『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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『失い堕ちる その闇を見よ』

 

 

 陽が落ちてから、戒莉は目の包帯を外した。

 それで何か変る訳ではないが、光が目に悪いという理由で包帯をしているのであれば、夜それをする理由がない。

 

 

 夕餉の時刻に、ようやく珊揮は別荘に帰ってきた。

「それで、役人の調べの方は終わったのか?」

「ああ、なんとかね。納得していただいたよ」

「納得したのか」

 どう珊揮は説明し、役人どもはどう納得したのか、それは不明だ。

「ああ」

「へえ」

 曖昧だが、なにやら意味深長。

 

 

 食卓には、詠礼の作った料理が並んでいる。

 たちのぼってくる香りは、どれもこれもが『美味そうだろう』と主張している。

 実際、それを口にするとなにもかもが美味しかった。

 詠礼の料理には、それはどこか懐かしいという感情が湧き上がる。それは味そのものに対してなのかもしれないし、詠礼そのものに対してであったのかもしれない。

「お前に食べさせようと、詠礼がいろいろ工夫しているようだよ」

 珊揮は常より食べる戒莉の様子に、そう話を始めた。

 戒莉は、ふと手を止める。

「ああ、食べ過ぎてるような気もする」

 それ程に体を動かしていない今、あまり食べる必要はないと戒莉は感じていた。戒莉にとって食べることは、動く為と、生きる為という感覚があるらしい。

「そもそもお前は、食が細いからね。今、少しくらい余計に食べても、帳尻が合うだろうよ」

 その理屈が合っているとはとても思えないが、珊揮は尤もらしく言う。

 戒莉は、軽く笑ってまた食べ始める。

 

「詠礼は、本当は喋れるんだろう」

 ぽつりと、戒莉は珊揮に切り込んだ。

「ああ、そうだよ」

 珊揮は、当たり前のように応えた。

 戒莉もそれを当然という調子で受け止めた。

 そんな嘘をついていた訳を、戒莉は問わなかった。

 問うのは、珊揮の方だった。

「どうして、分かったんだい?」

 

 

 戒莉は、見えていない目を珊揮に向けた。

「詠礼の旦那が死にに来た日の昼間に、俺、詠礼に水を頼んだんだ」

 こう応える自分が、まるでいつもの珊揮のようだと、戒莉は内心思った。

 問いかけに対して、的外れなことを言っているかのようだ。

 うっすらと笑みすら浮かんでしまう。

「それで?」

 珊揮は、戒莉のように苛立ちはしない。

 ゆったりと、その先へと促す。

「でも、気が変わってお湯にしたんだ。少しぬるめで」

 そう、戒莉はやや細かい指示をした。

「ああ、そうだったね」

 冷たい水。熱い湯を戒莉は好む。ぬるめの湯の方が体に優しいとか、戒莉はそんなつもりでそれを頼んだ訳ではない。だとしたら、何故か。

「お前は、詠礼に頼んだんだね。日本語で」

「ああ、そうだよ」

 ちょっと珊揮の口調を真似る。

「なる程ね」

 にっこりと、珊揮は笑う。

 そんなことを戒莉がするとは、珊揮は思ってもいなかったようだ。思わなかったとは、随分間抜けな話だと、珊揮は哂ったのだ。

「ついでに聞いとくけど、真佳は俺に会いたがっていなかったか?」

「ああ、会いたがっていたけどね。でも私が追い返しておいたよ」

 さも当然のことをしてやったかのような口調。

「そうか。ずいぶん嫌われたと思ってたけど、そうか」

 自分の希薄な人間関係について反省などしてみたが、そうでもなかったのかと、戒莉はひとり勝手に頷いた。

 

 

 

 

 ややあって、珊揮は口を開いた。

「で、『どうしてか』とかは、聞かないのかい?」

「ああ、教えて欲しいね」

「そうだね。まあ、それはおいおい、ゆっくり話すよ。永遠ではないけれど、時間はたくさんあるからね」

 珊揮はゆっくりと、戒莉の瞳を覗き込んだ。

 

 

 闇は底知れず、珊揮を振るわせた。

 

 

 ああ、自分はここへ墜ちていくのだと、珊揮は笑った。

 

 

 

 

~~『紅い河を下れ』 了 ~~

 





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