詠礼は、戒莉に頼まれたぬるめの湯をいれた茶器をひとつ盆にのせ、寝室に向かうところだった。
「どこへ行くんだい」
珊揮が声をかけてきた。
「これを戒莉さまのところにお持ちするところです」
もしも戒莉が詠礼の言葉を聞いたら、『さま』づけはやめてくれと言うに違いない。
そういう事になっていないのは、詠礼の言葉を戒莉が全く聞いていないからだ。
戒莉は、詠礼が口がきけないと思っている。
そう言ったのは、他ならぬ珊揮だ。
つまり、珊揮は戒莉に嘘をついているのだ。
隠し事は、詠礼のことだけではない。もっと大きな事実を隠す為に、珊揮は嘘を重ねている。
戒莉から真佳や、他の者を遠ざけているのも、全部その大きな隠し事の為だ。
それがいつまで通用するのかが、珊揮の悩みだった。
珊揮は、詠礼の持つ盆の上のものを見遣った。
「ああ、今日はずいぶん疲れているみたいだからね」
珊揮は、そういいながら盆に手を伸ばした。
「これは私が持っていくよ」
有無を言わさぬ笑顔。
もちろん、詠礼はそれを押し留める言葉は持っていなかった。
「戒莉」
寝室の前で珊揮は、声をかけた。
返事がくる前に、珊揮は扉をあけて中に入った。
寝台の上で、戒莉はしずかに横になっていた。
「戒莉」
もう一度、珊揮は呼んだ。
「ん……ああ、なんだ。珊揮か」
数度に及ぶ珊揮の呼びかけの後に、戒莉は気の抜けた声で応えた。
「寝ていたのかい」
なんとなくそうだとは思っていた珊揮だが、確かめるようにそう問うた。
「少しうとうとしてた。あ……」
ぼんやりとしていた戒莉だったが、何かに気付いたようだ。はっと身を起した。
「詠礼に頼んだものならここだよ」
珊揮は極自然に戒莉の右手をとると、茶器を握らせた。
「あ、ああ。ありがとう」
そう言ったものの、戒莉はなかなかそれに口をつけようとしなかった。
「それでよかったんだろう」
戒莉の様子に、珊揮は茶器の中身を覗き込んだ。
ただの、ぬるい湯のはずだ。
「ああ、頼んだのはこれだ」
戒莉はそっと、茶器を口元にもっていき、傾けた。
ごくりと、喉がなる。
「戒莉」
珊揮は、そう切り出した。
「なんだ?」
なんとなく嫌なこと言おうとしているのだろうと、戒莉は珊揮の声の調子で気付いてはいたようだ。
「お前の目のことなんだけどね」
「ああ」
戒莉は、落ち着いている。
「治り方が、遅い。本当なら、もう良くなってきてもよさそうなんだがね」
言い方を、少し工夫できないものかと珊揮は考えていたが、その口から出たのは、そんなそのままの事だった。
「たぶん、どこも悪くはないんだろう」
戒莉の声は、事実を上乗せした。
まるでそれを知っていたかのような戒莉の口ぶりに、珊揮は言葉につまった。
「日本にいる時もそうだった。どこも悪くないと、言われていた。でも、見えなかった。今は、悪くなったんじゃなくて、元にもどっただけだ」
微かに笑ったかと思うような表情で、戒莉はすらすらと言った。
珊揮は、少し息つく間をおいた。
シンという音が、耳に痛いと感じる前に、珊揮は口を開いた。
「で、お前はどうしたい?」
珊揮の言う『どう』というのは、どういう意味なのか。戒莉は、答えに迷った。
「このままだと、体は動くようになっても、目は見えないままだよ。それで剣客を続けられるかと聞かれれば、私は『できない』と答えるしかないよ」
それは、やはり事実だろう。
珊揮の声は、ぶれもせずにそれを伝えた。
「珊揮」
戒莉は茶器を珊揮に渡すそぶりを見せ、珊揮はそれを受け取り、脇机においた。
コトリ。と、何かが落ちた。
「目が見えないのは、文字通り命取りだ。あんたの言いたいことは、俺にも分かる。いくら慣れても、自分が何処に向かって立ってるのかも分からなくなることがある。そんなことで剣で戦うのは無理だ」
物語では、盲目の剣士というのもあるかもしれないが、やはりそれは物語の中のことだ。戒莉は、心の内でそう補足した。
「でも、俺は目が見えないことよりも、目が見えないことで何もできないと思われるのが、嫌なんだ」
だから、どうするのだと、戒莉は己れに問う。しかし、答えはない。ないのだ。
「だから諦めないのかい?」
何もないところへ、珊揮の言葉が降ってきた。
戒莉は、その声のする方に顔を向けた。
「目が見えないということを受け容れない。そういうことなのかい?」
重ねて、聞く。
「前は諦めていたし、受けいれていた。でも、この世界に来て、目が見えるようになった。なら、また見えるようになる日が来るかもしれない」
「来ないかもしれない」
珊揮には、ひどく酷なことをしているという自覚はあった。だが、言わずにはおれなかった。
「目が見えなければ、お前は剣客であることをやめるべきだね。そうしないと、死ぬことになる。今度みたいな怪我ではすまないんだよ」
言いながら、珊揮は自分が怒っていることに気付いた。
このままでは、怒りにまかせて何を言い出すか分からない。珊揮は、唇を噛んだ。
その間断をついて、抑揚のない戒莉の声が響く。
「……俺は、死なない」
そんなことはない。現にお前は、死にかけたのだと、珊揮は言いかけて止めた。
「あんたも死なない。それと同じことだ。俺は、死なない」