『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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『誘惑』

 ひとしきりして、一花は黙って戒莉のもとを去っていった。

 

 それを見送ると、戒莉は木の陰にちらりと気を遣った。まるで誰もいないかのようにしているが、そこに誰か居るということは、あまり好ましいことではない。だが、戒莉はあえてそれを言い立てることはしなかった。

 そこに誰が居るかは、正直分からなかったが、戒莉と一花とのやりとりに何か得るものがあったとは思えない。放置しておくのが、まずはいいだろう。

 一花が去った方向へ、戒莉も歩を進めた。

 

 

 

 臙脂の衫を手に、ニコニコとしている宍道に出くわしてしまった。戒莉は踵を返して、回避の体勢をとった。

 だが、それを見逃してくれる宍道ではなかった。

「ちょっと待ってよ」

 待てと言われて待ちたい人物ではない。

 かなり無理があるが、戒莉は宍道の呼びかけを聞かなかったことにした。

 と、宍道は走り寄り、戒莉の前にまわった。

 行く手を遮られ、戒莉は止まらざるを得なかった。

「もしかして、迷惑なのかな?」

 にっこりと笑う宍道。並の人ならば、抗えないようキラキラしさだ。

「迷惑だ」

 自分でも意外なほど、あっさり、その言葉は出てきた。

「つれないなあ。でも、そうか、迷惑なら諦めるよ」

 宍道は、そんな言葉で一旦引いてみせた。

「でもさ、その代わりと言っちゃなんだけど」

「何だ?」

 交換条件など聞いてやる義理はないが、戒莉はそう聞き返していた。

「うーん。戒莉は珊揮と別れて、僕と組まないかな」

 宍道は、手を差し伸べて、そう提言した。

 その言葉に、戒莉は驚いた。

 どこかで聞いた話だ。しかも、以前のそれよりも直接的だ。

 しかも、唐突で脈絡がない。

 

 最初は、呆然としていた戒莉だったが、次第に心の奥底からふつふつと怒りがこみ上げてくるのを感じた。

「どいつも、こいつも……」

 小さく、戒莉はこぼした。

「え、何? 他からも誘われた?ダメだよ。そんな奴と組むなら僕を選びなよ」

 親指で自らを指し示し、片目をつぶってみせる宍道に、戒莉は呆れ過ぎて、感心してしまった。

「なんで、俺なんだよ」

 軽い舌打ちとともに、つい、聞かなくてもいいことが口をついて出る。

「僕はさ、明日死んじゃうかもしれないんだから、やりたいことは今日やっとかなくちゃ、って思ってたんだ」

「はあ……」

 これまた唐突で、脈絡がない。

 戒莉はもう、どうでもいいということが見え見えの生返事しか戒莉は返せなくなっていた。

「でもね。戒莉は違うんだよね」

「そうだ……っけ?」

 そんな人生指針を戒莉は考えたこともないような気がした。

「そうだよ。僕が戒莉に『次に会うまでに死んじゃうかもしれないから、今手合わせをして欲しい』って言った時に、戒莉は言ったよね。『じゃあ、次の機会まで、あんたが死ななければいいんだろう』ってさ」

「そんなこと、俺、言ったか?」

 そう言われれば、そんなことを言ったかもしれない。だが、あの時は単に宍道との手合わせをしたくなかったから、適当なことを言ったに過ぎなかったような気がする。

「だからだよ」

「だから?」

 だから何だと言う気なのか。

「色んな考え方があるんだなぁって、思ったんだ。もちろん、何が正しいかなんて分からないけどね。同じような考えの人間ばっかりでつるんでても詰まらないじゃない?  だ・か・ら」

 再び、例の片目をつぶっての微笑み。

「どっちが正しいのか。その結末も見てみたいし」

 などと付け加える。更に。

「それに、戒莉のことを幸せにできるのは、僕しかいないと思うんだよね」

「あぁ?」

 奇妙な言い方をする宍道に、更に戒莉はもう驚くしかなかった。

「戒莉は、悩んでるよね。色んなことに。珊揮はそれを放ったらかしにしてる。でも、僕なら戒莉をどんなことからも救い出してやれるよ」

 何と、無責任で甘美なもの言いだろう。

 戒莉は、こいつにはもう降参だ、思う。

 

「例えば、そう、血のこととか」

 宍道の容赦のない言葉に、戒莉はひるんだ。

 その戒莉の心の内を察知したのだろう。宍道は、更にたたみかける。

「僕と一緒にいれば、戒莉は人を斬ることに、悩まなくて済むことになると思うよ」

 それは、どういうことなのか。戒莉は、その続きを聞きたい衝動に囚われた。

 人を斬って、生き物を斬って、血の匂いをかいだときに、気を失う。戒莉が持っている、剣客として致命的な欠陥を、どうしたら克服できるのか。その術を、この男は持っているというのだろうか。

「どうすれば、そんなことが出来るんだ?」

 知らず、戒莉は宍道に向かって一歩、踏み出していた。

 宍道はひそかに、ほくそ笑んだ。

「それは珊揮と別れて、僕と組まないと、教えられないよ」

 

 

 

 

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