ふつかに一度、戒莉の体を拭くのに使うために、詠礼は湯を沸かす。
その夜も、珊揮に言われたわけではないが、詠礼は湯を沸かす準備をしていた。
朝、水がめに汲んだ水では足りないので、井戸に向かう。
桶を井戸の底に落とすと、水音が下の方で響く。
ふいに、詠礼はゾッとする。
振り切るように、詠礼は水を汲み上げた。
「ああ、ありがとう」
湯と乾いた布を用意しているところに、珊揮が現れた。
「お湯は私が運ぶよ」
珊揮はいつもそう言ってくれる。
「御願いします」
最初はこれに恐縮していた詠礼だったが、その方が合理的だとする珊揮の笑顔に、今では素直にそう応えていた。
ひとあし先に、珊揮が湯を運び、詠礼は遅れて布などを持って寝室に向かった。
寝室には、戒莉が居た。
戒莉は、寝台には横になっていなかったが、窓際に置かれた椅子に座って、外に顔を向けてぼんやりとしている様子だった。
目は包帯で覆われていたので、見えているはずはなかったが、詠礼には戒莉が何かを見ているかのように思えた。
開け放たれた窓の向こうは、夜の闇しかなかった。少し離れた民家の明かりが漏れているが、昼の光のように風景を照らすことはない。
ここで代えの包帯をうっかり持ち忘れたことに気付いた詠礼は、寝室を一度出た。
詠礼が寝室に戻ると、扉が少し開いていた。
慌てていたのかもしれない。さきほど出て行ったときに、詠礼は、扉をきちんと閉めなかったのだろう。
開いているからと言って、そのまま部屋に入るのは気がひけた。
詠礼は、もう開いている戸を叩こうとして、手を止めた。
戒莉が背をこちらに向けて立っているのが見えた。
体を拭くために、着物を脱いでいる様子で、詠礼は直ぐに目を逸らした。
どう考えても、このまま入ってはいけない。
詠礼は仕方なく、このまま廊下に控えていようと思った。
手元には、白い包帯がある。
ちらと見えた戒莉の背には、疵があった。
まだ癒えきってはいない傷、そして古いと思われる疵。
どれもこれも痛々しかったが、詠礼の胸に鋭く飛び込んできたのは、刀疵ではなかった。
それは、何かで打ち据えられた痕だった。何度も打たれて出来る痣だ。
おそらく最近のものでない。
誰かに、毎日のように殴られ、蹴られ続けて刻まれる。
「……」
詠礼は、自分の背に激痛が走るのを、感じた。
それは、錯覚に過ぎない。
詠礼を打つ者は、ここには居ない。
分かっていた。
けれど、詠礼はその幻痛から、逃れられなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
怖ろしい夢を見た。
この別荘に居るのが夢で、自分はまだあの男の妻であるという夢だ。
もがくように目覚めた後も、暫くその恐怖は続いた。
息ができない。
このまま、このまま、いっそ、いっそ、もうあの男の手の届かないところへ、行ってしまおう。
どうか、どうか。
もう、わたしはあそこには帰らない。
「詠礼!」
声が聞こえた。
手を伸ばす。
誰かが、手を握る。
誰かが、引き上げる。
「詠礼、大丈夫かい?」
優しく問いかける声がある。
岩のように厳つい顔に、柔らかな笑が浮かんでいる。
「わたし……何を」
詠礼が周囲に目をやると、世界が徐々に見えてきた。
詠礼は、珊揮に抱えられている自分に気付く。
「どうして……わたし」
「そこでね。気を失っていたんだよ」
珊揮は、寝室の戸口を視線で指して、そう微笑んだ。
「落ち着いたかな」
珊揮に勧められるままに、詠礼は客間の長椅子に座った。
「申し訳ありません……ご迷惑を……」
詠礼の声は細かく震えていた。押さえようとしても、それはどうしようもなかった。
廊下から、寝室の中をうっかり見たことを、詠礼は思い出した。
そして、見たものを思い出した。
「なにかに驚いた?」
「いえ……はい」
珊揮の問いかけに、詠礼は否定しようとしたが、それはできなかった。
「あの、戒莉さまの背中に」
「戒莉の背中?」
珊揮は首をかしげて、戒莉の背中のことを思い描いた。
陽にさらされぬ分、その肌は青白い。その背には、いくつかの刀疵、ひと月ほど前に負った傷もある。
そして、ふるい痣だ。
珊揮が戒莉と出逢う前に、既にあったものだ。
あの妓楼で、あるいはそれ以前に居たという農園で、殴られ、打たれていたという痕だ。
「戒莉は、前にいたところでちょっと辛い目に遭っていてね。でも、もう大丈夫なんだよ。詠礼も同じだよ」
「わたし?」
詠礼は、びくりとした。
「そうだよ。詠礼も、もう大丈夫だよ。ここに居るからね。ここは、安心だよ。そうだろう」
「ここ?」
詠礼は、頭を軽く振りながら、混乱を解きほぐそうとした。
ここは、どこだろうか。
ここは、珊揮の別荘だ。ここで、詠礼は女中をしている。
ここで詠礼は、珊揮と戒莉の世話をしている。
ここは、安心だ。ここは、安全だ。
あの男はいない。
詠礼は、ようやく息ができることに気付いた。
「わたし、混乱してしまって……申し訳ありません」
我にかえった。
そういう詠礼の顔に、珊揮はほっと息をついた。