『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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『そう決めた』

 

 リンレイが死んでから、僕はよく逃げた。

 行くところなんてないのに、どうして逃げるのか、よく分からなかった。

 逃げて、直ぐに捕まって、殴られ、蹴られて、縛られる。

 その時は、もう逃げないと、思う。

 それでも、傷が治る頃には、逃げたくなる。

 それで、また逃げて、捕まる。

 それを繰り返し、繰り返ししてしまう。

 

 

 

「久しぶりに寄らせてもらったよ」

 いつものようにはいつくばって、床を拭いていた時だった。

 頭の上から、日本語が聞こえてきた。

 そこには、とても大きな男の人が立っていた。

 その男の人は、僕ではなくて、女の人に話しかけていた。

 僕はびっくりしたし、嬉しかった。その人が何を喋っているが分かるのが、とても嬉しかった。

 でも、その男の人は女の人に引っ張られて、すぐに行ってしまった。

 僕はその後、また怒られた。なんで怒られたのか、よく分からなかったけど、たぶん女の人の邪魔をしたからかもしれない。

 

 怒鳴られるのは、もう慣れたから、怖くはなかった。でも、叩かれたり、蹴られたりするのには、いつまでも慣れなかった。慣れることができたらいいのにと、思った。そうしたら、もっと楽だっただろうし、痛がらない僕を、殴っている人は詰まらないと思うかもしれないから。

 

 日本語を話す男の人が建物から帰る時に、僕は声をかけてしまった。

 その人は驚いたけれど、僕を怒らなかった。

 その人は、僕の名前を訊いてくれた。でも、僕は直ぐに答えることができなかった。

 僕は、自分の名前が一瞬、思い出せなかった。

 そんなことがあるんだ。

 僕は、びっくりした。

 僕は、もう長い間、名前で呼ばれたことがなかった。呼ばれないと忘れてしまうなんて、僕はなんて馬鹿なんだろうと、なんだか泣きたくなった。

 その男の人は、サンキという名前だった。

 

 

 サンキは、いろいろとこの世界のことを教えてくれた。

 そして、やっぱり僕はもう帰れないのだということも、教えてくれた。

「帰りたいのかい?」

 そう聞かれて、『帰りたい』と、僕は言わなかった。

 僕は、帰りたかったんじゃないんだ。

 僕は、ただ、ここに居たくなかった。でも、どこかに行きたいんでも、帰りたいんでもなかった。

 

 

 

 ここに居たくない。それだけでは、どこにも行けない。

 

 

 分かっていた。

 どこへ行っても同じ、だから居たい場所を探していた。

 だから、俺はここに居ると、決めた。

 ここに居たいから、ここに居る。

 

 そう、決めた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 星が見えたような気がして、戒莉は天を仰いだ。

 それが気のせいだということに気付いても、戒莉の心は暫く空に向かっていた。

 夜気が首筋を通り抜ける。

 陽が落ちて、庭に出てみたくなった戒莉だったが、それで気分が変ることはなかった。

 

 陰鬱だ。

 ここ数日、いままで生きていた中で存在しえなかった程の鬱々としたものに、戒莉は悩まされていた。

 

 

「戒莉」

 声がかかる。

「ちょっと話があるから、中に入りなさい」

 ずいぶんもったいぶった言い方だと、戒莉はぼんやりとそれを聞いていた。

 のろのろとした歩みで部屋に向かう。珊揮は手を引きはしない。戒莉がそれを嫌がるのと、訓練のひとつだとでも思っているせいだろう。

 

 

「で、話って?」

 ようやく部屋に戻り、長椅子に座り込み、息を整えて戒莉はだるそうに聞いた。

「ああ、章羊のことなんだけどね」

「章羊?」

 意外という訳ではないはずだ。今の戒莉の状況は、章羊の事件からきていることだ。だが、戒莉は章羊の一件からは、ずっと遠ざけられていた。もう戒莉にとっては終わったことだと、言い渡されているようなものだった。

 ところが今、珊揮は急に章羊のことを話題にした。

 戒莉は訊き返さずにはいられなかった。

「章羊が私と話したいと、言っているらしいんだよ」

 それは意外なことだった。

「何を今更」

 今更だ。戒莉は、呻くようにそうこぼした。

「そうだね。章羊に、今さら話すことがあるとは思えないね」

 珊揮の声の調子には、迷いや惑いは感じられなかった。

 今更なのだ。何もかもが。

「しかも私に、何の話があるというんだろうね。まあ、そういう興味はあるけどね」

 軽い笑みを含んで、珊揮が言う。

「最期の願いをきいてやるのが、慈悲とかいうものなのかもしれないけどね。私は、生憎それほど優しい男ではないんだよ」

 

 

 冷やりとしたものが、戒莉の耳奥に届いた。

 

 

 珊揮は、戒莉に茶器を握らせる。落ち着けということらしい。

 戒莉はその意図を酌んだ訳ではないが、そっと茶を啜って、口を押さえた。

 飲み下したしたはず茶が逆流してきそうになった。

「……」

 声にならない。

「藍椋のお茶だよ。戒莉のことを伝えたら、送って寄越したよ。今朝とどいたんだよ」

 きっと、珊揮はにこにこと屈託なく笑っているのだろう。

 戒莉は、口に広がる苦く、甘い、不愉快な風味にここ数日の憂いを忘れた。

 それは本当に不味くて、何んとも懐かしい味だ。

 戒莉は、藍椋のあのまくし立てる口調を思い出した。彼女は元気に暮しているのだろうか。柳は荒れているという。そんな状態が続いていても尚、王は倒れていないというのがむしろ奇妙だと、珊揮が数日前に言っていた。

 

「まあ、お前は何も心配しなくていいんだよ。今は、体を治すことだけ考えなさい」

 あの岩のような顔を見ないで聞く優しげな声に、戒莉は違和感を感じた。

「だったら何で、章羊のことを俺に話したんだ?」

「おや、黙っていた方がよかったのかい」

 珊揮の声は、からかうような声音を含んでいる。

「いや、そうじゃないけど」

「けど?」

 重ねて尋く。

「あんたは、俺にはいつもそういうことを隠すから」

「ああ、そうだね」

 悪びれることもなく、珊揮は認める。

「でも、隠し事はよくないと思ってね。反省したんだよ、私もね」

 

 そう言われて、戒莉はつい口をつぐんでしまった。

 

 

 

 

 

 

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