それは戒莉の前に現われた、初めての見舞い客だった。
「久しいな」
その声に、戒莉は驚きはしなかった。
「そうだな。もう少しはやく見舞いに来るかと思ってた」
「そうしたかったのは、やまやまだったが、珊揮が近づけてくれなかった」
「珊揮の許しが出たって訳か」
「いや、そういうわけではない」
「へえ……」
では、どうしたのだと、戒莉は問うことはなかった。
珊揮が何事か用があると珍しく出かけていったのを見送ったのは、ついさっきのことだ。
「で、体はよくなったのか?」
この男が、そんなことに興味があるのかと、戒莉は胸の内で舌打ちをした。
「見てのとおりだ」
短く、低く答える。
「あまり、よくないな」
楽しげだ。
「よければお前の顔のひとつやふたつ、張り倒してるとこだ」
苛立ちは、留めようがない。それを無理やり抑えている故に、声は常よりも低くなる。
「なるほど。それは、なによりだ」
それを承知で、この男は笑った。
「俺の調子が上がってないことが、あんたには幸いか」
「まあ、そうとも言える」
「用件を言え」
下らないやりとりに、早くも戒莉の痺れがきれる。
「ただの見舞いとは、思わないか」
「思わないね。あんたのことだ。また何か企んでるんだろ」
「ひどい言われようだ。だが、甘んじて受けいれるよ」
「何の用だ?」
それを、言わされる。
「その体、何とかしたいと思わないか」
そう来た。
「思うね。いい方法でも知ってるのか」
確かに、何か方法があるなら、何でも聞いてやってもいいと、この時の戒莉は思っていた。
男は戒莉の期待に応えるように、こう言った。
「ああ、とてもいいやり方がある」
「あんたは、それをただでは教えてくれるつもりはないだろ」
この男の頭には、親切も憐れみもありはしないはずだ。
「そうだ」
男は、そう断じる。更に続ける。
「そして、その方法は単に怪我や体調が良くなるだけでは済まない」
これは相当にまずそうだ。
だが、これを聞かずにいられる程、戒莉に余裕はなかった。
「あんたの方法だと、俺はどうすればいいんだ?」
「お前が仙になればいい」
男がどんな顔をして、こんな事を言っているのだろうか。
戒莉は目が見えないことを、もどかしく感じた。
「仙? なんだよ、それ」
苛立ちが声に現れる。
「まあ、あっという間に体がよくなる訳ではないが、並の人間であるよりも、治りは早くなるし、少し無理な治療もできる」
「あの薬か」
瀕死の戒莉を助け、戒莉を未だに苦しめている薬だ。
「そうだ。あれは並の人間に使いすぎると死ぬような代物だ。だが、仙であれば耐えられる」
「それで、よくなったら俺はどうなるんだ? あんたの下で、働けばいいのか?」
仙になる。それがどれ程の意味を持つのか、戒莉は正しく理解してはいない。だが、どんなに親切な人物であろうと、気軽にその手はずを整えてくれるようなことではないのは分かる。
それにも関わらず、男の口からは甘い言葉が流れ続けた。
「それは無理だ。お前には向かない。お前には、もっと違う役目を負ってもらいたい。柳に居ろとも言わない。ふだんは別に仕事などしなくてもいい。珊揮とともに剣客を続けていてかまわない」
男は、怪しめと言わんばかりの好条件を並べてみせる。
「それで俺を仙にして、あんたに何の得があるんだ?」
「いざという時に、その役目を果たしてくれればいい。それも、一瞬で終わるような仕事だ」
「その役目って、何だ?」
戒莉は回りくどいことは言わないし、聞くのも御免だという性質だ。この会話には、苛立つものが抑えられなかった。
「それは言えない」
男の言葉は、戒莉が想像したものよりも簡素なものだった。
「は?」
「お前が仙になった後でなければ、言うことは出来ない」
「なんだよ、それ」
呆れる。
「お前が仙になるのは、悪いことではないだろう。お前自身にとっても、珊揮にとっても」
「何が言いたい?」
自分の腹の中を隠したまま、戒莉が言いなりになるという勝算が、この男にはあるのだ。
「ずっと、剣客として生きられる。珊揮と一緒に、或いは珊揮のように」
「なにを言って」
どうしてここに珊揮が出で来るのか、戒莉自身が分かっていることだ。
「そうだろう。このままいけば、お前は死ぬ。今死ななくても、斬られて死ななくても、いつか年老いて死ぬ。そして仙である珊揮は生き続けるしかない」
「そんなことは、当たり前のことだ。珊揮はそうやって生きてきたはずだ」
「しかし、お前が仙となれば話は違う」
男は、すかさず戒莉の言葉に切り込んだ。
「バカバカしい話だな」
それくらいしか言える言葉が見つからない。
「そうか?」
笑みを含んだ声が響く。
「俺が仙になる? なんの為に仙になるかも知らないで。あんたの言いなりになるとでも思ってるのか」
「お前が仙にさえなれば、教えてやる。そうだな、今、ひとつ教えてやろう。お前の役目は、ある人物を殺すことだ」
「なんだよ、それ」
「それは、お前にとって大切な人物ではないし、個人的に関わりなどない人物だ。ただ、斬るべきときがきたら、斬ればいい。それだけだ。もし、斬らなくてもよければ、斬らなくてもいい。本心から言えば、俺も斬って欲しくはないくらいだ」
「あんたの話は、なんだか、分からない」
本当に分からない。
この男は、そんな意味のあるのかない分からない殺人へと、戒莉の背中を押そうとしている。
「これは、簡単に決めていいことではない。だから、今返事はするな。よく考えろ。だが、何年も待てる話でもない。十日後にまた来る」
「勝手に決めるな」
だからと言って、今、戒莉にこの話を断れるだけの力がない。
「本気で考えろ。どうしたいか、どうすべきか。自分で考えろ」
漣浄の声は、そう命じて、闇の中に溶けていった。