで力尽きるほどの覚悟なんですかぁ~~?

「……っ、止まるな、止まるなっ、止まるなァぁあああああああああッ!」

無駄と分かって足掻け、無為と知って嘆くがいい。未来は無限に続かぬと思い知れ!

 

 それから五分と経たず、彼は止まった。

 

 大魔法の雨霰は止み、光の弱まった【憎悪の太陽】だけが砂漠の空に残される。

 

 得物は彼の手から抜け落ち、身体が徐々に傾いて、真っ黒な幽星(アストラル)体ごと砂の上に倒れ伏した。

 

 幽星(アストラル)体から漏れ出た血液が真っ白な砂漠を錆色に染め上げる。その勢いは凄まじく、血は滝のように降り注いでいた。

 

 日差しが弱まり、渦巻く血雲からポツポツと小雨が降り始め、水面に波紋が起こる。

 

 己の血の中に顔を浸けて、彼は湿った砂を握りしめた。

 

「何故こんなことで、何故こんなことで立ち上がれない……!」

 

 微睡みから完全に覚めた彼の幼き日の心と感情は、全ての記憶の全ての痛みに悶え苦しみ絶叫している。

 

 憎悪と理性に支配された“針鼠の肉屋”にとって、それは胸の奥で他人が暴れまわっているような痛みだった。だが、今はもう自分のもののように耐え難い。

 

 魔法では決して癒やすことのできない、彼の行動を遮る忌々しいものだ。

 

“こんなこと”とは心外だな。君が切り捨て、望み、今も縋ろうとしている“感情”ではないか

「黙れッ……!」

憎悪、悲哀、憤怒、後悔、不満、罪悪感、殺意、怨恨嫌悪に孤独落胆執念……どれも私達のだ~いすきな♡感情ですよ! そしてあなたが持つ“全て”です、あなたは何一つとして得られない!

「黙れぇぇええええええ!!」

 

 身体を僅かに起こして“針鼠の肉屋”は憤怒の叫びを上げた。

 

 “針鼠の肉屋(自分)”ではない子供(自分)を、彼は否定しなければならなかった。

 

 認めれば取り戻してしまう――成長することなく痛みに晒された心と、マイナスだけに振り切れた感情を。

 

「邪魔をするなッ! 俺の内で叫ぶなぁああああああ!」

 

 血の湖に顔を半分浸けたまま右手を伸ばす。

 

 血が肺に流れ込もうと、黄金球へ――祝福された『次元の』究極の黄金球《エターナルナイト》へ手を伸ばす。

 

「戦えッ、戦え――全てを失う前に!」

 

 ――柄に、手が届いた。

 

 万力の如く握り締め、緩慢な動きで手繰り寄せ、立ち上がろうと全身に力を込めるが……。

 

 肉体を動かす経路が子供(自分)に遮断されて動かない。

 

 幼い精神が、延々と続く戦いに虚しさを感じている。終わってしまえばもう楽だと諦めている。いっそ全てを投げ出してしまえと。

 

 だが、“針鼠の肉屋”は断固として拒否した。

 

「お前も俺なら分からないのか……! 今度こそ、今度こそ次は無いんだぞッ! 今っ、戦わなければァッ! 死体の山を振り返れ屍の頂を見ろ! 踏破しなければ明日は来ないッ! 何故それが分からない!?」

 

 徒労の重力が彼に酷くのしかかり、低きへ流れる水の如く感情が大地へ吸い寄せられる。

 

「手放すなッ! 戦え! 心がどうした感情が何だッ!? お前など、存在しなければ――」

 

 立ち上がれない。

 

 Nyarlathotepはちっぽけな雑音をあざ笑い、()の耳元で囁いた。

 

あなたには僅かな喜びもない

母なる者に抱かれる安心もない

 

 彼は常に孤独であった。

 

未来に寄せる期待もなければ

今日押し寄せる興奮もない

 

 彼は失意の底に居続けた。

 

己の行いには決して満足せず

満たされる欲望も存在せず

 

 彼は殺戮だけで満たされた。

 

心奪われて感動することもなく

侮辱されて恥じることもなく

 

 彼は負の感情だけで形成された。

 

信念を貫く勇気もなければ

失うことへの恐怖もない

 

 彼の心はいま手折られて。

 

だから、あなたに新しい感情をあげます……

甘美であり、讃美であり、喜悦であり、好意であり、音楽であり、人間である。我らが求めて止まないものだ

 

 “針鼠の肉屋”はついに恐怖した。

 

 己の中で荒れ狂うどうしようもない激情に恐怖した。

 

 感じたことの無い何かの芽生えに恐怖した。

 

 内から湧いて出た恐ろしさで身体が震えた。

 

 その紛れもない己の心に、彼は憎悪した。

 

 しかし全身が凍ったように冷たく縮こまり、声が思うように出せなかった。

 

 遥か彼方を見上げるように、彼にはNyarlathotepが大きく見えて――敵わないと思ってしまった。

 

 彼我の間にはあまりにも絶対的な力の差があるというのに、“針鼠の肉屋”の方が圧倒的な強者だというのに。

 

 彼はその瞬間敗北した。

 

 人生唯一の一択である“殺”を封じられ、“針鼠の肉屋”は元の自分に戻ろうとしている。

 

 感情が肉体を支配し、心が精神を蝕む。

 

 もう彼は、自分の未来へ進めない――。

 

思い出させてあげます。感情の鍵を仕込んだ胎児の時の出来事を♡

 

 彼を更なる闇へと引き摺り込む言葉。

 

「なに、を……なにを……」

覚えていません? 私が胎の中で語ったじゃありませんか

「ぁ……」

 

 ――それから先を聞いてはいけない。

 

 彼はなんとか耳を自壊させ聴覚機能を切り捨てた。

 

 黙らせるために魔法を放とうとするが、四ツ頭が動くことはない。

 

 幽星(アストラル)体は苦しみに悶えて震え、跳ね、うねり、血を流していた。

 

 それは無駄な足掻きだ。

 

 産まれた時から突き付けていたチェックメイトを化身が(さら)け出し、駄目押しの一手に移る。

 

さぁ、母の温もりを思い出して下さい

 

 化身は一転して穏やかな声で促した。

 

 子守唄を謡う母のように、彼が求めていた慈しみと愛しさと優しさを込めて。

 

委ねて下さい。もう、楽になっていいんですよ……

 

 化身がパチンと指を鳴らすと、彼の脳裏に“思い出”が蘇る。

 

 

 

 

 

 いつの間にか、Nyarlathotepと彼は演劇を見るように席について、映し出された記憶を見ていた。

 

 見たくもない悪夢のような光景がこれから彼の脳内で上映される。

 

 ――暗く温かく、液体に満たされた場所であった。

 

 記憶の中の“針鼠の肉屋”は胎児だった。

 

 背中を丸める彼の腹からは白いへその緒が伸びており、胎盤に繋がっていた。

 

 その胎盤は泡立って細胞分裂を開始し、あの銀髪褐色の化身の顔を形成した。

 

『《成長せよ》』

 

 その化身は記憶を見つめる“針鼠の肉屋”へウインクをしてから魔法を唱える。

 

 すると、胎児の頭はどんどんと大きく“成長”して立派な大人の頭になった。

 

『サァ、あなたが送る人生を見せてあげます』

 

 胎児は限界まで目を見開く。

 

*

 

 ――母の命日が彼の誕生日だった。

 

 産まれたのは、頭だけが大人になった不気味な子供。

 

 母親は産まれた彼を見て絶句したまま死んだ。

 

 トロールの血を半分だけ引く父親は、痩せ細った顔を憤怒に歪めた。

 

 彼を取り上げた翌日、父親は産まれたばかりの彼を床に叩きつけ、体重をかけて踏みつけた。

 

『お前など産まれなければ良かった!! 呪われた子め、死んでしまえ!』

 

 酷い暴力に(さら)されても、彼は死ななかった。Nyarlathotepが守護したのだ。

 

 その次の日、父親は首を吊らされて死んだ。

 

ほら、あなたは誰にも望まれなかったんですよ

「やめてくれ……」

 

 唯一残されたのは彼の兄だけだ。

 

 痩せこけた兄は奴隷のように甲斐甲斐しく彼の世話をした。

 

 しかし、兄の言葉だけは一語たりとも再生されない。

 

あなたは世話になった人の言葉も思い出せない冷血なんですねぇ!

「ちがう、わすれたくなかった……わすれては、いけなかったのに」

 

 ――盗賊が彼の居た村にやってきた。

 

 不用意に外へ出た彼を庇うため、兄が覆いかぶさる。

 

 その直後、兄は長剣に貫かれて死んだ。

 

 村は焼き払われて、彼は冷たくなる死体の下で憎悪を滾らせた。

 

キャラメイク完了ですよ! 初期フィートは憎悪、職業はデーモンスレイヤー! さぁ、序盤の“見所”のシーンですよ!

 

 朝日が登ると、彼は焼き払われた村中を巡って物資を集めた。

 

 唯一無かったのは食糧だ。

 

「やめろ、やめろっ、そんなことをするくらいなら死んでしまえ、死んでしまえぇぇええええッ!」“針鼠の肉屋”は叫ぶが、これは記憶だ。

 

 己の罪から目を逸らせるはずがない。

 

 彼は無表情のまま(あばら)骨の浮き出た兄を解体し、乾燥させ保存食として持ち運んだ。

 

人でなしだなぁ……次は何を食うつもりだったかな?

 

 彼は“復讐”に衝き動かされた。

 

 彼は小さな都市のスラムで小銭を稼ぎながら、大きな埃、ゴミ、排泄物、石ころ、ゴキブリ、ドブネズミ、死んだ乞食、死にかけの娼婦を食べて生き長らえた。

 

 その間も抜け穴を通って街の外に出て、孤立した弱い魔物を見つけて殺す。

 

 控えめに表現しても、それは人の皮を被った化け物であった。

 

薄汚い卑しい餓鬼ですね。どれだけ取り繕おうともあなたの中身は化物なんですよ

「いわないでくれ……もう、ききたくないぃ……」

 

 一年後に場面が飛ぶ。

 

 彼は小綺麗な格好をして、冒険者になっていた。

 

 やることは変わらない。迷宮に潜って力を付ける。

 

 誰かの誘いは殆ど無視し、ひたすら一人で戦い続ける。休みはなく、眠りはなく、食事は最低限。

 

人は繋がりを持って生きているんです。あなたはどうでしたか?

 

 ――“アッテムトの虐殺”。

 

 14779人もの人間が、一人残らず彼に殺された。

 

 顔見知りでさえ躊躇なく殺し、命乞いに耳を傾けず殺す。

 

 上級悪魔が引き金を引いたとはいえ、常軌を逸した行いだ。

 

もう戻れなくなりましたねぇ。でも、私はあなたを愛してあげます……あなたを理解してあげます、あなたの欲しい物を何でも与えてあげますよ……

「ああ、ああ、ああぁぁ……」

 

 “針鼠の肉屋”は頭を抱えて呻く。

 

 己の罪を突き付けられて目を逸らさずにいられるほど、彼の心はもう強くない。

 

 だが、目を逸らしても見えなくなるわけではない。(まぶた)を覆い隠そうとも、記憶は魂で上映されているのだ。

 

 また場面が飛ぶ。

 

 今度はカオスゲートだ。

 

 “厳冬期”の直前に食料庫が焼かれ、配給されるはずの物資もほぼゼロになった。

 

 人々は怒号を飛ばし合って狼狽える。蓄えのある者は生き残れるが、そうでない者が大多数になってしまった。

 

 そんな中、彼は近隣の三都市が上級悪魔に《支配》されたという報を受け取り、発った。

 

 三度虐殺。

 

 三つの都市を滅ぼした時には“厳冬期”が訪れていた。

 

 彼は食糧を――兄を解体した時と同じ様に集めた。

 

 五万五千体分の人肉を持って、彼は雪を踏みしめてカオスゲートに帰還した。

 

 彼は嫌悪と憎悪と殺意で迎えられた。

 

ほら、誰があなたを必要としたんですか? 飢えて死ぬほうがマシだと皆心の中で言っていますよ?

「おれじゃない、これ、これはおれじゃない……おれじゃない……」

ま、いわゆる平行世界ですよ。確かにそうですね。ですが、あなたも、やったでしょう?

「あ、ああっ、う、ああ、あ"あ"あ"あ"!! ちが、ちがう、やりなくなかった!」

 

 “厳冬期”の間中、彼はダンジョンに潜っては食糧を集めて届けた。

 

 だからこそ余計に恨まれた。それができるなら何故もっと早くと――。

 

あなたは余計な事しかできないんですよ。人を食った最下層の人間も大半は死にました

「おれは、おれは」

何がしたかったんですか? 人も救えず自己満足で人肉を食わせて、一体何がしたかったんですか?

「ああaあ、お、れ、おれが、わるkaった……」

 

 記憶が飛ぶ。

 

 そこは何も無い。

 

 無だ。

 

 暗黒も光も、上下も色も無い。

 

 永遠の孤独。

 

 そこでずっと一人。

 

*

 

あなたは復讐を遂げられず宇宙でただ一人生き残った。“混沌”が目覚め「無」となった宇宙で一人、そして「あなた」は「宇宙」そのものになった

 

 Nyarlathotepが顛末を語る。

 

 記憶の中の化身も言った。

 

『これで終わり。これがあなたの人生の予知です。孤独があなたの友人ですよ』

 

 胎内で彼は叫んだ。

 

『産まれたくない、こんな人生なら産まれたくなどないっ!! 殺してくれ、殺してくれ殺してくれ殺してくれぇ!』

『あなたは産まれます。生きます』

『なら、せめて……記憶を、消してくれ……こんなに辛い思いをするなら、これほど苦しむ生ならば――』

「やめろッ! おまえが消さなければ、消しさえしなければァ!!」

 

 “針鼠の肉屋”が絶叫した。

 

 最も“他者の救い”に近い記憶を捨てるなど有り得ない行為だ。

 

 その予知さえあれば、知識さえあれば、“針鼠の肉屋”は今度こそ誰かを救えた。

 

 だが、見ているのは彼自身の記憶だ。その選択は止めようがない。

 

 彼は許し難い罪を突き付けられた。

 

『――こんな記憶があるならっ、もう生きていたくなどない!!』

「やめろぉぉぉおおおぉぉおぉおおおおおッ!!」

 

 記憶の中の化身が張り裂けそうな笑みを浮かべる。

 

『あなたは一番の望みを切り捨てた。おめでとうございます、この世で最も罪深い生誕ですよ』

産まれたことが罪です。死ぬことも罪です。生き続けることもまた罪です。自殺すれば良かったんじゃないですか?

「…………おれは、おれは……うまれてはいけなかったのか……?」

 

 彼の目から涙が溢れ出す。誰からも気にされなかったその素顔から、産まれたことすら望まれなかった悲しみが氾濫した。

 

 這い寄る罪が内から身体を食い破り、耐え難い重荷となった。その潰れてしまいそうな自責の念から逃れてしまいたいと願い、彼は頭を垂れた。

 

「ぁ、あ…………ゆ、ゆるし……ゆるして……」

請い願うならば、生き残る罰を以って贖うがいい。永遠に苦しめてあげますよ、私ならね

 

 記憶の再生が続きから始まる。

 

『もう、泣いたらダメですよ♡ 今のは私が見せた予知の中で見た予知なんですから♡』

 

 また、未来の中で彼は産まれる。

 

 “針鼠の肉屋”は絶望した。

 

 生誕を呪われる。

 

 “針鼠の肉屋”は絶望した。

 

 慕っていた兄を食う。

 

 “針鼠の肉屋”は絶望した。

 

 化物同然の生活をする。

 

 “針鼠の肉屋”は絶望した。

 

 知人も何もかもを虐殺する。

 

 “針鼠の肉屋”は絶望した。

 

 虐殺し、人道に反する無駄を行う。

 

 “針鼠の肉屋”は絶望した。

 

 復讐を成し遂げられない。

 

 “針鼠の肉屋”は絶望した。

 

 宇宙が滅びてただ一人生き残る。

 

 “針鼠の肉屋”は絶望した。

 

 そしてまた胎内に戻る。

 

 “針鼠の肉屋”は絶望した。

 

あなたは何回だって同じことを繰り返すんです。何度だって繰り返す……無駄なんですよ、お前の生そのものが無駄な足掻きでしかない

 

 “針鼠の肉屋”は視神経で目玉を押し出して兜の外へ排出した。

 

 そんなことで記憶から目を離せはしない、彼はもう一度記憶の消去を懇願する己を見てしまう。

 

 そして本当の過去の自分の記憶が消され、今の“針鼠の肉屋”が産まれた。

 

「みたくないみたくないみたくないみたくないみたくないぃぃぃいいいぃぃぃぃぃ……」

だめですよぉ……あなたは何度だって絶望の前で折り返すんです。どれほど強大な力を身に着けたって、愚かな選択で全てを失う

「いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだぁぁああああああああぁぁあぁああぁああああああああ!!」

 

 彼は子供のように頭を振って駄々をこねた。

 

 そんな事をして止めるNyarlathotepではない。

 

 彼の拒絶は邪神の嗜虐心を煽り、人生の復習は嬉々として始められた。

 

さぁ、まだありますよ、本当のあなたの人生を振り返りましょうか

「あ…………あ”ー、あ”ーー、あ”あ”あ”あ”あ”あ”ーーーー!」

 

 言葉を失い、慟哭する。

 

 *“針鼠の肉屋”は 絶望した*

 

 

 

 

 

 人は容易く挫けない。

 

 例え、人肉を食べさせてしまっても、数百人を虐殺しようとも、悪辣なる者に嵌められたとしても。

 

 諦める前に立ち直る事ができる。

 

 だが、あまりにも辛い出来事が、踏ん張れる限界寸前で波のように寄せては返す。

 

 諦観は繰り返され、諦めは繰り返され、無力は繰り返され、絶望で彼の心は完全に砕け散った。

 

 脳を収縮して鼠のそれよりも小さく。認知症を始めとする多数の身体・精神障害が併発。

 

 人間ならマトモに身体を維持できない。そうして死に近づくことで、彼は自分を守ろうとした。

 

 さりとて既に、“針鼠の肉屋”の人間としての要素は踏み(にじ)られたのだ。

 

その程度で死ぬくらいなら、始祖に連なる神を殺せはしませんよねぇ! 肉体如きが死を(もたら)せるものか

 

 血の湖の中心で胎児のように(うずくま)る“針鼠の肉屋”に、Nyarlathotepの化身は囁いた。

 

 例え首をもがれようと、四肢を千切ってバラバラに封印されようと、太陽に生身で飛び込んだとしても、“針鼠の肉屋”がその程度で死ぬ訳がないのだ。髪の毛が少し切れてしまうのと同じで、なんら痛痒(つうよう)すら与えられない。

 

 生物としての存在の格は上から数えたほうが早いくらいだが、精神は10歳の子供と同じだ。

 

チュートリアルは終わりですよ。あなたの本当の生はここから始まるんです……さぁ思い出して下さい。本当に憎いのは、()ですか?

 

 彼の身体がピクリと反応する。

 

 それから芋虫のように身体を痙攣させて、話の続きをねだる。

 

 さながら母親に寝物語を求めて甘える子供であったが、ここで彼が望むものを与えられるのは――Nyarlathotepしかいない。

 

 罪を雪ぐ甘美な絶望が包み込む。

 

答えは“針鼠の肉屋”その人です。あなたはあなたが憎くて憎くてたまらない……そうでしょう?

 

 壊れた心に憎悪が芽生える。

 

 彼にはいつだって自覚できはしなかった。不甲斐なさと無力さと自己嫌悪と殺意と恨みと憤怒を憎悪に昇華して、一体誰に押し付けるつもりだったのか?

 

 家族を殺した仇でもなければ、都市を滅ぼした悪魔でもなく、邪神Nyarlathotepでなければ。

 

 残るは“針鼠の肉屋”ただ一人。

 

 彼は――世界で誰よりも、自分の事が大嫌い。

 

殺したくて苦しめたくて傷つけたくて狂おしく戒めを求めて、許しではなく罰を乞い願っている。あなたは強くなり過ぎたが故に誰にも傷つけられない、あなた自身でさえ! だから、誰かに裁いてほしかったんですね

 

 Nyarlathotepの化身は彼の身体を優しく抱きしめた。

 

 母のように慈愛を込めて。

 

 悪意をたっぷりと詰め込んだ言葉で憎悪を育てる。

 

 それに応えるように幽星(アストラル)体の出血が止まると、彼は暗黒を丸めて繭を形成し始めた。

 

罰のために生き残りましょう。守るために滅ぼしましょう。“世界の穴”の私の本体を、東の果ての異種族を、星を巡って殺して周り、人と人類を守りましょう

 

 意志を持った泥の如き幽星体が彼の肉体を呑み込んでいく。

 

あなたに……癒えぬ傷を与える者が……どこかにいますよ……

 

 化身達はうっとりとした眼差しで見送り、卵を孵す親鳥のように寄り添った。

 

 あらん限りの罵倒(しゅくふく)を。

 

 望まれぬ生誕に嘲弄(あいじょう)を。

 

 呪われた運命に(さいわ)いあれ。

 

殺したくないけど死にたいなんて贅沢ですよ。飽きるほど殺せば何も感じなくなります。そして、いずれ誰かがあなたに罰を与える

始祖に連なる悪魔を殺したように、お前もまた憎悪に沈み苦痛の中で死ぬのだ

 

 化身は繭に言葉を投げ掛ける。

 

 それは呪縛。それは定義。それは結末。それは簒奪(さんだつ)

 

 かくあれかしと望みを吹き込み、最適な操り人形(プレイヤー)に仕立て上げるための儀式。

 

“死に至る螺旋”が誰に打倒できるものか! しかし彼は、無限の一の砂を掻き分け掴み取った!

我らが望み、我らが創り、我らが歪めた主人公(プレイヤー)! お前ならば宇宙とてただの燃料に過ぎない!

全てに滅びを! 等しく絶望を! 命ある限りの際限なき協奏曲を! 宇宙を滅ぼす旅へあなたは飛翔する!

 

 繭に亀裂が入る。

 

 【憎悪の太陽】は輝きを増し、煌き、燐き、綺羅星の如く――地上を焼き払う。

 

 カオスゲートは半焼、砂漠は拡大し、草原は火の海に変わる。

 

 血は蒸発して砂にこびりつき、錆色に染め上げて大地と成る。

 

其の名はArhotztohra!

得るもの無き円環の復讐神の名を授ける!

再誕せよArhotztohra!

其は起源から終焉へ、新たな宇宙へ跳躍し、混沌を撒き散らす絶望の螺旋なり!

憎悪せよArhotztohra!

行けど戻れど一切を喪失せよ! お前には無限の生こそが相応しき罰だ!

 

目覚め給え! 完全を得られぬ者よ!

 

 Nyarlathotepが奏上し、『名』が与えられた。

 

 人では呼び得ぬ彼の名は――Arhotztohra。

 

 悪意を以って名付けられ、彼は『名』に当て嵌められた。

 

 まず暗黒の殻を打ち破ったのは、弧を描いて伸びた無数の沸騰する牙である。

 

 次に現れたのは五の頭。貌の無いのっぺりとした四つの従頭に、獣の如き顎門(あぎと)を逆さの階段状に重ねて生やした異形の頭が一つ。

 

 そこには四つの瞼に閉じられた九の眼が星の如く爛々(らんらん)と紅に輝き、腐敗の吐息が口端から漏れ出して空気を汚染していく。

 

 繭は牙に突き破られたまま真っ二つに裂け、人型の体躯を包む外套になった。

 

 獣の肉体に三つの関節を持つ手足がそれぞれ十本ずつあり、分厚い鉤爪が滴るほどの闘気を纏って伸びていた。されどその手は天を衝く程に巨大化したアーティファクトを握りしめ、それは人の形を真似ていた。

 

 そして、背から毛のように生えた牙は、円を描いて腹から全身を貫いている。

 

 揺れ動く度に穿たれた幽星(アストラル)体から血が吹き出し、万能の酸となって地に降り注ぐ。

 

 自縛し殺意を滾らせるArhotztohra。形を得た憎悪は宇宙を滅ぼすまで止まらない。

 

 彼は――人の形を喪った。

 

あぁ……なんて素敵な瞬間なんでしょうか……神が! 神が、祈りを持たぬ神が単独で顕現するなんて……

純粋な力のみで、信仰無く現世に顕現した神だ! 讃えよ! 我等の新しき下僕(プレイヤー)だ!

私の愛は伝わって、帰ってきた……どうしようもなく通じ会えたんですよ! なんて幸せなことなんでしょうか!!

 

 恍惚とし感極まった化身達は肉体の一部を楽器へと変じて、フルートと太鼓をかき鳴らす。

 

 何よりもまず祝福の音を響かせよ。

 

 今ここに、憎悪と復讐の神Arhotztohraは降臨した。

 

「A……A……Ah……」

さぁArhotztohra! あなたの産みの親は私ですよ、私達ですよ!

 

 悶える化身の柱へ、Arhotztohraは鋭利な爪で指差した。

 

 純粋な殺意と純白の憎悪で形成された存在(・・)が広がり、空間が歪曲する。

 

 可聴域を越えた断裂音が空気を震わせていく中、Arhotztohraは宣告した。

 

Y’bhnemerk(血を流せ)

 

 アーティファクトが青く輝き《真なる加速》が発動する。

 

 瞬間、彼らの見る世界から大地が消え果て、広大な宇宙が現れた。

 

 暗黒の中で無限に輝く星の光が降り注ぎ、神々を取り囲んで点となり、宙に留まる。

 

 星々の輝きは彼らの周囲で円を描く軌跡を残して動き始め、輝く籠となって二柱を閉じ込めた。

 

 Arhotztohraは光すら振り払う速さで――時間の法則を逸脱する速度で動き出した。

 

 Nyarlathotepですら感知できない、凄まじい暴力の嵐が吹き荒れる。

 

h――――――――

 

 凄まじい衝撃と共に音もなく化身の柱が粉微塵に。

 

 新たな肉体が虚空から這い出てくるが、現れた瞬間Arhotztohraに消滅させられてしまう。再生してどうにか持ちこたえられる次元の攻撃ではない。化身の、化身全ての魂が今砕かれんとしているのだ。

 

 宇宙を揺るがす暴力が吹き荒れる。

 

何故止まらぬ!? 制御はどうした!

「AAAAAAAAAHHHHHHHHHHH!!」

 

 獣の雄叫びと共に黄金球が輝いて《次元破断撃》が炸裂、虚空を薙いで空を割ると、彼は裂け目に鉤爪を挿し込んで強引にこじ開けた。

 

 有り得ざるその空間には、Nyarlathotepが司る全ての化身が蠢いていた。

 

馬鹿な、六次元潜航だ――

Mmeenhere’t(月への跳躍)

 

 口だけを捩じ込んだArhotztohraが魔法を唱えると、そこにある肉体が無理やり()へ引きずり出されていく。

 

 彼は素早く()で待ち構えると、飛び出した肉体の一片一片を丁寧に砕いて削り、いたぶる。

 

 化身の身体は瞬時に塵となり、裁断機に突っ込まれたように次々と分解され、永遠に元に戻らない。

 

 階段状に裂けた幾つもの口腔から涎が撒き散らされ、快楽に浸り狂った笑い声と憎悪のままに喚き散らされる咆哮が無数に奏でられ、すすり泣く声が掻き消される。

 

 一切抵抗できず無力に成り下がった化身達は憎悪のままに嬲り殺され、獣性のままに暴れ狂うArhotztohraに次々と魂を破砕された。

 

何故制御できない、何故思い通りに動かぬのだ!

いやーん怒っちゃやーよ♡ ま、音楽性の違いってやつですかね

貴様本体の端末(メッセンジャー)か!

数だけは多いし反抗されるのもムカつくので死んでもらいます♡ 楽しい玩具は独り占めするに限りますよ

ありえん、ありえん……私が出し抜かれるなどぉおおおおおおおおおお――

 

 化身共が一致団結していたのは戦いが起こる前の話だ。

 

 協力する意味は無くなり、各々が欲望に従って争い始め――る暇もなく消滅していく。

 

ハハハハハハッハハハッハッハハハハハハ!! 所詮は化身風情、万年先も見えぬ盲目の白痴共にこの“這い寄る混沌”を欺けるものか!

 

 “混沌”でさえ慰撫し眠りをあやす本体――“世界の穴”に座するNyarlathotepの下へたどり着けば、Arhotztohraは正真正銘本物の操り人形(プレイヤー)と化す。

 

 この世の魂を薪の如く炉に焚べ、星を砕き神々を地に這わせ、Nyarlathotepの無聊(ぶりょう)を永遠に慰める玩具と成り果てるのだ。

 

 星から星へ、宇宙から宇宙へ、滅ぼし滅ぼしなお滅ぼして渡り無限に命を貪る意志無き神として、ArhotztohraはNyarlathotepに仕えるのだ。

 

 《真なる加速》の効果が途切れ、唯一残された銀髪褐色の化身は上半身だけを地面に横たえた。

 

 最後の化身は砂上からArhotztohraを見上げ、【憎悪の太陽】が呑み込まれて嚥下(えんげ)されていくのを見送る。

 

 光が消え、本当の夜が訪れた。

 

 暗闇の中でArhotztohraは甲高い遠吠えをあげ、九つの目を紅く爛々と輝かせて歩む。

 

 この先、決して明けない夜の到来を告げる、冷たい声。

 

 音は冬を告げる風に乗ってカオスゲートの跡地を吹き渡り、今も魔物によって荒らされている街に響き渡る。

 

密かに感情を乱し、判断を違わせ、選んだ運命は決して変えられない。お前が狂い憎悪に溺れるように、世界の破滅は覆らないのだ! そして私は選ぼう、Arhotztohraがあれば“混沌”とて殺せる宇宙すら掌握できる! 地球世界のNyarlathotepに好き勝手などさせぬわ! ハ――――ッハッハッハッハッハハハハハ!

 

 東へ、東へ、東へ。ひたすら東へArhotztohraは歩き始めた。

 

 朝日が登らぬ内に“世界の穴”へ到達する速度で。

 

絶望しろ、私の下へ来い、愛を与えよう……絶滅に至る激しい愛を! 飽きるまでお前で遊んでやるぞ、尽きない宇宙を巡り巡り巡って滅ぼし狂い、時間でさえも忘れる常闇を……私と共に旅しようじゃないか

 

 甘い囁きは無限の闇に消える。

 

 絶望の影は深く、深く、人々の頭上を覆っていった。

 

 

 

***

 

「お前がッ!」

 

 《テレポート・アウェイ》で強引に引き離されたペルティアは、人気のない路地で行く先のない言葉を叫んだ。

 

 彼女が今の事態を把握するのには少々の時間を要した。

 

「ここは……?」

 

 

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