※pixivにも掲載
タバスコを目に入れるとどーなると思う?
痛い。
食事に欠かせないタバスコだから、きっと体に欠かせないのだろう。ならば目薬を差すようにタバスコも目に差したら何かいいエフェクトがあるんじゃないかと期待しちゃったのがそもそもの間違いだった。っていうかどう考えても間違いだ。なんでこんなバカなこと思いついちゃったんだろう? 繊細な網膜に刺激物を入れるなんて……目薬も差したことないのに!
あたしが何をしたか――ここまで煽ればもう察しがつくだろう。そ、あたしはタバスコを左目に差した。ええ差しましたとも。タバスコを。3.6ccの赤い液体が目の表面を上滑りし頬を撫でて顎の線をなぞった。あ~。そして次の瞬間には現在から誕生まで遡って人生のすべてを後悔。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
耐えがたい激痛にあたしはアイドルであるとか女の子であるとかここが事務所であるとかそんなちゃちなことは忘れて激しく叫びのたうち回った。
だって、本当に痛いんだもん! 上から針を目に落としたような! ライターの火で目を炙ったような! 鋭い痛みがじんわりと染み込むように溶け込むように眼球全体に広がっていって、眼窩がそのもの痛みになってしまったみたいだ! 眼球が感覚神経で編み込まれてできているように感じる! ただ在るだけで痛い! いや在るということが痛いんだ!
両目特に左目からどばどばと生理的な涙が溢れてきて同時に鼻水も垂れる。涙と鼻水とが混じりあって出来た体液の通過したあたしの上唇がしょっぱい。涙を拭こうと目を擦って激痛「アアっ!」あたしはまた叫ぶ。痛い! ああ左目の周辺が腫れている! いまはどんなに軽微の刺激だって左目は受け入れてくれない。
ここであたしはようやく網膜の洗浄に思い至る。腰を折り曲げ目を触れない程度に軽く抑えた状態でふらふらと流しまで歩く。蛇口を捻り、流れる水に頭を突っ込んで上を向いて水流が左目にあたるよう向きを調整する。
「どうした! 何があった!?」ってさっきのあたしの絶叫を聞いて駆けつけたのだろうプロデューサーの声を背中で受け止めながら洗浄を続行。じゃばじゃばじゃば。
それから目を洗いながら事情を説明。慌てるプロデューサーの手配であたしは眼科を受診して、タバスコを目に差すなんて無茶をお医者さんに叱られた。もちろんプロデューサーのお叱りも受けた。
とゆーことがあって、それから左目に眼帯をあてた状態での生活が続く。アイドル活動はほぼほぼ休止。遠近感覚が狂っちゃったから、ライブは危険だしダンスレッスンもままならない。そういった諸々の事情を考慮されプロデューサーから自宅謹慎を言い渡されたのだ。そうなると毎日が暇で暇で、あたしは多くの時間を自宅でぼーっとしながら過ごすことになる。時々、何かの実験を行う以外には本当になんにもない。最低限の人間的営み。退屈だ。そうして退屈を紛らすための実験に熱が入る。今日はブルーベリーから抽出した匂いのエッセンスを脳みそが気持ちよ~くなっちゃう神経物質の生成を促すそれに変えちゃうって実験をしてる。つまりハイになっちゃう匂いを作ってるんだね。
エッセンスを薬品の入っているフラスコに入れ、撹拌棒でくるくるくる~。かき混ぜるのをやめると、フラスコをいったん机の上に置いて別の薬品の入った試験管を……あっ!
ガチャコン!
試験管目掛けて手を伸ばしたものの、例のごとく遠近感覚が掴めなくて失敗。そのさい袖が引っかかってフラスコ落下。お陀仏。あちゃ~。
あたしはかがんで、フラスコの破片を一個二個と拾っていく。いっこ、にーこ、さんこっ、よん…………あ、れ……なんか…………。
あー……なーんか、急に疲れちゃったにゃあ。
まだ集めている途中の破片を再び床に落として今度は散らばった破片と液体を片付ける気にもならない。はてしなくメンドクサイ。破片はともかく、液体の方は揮発性だから放っておいても勝手に蒸発するでしょ。
実験を中断して床のものを放置して寝室へ。そのままベッドに飛び込み沈む。
なーんにもやる気が起きないや。というか、刺激に対する感受性が失われたみたいだ。もしかすると最近あたしがあたしにかした枷のせいかもしれない。
あたしは現在、タバスコの失敗から学び妙な好奇心を抱くのを自制している。そもそも自制できないのが好奇心だけど、あたしのなかで好奇心=危険という図式ができあがっているからそのおかげでまあいまのところは自制に成功している。いや、そもそも好奇心というのは危険なもので、いままであたしはそれを度外視して行動していたわけで……うーん、やっぱり科学の発展に危険はつきものなんだね。好奇心は猫を殺すってゆーけど、やっぱり犠牲のありえない探求なんてそれが一番ありえない。あたしはいままでその好奇心に殺されない程度に遊べていて、運よく痛い目に遭ってなかっただけなんだ……。ま、どーでもいいや。そんなことを論じる気にもならない。
うつぶせの状態でぐぐぐ~っとのびをする。身体をひっくり返し、上体を起こしてあぐらをかく。
そこで電話が鳴った。
美嘉ちゃん。
「もしもーし」
「もしもし、志希ちゃん? 目は大丈夫?」
「にゃはっ、へーきへーき。こんくらいであたしは死んだりしませ~ん」
「ちょっとはしおらしくしてなさいよ。それだけのことやらかしたんだからね、まったく…………いま家?」
「そだよ~」
「そ。いま仕事が終わったとこだからさ、これから周子ちゃんを連れてそっち行ってもいい?」
「い~よ~、全然きてきて、ちょーどヒマだったしさ。ふたりが来てくれたらうれしいよ」
「わかった。じゃ、そっち行くね」
美嘉ちゃんは照れ臭かったのか、素っ気なさを意識した口調で返した。
「……あ、そだ、美嘉ちゃん美嘉ちゃん」あたしは唐突にギャグを思いついた。「こっちに来るならさ、ちょっとお使い頼まれてくんないかなぁ」
「ん? なんか買ってく?」
「うん、お願い~」
「何買えばいいわけ?」
「ぷ、プルトニウムっ」笑いをこらえながら言った。
でも結局こらえきれなくて、あたしは爆笑してしまう。
すると電話の向こうの美嘉ちゃんは冷ややかな声で言った。
「……馬鹿言ってないで、頭冷やしなさいよ」
「――え?」
ぷつんと電話が切れた。つー、つー、つー、つー。
あれぇ、おっかしいなあ。アインシュタインが写真機を前にしてもうっかりにっこりできる爆笑ギャグだと思ったんだけど……美嘉ちゃんはお気に召さなかったみたいだ。ウランって言った方がウケたかな?
ま、そんなこともあるか。誰もがおなかを抱えて笑っちゃうような奇跡のギャグなんて存在しないし、あたしはコメディアンじゃない。
さて、美嘉ちゃんと周子ちゃんが来るまでのあいだは暇ダナ。
することないし本でも読もっかな~。最近あんまり読めてなかったし。ちょうど気になってる分野の入門書を買ってたんだけどずっと放置してたんだよね。たしかAIについて書かれた本で、「AIにココロを持たせられないのはそもそも人間がココロを理解していないからで、理解していない仕組みをどうやって機械に施すのか? 人工知能の発展には脳科学や哲学への理解がなければいけないのである」というとてもとても興味をそそられる話で、あたしはこれを読むのをワクワクし、て…………って、あれ、嘘……。なんでだろ、全然ワクワクしない……。本棚に近寄ろうとベッドから浮かしていた腰が沈む。
あのときはあんなにワクワクしていたあらすじに、いまではなんの興味もわかない。知りたいという欲求が芽生えない。なんでだろーか。
…………いや、わかってる。わかってるんだけど、まさか、これほどとは……。
あたしが知りたいと思いそう感じる欲求は好奇心とつながっているのだ。
当たり前のことだけど、それを捨てるということは、知りたいという気持ちを捨てるのと同義で。
あたしは未知を怖がってワクワクを捨ててしまったんだ。
ふたりが来るまでのあいだ、あたしはベッドで仰向けになって、空を拳銃の先でなぞるようにして適当な化学式を書いてた。
この拳銃はアメリカから持ち帰ってきたお土産のひとつだ。べつに拳銃そのものに強い興味があるわけじゃないけど、なんでなんだろうね、なんとなく持ってきてしまった。まあ持ってくるのにはなんとなくじゃあ済まされない苦労があったけどさ。そこまでして持ってきたのだから、たぶん、あたしのなかで何か特別な意味があるのだろう。定期的な手入れも忘れないし。
あ、もしかしたらその手入れが好きなのかもしれない。好きというか、暇つぶしにもってこい? たしかに手遊びにうってつけではある。主に実験前に、指先の感覚を確かめるために触ってたりする。たぶん、そういうことなんだろう。
ようやっとこの拳銃の意味がわかって、あたしはすっきり感に包まれる。
そうやって時間をつぶしていたら、りんろーんって玄関のチャイムが鳴った。リモコンのボタンを押すと、「おーこれ喋っていいのー?」って周子ちゃんの声。「聞こえるよー」って返すと「おおーハイテクだなー」と感心したご様子。そういや周子ちゃんは初めてなんだっけ。あたしはベッドから飛び降りて玄関に向かいながら別のボタンを押す。それで「もう開いてるよー」って声をかける。お邪魔しまーすとふたり分の声。あっと、拳銃を仕舞わなくちゃ。あたしは寝室を出てすぐのところにある棚に拳銃を隠す。あたしがふたりを迎えるときには、ふたりは玄関に入っていてそれぞれスリッパを履くところだった。
「やっほ~お久しぶり~」
「おひさ~、元気してた? ……って、訊くまでもないか」
「その白衣に眼帯って……なんかめちゃくちゃ似合ってるわー、悪の女化学者って感じ」
「そーそー、実はふたりを実験台にするために呼び込んだんだぞお」
「やーんこわーい、あたしだけは食べんといてー」
「……ほんと、よくやるわね」
美嘉ちゃんはいつも通りの呆れ顔。
「まーこんなところでいつまでも立ち話を続けるのもナンだしね、ささ、どーぞこちらへ」
ふたりをリビングに通す。
ところで、あたしの家は大きな円形になっていて、その大部分が中央の実験室にあてがわれている。構造としては、でっかい実験室を円く縁取るように各部屋が備え付けられている形だ。だから、リビング、寝室、トイレ、キッチンなどなど、どこかの部屋へ行く際は必ず実験室を中継しなければならない。
もちろんふたりをリビングに通すのにも実験室を経由する。
実験室の形に合わせた曲線の長卓に沿って歩いていると、人工気象機やガスクロマトグラフなんかを見た周子ちゃんが「本当に研究室なんだな~」って言った。
「もちろんだよ。雰囲気だけのパチモン実験室でも想像してた?」
「正直」と頷く周子ちゃんは本当に正直だった。
リビングには真っ赤な皮のふかふかソファと人ひとりらく~にできるアームチェアがある。もしかしたらアームチェアのが好きかもしれないけど、アームチェアが一脚しかないからふたりにはソファに座ってもらった。窮屈そうなふたり。そしてあたしはと言うと、悠々自適とふたりが座るソファに落ち着いたのだった。周子ちゃんと美嘉ちゃんとあたしとで三人、二人用のソファに仲良く並んだとさ。
「……何か違う気がする」
とは美嘉ちゃん。
「まー仲良くていいんじゃない?」
とは周子ちゃん。
「そーそー、仲良きことは美しきかな」
とはあたしがたったいま点けたテレビ。
に映ったフレちゃん。お題を伏せてモノマネをする芸人を見てなんのモノマネをしているのか当てている。
「あ、フレちゃんだ。やっほ~」「いまフレちゃんあたしの言葉に反応したよね。これ、見られてるわ~」「見る側と見られる側の関係の逆転! 浮き彫りにされるアイデンティティの問題!」「志希ちゃんが何言ってるのかアタシよくわかんなくなってきた」あたしも自分で言っててわかんないからね。まー志希ちゃんはテキトーだし。ねえ、いまの周子ちゃんに言われちゃっていいの?それ、どうゆう意味?周子ちゃんもテキトーって意味じゃない?ま、そりゃそうだ。フレーフレーフレデリカー♪……これって生放送かな?収録じゃないの?そっかー、生放送だったら電話かけようと思ったんだけど……。それ面白そうだね。いや、やらないでよ? 生放送でも。あれ? それって……。もしかして……。たらこスパゲティのモノマネかな?フリってやつですかー?違うわよ! フリとかじゃないからね! マジで!え?それは……。だから、フリじゃない!
にゃはは。
んーやっぱり誰かと一緒にいるのはいいね。すっごく楽しい。ひとりでいるときはこうもいかないや。だって、咳をしても一人ってとってもとっても寂しいでしょ?
そこであたしは、唐突にあることを思いつく。そしてそれをどうしても実行してみたくなってそわそわする。あたしがそれをしたときのふたりの反応が気になって気になってしょうがない。
もしもあたしがあんなことをしたら、ふたりはどんな顔をするかな?
あまり深く考えず、あたしは湧き上がる意思のままに行動した。
「あっ、」
と、まずは手始めに声を上げた。
ふたりがあたしを見る。その表情はまだきょとんとしていて、危機感なんてまるでない。
「どした?」
あたしの隣の周子ちゃんが声をかけた。
眼帯を押さえて、
「目が染みるっ」
そこでようやくふたりが目を丸くして、美嘉ちゃんはソファから立ち上がった。
「えっ! それ大丈夫なの」
「ごめ……ちょっときつ……いっ! いった!」
「目ぇ洗った方がいいんじゃない?」周子ちゃんが背中に手を回す。
そこであたしはすかさず叫んだ。
「あああああああっ! 痛い!痛い!痛い!痛い!」
「志希ちゃん!?」
「痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!」
「これやばいよ! 流しは――」
周子ちゃんがソファから腰を浮かせたところで、
「――なーんちゃって」
「え?」
ふたりの声が重なって面白かった。
あたしは眼帯を押さえていた両手を〈いないいないばあ〉の形で広げてみせた。
リビングはのっぺりとした静寂に包まれる。その静寂をあたしは半笑いで破る。
「にゃはっ、ギャグだよ~ギャグ。びっくりした?」
なんておどけた。でも誰も笑わないし、何も言わない。おっかしいなあ、けっこう面白い自虐ネタだと思ったんだけど。
四秒くらいの間があって、美嘉ちゃんがさっと背中を見せた。
「帰る」と言ってリビングを出る。
「美嘉ちゃん」周子ちゃんがあとを追うが、去り際、こちらを振り返って「おかしいなぁ。志希ちゃんってそんな悪趣味だっけ?」という言葉を残す。
「…………」
ああ、そっか。
ここ最近、あたしが何に対しても熱を持てなかったことの真相がわかった。あたしは好奇心を失ってしまったことが原因なのだと思い込んでいたけど、むしろ逆だったんだ。
実際のところは、ただ、そんじょそこらの刺激じゃ満足できなくなっていただけなんだ。
あたしはただ強い刺激を強い刺激をとそればっかり求める猿で。
本当は、過激が欲しいだけなんだ。
「待って、美嘉ちゃんー」と美嘉ちゃんを追いかける周子ちゃんの声が聞こえてあたしは我に返った。
何を立ち尽くしているんだ、あたし。追わなきゃ。
とりあえずあたしも美嘉ちゃんのあとを追いかけた。
実験室に入ると、美嘉ちゃんはもう玄関付近にいて、あたしは美嘉ちゃんを呼ぶのに少し声を張る。
「美嘉ちゃん、ごめん、待って!」
無視されるかと思ったけど、存外美嘉ちゃんはあたしの話を聞くつもりがあるみたいで、立ち止まった。さらに「美嘉ちゃん」と呼びかけると、あたしの方を向いた。
よかった。何も聞いてくれないのかと思った……でも美嘉ちゃんがあたしの言葉に耳を貸してくれるのはほんの少しのあいだだけかもしれない。美嘉ちゃんが話を聞いてくれるうちに何か言わなきゃ。なのに、そう思いながらあたしはどうしてもギャグを考えている。こんなときに何を考えているんだ、あたし!
しかし次の瞬間にはあたしが何を言うかはどうでもよくなる。
ちょっと視線を下げた美嘉ちゃんが目を大きく見開いて叫んだからだ。
「ちょっとそこ! 志希ちゃん! 踏んでる踏んでる! 破片!」
「え?」
美嘉ちゃんの指さす方向――足元を見ると、ガラス製の何かが砕け散らばった跡があった。でも心当たりがない。あたし何かしたっけ。
…………あっ、そうだった。さっきフラスコ落っことしたんだっけか。や~、忘れてた。危ない危ない。ふたりが踏んでたら大変なことになってたよ。ふたりはスリッパだけど。
「ちょっと志希ちゃん、大丈夫なの?」
近くにいた周子ちゃんがあたしの腕を引っ張って抱き留め、いつになく真剣な調子で言う。
「うん、ダイジョブダイジョブ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「え~っとほうきは……っていうかなんで破片片づけないのよ~!」
「ちょっと見せて」と周子ちゃんがあたしの脚をつかんで上げる。足をひっくり返して裏を見る。「やっぱり大丈夫じゃないじゃん!」
まあ、案の定というか、足の裏にはフラスコの破片が刺さっていて、血が滲んでいた。いや、滲んでるっていうか、溢れてボタボタ垂れてるけど。けっこう深く刺さっていたらしい。
「へーきだって、これくらいで大げさだなあ」
「そりゃ心配もするよ! だって、めっちゃ痛そうだし、なんかいまの志希ちゃんおかしいし」
でも、本当に大丈夫なんだ。
「うわっ! 志希ちゃんすっごい血ぃ出てんじゃん!? 消毒しないと……」ほうきの代用としてノートを持ってきた美嘉ちゃんが叫んだ。
今度は慌ただしい動きで消毒液を探しに行く。忙しい子だなあ。
「とにかく、大人しくしといて」周子ちゃんが手近な椅子を引いてあたしを座らせる。「ほら、足浮かせて」
言われるまま足を浮かして床を踏まないようにする。
周子ちゃんが屈んであたしの足をとり、傷口を
「うわ、両足かー。しかも結構ひどいなぁ……痛くないん?」かなり痛々しいようで、周子ちゃんは顔をしかめている。
「ねえー! 救急箱どこなのぉ!」
「寝室に一番近い棚のとこぉー! ……うん、べつにそんな痛くはないよ」
「それはそれでだめかもなぁ」
「でも痛くないよ?」そう言うと、周子ちゃんはあたしの両肩に左右の手を置き、鋭く射抜くような眼差しでじっと瞳を見つめた。
「志希ちゃんがいまどう考えてるかあたしにはさっぱりだけどさ、少なくともそれ、傍目に見る分にはめちゃめちゃ痛々しいんだよ」
続けて、たぶん本質的な何かを指摘するようなことを言う。
「痛みに無自覚なのか、それとも本当に痛くないのかはともかく、その傷口が傍目に見て痛々しいってことは、志希ちゃんが思っている以上に周囲を傷つけるし、たぶん、志希ちゃん自身も傷ついてるってことなんだよ」
それから、何も言えないあたしを置いて、119番に電話をかけた。
そんな周子ちゃんを見ながら、あたしはどうしようもなくギャグを考えていた。いまここでギャグを言ったら、周子ちゃんはどんな反応をするんだろう。
「救急車呼んだからね。とりあえず応急処置はこっちでやるけど、あとは病院の人に任せるよ」
そう言ってさっき美嘉ちゃんがやろうとしていた破片の片付けをおこなう。
そのとき、寝室の方向から美嘉ちゃんが叫んだ。
「ねぇー、これなにいー?」
これ?
とあたしの頭ははてなマークでいっぱいになる。たしか美嘉ちゃんが探っているのは寝室付近の棚で、そこには救急箱の他に……あっ!
拳銃!
そうだった! さっきあの棚に拳銃を仕舞っていたんだった!
まずい、このままじゃあ美嘉ちゃんにあの拳銃がバレちゃう! いや、美嘉ちゃんの言う「これ」が拳銃を指しているのだとしたらすでにバレていると考えた方がいいだろう。
痛みなんてまるで感じないのに美嘉ちゃんに拳銃の所持がバレたと思った途端全身が冷たくなっていって舌先に苦いのが広がった。身体に鈍い感覚がやってくる。あたしが拳銃を持ってることを知ったらふたりはきっとあたしを軽蔑するだろう。きっとあたしを怖がるだろう。いやだ。失望されたくない。
呼吸が荒くなって上手く思考できなくなる。
「志希ちゃん?」と声をかける周子ちゃんに反応もできない。
ただ黙っていると美嘉ちゃんがやってくる気配がした。その一歩一歩があたしに対する死刑宣告のように響く。いまこの瞬間ばかりは美嘉ちゃんに来ないで欲しいと心の底から思った。本当に。だけど現実は非情であたしのそんな思いに
周子ちゃんが片付けを済ませたところで美嘉ちゃんはやって来た。
見たくない。知りたくない。起こって欲しくない。だから目をそらす。だけど美嘉ちゃんは「これなんだけど――」とあたしが逃げるのを許さない。
あたしは心臓をバクバクさせながら美嘉ちゃんと向き合う。見たくもないのに、自然、視線が手元に吸い寄せられる。
その手には――救急箱が。
……あれ?
あたしがきょとんとしていると、美嘉ちゃんが不安そうにして「ほら、救急箱持ってきたよ。……これであってるよね?」と言う。
それで得心がいく。
ああ、そっか、あたしの救急箱がちょっと変わった形状をしていたから、美嘉ちゃんはそれが救急箱なのだという確信が持てなくてあんな風に訊ねたんだ。拳銃を見つけたわけじゃなかったんだね。
はあ~。
安堵で笑ってしまう。「え、違った?」と慌てる美嘉ちゃんに、笑いながら首を横に振る。
「うんにゃ、あってるあってる」
「じゃあなんで笑ってるのよ」と文句を言いながら救急箱を開ける美嘉ちゃん。中を見て「あれ、消毒液は!?」と悲鳴みたいな声を上げた。
「だってあれかけたら傷の治り遅いじゃん。だからいらなーい」
「え、そうなの?」
「そういやテレビで観たことあるなー。なんか、消毒液はいい細胞まで殺しちゃうし、ガーゼは傷を乾かしちゃうからよくないって」
「そーそー」
「じゃあどうしたらいいわけ?」
「水でじゃばじゃばしたあとこれ貼って」創傷被覆材をとる。
「絆創膏ね。バスルームどこ?」
「あっち」
「じゃー『せーの』で持ち上げよっか…………せーーのっ」
あたしは椅子ごと浮いてその感覚がなんだか面白かったから足をバタバタさせると美嘉ちゃんが「コラ」って叱った。しゅん……。
魔法の椅子に運ばれてついたのはバスルーム。シャワーの冷水を足の裏に当てる。タイルの床を赤黒く染まった流水が汚す。きれいに洗浄して、創傷被覆材を足の裏に貼っつける。
そんな処置を受けながら、あたしはさっきの周子ちゃんの話を蒸し返した。
「周子ちゃん、さっきの話なんだけどさ」
「うん?」
「痛々しさが目に見えてわかるような傷口がなくてさ、でも本当は痛いときって、どうしたらいいんだろ?」
「痛いー! って叫べばいいんじゃないの?」
「でもそれをすると周りの人たちはドン引きしちゃって近寄らなくなっちゃうんだよ」
「いまのケガと関係あるのかわかんないけど、志希ちゃんは違うでしょ」美嘉ちゃんが話に入ってくる。「志希ちゃんが痛いって叫んだら駆けつけてくれる人が周りにたくさんいるじゃん」
「…………」でも、
「少なくとも、アタシはドン引きしたりしないけどな」
…………。
そっか。
「うー……ん、そう……だ、ね。そうだね。こうしてあたしのピンチを本気で心配してくれる美嘉ちゃんや周子ちゃんもいるわけだしね。あたしは仲間に恵まれてるんだなー。にゃはは」
あたしのちょいと歯の浮くセリフに美嘉ちゃんがそっぽを向く。それを周子ちゃんがからかってあたしが笑う。
そーこーしているうちにどこからかサイレンの音が近づいてきて、家に救急隊員のお兄さま方が駆けつけてきた。担架に乗せられ、病院に運ばれる。
それから一週間が経って、五月二十五日の水曜日。
傷はだいたい治っていたけど、患部が足の裏なだけにあまり歩き回ったりするなってことを言われていたため、あたしは一日の大半を自宅のベッドで過ごしていた。車椅子もあるけれど(大げさだよね)、面倒で乗ろうって気にならない。ベッドの上で本を読んでも、あんまり面白くなくて数行目を通しただけで読書を中断してしまう。
退屈というか、憂鬱で、大きなため息が出る。はあ。
そのときだった。
あたしは突然あることを思いつき、それを試してみたくなってうずうずする。そしてそのうずうずは胸を熱さで焦らしていき、熱気はもっともっと全身へと広がる。
もしもあたしがあんなことをしたら、フレちゃんはどんな反応をするだろう?
あたしはフレちゃんに電話をかける。フレちゃんはスリーコールで出た。
「こちら宮本バンクです。おかけになった電話は、現在電波の届かないところにあるか、電源が入っていないためお繋ぎできません。ざーんねんっ!」
「え~、じゃあ留守番電話おねがーい」
「ピーー、のあとにトーク! イエー! ピーーーッ!」
「がはっ……フレ……ちゃん……オレは、もうダメだ……うっ、最後にフレちゃんとお話したかったけど、いない……みたいだから、留守番電話に……メッセージを残すぜ……」
「えっ!? シキちゃん死んじゃやだよ! 月イチの全品半額セールの日に限ってどかちゃんラーメンに行ってそこのラーメン全部制覇するまで死ねないって言ってたじゃん!」
あたしそんな設定あったのか。いつもながらのフレちゃんトークは、実のところけっこー久しぶりだから面食らう。でもまあ急な追加設定なんかどんとこいだ。女優のあたしならどんな難題にも対応できる。
仮にあたしとフレちゃんが三秒後に魔王と勇者の関係になっていたとしても対応できるし、実は一時間後に隕石が落ちて地球が終わるって設定でも対応できる。実際はあんまり知らない子と仲良しって設定を急に付け加えられても対応できるし、なんならあたしは一ノ瀬志希じゃなかったって設定でも対応できるよ。
「え、ど、どかちゃんラーメン? あ、あーそうだねーどかちゃんラーメンがねー……あははっ」
対応できた。
「シキちゃん今日は調子悪いね……まだ入院中だからかな」
「うん、そうかもしれない。自宅のベッドで横になっていることを入院と言うのなら……」
「そっかー、早く退院できるといいねー」
「ありがとー、早く退院できるよう頑張るねー」
「フレ―フレーフレデリカ―!」
「まさかの人物逆転トリック! そう、実はアタシはフレデリカだった……」
「ええっ!? フレちゃんがふたり!? あわわ……フレちゃんが三人……フレちゃんが四人……フレちゃんが五人……」
「……ぐう」
「シキちゃん起きて起きてー、電話代大変なことになっちゃう」
わりと切実な声だった。
「あーごめんごめん、〈フレちゃん〉ってフレーズが〈sleep〉とかかってたから……」
「わーおすごいミラクル~☆ どこがスリープと似てたんだろ?」
「で、フレちゃんの用件はなんなの?」
「そーそー実はねー、こんな用事で電話をかけたんだけど……あれ?」
「どーかしたー?」
「いやーそういえばなんでシキちゃんに電話かけたのか忘れちゃって~」
「にゃはは、フレちゃんったらお茶目だね~」
「てへへ、アタシってばお茶目番長だね~」
「死にたー」
「……え?」
フレちゃんの乾いた声。
と、あたしはここで最強に面白い爆笑ギャグを思いついた。一世一代の、まさしく全身全霊をかけた渾身のギャグだ。
「ふふっ、ねーねーフレちゃん」
「えっと、ナニかなーシキちゃん。あのね、アタシ、今度予定を開けて――」
「あのねっ、ふ、実はあたし……ふふっ、さっきベッドに……タバスコ……ふふふっ、ぶちまけ、あは――ふ、ぶちまけ、ふふっ、ふ……あはははははははははっ! タバスコ、あは、タバスコぶちまけちゃったの! あはっ、あははははははは!」
これからすることと併せて、あまりにも面白すぎるから堪えられなくて笑ってしまう。
そして一瞬の乾いた空気ののち、安堵したような声が向こうから聞こえてきた。
「…………え? あー、なーんだ、そっか、タバスコかぁ~♪ そっかぁ。シキちゃんも懲りないね~、こないだ――」
フレちゃんが何か言いかけているのを最後まで聞くことなく、あたしはこめかみを拳銃で撃ち抜いた。