その夜、不穏なことは何も起きなかった。
途中で見張りを博信に交代し、天幕に入ったが、一度覚めた体にはその後の眠りは容易にやってはこなかった。
それに、何か嫌な感じが付きまとっていた。この旅の間ですっかり感じることを忘れてしまった感覚だ。
理由も、理屈もない。ただの勘だ。当たる時もあれば、外れることもある。
体を横にしながらも、戒莉の手は天涯の柄を開放することはなかった。
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「朝…か」
浅い眠りに身を浸しながら、陽の光を目で感じた。
目というのは、便利なものだ。と、いうことに戒莉が気付いたのは、この世界に来てからだ。
初めは、気がおかしくなりそうだった。何が起きているのかも分からなかった。地面はグラグラと揺れ、立って居ることもままならない。見えるということが、こういうことだと気付いた時には、かなりあちこちぶつけたり、転んだ後のことだった。
だが、慣れてしまえば、本当に便利なものだった。
その便利な目も、天幕の外で今、何が起きているのかを見ることはできない。戒莉はじっと耳を傾けた。
さわさわと、人の声がする。そのほとんどが落ち着いた調子で、異変が起きているようには思えなかった。ただし、一花の声だけがカン高く突き上がった。それすらも平和の象徴であった。
「もう、こんなの食べ飽きたっ」
のそのそと身を起こし、戒莉が天幕の外へと這い出すように出ると、そこには見たくもない顔があった。
「あれ、戒莉。だめだよ、なんて格好してるの」
咎める内容でありながら、その声音には楽しそうな響きが含まれていた。
その言葉と同時に、戒莉の襟元に手が飛んできた。
はっとしたが、その手を戒莉は留めることができなかった。
「宍道……」
口惜しいことだ。
「襟元も帯も緩んでるね。髪だってぼさぼさだよ。僕は嫌いじゃないけど、ちょっと刺激的だよね」
宍道は、嫌がる戒莉を自らの天幕に連れ込むと、まとめたはずの荷物をほどき、いろいろと着物を引っ張りだしては、戒莉に押し当てた。そうして、何度目かにようやく頷いた。
「やっぱりこれかな」
そう微笑む。
戒莉は呆然としすぎて、抗うことを忘れていた。
一体、自分の身に何が起きているのか、戒莉は理解不能の状態に追い込まれていた。
宍道が、『これ』と言ったのは、真っ赤な袍だった。
「もしかして、これを俺に着ろと言ってるのか?」
ここにきて、戒莉はようやくそのことに気付いた。
このとんでもない色の着物を着ている自分をおそるおそる想像すると、戒莉の背筋に冷たいものが走った。
「もちろん、そうだよ」
そんなの当たり前のことだろうとばかりに、宍道は笑いながら、戒莉ににじり寄ってきた。
なんとしてでも逃げなくてはならない。戒莉は断固たる決意を固めた。
しかし、残念なことに戒莉の背後に、もはや逃げるような場所は残されていなかった。
結局、先に宍道が選んでみせた袍については、戒莉は激しく拒絶し、なんとかそれよりは落ち着いた色合いの袍に変えさせることができた。とは言え、それは黒みがかった深い紫で、渋めではあるが戒莉が普段着ているものの何倍もあでやかに映るものだった。地紋が織り込まれており、光のあたり具合でうっすらと四割菱が現れる。
髪はひとつに束ねられているだけだったが、常よりも高い位置で結ばれている。髷は結わず、そのまま背に流した髪のつややかな闇が、戒莉を飾っていた。
この旅が始まって数ヶ月、皆のくたびれた目には、美しく調えられた戒莉の姿は、鮮やかに映った。誰もが、遠慮というものを忘れたように戒莉に視線を注いだ。
戒莉は、その居心地の悪さに、呪いの言葉を右奥歯で噛み砕いた。