『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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『同じくらいに 死なない』

 詠礼は、戒莉に頼まれたぬるめの湯をいれた茶器をひとつ盆にのせ、寝室に向かうところだった。

「どこへ行くんだい」

 珊揮が声をかけてきた。

「これを戒莉さまのところにお持ちするところです」

 もしも戒莉が詠礼の言葉を聞いたら、『さま』づけはやめてくれと言うに違いない。

 そういう事になっていないのは、詠礼の言葉を戒莉が全く聞いていないからだ。

 戒莉は、詠礼が口がきけないと思っている。

 そう言ったのは、他ならぬ珊揮だ。

 つまり、珊揮は戒莉に嘘をついているのだ。

 隠し事は、詠礼のことだけではない。もっと大きな事実を隠す為に、珊揮は嘘を重ねている。

 戒莉から真佳や、他の者を遠ざけているのも、全部その大きな隠し事の為だ。

 それがいつまで通用するのかが、珊揮の悩みだった。

 

 珊揮は、詠礼の持つ盆の上のものを見遣った。

「ああ、今日はずいぶん疲れているみたいだからね」

 珊揮は、そういいながら盆に手を伸ばした。

「これは私が持っていくよ」

 有無を言わさぬ笑顔。

 もちろん、詠礼はそれを押し留める言葉は持っていなかった。

 

 

 

「戒莉」

 寝室の前で珊揮は、声をかけた。

 返事がくる前に、珊揮は扉をあけて中に入った。

 寝台の上で、戒莉はしずかに横になっていた。

「戒莉」

 もう一度、珊揮は呼んだ。

「ん……ああ、なんだ。珊揮か」

 数度に及ぶ珊揮の呼びかけの後に、戒莉は気の抜けた声で応えた。

「寝ていたのかい」

 なんとなくそうだとは思っていた珊揮だが、確かめるようにそう問うた。

「少しうとうとしてた。あ……」

 ぼんやりとしていた戒莉だったが、何かに気付いたようだ。はっと身を起した。

「詠礼に頼んだものならここだよ」

 珊揮は極自然に戒莉の右手をとると、茶器を握らせた。

「あ、ああ。ありがとう」

 そう言ったものの、戒莉はなかなかそれに口をつけようとしなかった。

「それでよかったんだろう」

 戒莉の様子に、珊揮は茶器の中身を覗き込んだ。

 ただの、ぬるい湯のはずだ。

「ああ、頼んだのはこれだ」

 戒莉はそっと、茶器を口元にもっていき、傾けた。

 ごくりと、喉がなる。

「戒莉」

 珊揮は、そう切り出した。

「なんだ?」

 なんとなく嫌なこと言おうとしているのだろうと、戒莉は珊揮の声の調子で気付いてはいたようだ。

「お前の目のことなんだけどね」

「ああ」

 戒莉は、落ち着いている。

「治り方が、遅い。本当なら、もう良くなってきてもよさそうなんだがね」

 言い方を、少し工夫できないものかと珊揮は考えていたが、その口から出たのは、そんなそのままの事だった。

「たぶん、どこも悪くはないんだろう」

 戒莉の声は、事実を上乗せした。

 まるでそれを知っていたかのような戒莉の口ぶりに、珊揮は言葉につまった。

「日本にいる時もそうだった。どこも悪くないと、言われていた。でも、見えなかった。今は、悪くなったんじゃなくて、元にもどっただけだ」

 微かに笑ったかと思うような表情で、戒莉はすらすらと言った。

 珊揮は、少し息つく間をおいた。

 

 

 シンという音が、耳に痛いと感じる前に、珊揮は口を開いた。

「で、お前はどうしたい?」

 珊揮の言う『どう』というのは、どういう意味なのか。戒莉は、答えに迷った。

「このままだと、体は動くようになっても、目は見えないままだよ。それで剣客を続けられるかと聞かれれば、私は『できない』と答えるしかないよ」

 それは、やはり事実だろう。

 珊揮の声は、ぶれもせずにそれを伝えた。

「珊揮」

 戒莉は茶器を珊揮に渡すそぶりを見せ、珊揮はそれを受け取り、脇机においた。

 コトリ。と、何かが落ちた。

「目が見えないのは、文字通り命取りだ。あんたの言いたいことは、俺にも分かる。いくら慣れても、自分が何処に向かって立ってるのかも分からなくなることがある。そんなことで剣で戦うのは無理だ」

 物語では、盲目の剣士というのもあるかもしれないが、やはりそれは物語の中のことだ。戒莉は、心の内でそう補足した。

「でも、俺は目が見えないことよりも、目が見えないことで何もできないと思われるのが、嫌なんだ」

 だから、どうするのだと、戒莉は己れに問う。しかし、答えはない。ないのだ。

「だから諦めないのかい?」

 何もないところへ、珊揮の言葉が降ってきた。

 戒莉は、その声のする方に顔を向けた。

「目が見えないということを受け容れない。そういうことなのかい?」

 重ねて、聞く。

「前は諦めていたし、受けいれていた。でも、この世界に来て、目が見えるようになった。なら、また見えるようになる日が来るかもしれない」

「来ないかもしれない」

 珊揮には、ひどく酷なことをしているという自覚はあった。だが、言わずにはおれなかった。

「目が見えなければ、お前は剣客であることをやめるべきだね。そうしないと、死ぬことになる。今度みたいな怪我ではすまないんだよ」

 言いながら、珊揮は自分が怒っていることに気付いた。

 このままでは、怒りにまかせて何を言い出すか分からない。珊揮は、唇を噛んだ。

 

 その間断をついて、抑揚のない戒莉の声が響く。

「……俺は、死なない」

 

 そんなことはない。現にお前は、死にかけたのだと、珊揮は言いかけて止めた。

「あんたも死なない。それと同じことだ。俺は、死なない」

 

 

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