その夜、珊揮は戒莉が頼みもしないうちから、体を拭く支度をして、着替えを用意していた。
あれ以来、戒莉が身をぬぐうときには、詠礼は寝室には近づかなくなった。珊揮がそう指示しているせいだろう。
珊揮は、そういう気配りをする男だ。
戒莉は練れた綿の夜着に袖を通すと、あっという間に眠りの底に落ちた。
ふと目を覚ましても、辺りは真っ暗だ。
だからと言って、夜とは限らない。
どれだけ眠ったかも分からない。
「まだ夜だよ」
そう声がかかって、はじめて夜だと分かる。
「あんたは、いつ寝てるんだ?」
戒莉が目覚めて、珊揮が寝ていることはあまりない。いつ寝ているのか不思議なものだと思ったところで、戒莉はそう聞いていた。
「ああ、さっきまで眠ってたんだけどね。ちょっともの音がしたような気がして」
「もの音?」
目が見えない分、鋭くなっている戒莉の耳にも今は何も聞こえない。
静かだ。
最近やかましい程に盛んに鳴いていた虫すらも、今は息を潜めている。
―― 静かすぎる……
戒莉のもとから珊揮の体温が離れ、壁に向かう。
かちりと小さな音に、戒莉は驚いた。
「剣?」
「用心のためだよ」
笑みを含んだ声で、珊揮は軽やかに密やかに応えた。
戒莉はゆっくりと体を起こした。体のあちこちが軋み、音を上げそうだ。
「お前も用心しなさい」
珊揮はまるで茶器を渡した時のように、戒莉の手にその剣を握らせた。
「う……」
その重さに、戒莉は剣を落としそうになった。
それは天涯ではなく、脇差の方だったにもかかわらず、思ってもみなかった重量だった。
「用心だよ」
珊揮は、戒莉の耳元でまた笑った。
と、少し遠くで、しかし確実にこの家の中で、ものの激しく倒れる音が響いた。
「きゃーっ」
女の悲鳴が上がる。
それが詠礼のものであったかどうかは、判別できないが、この家の中で女の声を上げるのは、まさしく詠礼だけだ。
珊揮は、あかりもつけずに部屋を出て行った。
闇にひとり残された。
戒莉は、見えていてもおそらくそれは変らないのだろうと考えていた。
部屋の外も、おそらく闇で埋め尽くされている。
戒莉は、耳に注意を集中し、遠のいていくはずの珊揮の足音とそれ以外のものを聞き分けようとしていた。
ぎしり
遠くに意識を飛ばしすぎたのだろうか。
近くに軋む床の音が、戒莉に届いたときには、それは扉の前まで来ていた。
誰かが、戒莉の居る部屋に入って来ようとしている。
戒莉の手の中で、脇差がガタガタと震えた。
いや、これは戒莉自身の震えだったのだろうか。
それは、戒莉にも判然としないまま、扉は開いた。