だから私は今もあなたに恋している   作:しこりん45

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文化祭編の前日譚です。番外編には副題がつけていく方向でやっていくと思いますが、よろしくお願いします


黄昏。或いは、

「それじゃ、また今度ね」

 

大学の友人との付き合いを終え、今日買った荷物で両手を塞がれている友人に手を振りながら見送った後、私は駅に置いた荷物を取りに歩き始めた。

 

空を見上げると、陽気を表す私の名前とは真反対の色が目に映る。昼間はそんなに雨が降る気配はなかったのに、とは思ってみるものの季節が季節なのだから急な雨なんて珍しくもなんともないだろう。つまり、この事態を予測していなかった私に非があると言える。

 

まだまだ真夏とは言い難い時期であるのに、昼間にお日様がやる気満々にアスファルトを照らしていたものだから、曇り模様でも暑いものは暑い。額から汗が流れるのを感じてお天道様を睨みつけては見るが、睨みつけた相手は何処へやら。雲の向こうに隠れるのは卑怯じゃない?私のお気に入りなあの子も随分と卑怯な子ではあるけど、やるだけやって「はい、さよなら」なんてことはしないと思う。

 

そこまで考えて、少し笑ってしまう。

 

「案外、そうでもないかもね」

 

私がそうすることが多いのだ。なら、彼がそうしない可能性もゼロではないだろう。

もっとも、私のそれと彼のそれは本質的に大きく違うものだが。

 

湿気を帯びた風が頬を撫でる。その風の生温さに雨の気配を感じて足を早めようとしたところで瞼に一瞬の冷たさが過ぎった。

 

─────ぽつり、ぽつり。

 

肌に当たる雨粒が次第に増えてきたことで、本格的に一雨来る気配を感じて駆け足気味に雨宿りが出来そうな場所を探す。運のいいことに今は濡れて困るものは持っていないから、少しぐらいなら雨に濡れることも吝かではない。

 

ただ、雨に濡れたまま家に帰ったら雪乃ちゃんに二つや三つ小言を貰うことは避けられない。最近、比企谷くんを巻き込みながらの姉妹喧嘩が漸く終結したところなのに、また雪乃ちゃんに嫌われてしまうのは好ましくない。いや、怒っている雪乃ちゃんは可愛いし、そんな雪乃ちゃんを揶揄うのはゾクゾクするんだけども…。あれ?別にまた雪乃ちゃんと喧嘩することにあんまり不満が湧いてこない。…こういう所がダメなのか。ま、治す気なんてないけどね。

 

そんな事を考えているうちに、雨は傘が必要なぐらいにまで強くなり始め、私は雪乃ちゃんの小言を貰わないべく避難できそうな場所を探して駆けた。

 

結局、雪乃ちゃんの小言を回避できそうもないぐらいに濡れてしまった頃、こんな雨の日にも関わらず、傘もささずに橋の上に佇んでいる一人の少年の姿が目に付いた。

見慣れた母校の制服、雨が降っていてもピンと立ったままのアホ毛、そして気だるげそうな猫背気味の背中。その少年とは少しばかり距離があったが、一目で誰だか理解することができた。

 

「ぁ……」

 

自然と声が漏れてしまう。

 

普段だったら口角を釣り上げて、人を食ったような笑みを湛えているところのはずなのに、今の彼の姿を見た瞬間、息を呑んでしまった。

 

私の知っている彼は、こんなにも弱々しい背中をしていただろうか?

今にも消えてしまいそうで、それが当たり前だと感じさせてしまうような子だっただろうか?

 

雨足がますます強くなりはじめ、辺りの騒音をかき消していく。

 

そんな中、私の視線に気が付いた比企谷くんがこちらを振り向いた。

その顔はいつもと同じように腐った双眸で、ふてぶてしくて生意気そうにムスッとした気だるげな表情を浮かべているはずなのに、どうしてなのか、薄く笑っているように見えた。

 

普段の無造作に散らばっている髪の毛は雨に濡れたお陰で随分と整えられていて、随分と見れる格好になっている。雨粒が彼の頬を伝って流れ落ちるたびに、まるで泣いているようにも錯覚もしてしまう。憂い顔、いつも通りの比企谷くんのはずなのに、そんな言葉がよく似合っていた。

 

徐に比企谷くんが口を開いた。

 

「……どうしたんですか、こんなところで。風邪、引きますよ」

 

「それはお互い様じゃないかな?」

 

調子を戻して、目の前のその少年に淡々と事実を告げると、比企谷くんは肩を竦めた。

 

「それもそうですね」

 

比企谷くんがそう言った後、なんだか急に可笑しな気持ちになってきて、お互いにクスリと笑い合う。

 

「こんなところで話してないでさ、早く雨宿りしようよ。こんなところで濡れ続けたら、お姉さん風邪引いちゃうよ」

 

そこからの行動は早かった。近くにあった公園の屋根付きのテーブルに二人で駆け込み、この気紛れな通り雨が過ぎるのを待つことにした。

 

「ここでしばらく雨が弱くなるのを待とっか」

 

「……そっすね」

 

相変わらず素っ気ない返事だったが、比企谷くんの視線が右往左往しているのを見て、思わずその原因を考えてしまう。

 

…はて?今日はまだ比企谷くんを揶揄うようなことはしてないはずなんだけどな。私と一緒にいるから警戒してるとか?

 

そこまで考えて、ピーンと来た。

改めて自分の姿を見て確認する。今日は、白を基調とした服を着ているため、雨で濡れたせいで下が若干透けて見えていた。

どこの誰か分からないような輩に見られるのはいい気分はしないが、見られた相手はお気に入りの男の子。当然の如く、目の前の彼を揶揄う算段に思考が切り替わっていく。

 

「比企谷くんは、こういうのが好きなんだね」

 

半目で比企谷くんを見つめながら、素直になれない捻くれ者に詰め寄っていく。

 

「ほれ、ほれほれ」

 

「ぐ……」

 

何か言い返そうとしながらも、言葉に詰まって何も言い返せない様子が可愛くて、もっとイジめたくなってしまう。どうにも彼のこういう反応を見ると嗜虐心が湧いていけない。いけないなんて一ミリも思っていないけど。なんだったらもっと見せて欲しいまである。

 

「これ、羽織っててください」

 

次はどのようにして比企谷くんで遊ぼうか考えていると、突然、視界が白色に埋め尽くされた。

 

「おっととと」

 

視界を覆った白を慌てて確認すると、いつの間に脱いだのか、それは比企谷くんのカッターシャツだった。若干濡れてはいるが無いよりはマシだろう。

比企谷くんは下にもう一枚着ていたようで、雨で冷たく重くなったブレザーを脱いで、黒い長袖のシャツ姿になっていた。

 

「……優しいね、比企谷くんは」

 

受け取ったシャツを腕を通さないで襟の下あたりを軽く握りながら羽織り、シャツに残された温もりに身を寄せながら伝える。

 

「別に、そんなんじゃないですよ」

 

予想通りで期待通りの答えが返ってきた。

本当に、君は変わらないね。

 

「そうだね。君はそういうのじゃないもんね」

 

いつも通りの話の中心点を避けるような会話に少しばかりの安堵を覚える。

 

話の中心を避けていることが安堵に繋がると言うと少し変な気もするが、それは別段間違った事ではないのだと思う。避けると言うことは、物事をよく見えているからできるのだ。もし、それが見えていなかった場合、知らないうちに壁にぶつかったり地雷を踏み抜いたりと不都合が発生してしまう可能性がある。

 

何事にもタイミングがあるのだ。地雷を踏み抜く時は意図的に、そして自分から。盛大に相手を巻き込んで自分は無傷で済ませる。それが、私のやり方だ。

 

だから、今はこれで間違っていない。

 

雨降る公園、無言の空間に屋根から滴り落ちる水滴の音と雨音だけが響き渡るだけの時間がどれだけ続いただろうか?

 

雨雲の向こうにいる太陽も西の空に沈み始めているのだろう。辺りを見回すと、風景の輪郭が随分と霞んで見えた。

 

ああ、嫌いだ。

分からないことは酷く怖いことだから。

 

完璧な者など存在しない。それは世界の真理で、どうしようもなく覆しようのない事実で…そんなことは理解している。それでも、私は完璧である事を選んだのだ。完璧であるなら、分からないことなんてあってはならないのだ。

 

知らないことと分からないことは必ずしもイコールで結ばれる訳ではない。知らない土地に行くことも、知らない人に会うことも嫌いではない。むしろ興味を唆られるし好きな部類だ。だけどそれは、理解出来るものだからそうであるのだ。

 

だから私は、この景色が、この空気が、分からないことが、

 

嫌いだ。

 

「……あなたでもそんな顔するんですね。何かあったんですか?」

 

不意に雨音の間を縫うようにして、比企谷くんから紡がれた言葉が私に届いた。その言葉に少しだけドキリとしてしまう。この雪ノ下陽乃が隙らしい隙を見せるなんて、そんな事は許されない。雪ノ下の人間とはそうでなければなければならない、確かに母の教えだ。けど、そう生きると決めたのは私だ。

 

「…比企谷くんは何でも分かるんだねえ」

 

冷たく淡々と突き放すように言うと、比企谷くんは少したじろぐように息を呑んだ。

ごめんね?君はまだ私の内側に入れるだけの存在じゃないんだ。だから、ここで行き止まり。まあ、私が私の内側に入ることを許容している人なんていないんだけどさ。

 

だけど、もし…もしもいつか……君が私の内側に入るに足るぐらいの子になれたなら、

 

その時は、君の弱さも、強さも、卑怯さも、誠実さも、捻くれた優しさも、真っ直ぐな愚かさも、全部、嘲笑ってあげる。

 

その代わり、私の全部を見せてあげる。

 

仰け反り気味の比企谷くんに詰め寄り、下から覗き込むようにして彼の眼を見つめると、比企谷くんは少しだけ私の眼を見た後すぐに目を逸らした。

 

「なーんてね。君のそういう可愛いところは好きよ」

 

そう言って私は表情を戻し、比企谷くんの唇に私の人差し指をそっと置いた。

唇から指を離し、そのまま私の手を比企谷くんの胸に当てて彼の耳元に顔を近づける。そう言えば、比企谷くんは耳が弱いんだっけ?なんて、この場にそぐわない事を思い出しながら囁く。

 

「ねえ、比企谷くん。私はさ、君に助けてだなんて言わないよ。私も君を助けてあげない」

 

嘘つきの私が言葉を紡ぐ。

 

「だけど…君には期待してるよ。比企谷くん」

 

自分で言っていても、こんな酷い言葉はないと思う。どこまでも一方的で、相手の事情なんて全く見ていなくて無責任な言葉。私がこんなこと言われたら、きっと相手のことを潰してしまうのだろう。それでも、それでも私は君に押し付けていたいのだ。

 

不意に私の視界が鮮烈な朱に覆われた。

 

手を自分の目蓋の上に置いて目を細めながら空を見ると、黄昏色に染まる空が目に映った。

 

「雨、止んだね」

 

「……そっすね」

 

空を見つめたまま呟くと、比企谷くんは今日出会った時と同じ返答をした。多分、あの時と同じような表情をしているのだろう。

 

「このシャツ、結構濡れちゃったから洗って返すね」

 

「別に気にしなくていいですよ」

 

「私が気にするの。それとも、比企谷くんは私の脱ぎたてホヤホヤの方がいい?」

 

「分かりました、ちゃんと洗って返してください」

 

「それはそれでどうなの……」

 

ほんと、君ぐらいだよ。私にそんな事を言うのは。

 

結局、あの時見た比企谷くんについて聞くことは出来なかった。霞がかったようなあの表情を思い出し、この黄昏に落ちる空と同じではないかと一人笑みを零す。

 

黄昏れる。

日が暮れて薄暗くなる。または、盛り上がりをすぎて衰える。

 

或いは─────

 

「……雪ノ下さん」

 

そろそろ帰ろうかと先に歩き出してすぐ、比企谷くんから声をかけられ、声のした方へと振り向いた。

 

西の空には雨雲がところどころ残っていて、黒い雲の隙間から夕陽の朱が漏れ出し、まるで焚き木に燻る炎のように見える。

 

「以前、言いましたよね。諦めることで大人になるって」

 

分からない。

今、この子は私に何を伝えようとしているのだろうか?まさか私が一番見たいと思っているものを、彼が一番欲しているものを諦めたなんて言うつもりではないだろう。

 

「俺も、諦めることにしました。諦めることを。まあ、許される限りですけど」

 

陽もほとんど落ちかけの薄暗い公園に、矛盾だらけの言葉が溶けていく。

 

ああ、そうだ。

或いは─────或いは、誰そ彼。

 

色と色の境界が曖昧になる時間に告げられた言葉は、あまりに予想外で、矛盾だらけで、私はいつか彼が三人の関係を三角関係だと表したのを一蹴した時と同じように、お腹を抱えて大きく笑ってしまった。

 

ただあの時と違う点と言ったら、今の方が面白いと言うことだろう。嘲笑や皮肉の色を笑いに乗せることは出来なかった。

 

「あっははは!……なにそれ」

 

分からない。

確かにそれは怖いことで、納得のいかないことだ。私も彼も見たいものは同じで、それは本当に存在するかすら分からないもので。

 

だけど、それでも、

 

「……やっぱり、雪乃ちゃんにはもったいないかもね」

 

私ももう少しだけ、縋っていたい。

分からないことは確かに怖いことで、理解していることは安心できて、どうしようもなくつまらないことで。なら、分からないことの先には、もしかしたら彼が求め、私が見たいものがあるのかもしれない。

 

少しだけ、本当に少しだけだけど、分からないことも案外悪くないのかもしれない。

 

きっと私のこの声は届いていない。届けていない。まだ彼には足りないから。

変わらない、変われない君に期待するのは酷なことかもしれない。だけど、いつか、君なら私に届いてくれるんじゃないかって期待してしまうんだ。

 

「それじゃ、またね!比企谷くん」

 

電灯の灯りの下、いつも通りの笑顔を貼り付け大きく手を振り別れを告げる。

いつもより随分と簡単に笑えた気がするのはきっと気のせいだ。

 

黄昏は終わり、夜が始まる。

 

───────────────────

 

─────ピピッ、ピピッ。

 

もう既に聞き慣れてしまったスマホのタイマーの音が耳に届いた。目を開けると、世界が横向きに見えた。

段々と意識が鮮明になっていく中、自分の身体が横になっているのだと気付く。バッと身体を起こすと、はらりと何かが身体から離れる感触がした。

 

「夢……?」

 

最近のことのはずなのに、随分と懐かしい夢を見た気分だ。

腰のあたりまで落ちたタオルケットを抱き寄せながら、寝惚けている頭の中を整理する。

 

先程聞いた電子音は私のスマホのもので、比企谷くんの家庭教師をする時に私が使っているものだ。ついでに言うと、演習問題の終了を告げるためのものだ。

左手に何かが当たる感触がして見てみれば、それはソフトカバーの書籍。先程まで読んでいたはずの物に、ああ、この本はハズレだったな、なんて他人事のように振り返る。

 

そこまで思考してようやく知らない間に寝てしまっていたのだと結論付ける。

最近、大学の方でいくつか外せない用事が立て込んでいて中々休みが取れていなかったけど、読んでいた本がつまらなかったからとはいえ、人様の部屋で夢を見てしまうぐらいに寝てしまったことに少し頭を抱えてしまう。

大方、このタオルケットも比企谷くんが掛けてくれたものだろう。

 

……安心、していたのだろうか?

自分の家ならまだしも、今まで他人の前でこんな事をしたことはないと思う。

もう既に嗅ぎ慣れてしまった彼の部屋の匂い。あの夜、揺れている私がいると自覚した時から、もう何度もここに訪れているが、まだ答えは見つからない。

 

「起きたんですね。一応、解き切ったんですけど、どうしますか?疲れてるなら日を改めてからお願いしますけど」

 

私が纏めた問題を解き終えたであろう比企谷くんが、若干の心配の色を乗せながらも彼らしい気だるげな声色で話しかけてくる。

 

「ううん、平気。さ、いつも通りパパッと見ちゃうから問題集とノート貸して」

 

むしろ少し寝たことと、中々面白い夢を見れたことも合わせて調子は絶好調と言っても過言ではないぐらいに頭は冴え渡っている。

なので、私もいつも通りのお姉さんモードで比企谷くんに返事をする。

 

「…そっすか。俺はコーヒー入れてきますけど、雪ノ下さんも飲みますか?」

 

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 

「っす」

 

そう言うと比企谷くんは部屋を出て階段を降りていく。

さて、私の方も始めますか。

 

普段から使っている飾り気のないペンケースから赤ペンを取り出して添削をしていく。

 

教え始めた頃は、基礎はある程度出来ているとは言え、良くて中の下、或いは下の上ぐらいだった数学力も今では平均に届くか届かないかぐらいまで伸びてきている。この調子で行けばセンターで八割九割、二次でも十分使えるレベルにはなるだろう。

私が教えているのだから、当然と言えば当然。むしろこれで伸びていなかったらお仕置きが必要なレベルなのだが、やはり一重に私だけの力ではないのもまた事実だ。

 

贔屓目抜きにしても比企谷くんはよく頑張っていると思う。頑張りすぎなぐらいに。

要領のいい子だし、今みたいに適度に休憩は入れているけど、どうにも少し焦っているようにも見えるような気がする。

 

ただ、それは別に珍しいことではないと言えば珍しいことではないように思う。

文化祭での仕事もあるし、隼人との一件に巻き込まれていることも考えると、去年もよく陥っていた思考の渦にいると考えるのが妥当だろう。

 

本当に、不器用な子。

 

「……よし、こんなもんかな」

 

一通り添削を終えたタイミングで部屋の扉が開く音が聞こえ、コーヒーのいい香りが鼻腔を擽る。

 

「おっ!グッドタイミングだね。いつもは色々悪いのに」

 

「そいつはどうも。そう言う雪ノ下さんはブラックですよね?」

 

そう言って比企谷くんはマグカップを私に渡してくるが、その言い方だと私のお腹の中が真っ黒だって言ってるように聞こえるんだけど。気の所為ですか、そうですか。

 

私がマグカップを受け取ると、比企谷くんは休憩は終わりだと言うように椅子に座り机に向かう。私もそれに続くような形で比企谷くんの隣に行き、ノートの添削箇所に指を指しながら説明していく。

 

「一通り目を通して見たけど、まだまだだね。肝心なところで詰めが甘かったり、使う公式が間違ってるよ。……そうだなぁ、ここで間違えてるこの問題は多分こっちの参考書の方が分かりやすいと思うよ」

 

予め用意しておいた参考書を手渡し、比企谷くんの淹れてくれたコーヒーを口に含む。

 

今彼に渡したのは、ただの参考書だ。私が足りないとと思ったところ、比企谷くんが苦手だとなところ、または苦手だと予想したところに私が説明を書き加えたものという但し書きが付くが。

 

比企谷くんは私から受け取った参考書を開くと一言、マジか…と呟くと、チラリとこちらを向いた。

驚いたように目を見開いた表情の比企谷くんに得意気な顔で見つめ返してやる。

 

「言わなかったっけ?私、本気になったらマジなんだよ」

 

「……あなたでも本気になることあるんですね。意外だ…」

 

「ま、滅多に本気なんて出さないけどね」

 

君だからだよ。

君が私に向き合おうとしてくれているから。周りの有象無象とは違う。私のキレイに繕っている部分だけじゃなく、もっと汚く醜悪な部分も君は見ようとしてくれている。

 

自分ではもう分からなくなってしまった本当の私。その答え。君が探してくれるなら私もそれ相応には応えてあげるのが道理だろう。

 

だから、これは私の為だ。

 

「雪ノ下さん、ここまで俺に色々してくれるのはどうしてなんですか?」

 

気だるそうに机に向かっていた比企谷くんが参考書から目を離して問うてくる。ついさっき、今の今まで考えていたことを比企谷くんに問われ、私は勿体ぶるように考える素振りを見せる。

 

「強いて言えば、気まぐれ……かな?」

 

私の為、なんて言っても比企谷くんは納得してくれはしないだろう。別に比企谷くんが納得出来ようが出来まいが関係ないのだが、ここは彼の納得出来る理由を与えた方が私の聞きたいことも聞きやすくなる。

 

「……気まぐれ、ですか」

 

「そう、私の気まぐれ。それじゃあ、比企谷くん。私からも一つ聞いていいかな?」

 

一拍置いてから、比企谷くんに問う。

 

ずっと聞きたかったことだ。さっき夢に見たから思い出したとか、そんな通り雨見たいな気まぐれじゃない。ずっと私の胸のどこかには、あの土砂降りの中で見た比企谷くんの表情がこびりついていた。ただそのことを聞いてしまったら、簡単には引き返せなくなりそうで。

 

「前に公園で一緒に雨宿りした時のこと、覚えてる?」

 

思えば、あの時からこの芽生えは始まっていたのかもしれない。あの時はまだ取るに足らない子だと思っていたし、そんな子に揺らされたのだと認めたくなくて、気付かないフリをしていたのだと思う。

 

「橋の上で出会った時。君はあの時、何をしていたの?」

 

「…………それは、」

 

そこまで言って、比企谷くんが口を噤んだ。

そして一拍置いてから、ゆっくりと言葉を繋いでいく。

 

「分からなくなってたんです」

 

「……どういうこと?」

 

「……雪ノ下さんは、本当に大切なものはどうするべきだと思いますか?」

 

質問に質問を返しちゃいけないって友達から教えて貰わなかったのかな?この子は……ゴメンなさい。

まあ、ここで答えなかったら進まなさそうだし素直に答えておくのが吉かな。

 

「うーん、そうだなー。私はすぐ近くに、とは言わないけど、それなりに近くには置いておくものだと思うよ」

 

離れすぎて、私以外の他の誰かに壊されてしまうなら、いっそその大切なものすら壊してしまえるようにしておいたほうがいいと思うから。まあ、それはあくまで最終手段としての選択肢だけど。

 

私の言葉の意図を察したのか、比企谷くんが引き気味に私を見つめてくる。

失礼しちゃうわね。最終手段よ、最終手段。

 

「俺は本当に大切なものなら、近くに置いておくべきじゃないんだと思ってました」

 

だから、と言葉を続けていく。

 

「雪ノ下の葛藤や、雪ノ下さんの在り方を見ていたら、これからどうあるべきか分からなくなったんです」

 

同時に、別れる時に比企谷くんが言った言葉にも合点が行った。

あれは比企谷くんなりの決意だったのだろう。『本物』なんてものがあるのかなんて分からない、もしあったとしても手に入るものとは限らない。それでも、比企谷くんは諦めないと言った。分からなくても足掻いてみせるのだと。

 

「答えは、出た?」

 

「……ええ」

 

「そっか。……君に期待して良かったよ」

 

比企谷くんが全部を語ったとは思わない。

私たちの関係は不安定で、会話のそこらかしこで腹の中の探り合いが繰り広げられている。気の置けない関係とは言い難いけど、今流れている時間が心地いい。油断も出来やしないのに不思議なものだ。

 

揺れている私に、私のこれから。黄昏の夢みたいにボヤけて曖昧なものの先にあるものを見つける為に、まだまだお互い利用し合っていこうね、比企谷くん。

 

「あっ、そうそう。文化祭の初日はお姉さん大学の方で出ないといけない授業が入ってて行けないけど、悲しんじゃダメだぞ!」

 

「そうなんですか。耳寄りな情報ありがとうございます」

 

相変わらず、可愛げ無くて可愛い奴め!

 

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