『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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『生きて』

 まだ、生きてる。

 

 そう考えたということは、まだ気も失っていないということだ。

 かなり意識は混沌していたが、確かに戒莉は墜ち切ってはいなかった。

 微かな、ほんの芥のような希望がまだ残っているのだということだろうか。

 いや、命は体から染み出し、砂に吸い込まれ、奪われていく一方だ。

「ぁぁ……」

 僅かに開いた口から、自分では出すつもりのない声が零れた。

 

 もはや、何ひとつ戒莉の自由にはならない。

 

 何も、見えない。ただ、ただ闇だ。

 こんなに暗くて、静かな世界は久しぶりだった。

 暗く、静かに、紅く、黒く、血が流れていく。

 

 喉に血がたまって、息ができなくなりそうだ。

 自分の血で窒息して死ぬとは、実に滑稽だ。

 これも、多くの他人の血を流してきた自分にかかった呪いなのか。

「……」

 もはや、呻き声も枯れ果てたらしい。

 皆、こうやって自分に殺されていったのだと、戒莉は自嘲った。

 

 

 遠く、近く。声が聞こえてきた。

 

『お前なんて死ねばいい』

『役立たず』

『お前らは、呪われている』

『お前のせいで、お前の母親のせいで、私は不幸せになったよ』

『もう、うちの子には近づかないで』

『なんでこんな風に生まれてきたんだい』

『汚い』

『お前と同じ空気を吸ってると思うと、こっちが死にたくなる』

 

 よくもまあ言われたものだと、戒莉は感心する。

 これらの言葉に、戒莉は何一つ言い返せなかった。

 

『あんた一人が死んでも、誰も、何も、困りはしないんだよ』

 そう、言われたあの娘は何と答えただろうか。

 たしか、こうだ。

『ひと一人が出来ることなんて、たかが知れてる。でも、何もできないわけではない」

 白露は、揺らぐことはなかった。

 

 

 今、戒莉は、様々な過去の言葉の欠片をでたらめに並べているだけだ。

 これが、何になるのだろうか。

 今の状況の助けになるものは何一つないはずだ。

 それでも、最期に思い出すのが優しい言葉であったら、幸せだろう。

 

『生まれてきてくれて、ありがとう』

―― このまま……

 まぶたを閉じても、閉じなくても世界は真っ暗で、光は見つからない。

 

 それでもいいと、戒莉は総てを閉じようと思った。

 

―― さむい……とても、さむい

 

「私は、許さないよ」

 また、非道い言葉が聞こえてきた。

 やっぱり、優しい言葉を聞きながら、死ねるはずがなかった。

 

「ここで死んでも、お前は絶対に許されないよ」

 

―― 許される? 俺は、許されたいのか?

 

「ここで死んだら、お前は幸せになれない」

 

 奇妙な言い様だ。

 

「私も不幸になってしまうだろう」

 

―― だから?

 

「だから、お前はここで死んではいけない」

 

 幻聴のくせに、勝手なことを言うものだ。戒莉は、こんなことを平気で言ってのける人間が、果たして自分の過去に存在したかをいぶかしんだ。

 

 そうだ、確かに居た。と、戒莉は心の内だけで笑った。

 

「サン……」

 残っていたなけなしの力で、唇が動いた。

 けれど、その総てを口に出来たわけではなかった。

 

 この十年、確かに光を見た。

 いいこともあったし、悪いことの方が多かったかもしれない。

 それでも、不幸せではなかった。

 ここで死んでしまうのが、惜しくなるくらいだ。

 

―― ああ、もっと

 

―― もっと生きていたい。

 

 

 死にたくない。

 死にたくない。

 

 

―― 俺は、生きていたいんだ

 

 

 

 

 

 

 

『紅い河を下れ 前編 了』

 

 

 

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