『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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『罰』

 

 

 

 珊揮が女の悲鳴を聞いて部屋を出ていってから、ほんの少し。

 

 体が言うことをきかない今、自分に何ができるのだろうか。

 戒莉は、闇の中で自問していた。

 近づいて来る足音は、幸か不幸か慎重さの欠片もない。

 これは、誰なのだろうか。漣浄なのか、それとも宍道の仲間がここを突き止めたのか。

 自分に問いかけたところで、その答えが戒莉の中にあるわけがない。

 

 カタカタと、脇差が鳴っている。

 あいつを斬れと、あいつを殺せと鳴っている。

―― 俺に、それが出来るのか?

 

「詠礼」

 男の声が、戒莉ではない女の名を呼んだ。

「探したよ。詠礼」

 優しげな声で、男は戒莉に語りかけた。

 戒莉は、男の誤りを正すことを躊躇った。詠礼でないと知った男が、どんな行動に出るか、分からない。何より、この男自身が誰なのかが分からない。

 戒莉は、もう少し男に近づくことを許そうと思った。

「わたしと別れて、こんなところで、あんな男の愛人になってるとはね」

 男の声音はごく静かだったが、怒りが端々ににじみ出ている。

 

―― こいつは……

 

 詠礼の元夫なのかという疑問が戒莉の脳内に浮かび、そう確信する。

「なぜ、わたしのところから逃げたんだ? わたしが君を叩いたからか?」

 男は、相手のことなどおかまいなしに滑らかに独りで話を進める。

 戒莉はそれを聞きながら、手の中で振るえる脇差の鍔を、鎮めようとしていた。

「でも、君が悪いんだよ」

 男は、そう決め付けた。

 戒莉は、はっと息を飲む。

 闇の向こうから、戒莉を貫く声がする。

 

 

『お前が悪いんだ』

 

 

「君がわたしの言いつけを守らないからいけないんだ。君は、悪いことをした。だから、わたしは君に罰を与えなくてはいけなかった。わたしだって、あんなことをしたくはなかった。みんな君が悪いんだ」

 この言葉は、自分へ向けられたものではない。

 戒莉は胸の内で、強く自分に言い聞かせた。

「君はわたしのもとから逃げた。しかもあんな男の囲い者になるとは…… 君は、わたしにどれだけ恥をかかせるつもりなんだ? わたしは君に、また罰を与えなくてはならなくなった。君は、本当に悪い女だよ」

 みしりと、男が一歩近づいて来る。

 

『お前が悪いんだ。おれは悪くない。お前が悪いんだ』

 

 まるで全力疾走しているかのように、息が苦しくなる。戒莉の世界は、ぐらぐらと揺れて静まらない。

 なぜこんな時に、あんな時のことを思い出しているのか。戒莉は、過去へと暴走していく自分を押し留めることができなかった。

 

「叩いても、叩いても、君は分かってくれない。わたしは、どうしたらいいんだ? どうしたら、君は自分の罪を認めるんだ!?」

 男の怒号。

 

 揺さぶられる。刺し貫かれる。

 

 

『お前が悪いんだ』

 

 

―― どいつも、こいつも勝手なことを

 

 過去と現在が入り混じって、戒莉はもはやその境を見失っていた。

 それでも、意識は手放すまいと唇を噛む。

 

 血の味だ。

 

 戒莉の頬に、生ぬるいものが降りかかった。

 血だ。

 これほどの血、戒莉の血だけでは足りない。

 戒莉の刃は未だ鞘の中で、ここから出せと暴れている。

「これは、罰だ。わたしが君に与える罰だ」

 男の声が、戒莉の耳もとでそう断罪する。

 

 戒莉の体に、ぐにゃりと男の重みがのしかかる。

 何かが、戒莉の耳たぶを噛んだ。

 声が出なかった。助けを呼ぶことも、驚きの声すら上げることができなかった。

 

―― 落ちる

 

 戒莉は、二度と這い上がれない底の底へと堕ちていくのだと絶望する。

 手を伸ばしても、何も掴めない。誰も、助けては呉れない。

 

 何も見えない。

 

 何もない。

 

 それでも、戒莉はその名を摑もうとした。

 

―― 珊揮!

 

 

 

 

 

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