ひと月も前のことだった。
珊揮がそこに辿り着いた時に、そこは黎明の光を帯びていた。
広がるのは、凄惨な光景だった。
ぶすぶすとくすぶる残り火が、何かを焦がす臭い。そこかしこに転がる屍骸から流れる血の川。
平和と退屈に満ちた章羊の商隊は、今はもうどこにも存在しない。
珊揮は、この世の地獄のような世界の中に、ただひとつの影を探していた。
「戒莉!!」
その声に惹かれてか、まだかろうじて立っていた天幕のひとつから章羊が震えながら這い出てくるのが分かった。何事が意味の分からないことをわめきながら、珊揮に駆け寄ってくるのも見えた。
ひどい様だ。髪は乱れ、全身砂にまみれ、あちこちから流血しながら、それでも生きていた。
珊揮の心は、章羊のそんな姿に全く反応しなかった。
助かってよかったとか、憐れだとも、気の毒だとも、憎いとも、何んとも思わなかった。
いや、邪魔だとは思った。
非道なことに、手を伸ばしてくる章羊を、珊揮は無意識に払いのけていた。
章羊は、地面に叩きつけられながら、なおも言葉になりきらない感情を叫び続けていた。
珊揮は、それらをきれいに無視したまま、辺りを見回し、その名を呼んだ。
「戒莉!」
返る声はない。
珊揮は足元に転がっている人の顔を覗きこみ、確かめながら進んだ。
死体の中には、最期に何を見ようとしたのか大きく目が見開かれた者が多くあった。その視線をまともに受けても、珊揮は揺らぐことなく、次から次へと死体を検めていった。その姿は冷静沈着にも見て取れたが、何かに憑かれているようにも感じられた。
「戒莉!」
その言葉しか、もう残っていないかのように、珊揮は叫び続けていた。
少し、離れたところで、珊揮を呼ぶ者があった。
やはり地面に倒れているその男は、遠目にも戒莉ではないことが分かったが、珊揮は急に歩の勢いを強めて、近づいていった。
「戒莉は?」
口を開けば、これだ。
男は、負傷していた。脚をやられたらしく、自分で縛って血止めをしているものの、身動きがとれないらしい。
「分からねえ……」
男が苦しげに、しかしはっきりと言うと、珊揮は男に興味を失った。
珊揮は、また別の方向に体を向けた。
「悪かったな。お前にあいつを頼まれてたが、こっちもこんなザマだ」
背後から、男の声が聞こえた。
珊揮は振り返るのももどかしく、かろうじて一言だけ男に声を掛けることができた。
「戒莉を探して、また来るよ」
「ああ、頼む」
男は、深い息とともに目を閉じた。
首を巡らせ、珊揮は戒莉を探した。
辺りを見回す。
五、六人が転がっている。おそらく章羊の雇い人ではないような形だ。その中に一人、珊揮の気を引く者があった。正しくは、その男に突き立っている剣に珊揮は、はっとした。
天涯だ。
それはまさしく、数年前からの戒莉の愛剣だ。
これを手放したのは、何を意味するのだろうか。
珊揮は、ごくりと喉を鳴らした。
天涯から少し離れたところに、腕が転がっている。
そしてその傍らに、血溜りに突っ伏している人影が見えた。
その背からは、鋭い切っ先が天に向かってそそり立っていた。
人ひとりから、これほどの血が流れるのだろうか。
これほどの血を失って、人は生きていられるのだろうか。
珊揮は自らの血も、一瞬で失ったかのような感覚に囚われた。
倒れている男の背には、黒く長い髪が血でべったり張り付いていた。男は細身で、およそ杖身には見受けられず、しかし、それは正しく剣客であったはずだ。右手には、しっかりと剣が握られている。
珊揮は手を伸ばし、その男の顔を覗きこんだ。
「……戒莉」
直ぐに、分かった。
顔の大半が血に汚れ、裂傷と火傷のようなものを負っているが、明らかにそれは珊揮の探していた男だった。
剣が肩を貫いている他にも、腹部の傷も深く、出血がひどい。
半開きの目には光はなく、体はぴくりとも動かない。
「戒莉!」
珊揮は、強く呼びかける。
応答はない。
「戒莉!死ぬなんて許さないよ」
無茶なことが口を突いてでた。
それでも、返ってくる言葉はない。
だが、戒莉の唇からは細い息が零れた。
「戒莉!」
何度も、その名を呼んだ。
「ぁぁ…」
声らしきもののなれの果てだとしても、珊揮はそれを聞き逃さなかった。
「オレハ アンタヲ オイテ イク」
戒莉がそう言って、顔を歪めた。もしかしたら、笑ったのかもしれない。
珊揮は、頭の中がミシリと鳴るのを聞いた。
「そんなことは、許さないよ」
戒莉が自分を置いて死んでいく、そんなことが許されるはずがない。
また、戒莉が笑った。
「モウ ユルシテ」
気付けば、戒莉の血が珊揮を染めていた。
血を止めなければ。戒莉の命が流れていく。それをただ見送るだけの自分。
「ここで死んでも、お前は絶対に許されないよ。ここで死んだら、お前は幸せになれない」
戒莉の幸せ、それは自分が決めることではなかったはずだ。なのにこんなことを平気で言っている自分に、珊揮は気付いていなかった。
「私も不幸になってしまうだろう。だから、お前はここで死んではいけない」
そうだ。結局、自分なのだ。珊揮は、自分に嫌気が差す。
それでもいい。
ただ、生きていて欲しい。死なないで欲しい。
それだけだ。
「サン……」
小さく、かすれた声が珊揮の頬を撫でた。
こんなにも自分が無力だと感じたのは、あの日以来だった。
ただ、見送るだけしかなかったあの日を、二度と再び、繰り返したくはなかった。
「……タイ」
その唇に耳をつけて、珊揮は戒莉の心を聞いた。
『生きていたい』
そう、確かに珊揮は聞いた。