※pixivにも掲載
普通なら絶対にありえない位置に立っていると、いつもとはまったく違った景色が見えるものなのかと私は感動していた。
視点が変わると、見え方がここまで違うのか。
視野いっぱいに広がる空は青くて、どこまでも果てしなく続いているようだ。建築物の頂点が視界を小さく見切れている。グラウンドから響く喚声はいつもと変わらない。吹く風の冷たさも変わらない。同じく目に映るそれも変わらないはずなのに!
さて。
ここは学校の屋上、その端。後ろ手に掴んだ欄干から手を放し、体重をすべて前方に委ねれば私の命はものの数秒で散る。
あっけなく死ぬ。
地面のシミになる。
誰かの記憶になる。
そして忘れられる。
人は死ねばどうなるのか、それともどうならないのかに私はとても興味があった。
今日こそ――今日こそ私の生涯における命題が解き明かされる。
そのせいか、テンションはウキウキうなぎ登り。青空に向かってスキップしたい気分だった。
そうだ! 前のめりに倒れるんじゃ面白くない。大空に向かって羽ばたくつもりで、スキップするみたいにここから跳ぼう。ちょうど『時をかける少女』みたいな感じだ。
準備も整ったところだし――というか整える準備なんてないけど――跳ぼうか。
ぐっと、脚に力を入れて……
「落ちちゃうの?」
「へぶっ!?」
あまりの驚きにずっこけて死ぬところだった。死因は屋上でずっこけたから……なんて絶対嫌だ。
必死になって(死のうとしていた人間が咄嗟に生きようともがくのを必死と表現するなんて皮肉だよね)欄干を握る手の力を強める。
幸い、体勢は安定した。
「し、死ぬかと思った――っ」
「……死のうとしてたんじゃないの?」
「…………」
……いや。
その通りだけど。
なんともいたたまれない気分で、私は後ろを振り返る。
赤みがかったブラウンの髪をふわっとさせた、制服の着こなしがゆる~い女の子が立っていた。
誰だろ?
「誰だろ~って匂いがしてるねー。でもどんなに考えたってわかんないと思うよ?」
記憶の引き出しをまさぐっていると、その子が言った。でもそう言われると、逆に誰なのかどうしても自分の力のみで言い当てたくなってしまう。
まあ、私ってば小学生の時から引き出しの中がぐちゃぐちゃでさ、学期末の大清掃で笑い物にされていたタイプだから、すぐには出てこないだろうけどね。
「あ、ムキになった匂い。じゃー考えてみてよ。どうせわかんないけど」
その子はいかにも適当な感じで促した。
言われなくたって考えるさ!
私ってばコンビニとかでおつりの計算結果をレジより早く出すのに専念しているタイプなんだぞ! これで結構正答率高いんだぜ(ふふん)。
この子の名前だってちょっと考えれば出てくるハズ。
うーん、うーん。
うーーーーん……。
そうして一分ほどが経った。
けど、わからん! この子が誰なのかまったく出てこない!
「ダメだ。わからん……」
「そりゃ転入生なんだからそうだろうね」
うわ、死にたい。
なんだよ、転入生なんてわかるわけないじゃんか。いまの時間なんだったんだよ。
いやわかるわけないってあっちはさんざん言っていたし、勝手にムキになったのも私なんだけどさ。
「死にたい……」
「……死のうとしてるんじゃないの?」
「…………」
……いや、
その通りだけどね!
「あたし的には、わかるはずもないあたしのことなぜか言い当てちゃうミラクルとか期待してたんだけどねー。ま、そんなのありえないか。うん。あたし一ノ瀬志希ね、よろしく~パツキンちゃん」
一ノ瀬さんは欄干越しに手を伸ばして握手を求めてきたけど、私は応えない。握手は汚いから嫌いだ。
たいして気にした風もなく手を引っ込めて、一ノ瀬さんは、この世の何がそんなに面白いのか、楽しげな表情で切り出した。
「ねえねえ、ところでさー」
「ん?」
「キミっていま死のうとしてるんだよね?」
「え、さっきの漫才まだ蒸し返すの?」
三回も天丼できるほど強いネタじゃないと思うんだけどな……。私が無言なのがいけなかったのだろうか。
「いやいや、そうじゃなくて! ただの確認だよ、か・く・に・ん」
っていうかあれ漫才だったんだとかつぶやく一ノ瀬さんに、私は「そうだよ」とだけ答える。
「えっ、ホントに漫才だったの?」
「違う違う! 死のうとしてた方!」
「ああ、そっち? ああ。……あー、…………っぷ、あは、はははは! あはっ! いーね、キミ面白いね~! あっはははは!」
一ノ瀬さんは今のやりとりがツボに入ったらしく、お腹を抱えて笑いだした。
「あはははっ! あははっ! あはっ、ひぃ~!」
……しかし、長いな。
「あはははははは!」
…………。
「おかしっ! あはっ! あはは!」
いーち、にーい、さーん、しーい……
「はぁー、ふっ、はぁーー……えーと、なんの話だっけ?」
……にじゅーさん――はい、一ノ瀬さんが落ち着くまでに二十三秒かかりました。
とか考えてたら一ノ瀬さんの言葉を聞き逃した。
「え?」
「なんの話だったっけ」
「なんの話? ……ああ、死のうとしてるって話じゃなかった?」
「あー!そうだったそうだった! そうそう、キミさ、もしここから飛び降りて死ぬつもりなら、ちょっと待ってくれない?」
説教か?
身構えたが、どうやら違うみたいだ。
一ノ瀬さんは、私がそうしたように欄干を乗りこえて、隣に並んだ。欄干を後ろ手に握ったまましゃがみ込む。そして口を開いた。
「あのね、あたし趣味で化学実験とかやってるんだけど――」化学実験!「――もしよかったらそのお手伝いをしてくれないかなあ。こないだまであたしアメリカにいてまーいろいろやってたんだけどさ、死にたてほやほやの死体とか見たことなくてねー。前はそんなじゃなかったんだけど、最近すごく興味がわいてきててさ、一回実験に使ってみたいんだけど、だからって人を殺すのは違くて……」
一ノ瀬さんはそこで言葉を切ると、いままでとも違う嫌ににっこりした笑顔で私をじーっと見つめた。
「そんなこんなしているところに都合よくキミが現れた! いまならまだ転入生のあたしとキミに接点なんてないからさ、キミがこつ然と姿を消したところで誰もあたしのこと疑わないでしょ?」
ここらで鈍い私にも言わんとすることがわかってきた。
つまり……。
「私に実験台になれと?」
「そーそー、キミの死体を拝借してもいいかなっ」
「普通にめっちゃイヤなんですけど……」
即答。
一瞬たりとも迷いの余地がない。
だって自分の死体を他人に弄り回されるなんて嫌じゃんか。
しかしこの一ノ瀬さんとやらは常人の枠内にいないようで、はっきり拒絶すると、不思議そうにした。
「えー? なんでなんで?」
「なんでって……普通嫌でしょ……」
「どうせ死ぬのに?」
うわ、結構きついこと言ってくれるなこの人。
それ言ったら全部おしまいだろ。
「あ、わかった。キミ、死後の世界とか信じてるタイプだ」
「べつに信じてないよ」
「あー、じゃああっちのタイプか」
「あっちって?」
「死後の世界とか信じてませーんってニヒリスティックに振る舞いながら、漠然と続きを想像しちゃってるタイプ」
あー。
本当にきついこと言ってくれるなこの人……。
でもそれはたしかにその通りかもしれない。
どうしても終わりってなかなか想像できなくてさ、死んだら終わりと言葉では言いながら漠然とその続きとかイメージしちゃってるんだ。
その最たる例が死ねば解放されるというカンチガイ。私もそういうとこあるけどさ、そもそも死んじゃったら解放されたと感じる自分が存在しなくなるわけだから、死によって安らぎだのなんだのを希求するのはお門違いなのだ。想像できないという想像に至るまでの想像力が、奴さんらにはないらしい。
まあ、変な想像力を持つくらいなら、私はむしろ適度にばかで冗談ばっかで毎日が楽しくてファッションにうつつを抜かしているいかにも女子な人生のがよっぽどうらやましいけどね。
だけど、いまはそのことは関係ない。
「それはそうかもしれないけど、関係ないよ。いま、私が、嫌なの」
「ふうん? 死んだ後の話なんだし、いまなんてそれこそ関係ないと思うんだけど」
ああ、わかった。こいつ五億年ボタン押す派だな。五億年過ごす自分と過ごした後の自分は別人とか言って。私は押さない派なんだよ。それがあんたと私の違いだね。この低脳め。
「まあそこは感性の違いか……」
「わかってるじゃん」
「でもなー、実験したいんだよー。んー……あ、そうだ!」
「何さ。言っとくけど、取り付く島なんてないよ」
「いやいや、どうぞどうぞ、好きなタイミングでここから飛び降りてください。あたしあなたに何もしませんから」
平気で嘘をつくな。
「いや、さっきの『そうだ!』って台詞聞いて信じる人いないでしょ」
「ああ、しまった!」
一ノ瀬さんは頭を抱えた。といっても片手はきっちり欄干を握っているのだが。
この人、本当にしまったと思っているのだろうか。わざとやってるんじゃないだろうか。
一体全体何が目的なのだろう。
なんとなく怪しいものを感じて、欄干をこえ安全圏にもどった。私と一ノ瀬さんの立ち位置が最初と逆転する。
「ありゃ、警戒されちゃったか」
「そりゃそうだよ。出し抜けにあんたの死体で実験したいって言われたんだから」
「にゃははっ」
一ノ瀬さんは猫みたいに笑った。
笑って、
「でもね、本気だよ」
「……」
「キミが死んだとき、あたし絶対にキミのこと実験に使っちゃうから。だからね、死にたくなったらいつでも死んでいいんだよ。その方があたしにとって好都合だし」
「……いや、勝手に決めないでよ。本気出さないでよ」
不思議だなぁ。そんな風に死んでくださいって人に言われちゃうと、「誰が死んでやるかよ!」って反抗したくなっちゃうんだ。私ってばムキになりやすくて負けず嫌いなんだから。全然不思議じゃなかったや。
「ム~ダ! キミがなんて言おうとあたしはもう決めたし。幽霊になって出てこない限り、死んだキミにあたしを止めることはできない。そだ、いまから生前の観察記録とっとこ~」
一ノ瀬さんはブレザーの胸ポケットからメモとペンを取り出して、そこにものを書き込んだ。「よし」
満足すると道具をもとのところに仕舞う。
「まあ、そんなわけだから、改めてよろしくね、被験者クン――」
言いながら立ち上がる。その拍子に、差し込みが浅かったのだろう、胸ポケットからペンが落っこちた。「――あっ――」一ノ瀬さんは、たぶん、そこが欄干をこえた不安定な場所だということを忘れていたんだと思う。落っこちたペンをつい空中で取ろうとして、バランスを崩した。
そのまま落ちていく。
「あっ!」これは私の声だ。
目の前でいまにも落ちようとする一ノ瀬さん。
ここから落ちれば十中八九助からないだろう。
でも、こんなときに頭が働かない。
真っ白。
目の前でいまにも落ちようとする一ノ瀬さん。
私は――
「ダメだよ」
私は――咄嗟に一ノ瀬さんの手を取っていた。
絶対離さないように、強く強く握る。
「死んじゃ、ダメだよ」
一ノ瀬さんは目をいっぱいに見開いて、それは全然猫みたいではなかったけど、笑った。
「――そうだね」
……なんて、今日の私と一ノ瀬さんとのやり取りをトリミングするとして、ここらへんで切ったらなんかうまい具合に締まったんだろうな~って雰囲気になった私たちなんだけど、べつに締まらない。若造の意見を言わせてもらえば、人生ってのは生きてる限りは締まることなんてないし、死んだって、締まるかどうか。
とりあえず今日、私は続く。
「あっ……ああぅ……」
「どうしたの? 腕痛い?」
「てっ、手汗がっ……」
「なんだ、そっちか」
そっちかじゃねえんだよ!
こっちは死ぬほど気にしてんだからな!
私は一ノ瀬さんを引き上げた。
それから、一ノ瀬さんは欄干をこえて元の位置にもどると、「あ~死ぬかと思った~」なんて大して動じもせずに言った。
「こんなつまんないことで死んだらダメだよ」私はスカートで手のひらをぬぐいながら言う。
「そだね~、うん、ありがと」
そこでお昼休み終了五分前のチャイムが鳴る。
「あ、休み時間終わっちゃうね。ふたりで授業サボっちゃおうか?」
「いや、サボるならひとりでサボってよ」
私は一回も授業をサボったことがないんだ。
「つれないな~あたしの被験者クンは」
「だから、」
言いかけて、口をつぐむ。
そういえばまだ名乗ってなかったのを思い出したからだ。
私は、ちょっと迷って遅めの自己紹介をおこなう。
「私の名前はフレデリカだよ、被験者クンじゃないからね」