珊揮が女の悲鳴を聞いて部屋を出ていってから、ほんの少し。
体が言うことをきかない今、自分に何ができるのだろうか。
戒莉は、闇の中で自問していた。
近づいて来る足音は、幸か不幸か慎重さの欠片もない。
これは、誰なのだろうか。漣浄なのか、それとも宍道の仲間がここを突き止めたのか。
自分に問いかけたところで、その答えが戒莉の中にあるわけがない。
カタカタと、脇差が鳴っている。
あいつを斬れと、あいつを殺せと鳴っている。
―― 俺に、それが出来るのか?
「詠礼」
男の声が、戒莉ではない女の名を呼んだ。
「探したよ。詠礼」
優しげな声で、男は戒莉に語りかけた。
戒莉は、男の誤りを正すことを躊躇った。詠礼でないと知った男が、どんな行動に出るか、分からない。何より、この男自身が誰なのかが分からない。
戒莉は、もう少し男に近づくことを許そうと思った。
「わたしと別れて、こんなところで、あんな男の愛人になってるとはね」
男の声音はごく静かだったが、怒りが端々ににじみ出ている。
―― こいつは……
詠礼の元夫なのかという疑問が戒莉の脳内に浮かび、そう確信する。
「なぜ、わたしのところから逃げたんだ? わたしが君を叩いたからか?」
男は、相手のことなどおかまいなしに滑らかに独りで話を進める。
戒莉はそれを聞きながら、手の中で振るえる脇差の鍔を、鎮めようとしていた。
「でも、君が悪いんだよ」
男は、そう決め付けた。
戒莉は、はっと息を飲む。
闇の向こうから、戒莉を貫く声がする。
『お前が悪いんだ』
「君がわたしの言いつけを守らないからいけないんだ。君は、悪いことをした。だから、わたしは君に罰を与えなくてはいけなかった。わたしだって、あんなことをしたくはなかった。みんな君が悪いんだ」
この言葉は、自分へ向けられたものではない。
戒莉は胸の内で、強く自分に言い聞かせた。
「君はわたしのもとから逃げた。しかもあんな男の囲い者になるとは…… 君は、わたしにどれだけ恥をかかせるつもりなんだ? わたしは君に、また罰を与えなくてはならなくなった。君は、本当に悪い女だよ」
みしりと、男が一歩近づいて来る。
『お前が悪いんだ。おれは悪くない。お前が悪いんだ』
まるで全力疾走しているかのように、息が苦しくなる。戒莉の世界は、ぐらぐらと揺れて静まらない。
なぜこんな時に、あんな時のことを思い出しているのか。戒莉は、過去へと暴走していく自分を押し留めることができなかった。
「叩いても、叩いても、君は分かってくれない。わたしは、どうしたらいいんだ? どうしたら、君は自分の罪を認めるんだ!?」
男の怒号。
揺さぶられる。刺し貫かれる。
『お前が悪いんだ』
―― どいつも、こいつも勝手なことを
過去と現在が入り混じって、戒莉はもはやその境を見失っていた。
それでも、意識は手放すまいと唇を噛む。
血の味だ。
戒莉の頬に、生ぬるいものが降りかかった。
血だ。
これほどの血、戒莉の血だけでは足りない。
戒莉の刃は未だ鞘の中で、ここから出せと暴れている。
「これは、罰だ。わたしが君に与える罰だ」
男の声が、戒莉の耳もとでそう断罪する。
戒莉の体に、ぐにゃりと男の重みがのしかかる。
何かが、戒莉の耳たぶを噛んだ。
声が出なかった。助けを呼ぶことも、驚きの声すら上げることができなかった。
―― 落ちる
戒莉は、二度と這い上がれない底の底へと堕ちていくのだと絶望する。
手を伸ばしても、何も掴めない。誰も、助けては呉れない。
何も見えない。
何もない。
それでも、戒莉はその名を摑もうとした。
―― 珊揮!