『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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『まぼろし』

 ふつかに一度、戒莉の体を拭くのに使うために、詠礼は湯を沸かす。

 その夜も、珊揮に言われたわけではないが、詠礼は湯を沸かす準備をしていた。

 朝、水がめに汲んだ水では足りないので、井戸に向かう。

 桶を井戸の底に落とすと、水音が下の方で響く。

 ふいに、詠礼はゾッとする。

 振り切るように、詠礼は水を汲み上げた。

 

 

「ああ、ありがとう」

 湯と乾いた布を用意しているところに、珊揮が現れた。

「お湯は私が運ぶよ」

 珊揮はいつもそう言ってくれる。

「御願いします」

 最初はこれに恐縮していた詠礼だったが、その方が合理的だとする珊揮の笑顔に、今では素直にそう応えていた。

 ひとあし先に、珊揮が湯を運び、詠礼は遅れて布などを持って寝室に向かった。

 

 

 

 寝室には、戒莉が居た。

 戒莉は、寝台には横になっていなかったが、窓際に置かれた椅子に座って、外に顔を向けてぼんやりとしている様子だった。

 目は包帯で覆われていたので、見えているはずはなかったが、詠礼には戒莉が何かを見ているかのように思えた。

 開け放たれた窓の向こうは、夜の闇しかなかった。少し離れた民家の明かりが漏れているが、昼の光のように風景を照らすことはない。

 ここで代えの包帯をうっかり持ち忘れたことに気付いた詠礼は、寝室を一度出た。

 

 

 

 詠礼が寝室に戻ると、扉が少し開いていた。

 慌てていたのかもしれない。さきほど出て行ったときに、詠礼は、扉をきちんと閉めなかったのだろう。

 開いているからと言って、そのまま部屋に入るのは気がひけた。

 詠礼は、もう開いている戸を叩こうとして、手を止めた。

 

 戒莉が背をこちらに向けて立っているのが見えた。

 体を拭くために、着物を脱いでいる様子で、詠礼は直ぐに目を逸らした。

 どう考えても、このまま入ってはいけない。

 詠礼は仕方なく、このまま廊下に控えていようと思った。

 

 手元には、白い包帯がある。

 

 

 ちらと見えた戒莉の背には、疵があった。

 まだ癒えきってはいない傷、そして古いと思われる疵。

 どれもこれも痛々しかったが、詠礼の胸に鋭く飛び込んできたのは、刀疵ではなかった。

 それは、何かで打ち据えられた痕だった。何度も打たれて出来る痣だ。

 おそらく最近のものでない。

 誰かに、毎日のように殴られ、蹴られ続けて刻まれる。

「……」

 詠礼は、自分の背に激痛が走るのを、感じた。

 それは、錯覚に過ぎない。

 詠礼を打つ者は、ここには居ない。

 分かっていた。

 けれど、詠礼はその幻痛から、逃れられなかった。

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 怖ろしい夢を見た。

 この別荘に居るのが夢で、自分はまだあの男の妻であるという夢だ。

 

 もがくように目覚めた後も、暫くその恐怖は続いた。

 

 息ができない。

 

 このまま、このまま、いっそ、いっそ、もうあの男の手の届かないところへ、行ってしまおう。

 

 どうか、どうか。

 もう、わたしはあそこには帰らない。

 

 

 

「詠礼!」

 声が聞こえた。

 

 手を伸ばす。

 誰かが、手を握る。

 誰かが、引き上げる。

 

 

 

 

「詠礼、大丈夫かい?」

 優しく問いかける声がある。

 岩のように厳つい顔に、柔らかな笑が浮かんでいる。

「わたし……何を」

 詠礼が周囲に目をやると、世界が徐々に見えてきた。

 詠礼は、珊揮に抱えられている自分に気付く。

「どうして……わたし」

「そこでね。気を失っていたんだよ」

 珊揮は、寝室の戸口を視線で指して、そう微笑んだ。

 

 

 

 

「落ち着いたかな」

 珊揮に勧められるままに、詠礼は客間の長椅子に座った。

「申し訳ありません……ご迷惑を……」

 詠礼の声は細かく震えていた。押さえようとしても、それはどうしようもなかった。

 

 廊下から、寝室の中をうっかり見たことを、詠礼は思い出した。

 そして、見たものを思い出した。

 

「なにかに驚いた?」

「いえ……はい」

 珊揮の問いかけに、詠礼は否定しようとしたが、それはできなかった。

「あの、戒莉さまの背中に」

「戒莉の背中?」

 珊揮は首をかしげて、戒莉の背中のことを思い描いた。

 陽にさらされぬ分、その肌は青白い。その背には、いくつかの刀疵、ひと月ほど前に負った傷もある。

 そして、ふるい痣だ。

 珊揮が戒莉と出逢う前に、既にあったものだ。

 あの妓楼で、あるいはそれ以前に居たという農園で、殴られ、打たれていたという痕だ。

「戒莉は、前にいたところでちょっと辛い目に遭っていてね。でも、もう大丈夫なんだよ。詠礼も同じだよ」

「わたし?」

 詠礼は、びくりとした。

「そうだよ。詠礼も、もう大丈夫だよ。ここに居るからね。ここは、安心だよ。そうだろう」

「ここ?」

 詠礼は、頭を軽く振りながら、混乱を解きほぐそうとした。

 

 

 ここは、どこだろうか。

 ここは、珊揮の別荘だ。ここで、詠礼は女中をしている。

 ここで詠礼は、珊揮と戒莉の世話をしている。

 ここは、安心だ。ここは、安全だ。

 あの男はいない。

 

 詠礼は、ようやく息ができることに気付いた。

「わたし、混乱してしまって……申し訳ありません」

 我にかえった。

 そういう詠礼の顔に、珊揮はほっと息をついた。

 

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