『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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「ふるさと」

 珊揮は、カイリが旅をするに足る体力がないと思ったが、知り合いのいない街においていくのも心配だった。そこで、少し体調が良くなったと思った頃に脚の速い騎獣を借り、カイリを抱えるようにして雁へ向かった。

 雁には、知人が多い。珊揮は、カイリを何十年の付き合いのある海客である、堺仁という男に預けることにした。

 珊揮は、ときおりそこに立ち寄りながら、カイリが徐々に元気になっていく様を見守った。

 堺仁のもとで、カイリはこちらの言葉を学び、なぜか剣までとるようになった。

 剣に関しては、体力をつけるために良いだろうと堺仁は言っていたが、だんだんそれは、そんな域を超えていってるようだった。カイリはどういうつもりなのか、剣にのめりこんでいった。

 珊揮は、正直心配していた。カイリは、どうも体力がない。あまり無理をしても、ただ体をこわすだけのように思える。

 

 

 

 週に一度、あるいは月に一度ぐらい訪れる珊揮の姿を見ると、カイリは全力で駆け寄ってきたものだった。

 それが雁にやってきて一年たった頃、珊揮が来たことを知っているはずだろうに、カイリは一向に姿を見せなかった。

 三月ぶりの再会というところだった。この三月で、何かあったのだろうか。珊揮は、堺仁に尋ねた。

 堺仁は、少し唸って、口を開いた。

「実はちょっと噂がたって、それを気にしている」

「噂?」

「カイリは、お前さんの囲い者だとかなんとかっていうやつだがね」

「は? どうして、そんな話になるんだか」

 珊揮は、あの痩せっぽっちの子供と自分の間に、そんな噂がたつということに違和感を持った。可笑しいくらいだ。誰かの軽い冗談なのではないかと、思った。

「まあ、からかい半分ってところだろうね。だがなぁ……」

 堺仁の言葉は、歯切れが悪い。

「そんなに気にしてるのかい?」

「いろいろあってね。ちょっと問題だね」

「どういうところが問題なのかい?」

「会えば分かる」

 堺仁は、奇妙な顔をしてみせた。

 

 

 

 『会えば分かる』という堺仁の言葉は、確かになるほどと思わせるものだった。

 カイリとは、こんな綺麗な子だったかと、珊揮は驚いた。

 三月ぶりに見たカイリの様子は、すっかり変わっていた。

 ほっそりとしているのは変わらないが、痛々しい程の痩せっぷりをしていた以前よりは、肉付きがよくなっている。身長も伸びて、大人びて見える。

 黒い髪はつややかかで、しみひとつない白い肌は輝くばかり。

 黒い玉をはめたような瞳を縁取る睫の長さ、すっきりとした鼻梁、うす紅い唇。すこし離れたところから見ていても、その美麗にはぼやけるものがない。

 なる程、噂もたつというものだ。

 珊揮は、ひとつ溜息をついた。

「カイリ」

 名を呼んだ。

 その呼びかけに、カイリはびくりとした。以前なら、一目散に駆け寄っても来ただろう。しかし、今のカイリは珊揮からわざと視線を外したまま、その場に立っていた。

 歩み寄るのは、珊揮の方からだった。

 にこやかに、両手を広げて、珊揮はカイリに話しかける。

「久しぶりだなぁ。寂しかったかい?」

 カイリは、はっと顔を上げ、珊揮を睨んだ。

 そんな表情をしても、今のカイリは綺麗だった。

「寂しくない……」

 カイリの声は、やはり変わっていた。そのなよよかな容姿とは、似つかわしくない低く、枯れた声だ。

「つまらないなぁ。なんだか、急に大人になったみたいだよ」

 これは珊揮の本音だった。

 自分に駆け寄ってくる、自分にまとわりついて何かと話したがるカイリを珊揮は、子犬のようで可愛いと思っていた。

 それが急にこんな様子になってしまうとは。仕事とはいえ、三月もここを訪れなかったことを、珊揮は本気で悔やんでみた。

「別に、大人になった訳じゃない。体が、こんなになっただけだ」

 カイリは機嫌を斜めにしたままだ。

「そうだなぁ」

 珊揮は、あらためてカイリを頭の天辺から、足の指先まで、確かめるように見た。

 その視線に、カイリは居心地の悪さを感じたのだろう、珊揮の元を離れようとする気配を見せた。

 珊揮はカイリの腕を掴むと、ぐっと自分に引き寄せた。

「逃げてはいけないよ。カイリ」

「逃げてない!」

 カイリの叫ぶ言葉の最後は、掠れていた。

 まだ声が安定していないようだ。

「そうだね。逃げたくても、逃げてはいけないことがあるんだよ」

 

 

 

 カイリは、自分の名を書くときに戒莉という漢字を使うようになっていた。どうしてその字なのかと問うと、戒莉は曖昧に笑った。

「別に、なんとなく」

 言葉が、短い。

 以前は、珊揮が呆れるほどにとめどなかった。次から次へと、言葉が溢れて来るようだった。今は、まるで押し殺すように出来るだけ短く話そうとしているようだ。

「あ、もしかして」

 珊揮は、口調まで変わって聞こえる戒莉の様子に、ピンときた。

「お前、日本語しゃべってないんだね」

 戒莉は一言も発せず、うなずいた。

「なんでだい?」

「忘れるため」

 とにかく、言葉が短い。 

 珊揮が『何を忘れるためなのか』と問えば、『日本語』という言葉が返って来る始末だ。

「なんでだい?」

 珊揮は重ねて問う。

「憶えていても、無駄だから」

 戒莉は、それだけ吐き出すと、珊揮と目を合わせようとしない。

「でもね、戒莉。それこそ無駄だよ」

 微笑とともに、珊揮は戒莉を諭す。

「みんなそういう思いを抱えて生きてるんだよ」

「みんな?」

 戒莉は、眉間に皺を寄せた。

 珊揮は、そのごつい体に似つかわしくない微笑みを浮かべながら、優しい声で戒莉に語りかける。

「故郷に帰りたい、家に帰りたいと思う心はみんなにある。そして、帰りたいところに決して帰れないことがある。」

「……」

 戒莉は、納得していない顔をしている。

「たとえば、国がどうしようもなく荒れていて、故郷に、家に帰れないとかね。まあ、いろいろある。でも忘れない。忘れられない。いっそ忘れてしまえたら、楽なのにね」

 ふっと、溜息が零れる。

 珊揮の言葉を訊きながら、戒莉は口を閉ざし、じっと地面を睨んでいる。

「まあ、それでもいつかは帰れるかもしれないから、お前のとは違うかもね」

 傾いた国は、いつか平らかになり、帰れる日が来るかもしれないという希望がある。しかし海客は蓬莱には、確実に帰れない。望みは絶たれている。

 

 静かな時間が、ふたりの間にゆるやかに流れた。

 

 ふいに、こんなことを聞き返してきた。

「珊揮にも、帰りたいところがあるのか?」

 珊揮は、驚く。

「ああ、そうだよ」

 驚きながら、珊揮は戒莉に笑顔で答えた。

「もう、帰れないのか?」

「ああ、そうだね」

 あの時に帰れたら、という想い。珊揮は、それを抱えている。

 叶わぬ願いだ。

 時は、戻らない。一度起きてしまったことは、取り替えしようがない。

 一度うしなったものは、取り戻しようがない。

「そうか……」

 戒莉は、急に何もかも悟ったような顔をする。

 その横顔を眺めながら、珊揮はまた寂しさを感じた。

 

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