リンレイが死んでから、僕はよく逃げた。
行くところなんてないのに、どうして逃げるのか、よく分からなかった。
逃げて、直ぐに捕まって、殴られ、蹴られて、縛られる。
その時は、もう逃げないと、思う。
それでも、傷が治る頃には、逃げたくなる。
それで、また逃げて、捕まる。
それを繰り返し、繰り返ししてしまう。
「久しぶりに寄らせてもらったよ」
いつものようにはいつくばって、床を拭いていた時だった。
頭の上から、日本語が聞こえてきた。
そこには、とても大きな男の人が立っていた。
その男の人は、僕ではなくて、女の人に話しかけていた。
僕はびっくりしたし、嬉しかった。その人が何を喋っているが分かるのが、とても嬉しかった。
でも、その男の人は女の人に引っ張られて、すぐに行ってしまった。
僕はその後、また怒られた。なんで怒られたのか、よく分からなかったけど、たぶん女の人の邪魔をしたからかもしれない。
怒鳴られるのは、もう慣れたから、怖くはなかった。でも、叩かれたり、蹴られたりするのには、いつまでも慣れなかった。慣れることができたらいいのにと、思った。そうしたら、もっと楽だっただろうし、痛がらない僕を、殴っている人は詰まらないと思うかもしれないから。
日本語を話す男の人が建物から帰る時に、僕は声をかけてしまった。
その人は驚いたけれど、僕を怒らなかった。
その人は、僕の名前を訊いてくれた。でも、僕は直ぐに答えることができなかった。
僕は、自分の名前が一瞬、思い出せなかった。
そんなことがあるんだ。
僕は、びっくりした。
僕は、もう長い間、名前で呼ばれたことがなかった。呼ばれないと忘れてしまうなんて、僕はなんて馬鹿なんだろうと、なんだか泣きたくなった。
その男の人は、サンキという名前だった。
サンキは、いろいろとこの世界のことを教えてくれた。
そして、やっぱり僕はもう帰れないのだということも、教えてくれた。
「帰りたいのかい?」
そう聞かれて、『帰りたい』と、僕は言わなかった。
僕は、帰りたかったんじゃないんだ。
僕は、ただ、ここに居たくなかった。でも、どこかに行きたいんでも、帰りたいんでもなかった。
ここに居たくない。それだけでは、どこにも行けない。
分かっていた。
どこへ行っても同じ、だから居たい場所を探していた。
だから、俺はここに居ると、決めた。
ここに居たいから、ここに居る。
そう、決めた。
◆◆◆◆◆◆◆
星が見えたような気がして、戒莉は天を仰いだ。
それが気のせいだということに気付いても、戒莉の心は暫く空に向かっていた。
夜気が首筋を通り抜ける。
陽が落ちて、庭に出てみたくなった戒莉だったが、それで気分が変ることはなかった。
陰鬱だ。
ここ数日、いままで生きていた中で存在しえなかった程の鬱々としたものに、戒莉は悩まされていた。
「戒莉」
声がかかる。
「ちょっと話があるから、中に入りなさい」
ずいぶんもったいぶった言い方だと、戒莉はぼんやりとそれを聞いていた。
のろのろとした歩みで部屋に向かう。珊揮は手を引きはしない。戒莉がそれを嫌がるのと、訓練のひとつだとでも思っているせいだろう。
「で、話って?」
ようやく部屋に戻り、長椅子に座り込み、息を整えて戒莉はだるそうに聞いた。
「ああ、章羊のことなんだけどね」
「章羊?」
意外という訳ではないはずだ。今の戒莉の状況は、章羊の事件からきていることだ。だが、戒莉は章羊の一件からは、ずっと遠ざけられていた。もう戒莉にとっては終わったことだと、言い渡されているようなものだった。
ところが今、珊揮は急に章羊のことを話題にした。
戒莉は訊き返さずにはいられなかった。
「章羊が私と話したいと、言っているらしいんだよ」
それは意外なことだった。
「何を今更」
今更だ。戒莉は、呻くようにそうこぼした。
「そうだね。章羊に、今さら話すことがあるとは思えないね」
珊揮の声の調子には、迷いや惑いは感じられなかった。
今更なのだ。何もかもが。
「しかも私に、何の話があるというんだろうね。まあ、そういう興味はあるけどね」
軽い笑みを含んで、珊揮が言う。
「最期の願いをきいてやるのが、慈悲とかいうものなのかもしれないけどね。私は、生憎それほど優しい男ではないんだよ」
冷やりとしたものが、戒莉の耳奥に届いた。
珊揮は、戒莉に茶器を握らせる。落ち着けということらしい。
戒莉はその意図を酌んだ訳ではないが、そっと茶を啜って、口を押さえた。
飲み下したしたはず茶が逆流してきそうになった。
「……」
声にならない。
「藍椋のお茶だよ。戒莉のことを伝えたら、送って寄越したよ。今朝とどいたんだよ」
きっと、珊揮はにこにこと屈託なく笑っているのだろう。
戒莉は、口に広がる苦く、甘い、不愉快な風味にここ数日の憂いを忘れた。
それは本当に不味くて、何んとも懐かしい味だ。
戒莉は、藍椋のあのまくし立てる口調を思い出した。彼女は元気に暮しているのだろうか。柳は荒れているという。そんな状態が続いていても尚、王は倒れていないというのがむしろ奇妙だと、珊揮が数日前に言っていた。
「まあ、お前は何も心配しなくていいんだよ。今は、体を治すことだけ考えなさい」
あの岩のような顔を見ないで聞く優しげな声に、戒莉は違和感を感じた。
「だったら何で、章羊のことを俺に話したんだ?」
「おや、黙っていた方がよかったのかい」
珊揮の声は、からかうような声音を含んでいる。
「いや、そうじゃないけど」
「けど?」
重ねて尋く。
「あんたは、俺にはいつもそういうことを隠すから」
「ああ、そうだね」
悪びれることもなく、珊揮は認める。
「でも、隠し事はよくないと思ってね。反省したんだよ、私もね」
そう言われて、戒莉はつい口をつぐんでしまった。