人類の夜明け
―― 生命の火 ――
その生命達は、初めて見る未知の物体に恐怖した。
今までに見た事のない形、熱、そして光。天から落ちた一瞬の輝きの中で、それは蠢いていたのだ。
大木を真っ二つに裂いた輝きは幸運にも彼らの命を奪いはしなかったが、住処であった大木は未知の物体に包み込まれてその形を失いかけている。
やがて彼らの内で最も勇気のある一匹が、その物体を掴もうとした。彼の手は大木のように裂けはしなかったが、一瞬の内に手に生えていた毛は焼け、激痛だけが残った。
彼は絶叫し、走って逃げだした。それを見た他の仲間も驚いて、散り散りに逃げ出していった。
「グァハ!キキッー!!!」
「オッー!オッー!」
彼らは、まだ意味を持たない鳴き声を上ながら森の中へと走る。
だが、彼らの中で一匹だけ、逃げない者がいた。
「キ……」
逃げぬ者は近くに落ちていた木の枝を取り、そして未知の物体へと恐る恐る近付けた。
光と熱が、優しく枝に移っていく。そこに痛みは無かった。
「キキッ」
逃げなかった者は、この光と熱が自分たちの何かを変えてくれるものだと信じ、小さな『火』を灯した枝を大事そうに抱えた。
そして彼は、逃げていった仲間の元へ戻って行った。
全て――これから始まる物語は、全てここから始まったのだ。
―― 世界の水 ――
生まれてから一度も感じた事のない力を、彼は実感していた。
鋼鉄のカプセルに閉じ込められ、全身を押し潰し血液を滞らせるような力。緊張と恐怖が一気に彼を襲った。彼がこの時にパニックに陥らなかったのは、辛うじて見える窓から青い空と白い雲が見えた事と、今この瞬間が一生に一度の稀有な体験に違いないと理解したからだ。
しかし、やがて青い空も白い雲も見えなくなっていく。それらに代わるように現れたのは、漆黒の闇と今までにない静寂であった。
やがて自身を閉じ込めているカプセルがゆっくりと回転し始める。同時に、先ほどまでに自身を押しつぶそうとしていた力が消え失せる。
彼の未熟な思考では、現在の状況の全てを認識することは出来ない。あるがままの全てを感じるしかないのだ。
そして――眼下に青い世界が広がり始める。
青く、丸く、果てしなく巨大な水の世界は、先程まで自分がいた場所なのだと、彼は理解した。
その時、左手の近くにあるランプが光る。彼の精神は思索の世界から現実へと戻った。訓練の時と同じく、すぐ下にあるレバーを押した。すると、バナナの塊が正面の箱のようなものから出てきた。
彼がバナナを頬張っている時、後方から一瞬の振動があった。そしてカプセルは少し加速した状態で再び静寂と青い世界を取り戻す。
「オッオッ! キキッ」
彼――まだ名も無き実験用のチンパンジーは、自分の世界の食べ物と眼下に見える青い世界をしばらく堪能した。この後に起きる惨事も知らずに……
――――――――
「Поехали!」
その三ヶ月後、人間による最初の宇宙飛行が行われた。
西暦1961年、4月12日のことである。
―― 月の雷 ――
「おーい、29番パイプの冷却水漏れは終わったか?」
彼女の耳元で大声が響くのと同時に、あの髭面の大男の顔が頭の中で自然と浮かんでくる。
「これが終わったらやるよ! この逆止弁、テコでも動かない気でいやがる!」
油圧ジャッキ、スペースオイル。さらにはパイプレンチやモンキーレンチまでありとあらゆる工具が辺りに散らばる中で、彼女はたった一個の逆止弁と戦っていた。
この逆止弁は地球から送られてきた大量の新品部品の内の一つで、冷却水の逆流を防止する役割を持つ。思うように事が進まないのは苛立つものだが、それを急かされれば悪態もついてしまう。
「なら叩いてみたらどうだ? 地球の古い言葉に『機械は叩けば直る』ってあるぜ」
「頭でなく力で解決しろって!?」
彼女はお返しとばかりに無線機に怒鳴った。
「あまりデカい声で叫ぶなよ。月面は電波が良いから音声もクリアなんだから」
「全くもう!」
彼女は、月面にいた。
だがそれは彼女に限った事ではない。髭面も含め、四方を見渡せば月面に埋め込まれたボールのような基地局に数人、多い場所では数十人の技術者が見える。そしてその内部ともなれば、もっと大勢の人間がいるだろう。
例えば、彼女の右前方1km先にいる8人。月はほとんど真空である故に、地球と違って遠くの景色がはっきり見える。彼らは恐らく月面専門の土木技士だ。彼らの傍に巨大なボーリングマシンが待機していることから、これから地下に埋設する光ファイバーの埋設経路を計算しているのだろう。
彼女も、髭面も、ここにいる大勢の技士達も、仕事の内容は違うが全員が同じ目的のために働いている。
「オラァ!」
彼女は腹立たしかったが、髭面の言う事は正解だった。逆止弁のヒンジ部分に何かが噛み込んでいたらしい。月の弱い重力のせいで体が山なりに5メートルほど飛び上がる程の反動があったが、彼女はこのフワフワとした感覚は嫌いではなかった。
「ようやく終わった。急がなくちゃ……次は29番だっけ?」
「もう俺の方でやっちまったよ。こんな滲みまで『漏洩』で報告してくるのかあのクソッたれ点検員め。これが漏洩なら他の基地の方では『決壊』で報告してるんだろうな!」
今度は髭面の悪態が無線機から響く。怒りの言葉選びだが、声は大笑いだった。
「よし! 急いで引き上げて一杯いこうじゃないか。広間はパーティの真っ最中だろうが、『今日』は俺たちにとって特別な日だからな」
「もちろん。工具の片付けが終わったら戻るよ」
彼女は自身の着る分厚く装甲された宇宙服を月面車両に乗せ、居住基地まで急いで走らせる。今行われているパーティは二日かけて続けられるのだが、髭面の言う特別な日は、『今日』だけだ。
派手に月の砂埃を上げながら居住基地に到着した彼女を待っていたのは、5年前より少し白髪が増えた髭面の男。
「広間の連中はすっかり酔っぱらってやがる。支給品の中からとびきりの酒を持ってかれたのに誰も気付かないときたもんだ」
「相変わらずだね、あんた」
二人はちょうど日付が変わる直前、パーティで誰も居ない、誰も来ないラウンジに落ち着いた。
「君との出会いに、乾杯」
「あなたとの出会いに、乾杯」
グラスがゆっくりと触れ合う。月面での液体の振舞いは、人と同じように浮いてしまいやすい。
『今日』は、5年目となる二人の結婚記念日。だが、広間で行われているパーティは別の祝い事だ。
西暦3469年7月20日及び21日。広間に居る大勢の酔っ払い達は、1500年前に人類が初めて月へ降り立った日を祝っていたのだ。
その翌年の西暦3470年。彼女達が建造していた設備――試作縮退炉が完成する。
かつて人類が1年間に消費していたエネルギーは、石油換算で300億トンにも達した。現在の原子力発電でも、濃縮ウランで3万トン以上にも及ぶ。
そして驚くなかれ。この試作縮退炉は、わずか5トンの水で月も含めた世界が1年間に必要とする以上のエネルギーを生み出すのだ!
この設備がもたらす莫大な電力は、地球のエネルギー問題を消滅させるにはあまりにも、あまりにも充分すぎる技術だった。
―― 虚無の氷 ――
宇宙は良いものだと、彼はいつも思っていた。
こうして全身の力を抜き、ただ無重力に身を任せて漂う解放感。いっそのこと宇宙服を脱ぎたくなる衝動に駆られることもあるが、そんな事をすればこの解放感を二度と味わうことが出来なくなってしまう。
「『それにしても不可解なものだ。なぜ主は知識を与えることを拒んでいるのだ? 知るということが罪であると、どうして言えようか』」
一人漂う宇宙の中、彼は悪魔として知られるサタンの言葉を呟く。独り言を言わないと、言葉というものを忘れそうになってしまうからだ。
失楽園。彼が宇宙服のスクリーンに映しているのは『聖書』の一部分だ。現存する人類の文献としては最古の部類に入る。
彼の周囲1万km四方に人はいない。人どころか、生命の欠片すら存在しない。しいて言えば、彼が所有する宇宙船と、無数に漂う大小さまざまな小惑星くらいだ。
<今のはサタンの言葉ですか?>
無線機に言葉が走る。女性の声だが、彼はその問いに応じなかった。
「発射準備を始めろ」
彼は聖書を映していたスクリーンを閉じ、無重力の世界から現実の任務へ帰った。目前にあるのは、視界に収まりきらない小惑星だ。いや、星と呼べるのだろうか? この超高純度の水の塊は。
気圧も無く、低温宙域の水は固体の形を取る。この氷も地球へ到着するころには彗星のように溶けだしてしまうだろうが、それを計算に入れても地球の陸地が水没しかねない程の莫大な体積であり、ほんの僅かに宇宙服が引っ張られる程度の重力もある。
<地球から返信がありました。これは13番目の氷になるそうです。射出角の計算も既に終わったのでいつでも発射できますが、コードネームは何に設定しましょう?>
彼女――いや、正確に言えば女性の人格を持つAIは、彼に尋ねた。
「サーティーン」
AIの問いに、彼は即答した。
<そのまんまですね>
「分かりやすいだろ。 大昔の地球の連中は13という数字を忌み嫌ったらしいが、宗教に関連していたのか?」
<不明です。何しろ神や悪魔などを記述した書物は、9500年以上前の時代の物です。西暦初期の文化に関する情報も、劣化や破損で完全な解析・復元は不可能ですからね>
「タイミングは任せる」
約10分後、土星のリングから採取された巨大な氷『サーティーン』は、レーザー推進によって発射された。地球圏の回収艇に拾われるのは地球標準時間でおよそ5日後だろう。その間に太陽熱で1億トン近い量の氷が溶けてしまうが、あの体積では凹み一つ出来はしない。
「何かまだ要求してくる資源はあるか?」
<全ての資源目標量は達成されたそうです。『グラウンド・ゼロ』から退避せよ、とのこと>
彼は自由な宇宙から、狭くて退屈な宇宙船へと戻った。彼以外にも、大勢の宇宙飛行士達が同じように水や金属資源を地球圏へ向けて発射していただろう。30年前から開始されたその作業の理由は、ただ一つ。
地球に残された時間は、あと1年も無かったからだ。
<目的地は他の船団と同じく、おおいぬ座から20光年以上離れた位置にしますか?>
「待て」
彼はAIの確認を遮った。
かつては月面に巨大な基地を作らねばならないほど大型だった縮退炉は、既に10メートルサイズの宇宙船に搭載できるまでに小型化していた。
水タンクも満タン。合成タンパク質やアルコールの合成、野菜を育てられる設備もある。寿命さえなければ、人間一人がこの船で1000年以上生活できるほどの余裕がある。このまま深宇宙へ旅立ってもいいくらいだ。
「目的地、月軌道」
だが、彼は生命の――いや、地球の最期を見ることを選んだ。
<『グラウンド・ゼロ』の衝撃は一応月の背後で回避可能ですが、なぜ自ら危険な場所に行くのです?>
彼は答えた。
「神が地球を救いに来るかどうか、見ていよう」
―― 五匹の龍 ――
1.星の海は荒れ、陸が裂けた
2.星の空は薙ぎ払われ、山は崩れ去った
3.星の湖は干上がり、雨は消え去った
4.星の眠りは悪夢となり、森は焼き尽くされた
5.星の時は止まり、青き輝きは失われた
6.天から光と闇が戻られた