珊揮がその子供を初めて見た時に、感じたのは憐れみだった。
子供は、男なのか女なのかもよく分からなかった。骨と皮というのは、こういう者に使う言葉なのだと、珊揮は思った。
身の丈に合わないボロを着せられ、むき出しになった裸の腕や足は、骨ばっていた。目が落ち窪み、頬はこけ、肌は老人のように乾き、黒ずんでいる。
傾いた国、王を失った国には、こういう者達が通りのあちこちで息絶えていた。その子供も、放っておけばもうすぐそんな者の側に逝ってしまうのだろう。
よろよろと妓楼の床を磨いているその子供に、珊揮が声をかけたのは憐憫の情ゆえのことだった。はずだった。
なんと言ったのか、珊揮は憶えていない。ただ、その後の子供の顔が忘れられない。
その子供は、はじかれた様に顔を上げ、珊揮を見た。その驚き様は尋常ではなく、しばらくその表情のまま、子供は固まっていた。
弱々しい体からは信じられない程の強い視線を、その子供は珊揮に注いだ。珊揮は、その眩しさに眩んだ。
子供の驚愕は、やがて喜びの表情に変わった。
「日本語……」
子供は、かすれた声でそう言った。
もちろん、珊揮は『日本語』などというものは分からない。ただ、仙であるゆえに、この子供の耳には珊揮の言葉が『日本語』に聞こえたのだ。そして、この子供の喋る言葉も、珊揮には常世の言葉に響いてくる。
その子供は、海客だった。
海客は珍しいが、珊揮は今までに何人かの海客を見ている。
「お前は、いつこちらに来たんだい?」
そう問うと、子供は不安そうに首を振った。
どうも、ここに来てからどれ程の年月がたっているのか分からない、ということらしい。
この子供は蓬莱の者に違いなかったが、蝕にあったのは崑崙だったのだそうだ。その時、この子供は10歳であったのだという。確か二年前に小さな蝕が起きている。この子供が流されたのは、その時なのかもしれない。
12歳にしては、この子供は小さい。栄養状態が成長に影響しているのだろう。
二年、たった二年だが、この子供にとってはどれ程の時だったのだろうか。
妓楼の主人の話では、この子供は僅かな金で一年ほど前に買ったのだという。その時から痩せこけていて、あまり働きは良くないと、主は悪態をついた。そのうえ、この子供はよく逃げ出そうとするのだという。その度に連れ戻すのだが、逃亡を止めないので呆れているとかなんとか。
主は、この子供の名を知らなかった。『おい』とか『お前』とか呼ぶと応えるのだと、主人は笑った。
「お前、名前はなんていうんだい?」
そう聞くと、子供はなぜか困惑したような顔をした。
後でその時のことを珊揮が尋ねたところ、本人曰く、しばらく誰にも名前で呼ばれていなかったので、直ぐに自分の名前が思い出せなかったのだ、そうだ。
子供は少し考えて、自分の名を珊揮に教えた。
どんな字を書くのかと、珊揮が重ねて訊ねると、子供は即答した。
「忘れた」
その子供は、ここが崑崙だと思っていたらしい。
だから言葉が分からないのだと、思っていたのだそうだ。
それは奇妙な話だった。
蓬莱や崑崙の髪は黒か白か茶色で、瞳はたいがい茶か黒だった。
たとえば、珊揮のこの妓楼での相方の娘の髪は濃い碧色をしている。これは、崑崙では自然では有り得ないのだそうだ。
この妓楼の中だけでも、他に青や紫の髪の者もいる。見れば、分かるはずだ。ここが崑崙ではないことが。
珊揮のその指摘に、子供は薄く笑った。
「日本では、何も見たことないから」
その子供は、蓬莱にいたときは、生まれつき目が見えなかったのだという。それが、こちらにきて突然『見える』ようになった。
もっとも、その子供には、初めそれが『見える』ということだと分からなかったそうだ。ただ、奇妙な感じがしたと、言う。
手で触れるものの形と『見える』ものが、一致したとき、子供は衝撃を受けたようだ。それこそ、雷に打たれたような思いだったと。
水面に映る自分の顔を『見た』とき、その子供は信じられなかったそうだ。それが自分だということに。顔というものに、触れてはいたが、触れるのと『見る』のとは感じが全く違う。
そして色。色には名前がある。そんなことは知識では知っていたが、それがどんなことなのか想像できなかったたらしい。
子供は言った。
自分の髪の色が黒なのか、それとも珊揮の髪が黒なのか分からないと、子供は俯いた。
「お前の方だよ」
珊揮は、やわらかに笑った。そして、その子供の髪を撫でた。
「お前の髪が、黒というのだよ。カイリ」