まだ、生きてる。
そう考えたということは、まだ気も失っていないということだ。
かなり意識は混沌していたが、確かに戒莉は墜ち切ってはいなかった。
微かな、ほんの芥のような希望がまだ残っているのだということだろうか。
いや、命は体から染み出し、砂に吸い込まれ、奪われていく一方だ。
「ぁぁ……」
僅かに開いた口から、自分では出すつもりのない声が零れた。
もはや、何ひとつ戒莉の自由にはならない。
何も、見えない。ただ、ただ闇だ。
こんなに暗くて、静かな世界は久しぶりだった。
暗く、静かに、紅く、黒く、血が流れていく。
喉に血がたまって、息ができなくなりそうだ。
自分の血で窒息して死ぬとは、実に滑稽だ。
これも、多くの他人の血を流してきた自分にかかった呪いなのか。
「……」
もはや、呻き声も枯れ果てたらしい。
皆、こうやって自分に殺されていったのだと、戒莉は自嘲った。
遠く、近く。声が聞こえてきた。
『お前なんて死ねばいい』
『役立たず』
『お前らは、呪われている』
『お前のせいで、お前の母親のせいで、私は不幸せになったよ』
『もう、うちの子には近づかないで』
『なんでこんな風に生まれてきたんだい』
『汚い』
『お前と同じ空気を吸ってると思うと、こっちが死にたくなる』
よくもまあ言われたものだと、戒莉は感心する。
これらの言葉に、戒莉は何一つ言い返せなかった。
『あんた一人が死んでも、誰も、何も、困りはしないんだよ』
そう、言われたあの娘は何と答えただろうか。
たしか、こうだ。
『ひと一人が出来ることなんて、たかが知れてる。でも、何もできないわけではない」
白露は、揺らぐことはなかった。
今、戒莉は、様々な過去の言葉の欠片をでたらめに並べているだけだ。
これが、何になるのだろうか。
今の状況の助けになるものは何一つないはずだ。
それでも、最期に思い出すのが優しい言葉であったら、幸せだろう。
『生まれてきてくれて、ありがとう』
―― このまま……
まぶたを閉じても、閉じなくても世界は真っ暗で、光は見つからない。
それでもいいと、戒莉は総てを閉じようと思った。
―― さむい……とても、さむい
「私は、許さないよ」
また、非道い言葉が聞こえてきた。
やっぱり、優しい言葉を聞きながら、死ねるはずがなかった。
「ここで死んでも、お前は絶対に許されないよ」
―― 許される? 俺は、許されたいのか?
「ここで死んだら、お前は幸せになれない」
奇妙な言い様だ。
「私も不幸になってしまうだろう」
―― だから?
「だから、お前はここで死んではいけない」
幻聴のくせに、勝手なことを言うものだ。戒莉は、こんなことを平気で言ってのける人間が、果たして自分の過去に存在したかをいぶかしんだ。
そうだ、確かに居た。と、戒莉は心の内だけで笑った。
「サン……」
残っていたなけなしの力で、唇が動いた。
けれど、その総てを口に出来たわけではなかった。
この十年、確かに光を見た。
いいこともあったし、悪いことの方が多かったかもしれない。
それでも、不幸せではなかった。
ここで死んでしまうのが、惜しくなるくらいだ。
―― ああ、もっと
―― もっと生きていたい。
死にたくない。
死にたくない。
―― 俺は、生きていたいんだ
『紅い河を下れ 前編 了』