『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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『訪問者』

 それは戒莉の前に現われた、初めての見舞い客だった。

 

 

「久しいな」

 その声に、戒莉は驚きはしなかった。

「そうだな。もう少しはやく見舞いに来るかと思ってた」

「そうしたかったのは、やまやまだったが、珊揮が近づけてくれなかった」

「珊揮の許しが出たって訳か」

「いや、そういうわけではない」

「へえ……」

 では、どうしたのだと、戒莉は問うことはなかった。

 珊揮が何事か用があると珍しく出かけていったのを見送ったのは、ついさっきのことだ。

 

「で、体はよくなったのか?」

 この男が、そんなことに興味があるのかと、戒莉は胸の内で舌打ちをした。

「見てのとおりだ」

 短く、低く答える。

「あまり、よくないな」

 楽しげだ。

「よければお前の顔のひとつやふたつ、張り倒してるとこだ」

 苛立ちは、留めようがない。それを無理やり抑えている故に、声は常よりも低くなる。

「なるほど。それは、なによりだ」

 それを承知で、この男は笑った。

「俺の調子が上がってないことが、あんたには幸いか」

「まあ、そうとも言える」

「用件を言え」

 下らないやりとりに、早くも戒莉の痺れがきれる。

「ただの見舞いとは、思わないか」

「思わないね。あんたのことだ。また何か企んでるんだろ」

「ひどい言われようだ。だが、甘んじて受けいれるよ」

「何の用だ?」

 それを、言わされる。

「その体、何とかしたいと思わないか」

 そう来た。

「思うね。いい方法でも知ってるのか」

 確かに、何か方法があるなら、何でも聞いてやってもいいと、この時の戒莉は思っていた。

 男は戒莉の期待に応えるように、こう言った。

「ああ、とてもいいやり方がある」

 

「あんたは、それをただでは教えてくれるつもりはないだろ」

 この男の頭には、親切も憐れみもありはしないはずだ。

「そうだ」

 男は、そう断じる。更に続ける。

「そして、その方法は単に怪我や体調が良くなるだけでは済まない」

 これは相当にまずそうだ。

 だが、これを聞かずにいられる程、戒莉に余裕はなかった。

「あんたの方法だと、俺はどうすればいいんだ?」

 

「お前が仙になればいい」

 男がどんな顔をして、こんな事を言っているのだろうか。

 戒莉は目が見えないことを、もどかしく感じた。

「仙? なんだよ、それ」

 苛立ちが声に現れる。

「まあ、あっという間に体がよくなる訳ではないが、並の人間であるよりも、治りは早くなるし、少し無理な治療もできる」

「あの薬か」

 瀕死の戒莉を助け、戒莉を未だに苦しめている薬だ。

「そうだ。あれは並の人間に使いすぎると死ぬような代物だ。だが、仙であれば耐えられる」

「それで、よくなったら俺はどうなるんだ? あんたの下で、働けばいいのか?」

 仙になる。それがどれ程の意味を持つのか、戒莉は正しく理解してはいない。だが、どんなに親切な人物であろうと、気軽にその手はずを整えてくれるようなことではないのは分かる。

 それにも関わらず、男の口からは甘い言葉が流れ続けた。

「それは無理だ。お前には向かない。お前には、もっと違う役目を負ってもらいたい。柳に居ろとも言わない。ふだんは別に仕事などしなくてもいい。珊揮とともに剣客を続けていてかまわない」

 男は、怪しめと言わんばかりの好条件を並べてみせる。

「それで俺を仙にして、あんたに何の得があるんだ?」

「いざという時に、その役目を果たしてくれればいい。それも、一瞬で終わるような仕事だ」

「その役目って、何だ?」

 戒莉は回りくどいことは言わないし、聞くのも御免だという性質だ。この会話には、苛立つものが抑えられなかった。

 

「それは言えない」

 男の言葉は、戒莉が想像したものよりも簡素なものだった。

「は?」

「お前が仙になった後でなければ、言うことは出来ない」

「なんだよ、それ」

 呆れる。

「お前が仙になるのは、悪いことではないだろう。お前自身にとっても、珊揮にとっても」

「何が言いたい?」

 自分の腹の中を隠したまま、戒莉が言いなりになるという勝算が、この男にはあるのだ。

「ずっと、剣客として生きられる。珊揮と一緒に、或いは珊揮のように」

「なにを言って」

 どうしてここに珊揮が出で来るのか、戒莉自身が分かっていることだ。

「そうだろう。このままいけば、お前は死ぬ。今死ななくても、斬られて死ななくても、いつか年老いて死ぬ。そして仙である珊揮は生き続けるしかない」

「そんなことは、当たり前のことだ。珊揮はそうやって生きてきたはずだ」

 

「しかし、お前が仙となれば話は違う」

 男は、すかさず戒莉の言葉に切り込んだ。

「バカバカしい話だな」

 それくらいしか言える言葉が見つからない。

「そうか?」

 笑みを含んだ声が響く。

「俺が仙になる? なんの為に仙になるかも知らないで。あんたの言いなりになるとでも思ってるのか」

「お前が仙にさえなれば、教えてやる。そうだな、今、ひとつ教えてやろう。お前の役目は、ある人物を殺すことだ」

「なんだよ、それ」

「それは、お前にとって大切な人物ではないし、個人的に関わりなどない人物だ。ただ、斬るべきときがきたら、斬ればいい。それだけだ。もし、斬らなくてもよければ、斬らなくてもいい。本心から言えば、俺も斬って欲しくはないくらいだ」

「あんたの話は、なんだか、分からない」

 本当に分からない。

 この男は、そんな意味のあるのかない分からない殺人へと、戒莉の背中を押そうとしている。

「これは、簡単に決めていいことではない。だから、今返事はするな。よく考えろ。だが、何年も待てる話でもない。十日後にまた来る」

「勝手に決めるな」

 だからと言って、今、戒莉にこの話を断れるだけの力がない。

「本気で考えろ。どうしたいか、どうすべきか。自分で考えろ」

 

 

 

 漣浄の声は、そう命じて、闇の中に溶けていった。

 

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