『紅い河を下れ』 天涯Ⅳ   作:清夏

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「助けて」

「それで?」

 漢将の言葉が無遠慮に、その先の話を催促した。

 だが、戒莉にはそれ以上話すべき物語りを持ってはいなかった。

 もとより、戒莉はその話をする気はなかった。

 『その話』というのは、昨夜の真佳とのやりとりだ。

 何かあったのかと問う漢将に、戒莉は初めは『別に』と受け流してしたのだが、『真佳がまたへこんでいた』とか、『かわいそうに』、などと漢将が繰りていたため、『別に』どうということのない昨夜のやり取りを戒莉はかいつまんで話したまでだった。

「なんだか痴話喧嘩みたいで、聞いていてむず痒いなあ」

 漢将がまず口にしたのは、そんな感想だった。

 これに対して戒莉は、当然反論をした。

「そういう喧嘩が成立するような仲じゃない」

「へえ、そういう言い方をするんだなあ」

 妙な感心の仕方で、漢将は戒莉を逆なでした。

 

 

 

 

 

 朝のうちに出発するのだと、戒莉はなんとなく思っていた。それは戒莉だけではなく、他の者もそうだった。

 それが、昼まで待機ということが伝えられた。

「何かあったのか」

 戒莉は、章洋の馬車の御者が歩いているのをみつけて、声をかけた。

「ああ、お嬢さんの具合が悪いようで」

「どっち」

「香々さんです」

「そっちか」

 もの言いたげな細い目を、戒莉は思い浮かべた。

 このままだと、今日中の出発は難しいかもしれない。御者は、そう言ってそそくさと厩へ向かっていった。

 御者を見送るでもなく、戒莉はぼんやりとその背を見ていた。

 

 御者の言うとおり、その日の出発はなかった。

 日が傾きかける頃に、戒莉は章羊に呼ばれた。

 

 扉の向こうには、既に漢将と真佳、そして目つきの悪い博信と、もうひとりの名も思い出せない杖身が、ずらりそろっていた。

 戒莉は、四人の顔とその奥に座す章羊の顔を、順に眺めた。

「これで皆、そろいましたね」

 章羊がにこやかに話を始める。

 杖身だけを集めて、何を話そうというのだろうか。その和やかな表情の奥底に、章羊が秘めている話というものが、血なまぐさいもののように予感した。

「実は、聞いていると思いますが、香々が体調を崩しましてね。今日の出発が出来なかったのですが、これ以上日程を遅らせるわけにもいかないので、明日の朝にはここを立ちたいと思っています」

 ここまでのところで、戒莉が危ぶむような話は出て来てはいなかった。けれど、戒莉は不審な点を問いたださずにいられなかった。

「香々は、よくなったのか?」

「いいえ」

 章羊は、眉間に皺を寄せて、困ったという表情を見せた。

「まだ熱が下がらないのです。香々は、ここに置いていくしかないと思っています」

 そこにいる誰もが、章羊の言葉に眉をひそめた。

「もう少し様子をみたらどうですかね?」

 漢将が、皆の代表のようにそう提案する。

 それを聞きながら、戒莉はより上手いやり方を探していた。

 章羊は、首をゆっくりと振りながら溜息とともに口を開く。

「そうでなくても、行程が遅れがちでしたから、妻とも話し合って、思い切ってそうすることにしました。そこで、下女をひとりと、皆さんのうちのどなたかに残っていただきたいと思っています」

 なるほど、それならばまだ安心というものだ。

 だが、戒莉は何故かまだ納得が出来ないでいた。

「では、誰が残るんだ?」

 名の分からぬ杖身が、急に前に出てきた。ここに残るのは御免だと、顔に書いてある。

 戒莉が少し迷ったすきに、すいと声が上がった。

「では、オレが残りますよ」

 真佳だ。

 皆の目が、真佳に集中した。

 戒莉は、真佳の静かな表情を見ると、迷いから一歩出ようとした。

「いや、俺が……」

「戒莉は駄目です」

 戒莉の異見は、章羊に遮られた。

 

 

 

 

 

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 髪を首の後ろで一束にする。

 いつも、いつも切ろうと決めて、そうできたことがない。

 戒莉は自分の不甲斐なさに溜息をひとつ落とす。

 そんな詰まらないことで自分を『不甲斐ない』などと思うことも、莫迦莫迦しくて笑えない。

 ゆるみがちな襟元を少し直して、軽く埃を払っただけの上着をはおり、戒莉は大小の剣を手にする。

 『天涯』と、脇差の雷雲を重ねて、ひとつの腰に差す。

 何もかもが、どこかで見たことのあるような、どこかで何度もしたことのあることばかりだ。

 何も変わらない。それでいて、何かが違っている。

 

『香々をすこし見舞ってくれないかな』

 ふっと章羊がそう言っていたことを思い出し、戒莉はのろのろと足取り重く、部屋を出た。

 

 

 

 

 見舞いといっても、ただ苦しげな息遣いに耳をすませることぐらいしか、戒莉にはできることがなかった。

 何か言いたげだった目は、いつも開いているのか否か分からぬほどの細さであったが、今はそれが固く閉じられているのが分かる。

 下女に水を汲んでくるので暫く香々を見ていて欲しいと言われた。戒莉は頷いたが、本当に見ているだけだ。見ているしか、できない。

 手を握ってやることも、髪を撫でてやることも、躊躇われた。怖いのだ。汚れた自分の手が、この子の何かをおとしめてしまうことが。

 いや、そうではないと、戒莉は気付く。

「……すけて……」

 声の一粒が、戒莉に届いた。

 香々の声を聞いたのは、これが初めてだった。

 何を言っててるのか分からない。戒莉は、何気なくもっとよく聞こうと、顔を近づけた。

 香々の瞳がちらりと見えた。涙。

「た……すけて」

 そう、聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがて、出発の支度は整い、時が満ちる。

 戒莉は、自分の腰をあらためる。天涯と雷雲。まだ重い。

「戒莉」

 声がかかる。振り返ると、ぽつりと真佳が立っていた。

 真佳の顔は怒っていたが、心なし寂しそうだった。置いていかれるという立場が、そう感じさせるだけなのかもしれない。

「この仕事が終わったら話をしそう」

 真佳の声音は静かだった。

「仕事が終わったらな」

 

 

 

 

 

 

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