血を洗い流し、夜着を着替えて、客間の長いすにだらりと横になる。
戒莉は、しばらく薄目を開けて部屋を出たり入ったりしている大男の足音を聞いていた。
「すこし落ち着け」
そう声をかけて、戒莉は身を起こそうとして力が入らないことに気付いた。
「参ってるね」
少し意地の悪い笑顔で、珊揮は戒莉を抱え起こした。
「参ってない……つもりだった」
「そうか」
戒莉を支えていた手を珊揮はそっと引いた。
戒莉は、ややぐらついたが倒れることはなかった。
「お茶は飲むかい?」
そう問われて、戒莉は深い息を落として、頷いた。
すぐに茶器が戒莉の手に握らされた。
温かい。むしろ熱いといっても良い。
「昼間、詠礼にお湯を頼んでいたね。そっちの方がいいかい?」
「これでいい」
妙に素っ気無い答え方になってしまったのは、考え事をしているせいだ。
「詠礼には、話さない方がいい」
ひとくち茶をすすり、戒莉は寝室の屍骸のことを指して言った。
「そうだね」
珊揮は同意を示しながら、戒莉の様子を窺った。
自刃した男の血を浴びただけで、戒莉がこんな風に参るのはおかしい。
戒莉は、自らの血にすら失神するような麒麟とは違う。自分が斬ったものの血に弱いだけだ。
今回の顛末を詳しく聞けば、後味の悪い話だ。
他人である戒莉ですらこんな調子だ。もしも、詠礼がこの血を浴びていたらと思うと、ぞっとする。
かと言って、戒莉でよかったのだとも言い切れない。
「詠礼でなくてよかった」
珊揮の心の内を見透かしたかのようなことを、戒莉はかすれた声で言った。
「いっそ私ならよかったのだけれどね」
珊揮がそんなことを言うものだから、戒莉はふっと笑い出した。
「いくらなんでも、あんたと詠礼は間違えないだろ」
確かにそうだ。
あの男は、珊揮が詠礼を愛人にしたと思い込んでいた。そして、珊揮と同じ寝台で眠る戒莉を詠礼と間違えたのだ。
「まあ、そういう気持ちだということだよ」
「なんだ?」
「戒莉が浴びる必要のなかった血を浴びたことが腹立たしいんだよ。私はね」
「でも、あんたが浴びる必要だってなかったし、詠礼にしてもそうだ」
まっとうな事を言う。
珊揮は、そんな戒莉の言い分につい本当のところを話したくなった。
「私はね。お前の目が見えなくて、体が不自由になっていることを、私は口惜しいと思うと同時に、どこかで喜んでいるんだよ」
「どうしてだ?」
声が揺れる。
「これでお前は剣客でいられなくなる。あんな血なまぐさい世界から抜け出せる。これからは、心穏やかな世界で生きていける。そう思ったんだよ」
そういい終わって、珊揮は戒莉の視線に痛みを感じた。
見えてなどいるはずのない戒莉の目。底なしの闇に似た美しさだ。
「俺は、今更そんな世界で生きていけるとは思わない」
戒莉の声は、厳しく響いた。
「これまで俺は、何人も殺してきた。これからどんなに清く正しく生きたとしても、それはなかったことにはならない」
やはり、まっとうだ。
珊揮は苦笑する。この生き物は、どんなに汚れてもその美しさを失わない。それは、分かっていたことだ。
「あんたは、俺が心穏やかに、汚れることなく生きていけばいいと思っているかもしれない。実際、その方がいいのかもしれない。俺だけじゃない。皆が皆、そういう風に生きられたら幸せなのかもしれない」
罪を犯す者もなく、誰を傷つけることも、傷つけられることもなく、飢えることもなく、病に苦しむことも、天災に襲われることもなく、上も下もなく、誰もが等しく幸せに生きられたら。
理想だ。そんな国を皆、夢見ている。
「でも、誰もが皆、明るくきれいな道を歩いているわけじゃない」
それで、戒莉の声はふつりと途絶えた。
それは、分かりきったことだ。
だが、認めるには勇気がいる。
「そうだね。私もお前も、道を見失っている」