珊揮は、燭台に灯を点す。
喉を斯き切られた男の遺体。
その下に押しつぶされる姿の戒莉。
何があったと問うよりも前に、珊揮は戒莉の体調が悪くなることを予感した。
これだけの血だ。戒莉がまだ失神していないことが珍しいくらいだ。
だが、戒莉は弱っているものの、気を失うこともなく、詠礼をここから遠ざけることを指示し、その遺体が詠礼の元夫だと示した。
「俺が斬ったんじゃない。こいつが、自分でしたことだ」
その答えに、珊揮はなるほどと思う。遺体の男の手には、しっかり小刀が握れており、その刃は血に染まっている。
しかし、それにしては戒莉が憔悴している様子だ。
「なにがあったんだい?」
戒莉は少し言いよどんで、短く言った。
「ちょっと、思い出したことがあっただけだ」
戒莉は、あまり詳しいことは語らなかった。周囲も何も訊かなかった。あえて、珊揮も深くは追求しなかった。
そんな過去があったことを、珊揮はふいに思い出していた。
「そう。で、大丈夫かい?」
「平気だ」
それが本当なのかは、本人にも分かっていないのだろう。
それでも、言葉どおりに珊揮は受け止めることにした。
「じゃあ、とりあえず血を落として、着替えようか」
珊揮がそう促すと、戒莉は素直に頷いた。
珊揮は詠礼に寝室には入らないように、それから自分の部屋に居るようにと、伝えた。詠礼は、その言葉を聞いて、不安を浮かべた瞳を珊揮に向けた。
「何があったんでしょうか。戒莉さまは?」
「ああ、大丈夫だよ。本人がそう言っているから間違いはないよ」
場違いなくらいに、柔らかな口調と笑顔。
詠礼は、益々不安をつのらせた。
「怪我をされたのですか?」
「いや、かすり傷ひとつしてないよ。ただ、血を浴びただけでね」
「血?」
その一言に、詠礼は小さく震えた。
「賊のね、血だよ」
珊揮の賊という言葉に、詠礼の肩が跳ねた。
「そっちは、もう動けなくなっているから大丈夫だよ」
詠礼の肩に、そっと手を置いて珊揮はさらりと言った。
詠礼は、ただ珊揮の目を見つめ返していた。
無言で、無音。
それほどの間はなかっただろう。
「わたし、お湯を沸かします」
唐突に、詠礼はそう言い出した。
珊揮は、一瞬その意味するところを見失っていたが、すぐにそれが戒莉の血を洗い流すためだということに気付いた。
「じゃあ、御願いするよ」
詠礼を押し留めることは、できないような気がした。
珊揮はまずは家中を見回り、安全を確かめた上で詠礼に湯を沸かしてもらい、大き目の布と戒莉の着替えを引っ張り出した。
寝室の扉を押すと、戒莉が身を起こし、立ち上がろうとしている最中だった。
頭の先から真っ赤に染まっている上に、顔が青白い。けれど、気を失っていない戒莉の姿は、珍しかった。
「本当に平気なんだね」
「そう言っただろ。信じてなかったのか?」
小さく呻きながら、戒莉は勢いをつけて立ち上がった。
「ああ、またお前の強がりかと思ったよ」
わざと怒らせるような調子で珊揮は、ふらついた戒莉に手をかした。
戒莉はむっとしているものの、何も言い返しては来なかった。
てっきり手を振り払われるものだと思っていた珊揮は、戒莉がそうしないことに『おや』と、思った
「やっぱり苦しいのかい?」
「ちょっと眩んだだけだ」
やはり強がりにしか聞こえない。
戒莉は、べったりと赤黒く血で汚れた夜着を脱ぎすてると、顔の包帯に手をかけた。
するすると包帯が落ちると、やはり顔にも血が染みていた。
戒莉の顔の怪我はもう治っていて、うっすらと痕が赤く残っている程度だ。それでも包帯をするのは、傷よりも目を光から守る為だった。
戒莉は閉じていた目を、ゆっくりと開けていった。
「どうだい?」
「見えない」
わずかの間もあけず、戒莉はそう答えた。
「そうか」