何か欲しいものはないかと、珊揮に聞かれた。
「風呂に入りたい」
戒莉はそう即座に答えたが、その望みは叶えられなかった。
ここひと月以上、戒莉は風呂に入った記憶がない。おそらく、本当に入っていない。
それでも体が異臭を放つことがないのは、戒莉が異常体質だからという訳ではない。
二日に一度は、体を拭いているからだ。
当然、一人ではできない。珊揮の手助けが必要だ。
髪も珊揮が洗って、丁寧に乾かす。それこそ戒莉が苛立つ程に、だ。
正直、そんな状況に戒莉が満足しているはずもなく、むしろかなり嫌がっているくらいだった。
だが、
「まあ、今更恥ずかしがらなくてもいいだろうに」
そんなことが今更なのは、戒莉も同感だ。
今まで、戒莉が血を浴びて失神している間に、血を洗い流して介抱してきたのは、珊揮だ。
何一つ、自分で出来ない今、戒莉はそれが歯がゆくてならない。
戒莉は、それに苛立っているだけだ。
「風呂はまだ入らない方がいいだろう。体力使うからね。もうちょっとの我慢だよ」
と言う珊揮に抗う力すら、戒莉にはなかった。
その夜、何故か寝室を出たところの廊下で、詠礼が倒れているのを珊揮が見つけた。
病というわけでも、怪我をしたわけでもなく、ただ何かの衝撃で気を失ったのだと、珊揮は戒莉に話した。
「怖ろしいものでも見たのか?」
戒莉は、その理由を追求せずにはいられなかった。
「そうだね。何か見たと言えば、戒莉が体を拭いているところをうっかり覗いたとか」
珊揮がするりと言う言葉に、戒莉は言葉を失った。
自分の体を見た詠礼が、気を失う。そんなに衝撃的な体を自分がしているとは、戒莉には思えなかった。
「ちょっと、思い出したのかもね」
「何を?」
「嫌なことだよ」
「嫌な……?」
戒莉は首をかしげる。
戒莉の体を見て、思い出すような失神する程『嫌なこと』が何なのか。戒莉には思いつかなかった。
「詠礼は結婚していたんだけど、相手が悪くてね」
珊揮はよどむことなく詠礼の身の上を語る。
おそらく戒莉のことも、詠礼にこんな風に話してしまうのだろう。
「戒莉の背中の痕を見て、思い出してしまったんだろうね」
戒莉の背中の痕。と、言われても戒莉は実はよく見たことがない。けっこう酷いと言われてはいたが、いかんせん自分の背中なので見ることはほとんどないのだ。
「詠礼にも、そういう痕があるんだよ。ああ、もちろん私は見てないけれどね」
「ああ、そう」
戒莉は、珊揮の話を真面目に聞いているべきなのか否かを迷った。
「まあ、いろいろあってね。私が詠礼の働き口を紹介したのが縁でね。その詠礼が、仕えていた方が亡くなったんで、今回は来てもらったんだけどねえ。お前が元気になったら、また次の口を探さないといけないねえ」
『いろいろ』の一言で、かなりのことを端折っているようだが、まあ、『いろいろ』なのだろう。
皆、多かれ少なかれ、『いろいろ』なことを背負って生きている。詠礼にしても、やはり『いろいろ』なのだろう。
「それで、もういいのか?」
「ああ、落ち着いた様子だよ。ここは安心だからね」
珊揮はそう笑ってみせた。
戒莉にはそんなものは見えていなかったが、その脳裏には、岩のような顔に、ある種不気味な、ある意味慈愛に満ちた笑顔の珊揮が、浮かんでいた。