『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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『あの子が ほしい』

 

「参ったなあ」

 あまり参っているとは思えない程の呑気な調子で、男は寝台から声を上げた。

 ここひと月ほど、この男は寝台に縛られている。

 実際に縄で縛られている訳ではない。

 そうでないのに、寝台に横になり続けているしかないということが、問題なのだ。

 

 

 きっかけは、ほんのちょっとした出来心だった。

 あの剣客には、もっと違う世界で生きることが相応しいと思った。

 けれど、あの剣客は今居るところから、動きそうになかった。だから、手を貸してやろうと思った。それだけのことだった。

「それだけ……のこと?」

 男は、自分の思いを反芻する。

「ちょっと、違うかなぁ」

 すべて、独り言だ。

 この部屋には、誰もいない。

「何で僕が手を貸してやらなくちゃならなかったのかな」

 あの剣客をあるべき姿にしてやる手伝いなどする義理は、この男にはない。

 しかし、男はそうした。そうしたくて、堪らなくなった。

 あれは、どういう心情だったのだろうか。あの衝動は、なんと名づければいいのだろうか。

「ああ、参ったなあ」

 男は、その言葉を繰り返した。

 そして、何かに取り付かれたように笑い出した。

「ああ、やられた。参った、ほんと、参ったね」

 

 

 あまりに笑い過ぎたために、隣室で控えていた男が部屋に飛び込んできた。

「どうしましたっ?」

「ああ、聞いてくれよ」

 涙目になりながら、寝台の上の男はなおもこみ上げる笑いに喉を鳴らしていた。

「なんですか」

 投げやりに問う。

 あわを食って、やってくれば、この態度だ。飛びこんできた男は、既に怒り気味だ。

 

「僕がなんで章羊を殺ろうって決めたか、分かるかな?」

「『裏切り者には、死、あるのみ!』 ……とか言ってませんでしたっけ?」

 寝台の上の男が何を言い出そうとしているのか、嫌な予感を抱えながら、男は探り探り、問いかけた。

「そうだよ。僕もそう思ってたよ。でも、それは建前だった。ホント、馬鹿みたいだよ。こんなことだって、僕自身も気付かなかったんだからね」

 再び、笑いがこみ上げてくる。

 

 その男の笑いは、暫く止むことはなかった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 片腕を落とされた男が、運ばれた。

 と、いう薬師のもとに駆けつけてみたが、すでにその片腕の男の姿はなかった。しかも、その薬師一家までが姿を消していたのだ。

 

 英俊は、まあこんなものかと、切り替える。

 それは相棒の希央も同じ心持ちのようだった。

 

 

 

 ひと月前、漣浄を追って章羊を追っているうちに、英俊と希央は賊に辿り着いた。

 それはそれでよかったのだが、辿りつき方が最悪だった。

 

 そこには惨憺たる光景が広がっていた。

 章羊と一花が助かったのは、奇跡的であったとしか言い様がない。

 その理由のひとつは、賊の手が一人に集中していたおかげであるらしい。それは、その『一人』の人物の周囲に散った遺体から想像ができる。

 

 その『一人』、戒莉は遺骸の中心で、血溜まりに沈んでいた。

 その様を思い出す度に、英俊はひどく苦い想いがする。

 あの時、英俊はどこかでほっとしていたことに、気付いていた。

―― 珊揮が、これでもう戒莉に煩わされることがなくなる……

 そんなことで、自分が安堵していたのだと思うと、その甘さが憎い。

 

 珊揮はあれ以来、どこか変ってしまった。

 

 それは、英俊だけの想いではなかっただろう。しかし、希央はそれについて何も言いはしなかった。

 

 

「手がかりなし、だな」

 ひととおり薬師の家の中を調べると、希央はそう締めくくった。

「そうですね。みごとに何もなしですね」

 故にこれが奴らに関わりのあることだと、思わざるを得ない。

 奴らは、自らの痕跡を非情なまでに、徹底的に消していく。

 奴らが自ら名乗る名はなかったが、一部では海楼党などと呼ばれるらしい。

 薬師一家も、海楼党の一味であったのか、ただ単に顔を見られたので口封じに葬られたのか、分からない。どちらにしても、ありうる話だ。

 

 海楼党は、そもそも存在するのか否かも怪しい集団だった。何百年もの間、忽然と姿を消す商隊があれば、彼らの仕業だとされていたが、その目撃者はいなかったに等しい。

 それが今、その姿を見せた。

 章羊という海楼党の協力者が現れ、それを襲う集団が現れ、その姿を見た者が生き延びている。

 

 最大の手がかりは、左腕を落とされた宍道という男だ。

 もっともその手がかりは、英俊たちが今いる薬師の家で、ふつりと途切れてしまっている。

 宍道という男の過去を調べてみると、思いの外、その出自が明らかでないことが分かった。

 宍道が過去に寄り付いていたところで、明確なのは雁の岳昭という男のひらく道場くらいだった。そこにしても、十年ほど前にふらりとやって来て、暫く寄宿していた後は、たまに姿を見せるだけのところであったらしい。

 岳昭も一味ではないかという疑いがかかり、道場にも調べが入ったが、特に怪しいところはないとされたと聞く。ここひと月、道場は出入り禁止となり、岳昭は軟禁され、門弟は減りと、さんざんな状態であるらしい。

 

 あの道場には、英俊も何度か行ったことがある。岳昭は、戒莉の剣の師でもある。

 岳昭は良くいえば大変に温厚な人物で、あれが殺戮集団の徒であったら、大した役者ぶりと言えた。

 

 戒莉はあの道場で宍道と出会っているのだ。兄弟子と弟弟子として。

 その戒莉が、宍道の腕を落とすことになるとは、何んとも運命的だ。

 いや、これはそんな偶然のようなものではない。

 

 戒莉はたまたま章羊という男に関わったばかりに、賊である宍道と対峙することになった。

 戒莉と宍道は、たまたま知り合いだった。

 

 果たして、そうなのだろうか。

 英俊は、その想いに囚われる。

 そして、変ってしまった珊揮のことを、苦々しく思うのだ。

 

 

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