珊揮は、カイリが旅をするに足る体力がないと思ったが、知り合いのいない街においていくのも心配だった。そこで、少し体調が良くなったと思った頃に脚の速い騎獣を借り、カイリを抱えるようにして雁へ向かった。
雁には、知人が多い。珊揮は、カイリを何十年の付き合いのある海客である、堺仁という男に預けることにした。
珊揮は、ときおりそこに立ち寄りながら、カイリが徐々に元気になっていく様を見守った。
堺仁のもとで、カイリはこちらの言葉を学び、なぜか剣までとるようになった。
剣に関しては、体力をつけるために良いだろうと堺仁は言っていたが、だんだんそれは、そんな域を超えていってるようだった。カイリはどういうつもりなのか、剣にのめりこんでいった。
珊揮は、正直心配していた。カイリは、どうも体力がない。あまり無理をしても、ただ体をこわすだけのように思える。
週に一度、あるいは月に一度ぐらい訪れる珊揮の姿を見ると、カイリは全力で駆け寄ってきたものだった。
それが雁にやってきて一年たった頃、珊揮が来たことを知っているはずだろうに、カイリは一向に姿を見せなかった。
三月ぶりの再会というところだった。この三月で、何かあったのだろうか。珊揮は、堺仁に尋ねた。
堺仁は、少し唸って、口を開いた。
「実はちょっと噂がたって、それを気にしている」
「噂?」
「カイリは、お前さんの囲い者だとかなんとかっていうやつだがね」
「は? どうして、そんな話になるんだか」
珊揮は、あの痩せっぽっちの子供と自分の間に、そんな噂がたつということに違和感を持った。可笑しいくらいだ。誰かの軽い冗談なのではないかと、思った。
「まあ、からかい半分ってところだろうね。だがなぁ……」
堺仁の言葉は、歯切れが悪い。
「そんなに気にしてるのかい?」
「いろいろあってね。ちょっと問題だね」
「どういうところが問題なのかい?」
「会えば分かる」
堺仁は、奇妙な顔をしてみせた。
『会えば分かる』という堺仁の言葉は、確かになるほどと思わせるものだった。
カイリとは、こんな綺麗な子だったかと、珊揮は驚いた。
三月ぶりに見たカイリの様子は、すっかり変わっていた。
ほっそりとしているのは変わらないが、痛々しい程の痩せっぷりをしていた以前よりは、肉付きがよくなっている。身長も伸びて、大人びて見える。
黒い髪はつややかかで、しみひとつない白い肌は輝くばかり。
黒い玉をはめたような瞳を縁取る睫の長さ、すっきりとした鼻梁、うす紅い唇。すこし離れたところから見ていても、その美麗にはぼやけるものがない。
なる程、噂もたつというものだ。
珊揮は、ひとつ溜息をついた。
「カイリ」
名を呼んだ。
その呼びかけに、カイリはびくりとした。以前なら、一目散に駆け寄っても来ただろう。しかし、今のカイリは珊揮からわざと視線を外したまま、その場に立っていた。
歩み寄るのは、珊揮の方からだった。
にこやかに、両手を広げて、珊揮はカイリに話しかける。
「久しぶりだなぁ。寂しかったかい?」
カイリは、はっと顔を上げ、珊揮を睨んだ。
そんな表情をしても、今のカイリは綺麗だった。
「寂しくない……」
カイリの声は、やはり変わっていた。そのなよよかな容姿とは、似つかわしくない低く、枯れた声だ。
「つまらないなぁ。なんだか、急に大人になったみたいだよ」
これは珊揮の本音だった。
自分に駆け寄ってくる、自分にまとわりついて何かと話したがるカイリを珊揮は、子犬のようで可愛いと思っていた。
それが急にこんな様子になってしまうとは。仕事とはいえ、三月もここを訪れなかったことを、珊揮は本気で悔やんでみた。
「別に、大人になった訳じゃない。体が、こんなになっただけだ」
カイリは機嫌を斜めにしたままだ。
「そうだなぁ」
珊揮は、あらためてカイリを頭の天辺から、足の指先まで、確かめるように見た。
その視線に、カイリは居心地の悪さを感じたのだろう、珊揮の元を離れようとする気配を見せた。
珊揮はカイリの腕を掴むと、ぐっと自分に引き寄せた。
「逃げてはいけないよ。カイリ」
「逃げてない!」
カイリの叫ぶ言葉の最後は、掠れていた。
まだ声が安定していないようだ。
「そうだね。逃げたくても、逃げてはいけないことがあるんだよ」
カイリは、自分の名を書くときに戒莉という漢字を使うようになっていた。どうしてその字なのかと問うと、戒莉は曖昧に笑った。
「別に、なんとなく」
言葉が、短い。
以前は、珊揮が呆れるほどにとめどなかった。次から次へと、言葉が溢れて来るようだった。今は、まるで押し殺すように出来るだけ短く話そうとしているようだ。
「あ、もしかして」
珊揮は、口調まで変わって聞こえる戒莉の様子に、ピンときた。
「お前、日本語しゃべってないんだね」
戒莉は一言も発せず、うなずいた。
「なんでだい?」
「忘れるため」
とにかく、言葉が短い。
珊揮が『何を忘れるためなのか』と問えば、『日本語』という言葉が返って来る始末だ。
「なんでだい?」
珊揮は重ねて問う。
「憶えていても、無駄だから」
戒莉は、それだけ吐き出すと、珊揮と目を合わせようとしない。
「でもね、戒莉。それこそ無駄だよ」
微笑とともに、珊揮は戒莉を諭す。
「みんなそういう思いを抱えて生きてるんだよ」
「みんな?」
戒莉は、眉間に皺を寄せた。
珊揮は、そのごつい体に似つかわしくない微笑みを浮かべながら、優しい声で戒莉に語りかける。
「故郷に帰りたい、家に帰りたいと思う心はみんなにある。そして、帰りたいところに決して帰れないことがある。」
「……」
戒莉は、納得していない顔をしている。
「たとえば、国がどうしようもなく荒れていて、故郷に、家に帰れないとかね。まあ、いろいろある。でも忘れない。忘れられない。いっそ忘れてしまえたら、楽なのにね」
ふっと、溜息が零れる。
珊揮の言葉を訊きながら、戒莉は口を閉ざし、じっと地面を睨んでいる。
「まあ、それでもいつかは帰れるかもしれないから、お前のとは違うかもね」
傾いた国は、いつか平らかになり、帰れる日が来るかもしれないという希望がある。しかし海客は蓬莱には、確実に帰れない。望みは絶たれている。
静かな時間が、ふたりの間にゆるやかに流れた。
ふいに、こんなことを聞き返してきた。
「珊揮にも、帰りたいところがあるのか?」
珊揮は、驚く。
「ああ、そうだよ」
驚きながら、珊揮は戒莉に笑顔で答えた。
「もう、帰れないのか?」
「ああ、そうだね」
あの時に帰れたら、という想い。珊揮は、それを抱えている。
叶わぬ願いだ。
時は、戻らない。一度起きてしまったことは、取り替えしようがない。
一度うしなったものは、取り戻しようがない。
「そうか……」
戒莉は、急に何もかも悟ったような顔をする。
その横顔を眺めながら、珊揮はまた寂しさを感じた。