珊揮は暗闇の中でも、迷うことなく音の発生した場所に向かうことができた。
厨房と、その奥にある詠礼の部屋だ。
「詠礼!」
扉を蹴り、珊揮はそこに飛び込んだ。
「あ、ああ、誰かが……」
詠礼の声が、途切れ途切れに聞こえてきた。
周囲に誰かいる気配は、今はない。
だが、誰かが居たことは、そこかしこに散らばる鍋や釜が物語っていた。珊揮は、ここまでに来るところでそのいくつかに蹴躓いていた。
「怪我はないかい?」
珊揮は、部屋の隅でガタガタと震える詠礼に手を差し伸べた。
「は、はい……わたし、人影を見ただけで」
「そう、よかっ……た」
珊揮は、ほっと一息つこうとしたが、その瞬間にある考えが走った。
女中が近くにいるであろう厨房に姿を現し、こんな派手な音の出るものをばらまき、何もしないで逃げた何者か。
わざとらしい。
「しまっ……」
最後の一言を言い終わる前に、珊揮は身を翻し、走り出した。
その扉にたどり着くのに、それほどの時を要してはいなかったはずだ。だが、珊揮には果てしなく遠い道のりを走っているような想いがした。思うように脚が前に進まない。心ばかりが焦って前を走る。
珊揮がここを出たときは、確かに閉めたはずの寝室の扉は半開きだ。
「戒莉!」
そう叫びながら、珊揮は何も考えずに、寝室に飛び込んだ。
部屋の中には、生臭い血と、ぬるい沈黙が流れていた。
珊揮の脳裏にはあの日、血の海に沈んだ戒莉の姿が明滅していた。
寝台に早く辿り着こうとする思う心と、そこに近づくことを怖れる心が、珊揮を苛む。
「珊揮……」
声が、微かに聞こえた。
「こいつをどけてくれ。重くて息がしにくい」
戒莉の声は苦しげに、だが命を落としかけているとは思えない調子でその頼みごとを差し出してきた。
珊揮は、深く息を落とした。
「怪我はしていないのかい?」
「ない。はやくこいつをどけろ」
珊揮が恐れていたことを、戒莉は短く否定し、焦れたように命じてくる。
闇の中で、珊揮は寝台の上の黒い塊に手を伸ばした。
気を緩めたつもりはなかったが、その手触りに、珊揮はぞっとした。
ぬるぬるとした液体に覆われたそれは、戒莉の上に覆いかぶさっているようだ。
一切の力を失ったそれは、思いのほか重かった。
ついさっきまで、生きていたのだろう生ぬるさだ。
珊揮は、それを勢いよく戒莉の上から引き剥がした。
戒莉は、大きく息を吸い込み、吐き出した。そして少し咳き込んだ息の下から、戒莉は早口で言った。
「詠礼は、ここに近づけるな」
「どうして」
「この男、たぶん詠礼の旦那だ」
この男。
珊揮は、あらためて戒莉の上からどけた塊に視線をやった。
闇は黒々として、その男の姿を明らかにはしなかった。