陽が落ちてから、戒莉は目の包帯を外した。
それで何か変る訳ではないが、光が目に悪いという理由で包帯をしているのであれば、夜それをする理由がない。
夕餉の時刻に、ようやく珊揮は別荘に帰ってきた。
「それで、役人の調べの方は終わったのか?」
「ああ、なんとかね。納得していただいたよ」
「納得したのか」
どう珊揮は説明し、役人どもはどう納得したのか、それは不明だ。
「ああ」
「へえ」
曖昧だが、なにやら意味深長。
食卓には、詠礼の作った料理が並んでいる。
たちのぼってくる香りは、どれもこれもが『美味そうだろう』と主張している。
実際、それを口にするとなにもかもが美味しかった。
詠礼の料理には、それはどこか懐かしいという感情が湧き上がる。それは味そのものに対してなのかもしれないし、詠礼そのものに対してであったのかもしれない。
「お前に食べさせようと、詠礼がいろいろ工夫しているようだよ」
珊揮は常より食べる戒莉の様子に、そう話を始めた。
戒莉は、ふと手を止める。
「ああ、食べ過ぎてるような気もする」
それ程に体を動かしていない今、あまり食べる必要はないと戒莉は感じていた。戒莉にとって食べることは、動く為と、生きる為という感覚があるらしい。
「そもそもお前は、食が細いからね。今、少しくらい余計に食べても、帳尻が合うだろうよ」
その理屈が合っているとはとても思えないが、珊揮は尤もらしく言う。
戒莉は、軽く笑ってまた食べ始める。
「詠礼は、本当は喋れるんだろう」
ぽつりと、戒莉は珊揮に切り込んだ。
「ああ、そうだよ」
珊揮は、当たり前のように応えた。
戒莉もそれを当然という調子で受け止めた。
そんな嘘をついていた訳を、戒莉は問わなかった。
問うのは、珊揮の方だった。
「どうして、分かったんだい?」
戒莉は、見えていない目を珊揮に向けた。
「詠礼の旦那が死にに来た日の昼間に、俺、詠礼に水を頼んだんだ」
こう応える自分が、まるでいつもの珊揮のようだと、戒莉は内心思った。
問いかけに対して、的外れなことを言っているかのようだ。
うっすらと笑みすら浮かんでしまう。
「それで?」
珊揮は、戒莉のように苛立ちはしない。
ゆったりと、その先へと促す。
「でも、気が変わってお湯にしたんだ。少しぬるめで」
そう、戒莉はやや細かい指示をした。
「ああ、そうだったね」
冷たい水。熱い湯を戒莉は好む。ぬるめの湯の方が体に優しいとか、戒莉はそんなつもりでそれを頼んだ訳ではない。だとしたら、何故か。
「お前は、詠礼に頼んだんだね。日本語で」
「ああ、そうだよ」
ちょっと珊揮の口調を真似る。
「なる程ね」
にっこりと、珊揮は笑う。
そんなことを戒莉がするとは、珊揮は思ってもいなかったようだ。思わなかったとは、随分間抜けな話だと、珊揮は哂ったのだ。
「ついでに聞いとくけど、真佳は俺に会いたがっていなかったか?」
「ああ、会いたがっていたけどね。でも私が追い返しておいたよ」
さも当然のことをしてやったかのような口調。
「そうか。ずいぶん嫌われたと思ってたけど、そうか」
自分の希薄な人間関係について反省などしてみたが、そうでもなかったのかと、戒莉はひとり勝手に頷いた。
ややあって、珊揮は口を開いた。
「で、『どうしてか』とかは、聞かないのかい?」
「ああ、教えて欲しいね」
「そうだね。まあ、それはおいおい、ゆっくり話すよ。永遠ではないけれど、時間はたくさんあるからね」
珊揮はゆっくりと、戒莉の瞳を覗き込んだ。
闇は底知れず、珊揮を振るわせた。
ああ、自分はここへ墜ちていくのだと、珊揮は笑った。
~~『紅い河を下れ』 了 ~~