手が冷たい。
冷たいというよりも、痛い。
小さく、痩せ細った手に息を吹きかけて暖めようとしたが、それが叶ったのは一瞬のことだった。
働いても、働いても、何も変らない。
それが、当然のことだった。
その境遇を、端から見た人は口々に言う。
『お前は幸せ者だ』
ほんの僅かな食事でも、かすかな睡眠でも、与えられないよりは仕合わせ。
屋根のある家の中いられるだけで幸せ。
身の丈に合わない服でも、着られるだけ仕合わせ。
生きているんだから、死んでしまうよりは、幸せ。
本当にそうなのだろうか。
手を見る。
この手は、見えない鎖で繫がれている。
足をさする。
この脚は、見えない楔で打ちつけられている。
ここから逃れることは、できない。
もしも、自分がここを逃げ出したなら、路頭に迷うのは自分だけではない。
病がちの父親、身を粉にして働く母親、学校に行き始めた弟、まだ幼い妹たち。
みんなが幸せでいられるために、私はここに居る。
そう決めたのだから、ここに居続けなければならない。
病人の世話に明け暮れ、罵倒されても、折檻されても、ここに居なくては、みんなの幸せはないのだから。
◆◆◆◆
詠礼の朝は早い。
まだ薄暗い中で、身支度を調える。
鏡を見なくても、詠礼は完璧にそれを終えることができた。
後れ毛の一本もなく、髪をきっちりと結い、着物は皺がよらないように気をつけて身につける。その上からつける前掛けは真白で、染みひとつ、小穴ひとつないはずだ。
長年続けてきたことなので、早起きも身支度も苦にはならない。本当に辛いことは、こんなことではないことを詠礼は知っていた。
外にある井戸から水を汲んで、瓶をいっぱいにするまで繰り返した。
井戸は、勝手口のすぐ近くにあるとはいえ、水の入った桶は重く、難儀な仕事だった。
厨房に入り、竈に火を入れた。
それから、手を念入りに洗う。
鍋と鉄瓶に水をはり、火にかける。
鍋や調理台は昨晩のうちに磨き上げてあるが、それでも、詠礼は固く絞った台拭きで調理台をさらにぬぐった。
食材庫からいくつかの野菜を取り出し、それも洗った。
野菜は皮を剥いてから、火が通り易い大きさに刻んだ。
今、詠礼が作っているのは、野菜粥だ。
野菜は最初にすりおろしてもいいが、形が無くなるまで煮込んだ方が美味しい。少なくとも、詠礼はそう信じていた。
何年も病人の世話をし、年配の主人に仕えてきた詠礼は、健康な人間や若い者が口にする料理よりも、こういった消化が良く、食べ易いものを作るのが得意だった。
ここ暫く、普通の料理を作っていた詠礼だったが、今は病人がいる。いや、怪我人と言った方が正しいのかもしれない。
それは、ひと月前に家公がここに連れてきた男だ。
ここに来たばかりの男は、顔の鼻と口をのぞいたすべてを包帯で覆われていた。顔だけではない、体もそこかしこに包帯が巻かれており、傷は全く見えないが、ひどい怪我をしていることが分かった。
男は一日の大半を寝台で過ごし、ほとんど眠っていた。
食が細く、ただでさえ細い体は日に日に痩せていくようだった。
詠礼は少しでも食べて貰おうと、料理を工夫した。
そうして詠礼が作ったもののほとんどは食べ残されたが、男は男なりになんとか食べようとしているようだった。
二口、三口、あるいは半分と減っている皿を下げながら、詠礼は次はもう少し食べてもらいたいと密かに願っていた。
野菜粥は、ただひたすら煮込むだけだ。野菜や米がとろとろに溶けるまで、時間をかけるのだ。そうして味付けは塩だけでととのえる。
あの男の好みは、あまりこってりとした味付けではないようだ。簡素で、そして口当たりのよいもの。むしろそれはとても難しい。
野菜粥は、以前に出したところ、男はほとんどを平らげてくれた。もっとも、そんなに量は多くはなかったが、詠礼はそれが嬉しかった。
ただ、同じものばかりではよくないと、詠礼は暫く間をあけていた。今日は、そろそろいいかと思った。
詠礼は、ながい下ごしらえをした野菜粥の鍋を火にかけて、それでようやく家公の朝食の準備を始めた。
詠礼は、鍋から粥をふたつきの器に控えめに盛り付けた。
野菜を刻んで塩で揉み、小魚を散らしたものを添えて、茶器と、湯をたっぷりいれた急須とを一緒に盆に載せる。
詠礼は、身なりに乱れがないかを確認すると、厨房を出、その寝室に向かった。
男は既に起きているはずだ。さきほど詠礼の家公である珊揮が厨房に顔を出し、そう言っていた。
詠礼は、寝室の扉を叩き、珊揮の『どうぞ』という声を合図に、片手で扉を押して軽く頭を下げながら、寝室に入った。
その部屋は、特に華美なところはないつくりで、調度品もごく質素で、必要最低限の家具しか入っていない。ただ、非常識なほどに大きな寝台が、その異様さを醸していた。
珊揮は大男だが、この寝台はその珊揮が3人寝ても、まだ余裕があるようしろものだった。
今、その寝台から身を起こそうとしているのは、細身の男ひとりだった。
顔のほとんどを包帯で覆われた、その男は戒莉といった。
詠礼は、窓際の小さな卓に盆を置き、茶を茶器に注いだ。
ぱっと、香りが広がる。香萌という、さっぱりとした茶だ。朝に飲むのにとても丁度よい。
戒莉は、寝台の上で食事をあまりとらない。相当に調子が悪くない限りは、きちんと椅子に座って、卓の上の料理を食べる。
そうしないと病人みたいだからだと、言っていた。
それを聞いた珊揮は、
『戒莉は、そうでなくても充分病人なんだけどねえ』
と、苦笑していた。
戒莉はゆっくりと体をひねり、のろのろと足の裏を床につけた。そして、寝台の柱に右手で掴りながら、よろよろと立ち上がる。
左腕は、だらりと下がったままで、使われることはない。
一呼吸を置いて、足を引きずりながら、戒莉は窓際の卓まで歩こうとしていた。
それらは、戒莉ひとりで行う。どんなに時間がかかっても、戒莉は珊揮の手を借りるのを嫌う。
ここに来た頃は自力で起き上がることはもちろん、寝返りをうつことすら難しかった。そう考えると、戒莉の体は良くなっている。だが、普通の暮らしをするのは、まだまだ先のことのようだった。
詠礼はいちど厨房に戻り、こんどは珊揮の食事を運んだ。
食事中の給仕はしなくてもいいという珊揮の言葉に従い、詠礼は料理を運ぶだけ運んで、寝室を出る。
詠礼は寝室を出る前に、壁に掛けられた剣をちらりと見るともなく見て、扉を閉めた。
あの寝室には、剣が掛けられている。
ふたふりはとにかく大きく、長く、幅広で、とても重そうなしろものだ。これは、珊揮がいつも腰に下げているものだ。
そして、もうふたふりが、剣に詳しくはない詠礼の目にも、とても珍しいものに映った。
一方は、少し短めで細身の剣だった。鞘が黒く塗られていて、金彩で雷雲が描かれていた。
もう一振りは珊揮の剣に比べれば細いが、なかなかにごついしろものだった。渋い銀色の鞘には、細かい蔓草模様が打ち出されている。
これらが戒莉のものだと聞いた時、詠礼は少なからず驚いたものだ。
ころあいをみて、新しいお茶を持っていく。食事のお代わりが必要かを伺い、それが不要であれば皿を下げる。
毎朝の、これが決まりだ。
詠礼は、こんなことを、かれこれひと月も繰り返している。
世話をするのが珊揮と戒莉の二人だけ。家自体もこじんまりとしたつくりで、寝室はひとつしかなく、他の部屋も居間や客間を入れても四つほどだ。詠礼一人で、手がまわる範囲だとは言えた。
それでも、やはり朝から晩までに詠礼がやるべきことは、とても多い。
床を磨き、調度を磨き、寝台を整え、洗濯をし、食事の支度や片付けをする。買い出しに出かけることもあるし、外に用事を言い付かることもある。
珊揮の別荘に来る前の詠礼は、老夫婦の家に四年仕えていた。
だが、ご主人が亡くなって、直ぐに奥様も後を追うように亡くなり、詠礼は途方に暮れていた。その時に、声をかけてくれたのが珊揮だった。
はじめは、珊揮が別荘に滞在するほんの二週間ほどの約束で、その間に新しい家を探してやろうと言うことだった。
だが、突然珊揮が出かけ、留守を任された。そうして二十日ほどだった時に、珊揮が戒莉を連れて戻ってきたのだ。
あの時の戒莉は、ただぐったりと珊揮に抱えられているだけだったが、今では自分で起き上がり、立って歩くこともできるようになった。
いつまでこの生活が続くのかといえば、戒莉の回復次第ということになる。
次の職場のことも、珊揮は探してくれるだろうが、先が分からないのは詠礼にとって不安なことだった。
詠礼は、鍋を磨き終えると、新しい茶の準備を始めた。