『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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『その夜が始まる』

 

 

 

 その夜の夕餉は、いつもより幾分にぎやかだった。

 宍道の雇い主の方義が、なんとかという珍しい酒を皆に振舞ってくれ、奏までもう少しというお祝いなのか、惣菜も二品ばかり多かった。

 戒莉は、その騒ぎの輪から少しはなれたとこから、皆の顔に浮かんだ笑顔をぼんやり眺めていた。

 何がそんなに嬉しいのか、どうしてそこまで楽しそうなのか。戒莉と彼らの違いは何なのだろうか。

 違いのひとつは、すぐに分かる。戒莉は酒を飲んでいない。

 酒が嫌いというわけではない。極端に酒に弱いということでもない。ただ、仕事の最中の酒は控えているだけだった。

「戒莉は真面目だねえ」

 宍道は、そんなことを言いながら盃を戒莉に渡そうとした。

「別に真面目でやってることじゃない」

 戒莉は、宍道の勧めを一切受け付けなかった。

「じゃあ、なんで戒莉は、仕事中は酒をのまないのかな」

 なおも宍道は食い下がる。宍道自身は、既によい心持ちとなっている様子だ。

 酔っ払いにまともに応える程、戒莉は人間ができていない。

「明日になったら、お前にも分かる」

 そんなことを言って、戒莉は宍道を振り払った。

 

 

 酒を飲まなかったのは、実は戒莉だけではなかった。

 もう一人、博信がいた。

「俺は下戸だ」

 博信は、言い訳めいた口調でそう言った。

 この目つきの凶悪な顔で、酒は一滴も飲めないというのが面白いと、戒莉は密かに思ったが、それは直ぐにどうでもいいこととして戒莉の中から消えた。

 

 

 

 結局、戒莉と博信のふたりが、その晩の見張りに立つことになった。戒莉は、仮眠を取るために、早々に天幕に入った。

 枕元に脇差を置き、天涯とともに横になると、にぎやかな声が遠くに聞こえた。不思議な落ち着きを感じながら、戒莉はうとうとと、眠りに入っていくことができた。

 

 

 

 

 

「戒莉」

 天幕の外から、声が聞こえた。

 聴いたことのある声だ。

 すこしのまどろみの後、戒莉は、はっと目覚めた。

 仕事中には珍しく、深く眠っていた。眠りすぎていた。

「起きてるかい?」

 また、声が呼びかけてくる。

「ああ、すまない。今、交代する」

 戒莉は、とりあえずそう返事をしながら体を起し、手早く身支度を始めた。

 旅の間、特に野営のときは袍のまま横になっているので、さほど時間はかからない。

 着物は、仮眠を取る前に宍道の見立てたぞろりとしたものから、着慣れた木綿の袍にわざわざ替えておいた。

 襟元を直し、乱れた髪をうなじの後ろでひとつに縛りなおした。紐は宍道がくれたものが気に入ったので、それを使った。組み紐ではなく、いわば幅の狭い織物で、縛りが緩みにくく、丈夫なところが気に入った。紺地の真ん中に、白い小さな十字の連続模様が織り込まれていて、見た目もなかなか洒落ていたが、その点は戒莉の心にはあまり響いていなかった。

 仕上げに剣を腰に納めて、戒莉は外へ出ようと、幕に手を伸ばした。

 

 と、小さな悲鳴のようなものが耳の奥に引っかかった……ような気がした。

 そのままの体勢で、戒莉は動きを止めた。

 何か、おかしい。戒莉の中の何かが、そう警鐘を鳴らしている。

 これは勘だ。当たることもあれば、外れることもある。ただの、勘だ。

「どうした?」

 静かに、なにごとも起きていないとしか思えない口調で、男が呼びかけてくる。

 戒莉の気のせいなのだろうか。あの声は。外にいる者には聞こえていないはずは、なかった。

 それに、寝起きでとぼけていたが、戒莉が見張りを交代すべき相手は、この男ではなかったはずだ。

 

 

 突然だった。天幕の外から、手がぬっと天幕の内に侵入してきた。その無作法な手が手首を捉えようと挑みかかるのを、戒莉は寸でのところでかわした。

「戒莉!」

 そう呼ばれても、戒莉は止まらなかった。

 戒莉の手は天涯を抜き放ち、傍らの天幕を切り裂いた。

 戒莉を捕らえようとした手の主が、正当な出入り口から天幕内に飛び込むのと同時に、戒莉は自らが作った出口から外へと、体を逃がす。

 戒莉の視界に入った侵入者は、先ほどから何度も聞いた声の主と一致していた。

「漢将!」

 戒莉は、その名を苦々しくも吐き棄てた。

 

 

 

 その夜が、始まりを告げた。

 

 

 

 

 

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