その夜の夕餉は、いつもより幾分にぎやかだった。
宍道の雇い主の方義が、なんとかという珍しい酒を皆に振舞ってくれ、奏までもう少しというお祝いなのか、惣菜も二品ばかり多かった。
戒莉は、その騒ぎの輪から少しはなれたとこから、皆の顔に浮かんだ笑顔をぼんやり眺めていた。
何がそんなに嬉しいのか、どうしてそこまで楽しそうなのか。戒莉と彼らの違いは何なのだろうか。
違いのひとつは、すぐに分かる。戒莉は酒を飲んでいない。
酒が嫌いというわけではない。極端に酒に弱いということでもない。ただ、仕事の最中の酒は控えているだけだった。
「戒莉は真面目だねえ」
宍道は、そんなことを言いながら盃を戒莉に渡そうとした。
「別に真面目でやってることじゃない」
戒莉は、宍道の勧めを一切受け付けなかった。
「じゃあ、なんで戒莉は、仕事中は酒をのまないのかな」
なおも宍道は食い下がる。宍道自身は、既によい心持ちとなっている様子だ。
酔っ払いにまともに応える程、戒莉は人間ができていない。
「明日になったら、お前にも分かる」
そんなことを言って、戒莉は宍道を振り払った。
酒を飲まなかったのは、実は戒莉だけではなかった。
もう一人、博信がいた。
「俺は下戸だ」
博信は、言い訳めいた口調でそう言った。
この目つきの凶悪な顔で、酒は一滴も飲めないというのが面白いと、戒莉は密かに思ったが、それは直ぐにどうでもいいこととして戒莉の中から消えた。
結局、戒莉と博信のふたりが、その晩の見張りに立つことになった。戒莉は、仮眠を取るために、早々に天幕に入った。
枕元に脇差を置き、天涯とともに横になると、にぎやかな声が遠くに聞こえた。不思議な落ち着きを感じながら、戒莉はうとうとと、眠りに入っていくことができた。
「戒莉」
天幕の外から、声が聞こえた。
聴いたことのある声だ。
すこしのまどろみの後、戒莉は、はっと目覚めた。
仕事中には珍しく、深く眠っていた。眠りすぎていた。
「起きてるかい?」
また、声が呼びかけてくる。
「ああ、すまない。今、交代する」
戒莉は、とりあえずそう返事をしながら体を起し、手早く身支度を始めた。
旅の間、特に野営のときは袍のまま横になっているので、さほど時間はかからない。
着物は、仮眠を取る前に宍道の見立てたぞろりとしたものから、着慣れた木綿の袍にわざわざ替えておいた。
襟元を直し、乱れた髪をうなじの後ろでひとつに縛りなおした。紐は宍道がくれたものが気に入ったので、それを使った。組み紐ではなく、いわば幅の狭い織物で、縛りが緩みにくく、丈夫なところが気に入った。紺地の真ん中に、白い小さな十字の連続模様が織り込まれていて、見た目もなかなか洒落ていたが、その点は戒莉の心にはあまり響いていなかった。
仕上げに剣を腰に納めて、戒莉は外へ出ようと、幕に手を伸ばした。
と、小さな悲鳴のようなものが耳の奥に引っかかった……ような気がした。
そのままの体勢で、戒莉は動きを止めた。
何か、おかしい。戒莉の中の何かが、そう警鐘を鳴らしている。
これは勘だ。当たることもあれば、外れることもある。ただの、勘だ。
「どうした?」
静かに、なにごとも起きていないとしか思えない口調で、男が呼びかけてくる。
戒莉の気のせいなのだろうか。あの声は。外にいる者には聞こえていないはずは、なかった。
それに、寝起きでとぼけていたが、戒莉が見張りを交代すべき相手は、この男ではなかったはずだ。
突然だった。天幕の外から、手がぬっと天幕の内に侵入してきた。その無作法な手が手首を捉えようと挑みかかるのを、戒莉は寸でのところでかわした。
「戒莉!」
そう呼ばれても、戒莉は止まらなかった。
戒莉の手は天涯を抜き放ち、傍らの天幕を切り裂いた。
戒莉を捕らえようとした手の主が、正当な出入り口から天幕内に飛び込むのと同時に、戒莉は自らが作った出口から外へと、体を逃がす。
戒莉の視界に入った侵入者は、先ほどから何度も聞いた声の主と一致していた。
「漢将!」
戒莉は、その名を苦々しくも吐き棄てた。
その夜が、始まりを告げた。