『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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『脳裏』

 

 何か欲しいものはないかと、珊揮に聞かれた。

「風呂に入りたい」

 戒莉はそう即座に答えたが、その望みは叶えられなかった。

 ここひと月以上、戒莉は風呂に入った記憶がない。おそらく、本当に入っていない。

 それでも体が異臭を放つことがないのは、戒莉が異常体質だからという訳ではない。

 二日に一度は、体を拭いているからだ。

 当然、一人ではできない。珊揮の手助けが必要だ。

 髪も珊揮が洗って、丁寧に乾かす。それこそ戒莉が苛立つ程に、だ。

 正直、そんな状況に戒莉が満足しているはずもなく、むしろかなり嫌がっているくらいだった。

 だが、

「まあ、今更恥ずかしがらなくてもいいだろうに」

 そんなことが今更なのは、戒莉も同感だ。

 今まで、戒莉が血を浴びて失神している間に、血を洗い流して介抱してきたのは、珊揮だ。

 何一つ、自分で出来ない今、戒莉はそれが歯がゆくてならない。

 戒莉は、それに苛立っているだけだ。

「風呂はまだ入らない方がいいだろう。体力使うからね。もうちょっとの我慢だよ」

 と言う珊揮に抗う力すら、戒莉にはなかった。

 

 

 

 その夜、何故か寝室を出たところの廊下で、詠礼が倒れているのを珊揮が見つけた。

 病というわけでも、怪我をしたわけでもなく、ただ何かの衝撃で気を失ったのだと、珊揮は戒莉に話した。

「怖ろしいものでも見たのか?」

 戒莉は、その理由を追求せずにはいられなかった。

「そうだね。何か見たと言えば、戒莉が体を拭いているところをうっかり覗いたとか」

 珊揮がするりと言う言葉に、戒莉は言葉を失った。

 自分の体を見た詠礼が、気を失う。そんなに衝撃的な体を自分がしているとは、戒莉には思えなかった。

「ちょっと、思い出したのかもね」

「何を?」

「嫌なことだよ」

「嫌な……?」

 戒莉は首をかしげる。

 戒莉の体を見て、思い出すような失神する程『嫌なこと』が何なのか。戒莉には思いつかなかった。

「詠礼は結婚していたんだけど、相手が悪くてね」

 

 珊揮はよどむことなく詠礼の身の上を語る。

 おそらく戒莉のことも、詠礼にこんな風に話してしまうのだろう。

「戒莉の背中の痕を見て、思い出してしまったんだろうね」

 

 戒莉の背中の痕。と、言われても戒莉は実はよく見たことがない。けっこう酷いと言われてはいたが、いかんせん自分の背中なので見ることはほとんどないのだ。

「詠礼にも、そういう痕があるんだよ。ああ、もちろん私は見てないけれどね」

「ああ、そう」

 戒莉は、珊揮の話を真面目に聞いているべきなのか否かを迷った。

「まあ、いろいろあってね。私が詠礼の働き口を紹介したのが縁でね。その詠礼が、仕えていた方が亡くなったんで、今回は来てもらったんだけどねえ。お前が元気になったら、また次の口を探さないといけないねえ」

 『いろいろ』の一言で、かなりのことを端折っているようだが、まあ、『いろいろ』なのだろう。

 皆、多かれ少なかれ、『いろいろ』なことを背負って生きている。詠礼にしても、やはり『いろいろ』なのだろう。

 

「それで、もういいのか?」

「ああ、落ち着いた様子だよ。ここは安心だからね」

 珊揮はそう笑ってみせた。

 戒莉にはそんなものは見えていなかったが、その脳裏には、岩のような顔に、ある種不気味な、ある意味慈愛に満ちた笑顔の珊揮が、浮かんでいた。

 

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